五歳児たちは、転生よりも「この人を助けて」を選びました 作:ぶるぶるメタボ
「…………」
アルシェは、自分の右手を見つめていた。
何度見ても、そこにあるのはただの手だ。細い指。傷ついた皮膚。そして、わずかに震えている自分の手。
それだけだった。
なのに、その手でシャルティア・ブラッドフォールンを吹き飛ばした。
「……何が」
喉が震える。
「何が、起きたの……?」
当然、返事はない。
目の前には大きく破壊された壁がある。その奥へどこまで飛んでいったのか、もうあの吸血鬼の姿は見えなかった。
アルシェは怖かった。
確かに助かった。
それなのに、怖い。
自分の身体に何が起きたのか、まるで分からないのだ。
魔法でもない。武技でもない。何かのアイテムを使ったわけでもない。
ただ必死に腕を振った。
それだけだった。
「…………」
アルシェはゆっくりと拳を握る。
その瞬間だった。
ぽう、と目の前に光が生まれた。
「っ!?」
反射的に身構える。
しかし、光はアルシェを攻撃してこなかった。ただ空中でