主人公の友達   作:quiet

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05話(前)

 

 

 家庭科室の扉を開けると、何週間分も溜め込んだ熱気が、ぶわりと顔に覆い被さってきた。

 

 けほ、と小さな咳すら出る。だから、一番最初にしたことは窓を開けることだった。開けた割に、風が通らない。今日って風、ないんだっけ。そう考えてから、すぐに思い至る。ああ、後ろ手に扉を閉めたからだ。いつもの癖で、通り道がない。

 

 まあ、いいか。

 

 きぃん、と甲高い音がして、きっと空を見上げたら戦闘機でも飛んでいた。

 

 やることなんて、大してない。

 長居する気も、ほとんどない。

 

 だから、カバンを置いたりはしなかった。現代文と数学と英語のテキストが入ったカバンを持ったまま、ぐるりと調理台を回り込んで、コンセントが入れっぱなしのテレビを横切って、冷蔵庫の前で屈み込む。

 

 扉を開ける。

 何も入っていない。

 

 冷たい空気が流れ出るのを肌で感じながら、思っていた。わかっていたことだと。覚えていたことだと。最後に残っていたホットケーキミックスも、この間に食べ切ってしまった。見る必要のない場所だった。それでも、何かあるかもしれないと、どこかで期待していた。

 

 また、何もなくなった。

 それを確めるためだけに、今日はここに来たのかもしれない。

 

 薄オレンジ色の光は古臭くて、扉が開けっ放しになっていることを咎めてはくれない。いくらでもここにいたっていいけれど、それでもどこかで、自分で立ち上がるしかない。見切りをつけて、別れを告げるほかない。

 

 窓閉めないとな、と廻は思う。

 八月も、もうすぐ終わる午後だった。

 

 

 

 

 

 

 鈴尾唯子の朝は、このところすごく遅い。

 夏休みだからだ。

 

「お父さんどいてー。歯磨きしたいー」

「お、すまん」

 

 帝国、なんて言わなくていいことをわざわざ付け足すようになったのがおじさんの証だと思う。うへえ、という顔を向けるとそれはそれで喜んで鬱陶しいから、唯子はあえてそれを無視する。父を押しのけて洗面台の前に立って、キャビネットを開く。自分の分の、水色のを取り出す。そうしたらすぐにさっと捌けて、育毛剤と涙ぐましい格闘を繰り広げる父に、また場所を譲ってやる。久しぶりに見た。あんまり見ないであげた方がいいのかもしれない。

 

 昨日も結局、一時過ぎまで眠れなかった。

 一度ズレ始めた生活時間を一息に戻すというのは、なかなか難しい。

 

「今日早いな」

「うん」

 

 右手で歯磨きしながら、左手でスマホをたぷたぷ弄る。そういえば、私ってなんで右利きなのに左手でスマホを使うようになったんだろう。歯磨きしながら遊べるようにだろうか。謎だ。通知を引っ張り出す。カレンダー。几帳面な方だから、忘れないようにちゃんと入れている。

 

「今日、学校だから」

 

 八月三十一日、金曜日。

 乱れた生活習慣を直すための、月に一度の登校日。

 

 そうかあ、と育毛剤をドライヤーに持ち替えながら、父は頷いた。

 

「大変だな。この暑さで」

「ほんと。あ、ねえ車で送ってってよ。駅まで超暑いんだもん。死んじゃう」

「公立って自家用車で行くと怒られるんだよなあ」

「怒られといてよ」

 

 パパ、会社以外で怒られたくないよ。

 と、哀れっぽく父が言うのを、流石に白い目で唯子は見た。何がパパだ。パパって柄か。まあ、柄か。それにしても最近の父の可愛いアピールには目に余るものがある。弟にも悪い影響が出ている気がする。小学校の指定ジャージ、最近袖余ってるし。

 

「そういや、あの子って学校には来るのか?」

 

 そんな視線をものともせずに、のんきな顔をして父は言う。

 

