五歳児たちは、転生よりも「この人を助けて」を選びました   作:ぶるぶるメタボ

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第1話 このお姉ちゃん、たすけて

その日、女の子は朝からとても楽しみにしていた。

 

 今日は遠足だった。

 

 いつもより早く起きて、お母さんが作ってくれたお弁当とお気に入りの水筒を持ち、黄色い帽子を被って幼稚園へ向かった。

 

 五歳の女の子にとって、それはとても大切な一日だった。

 

「せんせー! おかし、もってきたー!」

 

「見て見て!」

 

「ぼくもー!」

 

 幼稚園に着けば、周りには同じように遠足を楽しみにしていた友達がたくさんいる。

 

 やがてみんなでバスに乗り込み、先生が一人、二人、三人と人数を数えていく。

 

 全員いることを確認すると、先生は明るい声を上げた。

 

「それじゃあ、出発しますよー!」

 

「はーい!」

 

 子供たちの元気な声とともに、バスが走り出した。

 

 窓の外を景色が流れていく。

 

 女の子は隣に座った友達と笑いながら、これから始まる遠足のことを考えていた。

 

 今日はどんなところへ行くのだろう。どんなものが見られるのだろう。

 

 それに、お弁当も早く食べたい。

 

 お母さんが何を入れてくれたのか、女の子はまだ知らない。朝に見ようとしたら「お昼までのお楽しみ」と言われてしまったからだ。

 

 帰ったら、お母さんに今日あったことをいっぱい話そう。

 

 そんなことを考えていた。

 

 だから、誰も知らなかった。

 

 これが最後になるなんて。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 突然、大きな音がした。

 

 先生が叫んだ。

 

 バスが激しく揺れ、身体が宙に浮く。

 

 誰かが泣いた。

 

 何かが割れる音がした。

 

 怖い。

 

 怖い。

 

 お母さん――。

 

 そして、何も分からなくなった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

「…………」

 

 女の子が目を開けると、そこは真っ白な場所だった。

 

 上も下も、右も左も、全部が白い。

 

「……?」

 

 何が起きたのか分からず、女の子は何度か瞬きをする。

 

 自分の身体を見ると、ちゃんと手も足もあった。黄色い帽子も被っているし、幼稚園の服もそのままだ。

 

「せんせー?」

 

 返事はない。

 

「みんなー?」

 

 誰もいない。

 

 女の子の顔が次第に不安そうに歪んでいく。

 

「……ママ?」

 

「ここにはいません」

 

 突然、声がした。

 

 女の子が振り返る。

 

 そこには、とても綺麗な女性が立っていた。

 

 白い服に長い髪。そして、どこか優しそうな顔をしている。

 

 女の子は首を傾げた。

 

「……だれ?」

 

 女性は少し困ったように微笑んだ。

 

「私は女神です」

 

「めがみ?」

 

「はい」

 

「……ようちえんのせんせい?」

 

「違います」

 

「びょういんのひと?」

 

「それも違います」

 

「じゃあ、だれ?」

 

「……女神です」

 

 女神は少しだけ遠い目をした。

 

 どうやら五歳児に自分が何者なのか説明するのは、想像以上に難しいらしい。

 

 気を取り直した女神は少女の前にしゃがみ、目線を合わせた。

 

「まず、あなたにお話ししなくてはいけないことがあります」

 

「うん」

 

「驚かないで聞いてください」

 

「うん」

 

「あなたは――」

 

 そこで一瞬、女神は言葉を止めた。

 

 これまで何度も魂に告げてきた言葉だった。

 

 それでも、こんなに幼い子供へ告げることには、さすがに躊躇いがあった。

 

「……亡くなりました」

 

「なくなった?」

 

「はい」

 

「なにが?」

 

「あなたが、です」

 

「わたし?」

 

「はい」

 

 女の子は不思議そうに自分の身体を見る。

 

 手がある。

 

 足もある。

 

「いるよ?」

 

「……そうですね」

 

 難しい。

 

 とても難しい。

 

 女神は、できる限り五歳の子供にも分かる言葉を選びながら説明した。

 

 乗っていたバスが事故に遭ったこと。

 

 女の子の身体はもう生きていないこと。

 

 そして、今ここにいるのは「魂」というものなのだということ。

 

