ダンジョン条約という、多国間条約がある。
アメリカ合衆国と国連常任理事国の半数、および国連加盟国の七割が署名・批准して『いない』やや実効性に欠けるものではあるが、ダンジョンが全世界に登場してからのたった三ヶ月の間に成立した、もっとも大規模なダンジョン関連の条約だ。
それは、南極条約と宇宙条約の流れを汲んでいる。
その中で定められたのはダンジョンの平和的利用や、科学調査の自由……けれど一点、どうしても前例の踏襲が難しい点があった。
領有の禁止だ。
ダンジョンは、これまで見つかったものは全て、『通常の地域』と地続きに存在している。衛星や航空機からは映らない。けれど、どこから入ってどこから出たかを見れば、おおよそこのあたりの位置にあるのだろうと推測することはできる。だからたとえば、日本で最大規模のそれは『東京ダンジョン』と呼称される。
現在把握されているダンジョンの九割は、各国家の内陸部に存在する。
ゆえにそれらは実質的に、それらの国の『格納的領土』として扱われている。
それでも、一定の透明性は必要だと国際社会の一部は考えた。平和的利用も、科学調査の自由も、秘密の軍事基地よろしく格納庫のブラックボックスの中で行われていたのでは、条約を形骸化させてしまう。
だからダンジョン条約には、こんな条項が設けられている。
配信自由。
これが条約批准のハードルを著しく高めたことは間違いないが、しかし日本は、これを受け入れた国のひとつだった。そして後に開発されたEロボの技術が、ストリーマー文化とも結びつく。今日も数多のダンジョン配信がアップロードされ、プラットフォームを通して世界中に拡散されていく。現在のインターネット環境を思えばその規模を手放しで称賛することにはやや困難を伴うものの、政府はこれを新たなるソフトパワーの柱と見なし、『イセカイ・ジャパン』なる文化政策を実施。年間一千億円の予算を投じている。
そんなダンジョン界隈に、超新星が現れた。
動画プラットフォームにおけるチャンネル作成から、たったの二週間。フォロワー数は、あっという間の五百万超。常識外れの成長株は、なんと国営。今なお衰えることなく、国内のみならず国際規模でスポットライトを当てられ続けている。
これまでのEロボ界の常識を覆す、超絶機動。
常識外の火力。護国の侍。人類の守護者。
突如日本国内に現れた謎の巨大敵性機械体――『ギガメム』をものともしない、最強の戦闘能力。
名を、『クリムゾン・スパーク』。
自信満々の友人の隣で、卯井廻はこう思っていた。略したらそれ、『クリパ』だよな。
案の定、それで定着したらしい。
◇
「クリパにかんぱ~い! 夏だけどぉ~!」
「ビールおかわりくださ~い! 欲しい人ほかに~!?」
「すみませんおしぼりー!」
で、廻もすっかりその大騒ぎに巻き込まれている。
喧騒から抜け出て、トイレで溜息を吐きながら、なんか最近トイレで休憩ばっかりしてる気がするなと思いながら、さっきまで自分がいた席の方から聞こえてくる騒々しい声と、距離を取っている。
飲み会も仕事のうち、というやつになった。
高校二年生の、夏にして。
ぴかぴかに磨かれた鏡の前で、廻は思い返している。この二週間、まあ、普通の高校生の数倍は激動の時間を過ごしていたと思う。
たとえば、ある一日の彼のスケジュールは、こうだ。
朝、起きる。顔を洗って、ちょっとだけ窓を開けて気温を確かめる。エアコンを止めるのは到底無理だと諦めて、朝食を作る。最近はお茶漬けにハマっている。食べ終えたら、夏休みの課題を始める。英語と国語の読解は歯磨きしながらやれるから結構楽だと思う。だいぶその課題も片付いてきて、どうせ暇だしもう高校範囲全部やっちゃおうか、と思う。単語帳は千鶴のアドバイスに従って、最初から受験用のものを使っている。例文リスニングはもう二百周くらいしている気がする。こんなにやる必要があるのか疑問が残る。地歴の暗記は三年保つ気がしなくて、物化の方が積み重ねが楽な気がする。学年後半の文理決め、他の人たちはどうするんだろう。
「来たよー!」
「うす」
嶺一とイルが、部屋を訪ねてくる。
今度は、家出じゃない。