 あの、ほら。咄嗟に名前が出なくなってきたら老化の証――というわけでもなく、唯子が小学生の頃から父はずっとこうで、芸能人の名前も、子どもの友だちの名前も、なかなか覚えていられない。

 

 輪郭をなぞるようなヒントだけ出して、後はこっちに委ねてくる。

 

「唯子が大ファンの」

「来ないでしょ」

 

 ヒントの前から、誰の話なのかは大体わかっていた。

 だから唯子は、スマホから顔を上げもしないで、そっけなく答えた。

 

「今日も世界のために戦ってるよ」

 

 

 

 

 

 来た。

 驚愕で、教室の音が一瞬、全部なくなった。

 

 古臭いエアコンがすごご、と動く音が遅れて聞こえてくる。セミは、もう今年の夏は随分長く静まり返っている気がする。窓を閉じれば大して外の音も聞こえなくて、隣の教室でロッカーがばたん、と閉まる音がやたらとはっきり響く。

 

 制汗剤の匂いが、湿気と混じり合う。

 一ヶ月ぶりの学校は、窓から差し込む日差しばかりがやけに清潔で、

 

「お、」

 

 視線を集中されたその人は、居心地悪そうに一歩後退って、それでもこう言った。

 

「はようございます……」

 

 わっ、と教室が爆発したみたいな、大騒ぎ。

 

 

 

 

 

 

 たとえば、少女漫画を読むと『学園の王子様』みたいなキャラクターが出てくる。

 

 ちょっと古いのでは、たとえば大金持ちで、勉強もスポーツも何でもできて、性格も派手な人。最近のだと、顔がかっこよすぎてモデルとかアイドルとかインフルエンサーとか、そういうのをやってる人。

 

 現実にはいない。

 と、中学時代までは、唯子も思っていた。

 

 でも、いた。

 

 入学したら、自分の高校に。

 というか、自分のクラスに。

 

 五度見した。入学式でもらえた白いコサージュを胸につけたまま。あまりの衝撃で、記念すべき最初のホームルームの記憶が全くない。高校生の心構えとか、何も知らない。誰の自己紹介を聞いた覚えもないし、自分の名前をちゃんと言えた自信もない。多分、自分だけじゃない。少なくとも唯子は、そう思っている。

 

 だってあの頃、卯井くんは『私たち』の王子様だった。

 

 あれから、ずっとそうだった。

 テレビニュースに初めて顔を出したときから、ずっと。

 

 四年前。つまり、唯子が中学一年生の頃、とんでもないニュースが電波に載ってやってきた。謎の空間現る。世界各地で報告多数。観測不能。正体不明。やりすぎのモキュメンタリーホラーなのかと思ったら、放送局も、報道サイトもあらゆる場所を横断している。映像が映っていた。インタビュイーが言う。信じられない。考えられない。あなたは神の存在を信じますか? 各国政府が調査に乗り出して、フランスの声明はこう、韓国の声明はこう、エジプトはカナダはオーストラリアはベトナムはポーランドはブラジルは……。

 

 日本でも見つかった。

 そのニュースの中に、それはもう素晴らしい美少年が映っていた。

 

 クラスの男子とは、全然違った。同い年のはずなのに、まず、画風が違う。そこだけ全然違うペンで描かれたような繊細な輪郭で、髪の毛がサラサラで、『行方不明の少年、無事救出!』されてきたばかりで疲れていたんだろう、その陰のある表情が、妙に大人びて見えた。もうこれは映画じゃないと、ドラマじゃないとわかっているのに、そういう『物語』の中に出てくる特別な男の子に見えた。

 

 私のだ、と唯子は思った。

 そう思ったのは、唯子だけではなかった。

 

 あの頃、教室とインターネットは大盛り上がりだった。お母さんとお父さんが「まあねえ」「大変だなあ」くらいのリアクションでいたのが、かえって唯子の興奮に拍車をかけた。今になってみれば、ふたりが言葉を濁した理由もわかる。でも、当時の唯子はこう思った。やっぱり大人にはわからないんだ。今起こってるのが、特別な事件だってこと。その時代に若者として生まれた自分たちも、特別だってこと。自分が上がるための舞台が、ようやく整ったってこと。