 もちろん、女の子は全てを理解できたわけではなかった。

 

 それでも、一つだけは分かった。

 

「……おうち、かえれないの?」

 

「…………」

 

「ママのところ、かえれない?」

 

 女神は答えられなかった。

 

 女の子の目に、みるみる涙が溜まっていく。

 

「ママ……」

 

 ぽろりと涙が落ちた。

 

「ママぁ……」

 

 女神は何も言わなかった。

 

 ただ少女が泣き止むまで、ずっとそばにいた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 しばらくして。

 

 女の子は目を真っ赤にしながら、女神の話を聞いていた。

 

「あなたには、新しい世界でもう一度生きる機会が与えられます」

 

「……?」

 

「転生です」

 

「てんせー?」

 

「もう一度、別の場所で生まれることです」

 

「ママのところ?」

 

「……いいえ」

 

「じゃあ、いや」

 

「え?」

 

 あまりにも早い即答に、今度は女神が固まった。

 

「ママのところじゃないなら、いかない」

 

「…………」

 

 女神は困った。

 

 これまでにも転生を拒否した者はいる。

 

 だが、その理由があまりにも単純だった。

 

 少し考えた女神は、別の方法で少女に興味を持ってもらうことにした。

 

「まずは、どんな世界なのか見てみませんか?」

 

「みる?」

 

「はい」

 

 女神が手を振ると、空中に大きな映像が現れた。

 

 女の子の目が丸くなる。

 

「テレビ!」

 

「まあ……似たようなものです」

 

「おっきい!」

 

 少しだけ元気を取り戻した少女を見て、女神は微笑んだ。

 

 そして、映像が動き始める。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 映し出されたのは、地下に存在する巨大な墳墓だった。

 

 人間には到底理解できない怪物たちが住む場所――ナザリック地下大墳墓。

 

 そこへ侵入した者たちがいた。

 

 ワーカーチーム、フォーサイト。

 

 金のため。それぞれの事情のため。

 

 危険を承知で彼らは大墳墓へ踏み込み、そして、その選択を後悔することになる。

 

 もちろん、五歳の女の子にそんな難しい事情は分からない。

 

 ただ一つ。

 

 映像の中にいる人たちが、とても怖がっていることだけは分かった。

 

「……このひとたち、こわいの?」

 

「そうですね」

 

「おうちに、かえらないの?」

 

「…………」

 

 女神は答えなかった。

 

 映像は進んでいく。

 

 仲間たちは次々と倒れていった。

 

 逃げられない。

 

 勝てない。

 

 そして、一人の少女が映った。

 

 金色の髪をした、まだ若い少女。

 

 アルシェ・イーブ・リイル・フルト。

 

 五歳の女の子から見ればずっと年上のお姉さんだが、大人と呼ぶにはまだ若い。

 

 アルシェは必死に逃げていた。

 

 生きるために。

 

 帰るために。

 

 彼女にも、帰りを待っている者たちがいた。

 

 幼い双子の妹――クーデリカとウレイリカ。

 

 妹たちのためにも帰らなくてはいけない。

 

 だが、逃げ切ることはできなかった。

 

 アルシェの前に現れた赤い影。

 

 シャルティア・ブラッドフォールン。

 

 あまりにも圧倒的な存在に追いつかれ、ついにアルシェが捕まった。

 

 そこで女神は映像を止めた。

 

「…………」

 

 女の子は黙って画面を見つめていた。

 

「おわり?」

 

「この先を見る必要はないでしょう」

 

「このお姉ちゃんは?」

 

「え?」

 

「あの、お姉ちゃん」

 

 小さな指がアルシェを指す。

 

「このあと、どうなるの?」

 

「…………」

 

 女神は黙った。

 

「おうちに、かえる?」

 

「…………」

 

「このこも、ママのところにかえれないの?」

 

 女神は迷った。

 

 けれど、嘘をつくことはできなかった。

 

「……帰れません」

 

 女の子の顔が曇る。

 

「どうして?」

 

「ここで、命を落とすからです」

 

「しんじゃうの?」

 

「……はい」

 

「なんで?」

 

 女神は少し考えてから答えた。

 

「この世界では、そういう運命になっているからです」

 

「…………」

 

 女の子は、映像の中で怯えているアルシェを見る。

 

「このお姉ちゃん、わるいひと?」

 