それでも、かなり頻繁にふたりはこの部屋を訪れる。ときどきは弁当を買ってくるし、ときどきは食材だけ買ってくる。料理は廻がやらされる。この日は冷やし中華を始めることになった。なぜか料理中、ふたりは手伝いもしないのに周りをうろうろしている。
イルが訊く。
「メグルって、普段何して遊んでるの」
別に、と答えると、別にってことはないでしょ、と言われる。そっちはどうなのと訊ねると、わたしたちはねー、おれらはな、とふたりは顔を見合わせる。
「ゲームとか。メグルはなんかやらないの?」
「うん。できるもの持ってないし」
「メグルって、原始人みたいな生活してるね」
傷付く。
警報が鳴る。出動する。
戦って勝って、部屋に戻って、ダンジョン庁から電話がかかってくる。終わると嶺一がスマホを見る。また登録者伸びてる、なんてわざわざ教えてくれる。
大体は、こんなところだ。
合間にダンジョン庁に直接呼び出されて、訓練的なこともしないでもない。けれどそれは体力テストとか、そうじゃなければ大したことのないメムを相手にして、機体の動作確認とか、そんな感じ。その光景がネットにアップロードされたりもする。嶺一は快諾する。イルも快諾する。廻は拒否する。するとチャンネルのレギュラーはクリパで、味変のプードルという構図が生まれる。プードルというのは、廻が操るあの青い機体の略称だ。略さない名称は、『ブルー・ドッグ』。
「お前それ、絶対ブルドッグって呼ばれるぞ」
とは嶺一の言で、実際廻もそうなるだろうなと思っていた。そもそも着想元がブルドッグだから、当然の流れとしてそうなるはずだった。青色だからこっちはブルー何とか……と考えて、最初に出たのがそれだった。けれどなぜかネット上では変形に変形を重ね、いつの間にかプードル呼ばわりされているらしい。一方ダンジョン庁特装室の口頭連絡では、結局『赤』『青』で呼称は統一されている。意味のないことばかりが社会を覆っている。
戦う。勝つ。課題をする。遊びに来る。嶺一が夏課題に手を付けていないことが発覚する。スパルタ教育。戦う。課題。勝つ。イルのとんでもクッキングが始まる。寝込む。課題。戦う。廻の分の課題が終わる。嶺一がなぜか余裕をこき始める。教育。勝利。
「懇親会とか、興味ない?」
三条が、不意に言った。
ある日の訓練終わりのことだった。基本動作を確認して、ラジオ体操みたいなことをやらされて、ちょっと汗をかいて終わり。廻は、ダンジョン庁でシャワーを浴びるのが全然好きじゃない。落ち着かないから。デオドラントシートのパックを更衣室に持ち込んで、全身を拭いてから着替えているけれど、これもこれで落ち着かない。そもそも、外にいるのもあまり好きじゃない。
というわけで、帰り際に特装室のオフィスでそう声を掛けられて、嫌な予感がしていた。
「誰とすか?」
嶺一は、そういうのは気にしない。
シャワーを浴びてさっぱりして、髪をまだちょっと濡らしたままで、あっけらかんとして訊ねた。
「Eロボ系のストリーマーと」
三条は、いつものように物腰柔らかく答えた。
「今、クリムゾン・スパークを売り出してるのは知名度を上げてうちの施策を通しやすくするためだって話はしただろ?」
はい、と嶺一は答える。
廻は答えない。あれ本当なのかな、といまだにちょっと疑っている。いい年こいた大人が、というか政治家が、「チャンネル登録者が多いな……よし、何億円規模の予算を承認!」なんて真面目な顔をして決めること、本当にあるのだろうか。あったらヤバいと思う。
イルは、他の職員に囲まれてデパ地下スイーツを堪能している。
とりあえず、こっちの話は聞こえていないらしい。
「その延長で、一度業界の方にも交流を広げてみないかってこと。政治家とか産業界のおじさんが集まるパーティに行くのでもいいけどさ。年齢も近いからもう少し気安い感じになるだろうし、流石に八坂くんたちはこっちの方がいいでしょ?」
ていうか、と三条は、
「知ってるよ。八坂くんがその手の配信観まくってること。動きの参考にしてるだけじゃないでしょ。憧れの人とも会えちゃうかもよ~?」
「マジすか! そんなら――」
お、と嶺一が言葉に詰まった。なぜか、こっちの顔色を窺ってきた。言葉にせずとも、意味はわかる。顔がこう言っていた。
いいすか?