 

 何かが始まる。

 

 みんなそう思っていたし、特に男子なんか、最悪なことに小学校低学年くらいに精神状態が戻った。休み時間にはいつもずきゅーんばきゅーんの大騒ぎで、放課後には『ダンジョン探し』の大遠征。勢い余って東京ダンジョンまで歩いて出かけて補導されて警察と一緒に帰ってきた仁科くんの名言を、唯子は今でも覚えている。

 

「――パトカーは、赤かった」

 

 割合としてはそんなでもないと思う。

 

 女子の方は、それと比べればだいぶ落ち着いていた。少なくとも、男子ほど表立っての盛り上がりはなかった。その落差が顕著だったのは、初めてEロボが発表されたときのこと。男子は動物園だったけれど、女子は「ロボかあ」「ロボはちょっとねえ」くらいの感じだった。実際、唯子もそう思った。ロボはちょっと、私のって感じじゃないかも。それより、ダンジョンの中で変わった金属が取れて、どうも技術革命の予感があって、スマホの次がとうとう出るかもとか、ここから東京まで今の半分の時間で行けるようになるかもとか、そっちの方に興味があった。そうなったらどうするとか、どこに遊びに行きたいとか、みんなでそんなことばかりのんびり話していた。

 

 表向きは。

 裏向きには、とんでもないことを考えていたんじゃないかと思う。

 

 当時のSNSが、それを証明している。

 

 毎日、『最初の男の子』の写真や動画を見ない日はなかった。コメントも、二桁だったら少ないなと思うくらい。ビジュ良すぎ。芸能事務所早く動いて。自分の仕事思い出して。骨格が。沼。初恋がこれ。供給不足。なんでテレビとか出てこないんだろ。SNSやってないの? 謙虚なんだろうなー。本物の美形って感じ。この顔でダンジョン最初に見つけたとか、主人公すぎるでしょ。元々ダンジョンの存在知ってそう。そういう家系の子っぽい。こんな漫画みたいなこと現実にあるんだ。

 

 あーあ。

 なんでうちの学校にいないんだろ。

 

 いることにしてみた。そんな時期も、唯子にはある。毎晩、寝る前とかに。

 

 言わないだけでみんなやっていたはずだと唯子は思う。だってあの時期、デビューするアイドルグループにひとりは卯井くんに似ている人が混じってた。コメントの数もそうだけど、自分がSNSで♡を押すとき、大体その数は千を超えていた。卯井くんを描いたイラストだって、色んなところに溢れてた。

 

 だからみんな、頭の中では考えていたはずだ。

 

 同じクラスで。自分もダンジョンに迷い込んで、同じ境遇になっちゃったりして。実は幼馴染で、なんか色々騒がれちゃって大変だね。普段は私たち、普通の中学生なのにね。なんかファッションイベントから招待状が来てるらしいんだけど、どうする? 行く? そのまま芸能界にスカウトされちゃったりして――えっ? 私と一緒ならって……。あ、あはは。そうだよね。それなら気楽だもんね。うん。私も。

 

 そうじゃなければ転校してきて、いきなり目が合っちゃったりして。転校してくる前の日に駅で会って、追っかけの人たちから匿って、だから「あなたは昨日の……よかったです。知ってる人がいて」なんて笑ってくれちゃったりして。それで向こうの借りたマンションが倒壊して、困ってて、それならうちに来なよとか言っちゃって、夜になったら一緒にコンビニに行ったりして。時間をずらして学校に行ってたのに、ある日うっかりバレちゃったりして、冷やかされちゃったりして、

 

「一緒に来て」

 

 と手を引かれたのは、きっと自分だけじゃない。

 あのころ卯井くんは、『みんなの』王子様だった。

 