「善悪というのは難しいものですが……少なくとも、この人にも事情があります」

 

「じじょう?」

 

「お金を稼がなければならなかったのです」

 

「なんで?」

 

「家族を守るために」

 

「かぞく?」

 

 女神が映像を切り替える。

 

 そこには、二人の小さな女の子が映し出された。

 

「この子たちのお姉さんです」

 

「…………」

 

 少女は画面へ近づき、ぺたりと小さな手をつけた。

 

「ちっちゃい」

 

「そうですね」

 

「お姉ちゃん、かえってこないの?」

 

「……はい」

 

「このこたち、なく?」

 

 女神は答えなかった。

 

 けれど、答えなくても少女には分かった。

 

「……かわいそう」

 

 小さく呟く。

 

 それからしばらく考えて、女神を見た。

 

「女神さま」

 

「はい」

 

「おねがい、していい?」

 

「もちろんです」

 

 女神は微笑んだ。

 

 ようやく転生する気になったのだと思った。

 

「どんな姿になりたいですか?」

 

「ちがう」

 

「では、何か特別な力を?」

 

「ちがうよ」

 

「……?」

 

 女の子が画面を指差した。

 

「このお姉ちゃん」

 

「はい」

 

「たすけて」

 

「…………」

 

 女神が瞬きをした。

 

「……何と?」

 

「このお姉ちゃん、たすけてあげて」

 

「それは……」

 

 女神は困惑した。

 

「あなたの転生とは関係がありません」

 

「うん」

 

「この方とは、知り合いなのですか?」

 

「しらない」

 

「…………」

 

「でも、しんじゃうんでしょ?」

 

「……はい」

 

「だったら、たすけてあげて」

 

 女神は少女をじっと見つめた。

 

「……それはできません」

 

「どうして?」

 

「世界には世界の法則があります。私は何でも好き勝手に変えられるわけではありません」

 

「…………」

 

 女の子が悲しそうに俯く。

 

「ただし、一つだけ方法はあります」

 

 その言葉に、少女が顔を上げた。

 

「あなたに与えられるはずだった転生の権利」

 

「てんせー?」

 

「別の世界でもう一度生きる権利です」

 

「うん」

 

「それを放棄するのであれば、その分の奇跡を、あの人へ与えることはできます」

 

 途端に少女の顔が明るくなった。

 

「じゃあ、それ!」

 

「待ってください」

 

 女神の声が強くなる。

 

 少女がびくりと身体を震わせた。

 

 女神は少女にも理解できるよう、ゆっくりと言い聞かせる。

 

「それをすれば、あなたは転生できません」

 

「うん」

 

「新しい世界で生きられないのですよ?」

 

「うん」

 

「好きな姿になることも」

 

「うん」

 

「特別な力を持つことも」

 

「うん」

 

「……本当に分かっていますか?」

 

 女の子は少し考えた。

 

 そして、小さな声で答えた。

 

「だって、わたし……ママをおいて、べつのおうちの子に、なりたくない」

 

 女神が目を見開く。

 

「だから――」

 

 少女は映像の中のアルシェを見た。

 

「わたしのぶん、あのお姉ちゃんにあげて」

 

「…………」

 

「だめ?」

 

 長い沈黙が流れた。

 

 女神はこれまで、数え切れないほどの転生者を見てきた。

 

 力を求める者。

 

 富を求める者。

 

 美貌を求める者。

 

 平穏を求める者。

 

 復讐を願う者。

 

 幸福を願う者。

 

 どれも当然の願いだった。

 

 自分に与えられた第二の人生なのだから、自分のために使って当然なのだ。

 

 だからこそ、女神には目の前の少女が理解できなかった。

 

「……本当に、いいのですね?」

 

「うん!」

 

 迷いなど微塵もなかった。

 

「では、どのような力を与えましょう」

 

 女神は映像を見る。

 

「つよいやつ!」

 

「……かなり大雑把ですね」

 

「ぜったい、いじめられないやつ!」

 

「なるほど」

 

 女神は考えた。

 

 絶対に殺されない力。

 

 敵がどれほど強くても問題にならない、圧倒的な力。

 

 一撃で全てを吹き飛ばしてしまえるほどの力。

 

「……では」

 

 女神の手に光が集まる。

 