「……まあ、いいんじゃない?」
別におれ、関係ないし。
そこまでちゃんと言えばよかったのに、言わなかったものだから、いつの間にか頭数に入れられていた。
おかげさまで今、廻はまたトイレで溜息を吐いている。
流石に理不尽な溜息だ、とわかってはいる。
別に、街の居酒屋で飲み会というわけでもないのだ。都内のホテルのワンフロアを貸し切って、他に人は入れない。どこにそんなお金があるのか――まさかチャンネル収益なのか――はわからないが、食事から何まで至れり尽くせり。未成年にはアルコールを出さない代わりに、自分だったら一生手を出さずに終わるような高級フルーツジュースがついてくる。集まった面々も、多分、画面越しに見ている分には皆面白い。
問題は、自分の社交性のなさの方だ。
そうわかっているなら、そろそろ戻らなきゃ。
「お、」
と思ったとき、背後でトイレの扉が開いた。
鏡越しに、目と目が合う。
「隣、使っていいか?」
そしてどうやら、向こうも同じく洗面台を目的に来たようだった。
どうぞ、と何の権利もないのに廻は言う。さんきゅ、と新たに現れた男は、隣に歩み寄ってくる。話しかけられた手前、急に踵を返すのも感じが悪い。そんな要らない気遣いが働いて、廻はほんの少しだけその場に留まってしまう。鏡をまじまじと見て、目のあたりに指を当てる。
二十代くらいの男だった。
黒髪で、両耳に銀色のピアス。手には、チャックのついた布の袋。
電動歯ブラシを取り出した。
「これから抜けて収録なんだよ」
しかも、話しかけてもきた。
「歯列矯正してたときの癖でさ。飯食ってすぐ磨かないと気持ち悪くなるから、今のうちにやっときたくて」
「……大変ですね。夜なのに」
「まーね。夜行性のやつが多い仕事だし」
確か、と廻は記憶を探っている。
ストリーマーだ。有名な方の名前は、思い出せない。本名の方は、最初の自己紹介が記憶に残っている。確か、真田隆輝。今日、この場所に来る前に嶺一が熱弁していたのだ。元々はプロゲーマーで、Eロボストリーマーの中でも段違いの実力者のひとりで……この人が、と思ったから、印象に残っていた。
「そっちは?」
向こうも、自分を覚えているだろうか。
多分覚えてしまっているだろう。下手なことはできない。身をこわばらせて、
「コンタクト?」
「いや、睫毛が」
しょうもない嘘を吐いた。
さっきから鏡の前で、ずっとそういう演技を続けている。入ってもない睫毛を探して、やたらと照明の強いトイレで自分の眼球を延々見つめ続ける羽目になっている。
「……ああ」
一瞬、鏡越しに真田がこっちを見た。
「なんか、そういうのに苦労しそうな顔してるもんな」
どんな顔だ、と思う。
しばらく、そのまま何の生産性もない時間が過ぎていった。強いて言うなら、真田の歯磨きの音を聞きながら「やっぱり電動の方が虫歯とかなりにくいのかな」と考えるくらい。しかし、どう考えても歯を磨く時間より睫毛を探す時間が長くなることはない。そろそろか、と睫毛探しのCメロに当たる演技を終える。アウトロとして一回顔を洗って、離脱しよう。そう決意した。
「ぶっちゃけ、君らって何しようとしてんの」
そのタイミングで、ちょうど差し込まれた。
動きが止まる。向こうは、歯磨きの手を止めない。こっちを見ないままで言う。
「あの子なにとか、そういうのもだけど。ギガメム狩りができてんのも現状君らだけだし。正直、俺らとステージ違うだろ。それで急に懇親会ってのも引っ掛かる……つか」
真田は、口の奥まで歯ブラシを突っ込む。
奥歯の裏側を磨いて、また前歯の方に戻ってきて、
「君ら、何」
「……いや」
時間をかけて、廻は答えた。
「ちょっと、そういうのはあんまり。別におれたちも、運営の方にタッチしてるわけじゃなくて。言われたことをやってるだけなので……」
「あ、そうなの。なんかプードル……名前なんだっけ。ごめん」
「プードルでいいです」
「君の方が頭良さそうだから、そのへん共有されてんのかと思った」
電動歯ブラシのスイッチが、切られた。
真田は歯ブラシの方を先に洗う。袋にしまう。それからようやく蛇口の水を手で掬って、がらがらがら、んべ。
「ま、知ってても言わないか」
手を洗う。ハンカチで拭く。
廻を見る。
「睫毛、まだ取れない?」
答えに意味のある問いかけではない、という気がした。だから廻は、「あ、はい」とか、そんな適当な相槌を打つ。
「見せてみ」
打たなければよかったのかもしれない。
真田が、顔を覗き込んできた。
髪と髪が触れ合うような距離だ。驚く。後退ろうとする。そのとき、
「――あんま興味本位で入ってくんなよ」
かすかな声で、真田が言った。
「火傷しても知らねえぞ、ガキ」
距離は、簡単に離れた。
終わってみれば、指先のひとつも互いには触れていない。何事もなかったかのように、真田は踵を返す。去り際、ドアを押しながら言う。