 だから、本物を前にして、唯子はひどく面食らった。

 

 同じ高校に入って、いて、同じクラスになって、見て、はしゃいで、さらに妄想を逞しくしている間に、実物の方がカメラ越しに見るより美人なんて喜んでいる間に、本当のことが少しずつ、わかってしまった。

 

 あんなに傷付いてたんだ、と思った。

 傷付けたんだ。

 

 

 

 

 

「それで?」

 

 と松石が訊ねる声に、気にしていないようで、教室中が耳を傾けていた。

 

「一夏の大冒険太郎くんは、一体何がどうしてあんなことになってんだよ」

「いや、言えないでしょ。勝手には」

「おいっ! そこを何とかするのが友情だろ!」

 

 窓際の席には、日差しなんてものともしない人だかり。

 

 廊下側の席で、唯子はもちろん近付かない。最初の数学の授業の準備をしている。普段は自主的に開きもしない問題集を捲ったりしている。盗み見と盗み聞きも、できればやめたい。

 

「行かないの?」

 

 耐えていたら、前の席の中野愛佳が振り向いた。

 この猛暑で自転車通学は流石に堪えたと見えた。前髪を上げて、うちわでぶんぶん顔を煽いで、そのくせ口元だけはにやっと楽しそうに弧を描く。

 

「ファン一号。待望のご主人さまだけど」

「……行かないよ」

 

 彼女と唯子は、去年も同じクラスだった。

 

 そしてうっかりしたことに唯子は、高校生活の走り出しは特に油断していた。衝撃を受けている間に、うっかりスマホの壁紙を変え忘れて、うっかりそれを人に見られてしまうくらいには。痛恨のミス。今からでもなかったことにならないかと思っている。

 

「まあ、確かに? クラスメイトだから? 心配してたけど?」

 

 だからこうして、果敢にチャレンジする日もある。

 

「でも、普段からそんなに話すわけじゃないしね。他の皆も興味津々だし、あんまりそんな、群がられても疲れちゃうでしょ」

「ほう」

「……何」

「いや、立派だから。歴史上の人物かと思った」

 

 あまり功を奏しているとは言いがたい。そんな気もする。

 

 反論の言葉を失って押し黙っていると、愛佳はうちわの矛先を変える。ぱたぱたとこっちの顔を煽いでくるから、目を瞑る。涼しくて気持ちいい。顔が見えなくなると、ちょっと口が緩くなる。

 

「あと」

「あと?」

「松石くんたちって、ちょっと怖いし。今はいいかな」

 

 少なくとも、唯子には意外に見えている。

 卯井くんのお友達は明るくて活発そうな子が多い、という事実が。

 

 類が友を呼ぶというより、入学当初のあのオーラを突破できたのが、ああいう人たちしかいなかったのだろうと思う。ヤンキーとかギャルとか、そういうわけじゃない。制服の着崩しが大胆で、予習復習をやってこなくても何だかキャラとして許されていて、毎日自分が持ってくるお弁当の三倍くらいのお昼ご飯を食べて、早弁もして、走るのが速くて、球技大会で張り切って、そういう人たち。

 

 唯子は、そういう層がそんなに得意じゃない。

 多対多ならともかく、ふらっとそのグループに割って入って話しかけてなんて、到底できそうにない。

 

「かわいそ」

「別に、何が何でも話しかけたいってわけじゃないし」

「そっちのことじゃなくて――」

「……何?」

「いや、そういえば」

 

 話の途中で、風が止まった。目を開けると、愛佳は煽ぐ手を止めている。じっと、松石たちの方を見ている。

 

「卯井は来てんのに、八坂は来てないなと思って」

「あ、ね」

 

 同じことは、ちょっと前から気付いていた。確かに、いつもの光景と違う。大体あのグループでいるときは、そのふたりはセットで揃っている。

 

 それに、

 

「八坂くんもすごかったもんね、あれ」

「てか、八坂がすごかったでしょ。主人公オーラすごいし。知ってる? あいつ、中学のときはバスケで県選抜とか行ってたらしいよ。なんで今帰宅部やってんのか知んないけど」