「あなたの転生権を代価として、アルシェ・イーブ・リイル・フルトに圧倒的な身体能力と――」

 

 一瞬だけ考えた女神は、やがて一つの答えに辿り着いた。

 

「……まあ、これなら間違いないでしょう」

 

 光が映像の中へ飛び込んでいった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 アルシェは死を覚悟していた。

 

 捕まった。

 

 逃げられなかった。

 

 目の前にいる存在は、自分とはあまりにも違いすぎる。

 

 怖い。

 

 嫌だ。

 

 死にたくない。

 

 脳裏に浮かんだのは、二人の妹だった。

 

 クーデリカ。

 

 ウレイリカ。

 

 ――ごめん。

 

 帰れない。

 

「いや……!」

 

 それでも身体が動いた。

 

 何かを考えたわけではない。ただ逃げたかった。

 

 掴まれた腕を振り払い、必死に手を振った。

 

 その手が偶然、シャルティアの頬に触れた。

 

 ――ぺちん。

 

 そんな軽い音がした。

 

 次の瞬間。

 

 シャルティア・ブラッドフォールンが消えた。

 

「…………」

 

 アルシェは固まった。

 

 そして、遥か遠くから――。

 

 ドゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!

 

 何枚も、何十枚もの壁を突き破っていくような凄まじい轟音が響き渡った。

 

「…………え?」

 

 アルシェは自分の手を見る。

 

 それから、もう一度シャルティアがいた場所を見る。

 

 誰もいない。

 

「…………え?」

 

     ◇ ◇ ◇

 

「…………」

 

「…………」

 

 女神と少女は二人揃って無言で映像を見ていた。

 

 やがて少女が女神を見上げる。

 

「女神さま」

 

「……はい」

 

「いまの、お姉ちゃん」

 

「はい」

 

「だいじょうぶ?」

 

「…………」

 

 女神は少し考えた。

 

「少なくとも、アルシェさんは大丈夫でしょう」

 

「ほんと!?」

 

「ええ」

 

「よかったぁ!」

 

 少女が満面の笑みを浮かべた。

 

 その瞬間だった。

 

 少女の身体が淡く光り始める。

 

「あれ?」

 

 自分の手を見ると、少しずつ透け始めていた。

 

「女神さま」

 

「……時間です」

 

「じかん?」

 

「あなたは転生の権利を使いました。ですから、ここから離れます」

 

「どこいくの?」

 

「あなたが元いた世界の、魂の流れへ戻ります」

 

「…………?」

 

 少女にはよく分からなかった。

 

 だから、一番大切なことを聞いた。

 

「ママのところ?」

 

 女神は答えに迷った。

 

 嘘は言いたくなかった。

 

「……いつか、また会えるかもしれません」

 

「ほんと?」

 

「約束はできません」

 

「そっか」

 

 それでも少女は笑った。

 

 身体がどんどん光へと変わっていく。

 

 足が消え、手が消えていく。

 

 女神はただ少女を見つめていた。

 

 最後に、少女が言った。

 

「女神さま」

 

「はい」

 

「ありがとう」

 

「…………」

 

 女神が目を見開いた。

 

「お姉ちゃん、たすけてくれて、ありがとう」

 

 ――違う。

 

 女神はそう言おうとした。

 

 助けたのは私ではない。

 

 あなたです。

 

 あなたが自分に与えられた奇跡を、彼女へ渡したのです。

 

 けれど、その言葉が声になるより先に少女は消えた。

 

 最後まで、笑っていた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 静寂が戻った。

 

 女神は一人になった白い空間で、長い間何も言わなかった。

 

 やがて小さく息を吐く。

 

「……変わった子」

 

 本当に変わった子だった。

 

 これまで数え切れないほどの魂を送り出してきたが、あんな者は初めてだった。

 

 自分とは何の関係もない。

 

 名前すら知らなかった。

 

 偶然、映像に映っただけの人間。

 

 そんな相手のために、自分の第二の人生を手放した。

 

「……まあ」

 

 女神は少しだけ微笑んだ。

 

「たまには、ああいう子もいるのでしょう」

 

 長い仕事をしていれば、珍しい魂に出会うこともある。

 

 そう割り切った。

 

「さて」

 

 次だ。

 

 事故で亡くなった魂は一人ではない。

 