「睫毛、もう取れてるよ」
しばらく、動けない。
一分。二分。意味もなく手を洗ってから、そっと廻は外に出た。
「メグル」
「わっ」
そうしたら、すぐに横から声を掛けられたものだから、またびっくりした。
「だいじょぶ? おなか痛い?」
イルだった。
懇親会は、ホテル五階の広間で行われている。廻がいたのは、その広間の外にある一番近いトイレだ。それほど人数のいる会でもないから、他に人もいない。夜景の映る窓の横に、全部がミネラルウォーターの自動販売機が突っ立っているくらい。
「いや、平気。イルもお手洗い?」
「ううん。メグルがいないから探してた」
不意打ちみたいに言われて、ちょっと動揺した。
「こういうの、あんまり得意じゃない?」
そして立て続けの言葉と表情に、廻は思う。うわ。
おれ今、記憶喪失の子に心配されてるんだ。
なっさけない。
「……まあ」
「メグルにも苦手なことがあるの、ちょっと面白いね」
そして今日は、勝手な評価ばかりされている。
何それ、と訊ねてもイルは答えなかった。代わりに、パッと花咲くような笑顔を見せて、
「ね! それよりさっきめっちゃ美味しいピザあったんだ! メグルにもあげようと思って取っておいたから――」
それが、途中で凍り付く。
がしゃーん、と音がしたからだ。
びっくりした。びっくりして、廻はイルと顔を見合わせる。やけにふかふかの絨毯に靴を沈めながら、広間に戻る。扉をくぐる。
ミステリなら、殺人事件が起きているところだ。
現実には、仰向けになってひっくり返った嶺一が、焦り顔の大人の人たちに介抱されていた。
小走りで近付く。見下ろす。見える。嶺一は目を閉じている。何かを食べているみたいに、口がむにゃむにゃ動いている。
顔が、耳まで赤い。
「――呑んだんですか?」
「いやいやいや!」
周りに集っていた人たちは、みな力強く否定した。
まさかまさか。未成年飲酒って呑ませた方が罪になるんだから。私たち人気商売だよ? そんなことするわけないじゃん。オレンジジュースかなんか飲んでただけだと思うんだけどな――とんとん、と肩を叩かれる。
振り向くと、イルが指を差している。
食べかけの皿。
記憶が正しければ、自分がトイレに行く前、嶺一はこの席に座っていたと思う。しかし、その皿に残っていた『食べかけ』は記憶にない。ついさっき配膳されたばかりらしい。夜も更け始めて、時間も時間。最後の一品。
チョコケーキ。
まさかと思って、一口切って、口に運ぶ。
「うそでしょ」
舌の上で、味を確かめる。廻は、倒れ込んだ嶺一をじっと見つめる。
「まさか、これで酔ったの?」
チョコケーキは、正確に言うなら、『ブランデー』チョコケーキだ。
「お前たち、苦労をかけるなあ~!」
「ほんとだよ!」
「お~も~い~!」
そうして結局、ふたりでこの無駄に大きな図体を背負って歩く羽目になる。
懇親会の会場は、ホテルの一部だ。だから別に、そのままエレベーターに押し込んで、特装室が取ってくれた部屋に戻ったっていい。それでもわざわざ外に出てきたのは、他の招待客と同じエレベーターに乗るのが――この姿をお見せするのが、恥ずかしかったからだ。
ホテルの裏から抜けて、中庭を行く。
東京だから、月明かりよりも街明かりの方が強くこの場所まで届く。ホテルの窓から降り注ぐ光もまた強く、中庭の木々を足元から照らす光も、不自然なくらいに明るい。池に水の注ぐ音がして、遠く、電車の忙しなく出入りする音が空から響いていた。
「めぐる~~~~! いつもありがとな~~~~!!!!」
絡み酒だった。
勘弁してくれよ、と廻は思った。
「わたしは?」
「イルもに決まってんだろ~~~! 今日マジで楽しかった~~~!」
とのことである。
へへ、とイルは笑うけれど、ああそう、と廻は呆れるほかない。確かに、今日の嶺一は大絶好調に見えた。廻はその場にいるほとんど全員を知らなかったけれど、嶺一は逆に全員を知っていた。多分、特装室の人が気を利かせてくれたんだと思う。
上機嫌の酔っ払い。
池に落としたら酔いは覚めるだろうか。三人になって帰ってきたら本当に厳しいので、大人しく廻は重たい荷物を抱えて歩く。
「だって俺、マジで――」
それが、がくっと膝に来た。
嶺一が出した足が、とうとう全く地面を踏み損ねたからだ。
わっ、と声を上げてイルの方から崩れた。何とか持ちこたえようとしたけれど、流石にふたり分の体重には負けた。派手な転がり方じゃない。ぐでぐでと、廻は膝をつく。イルと嶺一は、それどころじゃ済まない。
「ちょっと、大丈夫!?」
「も~お酒嫌い! 臭い!」
普通にこれ言われたらショックだろうな、と廻は思う。嶺一の顔を覗き込む。
両瞼を瞑っていた。
おい。
「寝るなこんなとこで!」
「まじでしあわせだよ」