 

 む、と唯子は思うところがあり、

 

「そのあと卯井が出てきたときは、『やっぱりな』とは思ったけど」

 

 なくなる。

 

「まあ、何にしろ」

 

 窓枠に頬杖をついて、呆れたように愛佳は言う。横目でまだ、松石たちの方を見ている。釣られたふりをして、唯子もそっちを見た。正確に言うなら、その中のひとりだけを見た。

 

「すごい人生だわ。あいつら」

 

 全くもって、同感だった。

 

 夏休みの真っ只中にスマホが急にびいびい鳴り始めたときは、巨大な地震でも来るのかと思った。最初は回転寿司にいるときの警報だったから、この世の終わりみたいだった。二回目は、まだ寝ていたから目覚まし代わり。三回目は愛佳たちと大型ショッピングセンターに行ったときだったから、一回目にも増してこの世の終わりだった。

 

 この世の終わりの真ん中に、やっぱり卯井くんはいた。

 

 唯子は、それに納得している。やっぱりそうだった。そう思う気持ちも、確かにある。その隣に自分がいなかったことを惜しむ気持ちも、正直、まだある。もしも一年生のとき、もっと積極的に話しかけていたら。松石くんのグループにも割り込めるような積極性があれば。八坂くんみたいに、夏休みに一緒にいられるような関係になっていれば。ひょっとすると自分も今頃……寂しいような、悔しいような、取り返しがつかないような、そんな気持ちが高校二年生になってもまだ、胸の奥にある。

 

 それを逆側から引っ張る気持ちも、あった。

 チャイムが鳴る。

 

「はいおはようおはよう。夏休みを中断された哀れな――っておおっ、卯井!? 今日来られたのか!」

 

 担任の田上が、颯爽と扉を開けて教室に入ってくる。

 

 そうなんすよ、となぜか松石たちのグループが代わりに答える。はああ、と田上は感心した様子で「あれすごかったなあ!」とシャドーボクシングを始めるけれど、すぐに時計を見て「やべっ」と焦り出す。林城先生、遅れると怖いんだよな。手短にな。そう言って慌ただしく、夏休みの心構えとか、生活習慣直せよどうせ夜更かししてるんだろうけどなんて決めつけとか、そういうのを素早く押し付けていく。

 

 次のチャイムが鳴って、教壇で入れ替わる。

 田上が言う。セーフ。間に合った。林城が言う。何がセーフですか。林城もまた、教室の一角に目を留める。けれど、それ以上は言及しない。それでは、と夏休みの存在を綺麗さっぱり忘れ去った冷酷さで言う。前回やってくるように言った総合問題、順に解答を板書してもらいます。誰も覚えてない。阿鼻叫喚が始まる。愛佳が振り向く。唯子やった!? やってるわけがない。どうか窓側から指名が始まりますように。教科書を広げながら祈る。吸い寄せられるみたいに、窓際を見る。

 

 教科書を開きもせずに、彼は、窓の外を見ていた。

 横顔を盗み見て、ほんのひそかに唯子は思う。

 

 卯井くんは、どう思ってるんだろう。

 つらくないのかな。

 

 

 

 

 

 

「じゃ、一肌脱いでやるか」

 

 まだ英語の板書を写している途中だった。

 予習も何もしていない数学が二時間分というありえない地獄の後に癒しの現代文があって、その後の四限も無事に終われば、曲りなりにも夏休みだ。今日のところは、これでおしまい。帰りのHRは多分あるけれど、このまま帰ってもそんなに文句は言われない気がする。そんな微妙な隙間の時間に、愛佳が言った。

 

「何がー?」

 

 答えはなかった。

 

 愛佳が席を立つ。しかし、唯子も必死だ。目で追う余裕がない。この学校の英語教育はとにかく長文長文長文読解読解読解という調子で、一時間の間に扱う英文の量がはちゃめちゃに多い。いつも思う。こんな学校に通ってたら腱鞘炎になる。デジタル教科書世代が羨ましい。板書が消え去ってしまう前に、最後の一段落を必死で書き取る。