 まだ大勢いる。

 

 女神が手を上げると魔法陣が展開され、一つの魂が呼び寄せられた。

 

「次の方、どうぞ」

 

 光が消える。

 

「…………」

 

 女神が瞬きをした。

 

 目の前には、小さな男の子が立っていた。

 

 幼稚園の制服。

 

 そして、黄色い帽子。

 

「……あれ?」

 

 男の子が辺りを見回す。

 

「ここ、どこ?」

 

 女神はその制服を知っていた。

 

 つい先ほど見たばかりだ。

 

「…………」

 

 まさか。

 

「あなた……」

 

 女神は慎重に尋ねた。

 

「遠足へ向かうバスに乗っていましたか?」

 

「うん!」

 

「…………」

 

 同じバス。

 

 女神は少しだけ嫌な予感を覚えた。

 

 いや、考えすぎだ。

 

 先ほどの少女が特別だっただけだろう。

 

「私は女神です」

 

「めがみ?」

 

「はい」

 

「ようちえんのせんせい?」

 

「…………」

 

 さっきも聞いた。

 

 女神は思わず額を押さえた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 一通りの説明を終えると、男の子は泣いた。

 

 お父さん。

 

 お母さん。

 

 帰りたい。

 

 女神は何も言わず、男の子が落ち着くまで待った。

 

 そして転生について説明し、先ほどと同じように映像を見せる。

 

 同じ世界。

 

 けれど、違う場所。

 

 違う人物。

 

 そこにも、これから悲惨な運命を迎える者がいた。

 

「…………」

 

 男の子は黙って映像を見ていた。

 

 女神も何も言わない。

 

 やがて男の子が指を差した。

 

「女神さま」

 

「はい」

 

「このひと」

 

 なぜだろう。

 

 女神の背中に冷たいものが走った。

 

「この人が、どうしました?」

 

「このあと、どうなるの?」

 

「…………」

 

 嫌な予感がする。

 

 それでも女神は説明した。

 

 男の子が悲しそうな顔になる。

 

「……かわいそう」

 

「…………」

 

 そして、言った。

 

「じゃあ――」

 

 女神の目がゆっくりと見開かれる。

 

「ぼくの、てんせーってやつ、このひとに、あげる」

 

「………………」

 

 長い沈黙が流れた。

 

「女神さま?」

 

「…………」

 

「だめ?」

 

 女神は答えられなかった。

 

 偶然。

 

 そう、偶然だ。

 

 二人くらいなら、まだ偶然と言える。

 

 女神はそう思った。

 

 この時は、まだ。

 

 彼女は知らなかった。

 

 次も。

 

 その次も。

 

 そのまた次も。

 

 同じバスからやって来た小さな魂たちが、映像の向こうで誰かが泣いているのを見るたびに、

 

「かわいそう」

 

 と言って。

 

 自分に与えられた、たった一度の奇跡を当たり前のように差し出していくことを。

 

 一人も例外なく。

 

 全員が。

 

 そして女神は、まだ知らない。

 

 幼い子供たちのほんの小さな優しさが、これからナザリック地下大墳墓にとって、理解不能の異常事態となっていくことを。

 

 その第一号。

 

 アルシェ・イーブ・リイル・フルト。

 

 本人はまだ知らない。

 

 自分が今、どれほどとんでもない存在になってしまったのかを。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 ナザリック地下大墳墓。

 

 破壊された壁の遥か先。

 

 積み重なった瓦礫の中で、何かが動いた。

 

「…………」

 

 赤い瞳がゆっくりと開く。

 

 シャルティア・ブラッドフォールン。

 

 彼女の頭には、たった一つの疑問しかなかった。

 

「…………なんでありんすか」

 

 頬に手を当てる。

 

 先ほど、人間の少女に軽く手で払われた。

 

 ただ、それだけだった。

 

 それなのに――。

 

「…………」

 

 自分が吹き飛ばされた。

 

 何層もの壁をぶち抜いて。

 

 シャルティアは、自分が飛んできた方向を見る。

 

 そして初めて、ほんの少しだけ顔を引きつらせた。

 

「……あの人間」

 

「なんなのでありんすか……?」

 

 当然、答えは誰にも分からない。

 

 天界にいる女神でさえ、まだ事態の全貌を理解していなかったのだから。




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