むにゃむにゃと嶺一は言う。口がもにょもにょ動いている。半分寝ていて、夢の中で、この期に及んでまだ何かを食っている。
わかったから、とビンタでもかましてやろうかと思う。
それより先に、腕を掴んで引っ張り込まれた。
「うわっ」「んぎゃっ」
イルも。
片腕ずつ、抱きかかえられた。
「ね~、もうほんと――」
「だって、ずっとつきあってくれんだもん」
思ったより真面目な口調に、イルの動きが止まる。
右へ倣えのように、廻もそうなった。
「おまえらも、やりたいこと、あったらいえよな。おれだってぜんぶ、」
ぜんぶ、と寝言みたいなやわらかさで、
「ぜんぶ、とことん……」
夜とはいえど、夏だった。
昼が遠ざかれば暑さやわらぎ……なんてことは、別にない。昼の間に蓄えた熱は夜になっても大して抜けないままで、ホテルの庭に植えられた樹々も、ただ呼吸のままに湿度を増すのみ。虫よけスプレーを使い忘れたことを、廻は思い出した。そうだ、イルにもだ。もうこの場所で、二ヶ所とか五ヶ所とか刺されている気がする。首元がべとついている。こんなに暑いのに、汗だけが冷たい。抱き締められたりなんかしたら、なおさらだ。
けれど不思議と、三人で、しばらくそうしていた。
「――ちょっと、ちょっと!」
そうしたら、それを見つけた声がする。
驚いて、一番最初に廻が起き上がった。見られた。見た方は、もっと驚いている。
「大丈夫!? 死んだ!?」
女の人で、顔を見て廻は思い出す。
さっきの。
確か、嶺一の介抱をしてくれてた大人の中に、こんな感じの人がいた。
「救急車とか呼ぶ!?」
駆け寄ってきて、そう声をかけてくれる。もっともな心配だったが、そこまでの大事ではない。いえ、と慌てて廻はふたりを見捨てて起き上がり、
「ただちょっと、転んだだけで――」
「まっくす、じぇっとばーんだ~!」
見捨てた死体が蘇る。
「しょうがくせいのころ、まいにちみてました~!」
「さっきも聞いたよ! ていうかほんと、あんまり小学生の頃とか言わないで! 時の流れ感じるから!」
他称マックス・ジェットバーンさんは、とても優しかった。駆け寄ってきて、介護士や看護師のような手際で、バカでかい子どもを起こしてくれる。そして、廻は思い出す。マックス・ジェットバーン。昔自分も、聞いたことがある。確か、そうだ。朝の子ども向け情報番組。小学生の頃に、学校に行く前に流していた。そこに出ていたアニメのキャラクター。声優だろうか。それともストリーマー? 自己紹介のときにそんなこと聞いたっけ。
何にせよ、こちらは腰を低くして出るしかない。
すみません、と廻は酔っ払いを受け取ろうとする。マックス・ジェットバーンはさらに優しい。そのまま片方持ってくれる。それで運搬が劇的に楽になったわけではないけれど、手が空いたイルに扉を開けてもらったり、エレベーターを呼び出してもらったりして、何とか部屋に押し込むのに成功する。
「すみませんでした。ありがとうございます」
廊下でもう一度言えば、いやいいよ、と彼女は答えた。
「最初から責任持って面倒見てればよかったね。ここに泊まってるって聞いたから、ごめん。ちょっと手抜きしちゃってた」
君もお疲れさま、と言って去っていく。
部屋は、まとまって取ってもらった。嶺一を押し込めた部屋の隣が、イルの部屋。一応、使い方とかわかんないことあったら隣にいるからとだけ伝えておく。挨拶する。おやすみ。廻の部屋は、だからさらにその隣の部屋。
カードキーで入る。
無闇に広い部屋だった。
ドアとドアの距離で何となく想像がついていたけれど、何なら二部屋ついている。こんな部屋に泊まったことはほとんどないから、一瞬廻は、隣の部屋とこの部屋が繋がっているのかと思ったくらいだ。もちろん、そんなことはない。カーテンが開いている。東京の夜景とやらが見える。このままじゃ眩しくて寝られないなとかそれ以前に、落ち着かない。窓の大きな部屋というのが、廻はそもそもあまり好きじゃない。八坂家みたいに、周りを生け垣や塀で囲ったりしているならともかく。
とにかく、今日は慣れないことをして疲れた。
歯を磨いて、シャワーを浴びて、さっさと寝よう。そのためにはまずカーテンを閉めよう。窓辺に近付く。近付きながら、ふと不安になる。携帯と財布、持って帰ってきたよな。ポケットを触る。どっちもある。片方を出す。最近増えた日課を、こなしておく。
寝る前の、メールと着信チェック。
着信ゼロ件。一番上は、ダンジョン庁。
メールもゼロ件。一番上は、母。
件名が、一瞬だけ目に入った。
『あまりこちらに連絡が来ないように』
言っておいてください、の省略部分まで、頭に浮かぶ。
携帯を閉じる。息を吐く。カーテンに手を伸ばす気力が、ほんの少し足りない。目をやる。遠くに電光掲示板が見えた。夜だというのにぴかぴかと輝いて、動画広告を流している。
ダンジョン庁。
クリムゾン・スパークが君を守る!