 

 あなたのわがままはできる限り叶えてあげたかったけれど、もしジョンと私が額と額が触れ合う距離で話し合ったとしても、大切なことはもう決して伝わらなかったことでしょう。物事は常にあなたが期待する形をしているわけではなく、変えられないもの、取り返しのつかないものは現に存在し、我々がお互いを理解し合うことのできる季節はすでに過ぎ去ってしまっていたからです――

 

「じゃ、クラス会やりまーす」

 

 愛佳が戻ってきた。

 びっくりして、シャーペンの芯が折れた。

 

「場所未定でとりあえず人数確認しまーす。来る人ー」

「行くぞー!」

 

 そしてぞろぞろと、松石たちのグループもこっちに侵攻してきた。

 

 呆然としている間にも、話は進む。比較的仲の良いクラスだ。おおー。なになに。どっか集まんの。瞬く間に反応は広がって、愛佳はすぐに挙手を数えるのを諦める。スマホを弄る。唯子のスマホにも通知が来る。二年五組クラス会出欠確認。

 

 どこでやんの、と誰かが訊いた。

 

「ちょっと待って、先に出欠答えてー。いま七、九……十人超えた」

「んじゃカラオケが無難か。この人数でいきなりファミレス乗り込むのもアレだし」

「りょーかーい。んじゃテトラにしよっか。バスの子も集まりやすいし。後で会計揉めるの嫌だからちゃんとさっきの回答しといてねー。ほら、唯子も」

 

 そういうことか。

 そういう『一肌脱ぐ』か。

 

 全然余計なお世話だと、唯子は思う。よかれと思ってやってくれていることはわかる。でも申し訳ない。どう考えてもクラス会なんか開いてもらったところで、自分は大したことは喋れない。カラオケに行ったって、デュエットなんか絶対できない。というか、たぶん一言も話せない。

 

 だから出席のボタンを押すのを、ためらった。

 視線が逃げて、だから気付いた。

 

「――卯井くんは?」

 

 窓辺にもう、その姿がなくなっている。

 

「あれ、マジだ」

 

 すぐに松石が反応した。それで周りも数人、顔を上げた。三十人ちょっとがいるクラスで、窓際一番後ろの席が卯井廻。

 

 いない。

 カバンもない。

 

 しまった、と愛佳が零すのとほとんど同時に、唯子は立ち上がった。

 

「私、声掛けてくるよ」

 

 何も言われないうちに、教室を出た。

 扉を開ける。閉める。もう放課後になってエアコンもすぐに止まるのだから、大して閉める意味もないなんてこと、頭の端にも思い浮かばない。

 

 唯子が去って、残されたのは騒がしい教室だ。

 

 卯井くん来ないのかなー。八坂いないしな。まあしょうがないっしょ。忙しそうだし。訊きたいことあったけどなー。てかカラオケ久しぶり。高くね、最近。エアコン代とかいって夏値上げしてんのどーよ。アイスで元取ろうよ、元。お昼ごはんって各自? ここ前はカレーの食べ放題やってなかったっけ。あれ手野と森渡が食いすぎてなくなったらしい。は? 文明の破壊者じゃん。カレーで思い出したけどあのインドカレーのとこまた行かね。どこそこ。めちゃ美味いよ。〇次会でファミレス行かない?