何かの冗談みたいな派手派手しさだ。夜の東京の街に不釣り合いなのか、それとも似合いなのか、廻には判断がつかない。赤いロボットが、何かのアニメみたいに戦っている。爽やかな笑顔を浮かべた全然知らない役者の人たちが、ゲームめいたコントローラーを持って言う。
君も、異世界ダンジョンに挑んでみよう!
「……やりたいこと」
酔っ払いの寝言が、頭に浮かんだ。真面目に考え込めば、きっと落ち込む気がする。そう思って廻は、カーテンを閉めた。部屋はたちまち闇の中。部屋のカードキーだけはなくさないようにと、もう一度ポケットを探ってみる。
かさり、と紙のこすれる音がした。
◇
「動画、撮りたいな~!」
なんでおれの家に来て言うんだろう、と思う。
しばらくの日々は忙しなく過ぎて、八月も十九日だった。
朝から嶺一とイルが訪ねてきた。この時点では、まだ何も思わない。なぜかコンビニスイーツを四つくらいお土産に。ちょっと怪しい。嶺一が率先して皿を出し始めた。怪しいというか、この家には一応自分だけじゃなく父も住んでいることを忘れているのではないかと思う。なんだかイルの服がいつもより可愛い気がした。今日おしゃれだね。口にしたら、イルの目が急に輝き始めた。しまった、と思った。
そして気付けば、ソファの前にふたりが正座して、動画撮影を懇願している。
このふたりって人生楽しそうだよな、と思う。
「いいんじゃない? 撮れば……」
「そうじゃなくて~!」
とイルは訴えるけれど、多分ちゃんとこっちは意図を把握できている。嶺一が言う。なんだかお付きの家老みたいな口調で、
「例のロボット主体のものではなく、生身の動画が撮りたいと申しております」
「だからいいんじゃない? やれば……」
「えっ」「マジ?」
「おれのいないところで……」
「ね~~! 一緒に撮ろうよ~~!!」
足にしがみつかれた。
蹴り飛ばすわけにも、もちろんいかない。段々足を登られる。ソファの上に横倒しにされる。がっくんがっくん揺さぶられる。イルが言う。聞いて聞いて。
「わたし、普段は貰ったスマホで動画観てるんだけどさ」
取り出したのは、ダンジョン庁から支給されたスマホだ。
当然、懇親会でホテルを貸し切る部署が、こんなところでケチらない。廻のパカパカケータイとは比べ物にならない最新機種。返却や交換のことは端から頭にないのか、キャラもののシールがぺたぺた貼られている。
「そこで気付いたんだよ。こういうのがあるって」
ワオ!と急にイルは叫んだ。
「ニッポンのスシ! おいしすぎる! こんなの食べたことないよ!」
たっぷり三秒。
画面映えを気にした感じの、可愛い驚き顔を披露してくれた後に、
「わたしこれ、絶対上手いよ。記憶ないもん」
「これおれどう反応すればいいの?」
「わかんねーだろ。だから連れてきてみた」
結構嫌なあらすじを、嶺一が白状した。
他にもねー、えっとねー、なんだっけ。言いながらイルがスマホを弄り始める。記憶喪失のキャンバスにこんなものばかり詰め込んでいていいのだろうか? 疑問に思うが、とりあえずイルからは解放された。身を起こして、ソファに座り直す。
「別に、本当にいいんじゃないの?」
廻は、そう言ってみた。
「多分それ、やりたいって言ったら三条さんとかは手伝ってくれると思うよ。もうCMとか出てるんだし、クリパの宣伝にも使えるだろうし」
「そういうんじゃなくて!」
「そういうんじゃないそうです」
「その無意味な翻訳は何?」
「そういう計算され尽くしたプロモみたいなのじゃなくて、もっとこう、自然体のを見せたいの! 官公庁が仕込んだやつって変な自意識あってあんま伸びないし、独特な味するから!」
夏の間に、立派な動画ソムリエが仕上がり始めている。
廻は最近、動画なんてろくに見ない。天気予報の時間だけは一瞬テレビを点けるけれど、そのくらい。最近はそれすら八坂家よろしくラジオに頼ろうかと考え始めているところだ。
だから感想は、こうなる。
「いいんじゃないですか。おれ以外の皆さんでやるなら……」
「なんでだーっ!」
「待ておい。ちょっと落ち着け」
上からクッションを押し付けられて、ソファに沈められる。