 

 まだ扉を見ているのが、数人いる。

 そのうちのひとりの愛佳が、す、と視線の先を指差した。

 

「可愛い。私も探されたい」

 

 そのうちのひとりの松石は、苦々しい顔で呟いた。

 

「……俺の台詞な」

 

 

 

 

 

 

 ストーカーと呼ばれても仕方ない。

 唯子は、廻の下駄箱がどこにあるのかくらいは当たり前に知っている。

 

 開ける。外靴が残っている。開けたことで何らかの一線を越えた気がするが、一旦気にしないことにする。とりあえず、よし。そう判断して、昇降口から教室の逆側へ早足で行く。一階の、普段は使わない薄暗い廊下を真っ直ぐに進んでいく。

 

 何が悔しいと言って、ずっと無関係なことだ。

 

 今でも覚えている。あの春、入学式でその姿を見かけた瞬間、唯子は自分の脈拍が二五〇に跳ね上がる衝撃を受けた。だというのに、『王子様』は形だけで、想像していた振る舞いとは全く違う。新入生オリエンテーションは、全部サボる。朝は誰より遅く来て、夕方は誰より早く帰る。休み時間になった瞬間にはもう姿を消していて、一体どこで時間を潰しているのかわからない。マスクを滅多に外さないから、同じクラスだというのに、いまだに目から下の部分は写真や動画で見た回数の方が多い。笑わない。目を合わせない。喋ることすら、ほとんどない。

 

 そんな相手にどう話しかけたらいいか、唯子は毎晩毎晩、考えた。

 夢にまで見た。平安時代なら結婚で、だから、平安時代ならよかったのに。本気でそう思った。

 

 それからは、自分の過去を消したくなった。

 本当はどんな『中身』なのか、わかるようになったからだ。

 

 有名人の情報というのは、どこからともなくやってくる。地元に居られなくなったとか、家族との関係がとか、そんなことが、耳を塞いでいても聞こえてくる。わかってきた。クールなんじゃない。ミステリアスなんじゃない。

 

 傷付いている。

 怖がっている。

 

 言い訳は、いくらでも思い浮かんだ。知らなかった。私のインターネットにはそんな話は全然流れてこなかった。何もしてない人に誹謗中傷なんてした人たちが、その人たち『だけ』がおかしい。別に、自分が動画を流してたわけじゃない。コメントだってほとんどしてない。♡を押したのだって、そんなの、千人のうちのひとりとかでしょ? ただの誤差。知らない。気のせい。責任なんかない。

 

 私のせいじゃない。

 そう開き直るには、もう、距離が近付きすぎていた。

 

 インターネットを取り除いて、同じ教室で机を並べて、横目で見た彼は王子様でも何でもない。ただの普通の、自分が間接的に傷付けてしまった、クラスメイトだった。

 

 恋人どころか、友達になる資格すら、この世で一番ありえない。

 

 それでもやっぱり、悔しいものは悔しいし、寂しいものは寂しかった。

 

 勇気を持って話しかけていたら、この夏に一緒にテレビの向こうにいたのは、自分だっただろうか。クラスで一番仲が良くて、連絡先だって当然のように知っていて、遊びにだって気軽に誘えていただろうか。

 

 それとも、同じ部活になれていただろうか。たったふたりで、静かに時間を共有できていただろうか。いつの間にか、普通に喋れるようになるまでを一緒にいられただろうか。学校に来て、授業が終わって、まっすぐ向かう先に、なれていただろうか。

 

 そうなれなかった自分が、悔しかった。

 無関係の場所から傷付けて、近付いて、そのくせ何の勇気も出せなくて、ずっと無関係でいる自分が、寂しかった。

 

 だからこうして、唯子は夏休みの校舎を駆けている。

 

 冷房なんて効いていない、分厚い空気をかき分ける。気付けば早足は駆け足に変わっていた。特別棟の、誰もいない廊下を行く。視聴覚室を無視して、進路相談室を横切って、持ち手ばかりがやけに冷たいその扉に手をかける。

 

 開くと、風が通った。

 

 それは、愛佳がうちわで起こしてくれたものよりも、ずっと大雑把だった。前髪の仕上がりなんて、何も気にしない。制服の裾をはためかせて、容赦なく額を巻き上げていく。夏の平熱は四〇度。機械がなければ生きていけない時代がやってきて、それでも夏風は、はためくカーテンを水面のように光らせた。

 

 

 