そこでようやく、嶺一の仲裁が入った。別に物理的にどうこうというわけではないけれど、イルは結構発言のターンを守る。じっと嶺一を見つめる。
こほん。
「実は、これは風の噂で聞いたんだが。先日俺がウイスキーを七十本飲み干して酔っぱらった際……」
「チョコケーキ一口だったけど」
「いや、認めない。俺がそんなに酒に弱いはずがない」
「命に別状あるよ。その自己認識」
「その際。お前たちの願い事は際限なく何でも叶えてやる。この約束を破ったら腹を切る。そういう契約を交わしたと聞いている」
廻は、イルを見上げた。
イルは目を逸らして、口笛を吹いた。見事なものだった。
「まあ、そういうことがあるから俺は普通にイルに付き合うんだけど。廻は別にマジで嫌だったらいいんだぞ。そういうの」
「えー!? 味方してよ!」
「ちなみに、撮るだけならどうよ。カメラ係」
「まあ……でも、結局何をどう撮るの? あんまり本格的だと難しいと思うよ。おれ、動画とか詳しくないし」
「本格的なのっていうか、要はホームビデオみたいなのが撮りたいんだと思うけどな」
「全然違う。わたしは動画配信者として天下を取る……」
「じゃあ無理だよ」
「なんでだーっ! 恥ずかしがり屋さんかーっ!」
二度目の「落ち着けよ」はとうとう無視された。クッションが弾き飛ばされる。肩を持たれて、引き上げられる。沈められたり釣り上げられたり、深海魚なら死んでいる。
「いーじゃん、動画投稿! 配信者! 小学生の今年の夢ナンバーワンだよ!?」
「そうなの?」
「こいつ余計なことばっか知ってんだよな」
「インターネットを通してさあ! 世界中のみんなと交流しようよ! グローバルな社会で羽ばたいて世界平和を実現しようよ!」
イルの目は、なんだかきらきら光って見えた。
実際、と廻は思う。あの酔っ払いの気持ちも、わからないではなかったのだ。
イルには、大変お世話になっている。本人の言を信じるなら記憶喪失の――最近の電子レンジに生卵を投入したり、お金の使い方が良くわかっていなかったりの日常生活を共にすると、どうも本当っぽい気がする――女の子が、最初は言葉も通じなかった場所で、孤立無援で、ロボット大バトル。自分が同じ立場だったらと思うと、ときどき廻はぞっとする。「記憶は失っても、正義の心は失っていなかった……」なんてイルは冗談めかして話したりもするけれど、本当に、心の底から立派な人だと思う。あのとき、家庭科室で自分から頼んだ手前もある。いつも守ってもらってる。文句を言える立場じゃない。叶えられる願いがあるなら全部叶えてあげたいし、昼ごはんのリクエストは、大体イルのをそのまま通している。
「……ごめん」
けれど、
「死んでも嫌」
「死に値するほどかーっ!!」
今日ほんと元気だな、と廻は思った。
申し訳ない気持ちとは、全く別軸の感想として。
「なんで!? なんでわたしのときだけそんな厳しい!? トータルで見たらリョーイチの方が遥かに迷惑かけてるのになんでわたしのときだけこんな受け入れられない!? 差別!?」
「ちょ、ちょっと待て。イル。一旦――」
「あ! 荒れるの心配してる!? 大丈夫だよ! 絶対メグルは人気出るから! 荒れるとしてターゲットになるのはリョーイチの方だしグループ内で人気格差が出たとしても確実にメグルの方が上だよ!」
「おい」
「ねー! おねがいおねがいおねがい! 今日からわたし食器洗い全部やってもいいし部屋の掃除も代わりにやったげるから! おねがいおねがいおねがいおね――」
すっ……と嶺一がイルの口を塞いだ。
あまりにも予想していない出来事だったらしい。イルが目を丸くする。嶺一が、空いた片手を挙げる。言う。
「作戦タイム」
そして、リビングの外に出ていった。
「え、何――」
「いいから。ちょっと聞け――」
漏れ聞こえてくる声を、聞かないように廻は努めた。
多分、聞いていて面白い時間じゃない。嶺一もイルも、多分聞き耳を立てられたくはない。こういうの、自分から言った方がよかったのかな。そんなことを思う。今までは、察してもらって生きてきた。自分で言うのが怖かった。言える気がしなかった。でも今なら――イルが相手なら、もしかしたら、ちゃんと言えたかもしれない。
かちゃ、と冷房の音がカーテンに当たって、フックが音を立てた。
朝に開けて、閉め方が少し雑になっていた。隙間から、窓の外が見える。鮮やかな快晴だ。ものすごく暑そうで、実際に暑い。セミも鳴かないほどの、夏真っ盛り。出窓に置かれたクリーニング屋さんの卓上カレンダーも、よく燃え出さないでいられるものだと思う。森のくまさんが真っ白な紙の上で海水浴をしている。ついこの間までまっさらだったそれには、今や『懇親会』だの『東京 呼び出し』だのと、いくつもの予定が書かれている。
八月十九日、が今日。
八月二十三日、があの紙に書かれていた日付だった。
廻は、思い出していた。東京で行われた、ストリーマーとの懇親会。あのあと、ホテルの部屋で気が付いた。服のポケットに、メモ用紙が入っている。知らない人の筆跡で、日付と共に、こんなことが書かれていた。
『伝えたいことがあります』
どのタイミングで、誰から入れられたのかわからない。最初は、無視しようと思っていた。その次は、三条に報告しようかと思った。けれどそのメモには、こんな続きも書かれている。
『ダンジョンには秘密がある』
そんなことは、百も承知だった。
この夏休みが始まってから、とんでもないことばかりが起こっている。廻は、自分ではちょっと変な人生を送ってきたと思っている。けれど『ちょっと変』くらいでは太刀打ちのできないことが、立て続けだ。瞬間移動に始まって、巨大な敵。見知らぬ記憶喪失の女の子。挙句の果てには、一緒になって巨大なロボットに変身だ。秘密がない方がおかしくて、そんなことはわかっていて、でも、だからこそときどき、ふっと我に返ったように、こんな疑問が頭を過る。
今、自分たちは何と戦っているんだろう。
何をしようとしているんだろう。
やりたいことなんか訊かれても、わからなかった。そもそも今、自分がどういう状況に身を置いているのか、正確には把握できていなかったから。あの巨大ロボットは何なのか。イルは何者なのか。どうして巨大ロボットになれるのか。なって、それで、何がどうなっているのか。
この奇妙な日々は、自分たちを一体どこへ連れ去ろうとしているのか。
もしも、それがわかるなら――
「……メグル」
きぃ、とドアが開いた。
イルと嶺一が、戻ってきた。
「強引に誘ってごめんね……」
見るからにしょんぼりした様子で。
「でも、カメラはやってもらえると嬉しいな……。天下、取れなくてもいいから……」
いいの?と嶺一を見る。嶺一は、深く頷く。
「あとね、」
それから、珍しくきまり悪そうに、もじもじしながら、イルは続ける。
「ダンジョン庁に行くとき、無理やり連れてってごめん……」
廻はもちろん、謝ってほしいわけではなかった。
いつもだ。
こういうことになるのは、初めての経験じゃない。東京にいたときも、こっちに来てからも、何度かあった。そしてそのたび、みんな優しいから、最後にはこちらの気持ちを慮って、「ごめん」と言ってくれる。けれど廻はいつも、そんな言葉を言わせたいわけじゃない。なのに、そうさせないでいられる自分に、いつまで経っても戻れない。こっちこそごめんね。全然いいよ。やっぱりやろうよ。何でも付き合うよ。……そんな風に、気軽に答えられない。初めから守れないと自分でわかっている約束を、廻は軽々しく口には出せない。
「――全然、」
それでも、このままでいいと思っているわけじゃない。
「全然いいよ。あのとき、行かない方が後悔してたと思う。それに、動画も。出るのは無理だけど、誘ってもらえたのはすごく嬉しい」
だから、できる限りの笑顔で廻は応えた。
「いつもありがとうね。イル」
イルが、目を見開く。それからゆっくりと、後ろにいる嶺一を見る。胸の前で小さく廻を指差して、こう言った。
宝の持ち腐れ。
おい、と嶺一が呆れた顔をする。なにそれ、と今度はもう少し自然に、廻も笑う。
じゃあねじゃあね、とイルがまた騒がしくなる。本当に立ち直ったのかは、わからない。雰囲気を壊さないように、気を遣ってくれているのかもしれない。そう思うから廻は、それが本当のことになるように、一緒になってその話に入っていく。嶺一も、きっと同じ気持ちだと思う。
そうしていつもの、他愛のない夏休みの一日が始まる。
行こう、と思った。