 その光の中で、彼は振り向いた。

 王子様よりずっと綺麗だ、と唯子は思った。

 

 

 

「――どうかした?」

 

 声を掛けられるまで、目を逸らせなかった。

 かけられたら、急に我に返った。

 

「あ、あの」

 

 無意味に両手を胸の前で振る。わたわたとどうしようもないところを見せた後、ひらめいて、心の中で愛佳に「ありがとう」を言ってから、

 

「か、カラオケ!」

 

 廻は、面食らった顔をした。

 

「カラオケ?」

「あ、て、いうか、クラス会! 今、教室でみんなでどうかなって話になってて、卯井くんも!」

 

 英語で喋った方がマシかもしれない。

 こんなにわかりやすい口実があるはずなのに、全然言葉がまとまらない。不幸中の幸いは、向こうは大して自分に興味もないだろうということだ。びっくりしてるだけ。暑いからか、それとも夏休みの校内だからか。珍しくマスクをしていない。表情の変化が、すごくよくわかる。

 

 ああ、と廻はようやく驚きを収めて、

 

「そうなんだ。ごめんね。ちょっと今日は――」

「だよね! 大丈夫! みんなに言っておくから!」

 

 食い気味の返答も、全く気にしない。

 

 ありがとう、と笑った。そして、もう家庭科室を出ていくつもりらしい。からからと窓を閉め始める。一方で唯子は、今のキモかったかな、と反省会を始めている。

 

 なんで普通に話せないんだろう。

 落ち着いて、普通のクラスメイトみたいに、頼りがいのある友達みたいに、どうしてなれないんだろう。

 

 そう思う。

 そう思うのに、それでも訊ねた。

 

「……忙しい? やっぱり」

 

 廻が振り向く。

 全ての言葉が言い訳になる。そういう魔法にかかったみたいに、慌てて唯子は続けた。

 

「あ、その。テレビ見たっていうか、あの。なんか、そういうことじゃないんだけど。大変だったみたいだから、疲れてないかなーって」

 

 本当は、こう訊きたいのだ。

 

 ロボットに乗って戦ってるんの見たよ。かっこよかったね。でも、大変だね。卯井くんってそういうの、多分好きじゃないんだよね。注目を浴びるのとか、苦手なんだよね。毎日ネットとか、大変なことになってるけど、大丈夫? つらくない? 苦しくない?

 

 私に何か、できることってない?

 

 ないとわかっているから、素直に訊けないでいる。

 

 見たよとか、言わない方がいいかも。ネットの話題とか、出しちゃダメに決まってる。注目がどうとか、どの口で言えるの? つらかったら、苦しかったら、私は何かできるの?

 

 何もできないなら、今更どの面下げてそんな心配しようと思うの?

 

「……忙しい、っていうか」

 

 もちろん、そんな内心の葛藤なんて、廻の知ったことではない。

 ただ自然体で、普通のクラスメイトに話しかけるみたいに、彼は答えた。

 

「どっちかって言うと、宙に浮いちゃってる感じで。あんまり詳しいことは言えない……言っていいのかわからないんだけど。ちょっと今、どうしたらいいのかわからなくなってて。今日も嶺一が来てないかと思って様子を見にきたんだけど、いないし」

 

 これは、自分が聞いていいことなんだろうか。

 唯子には、わからない。わからないなりに、うん、と相槌を打つ。廻は、それを気にした様子もない。

 

「でも、来てよかった」

 

 まっすぐに、唯子を見て言った。

 

 それがお互いにどんな意味を持つのか、きっとお互いにわかっていなかったはずだ。少なくとも、唯子はどんな意味で廻がそれを口にしたのか、わからない。そして廻もまた、知りもしないのだろう。その一言と眼差しが、唯子にとってどんなものだったのか。

 

「鈴尾さん。心配してくれてありがとう」

 

 クラス会また誘って、と廻が笑いかけるとき、唯子は強く、強くこう思っている。

 

 この人が、今でも好きだ。

 

 

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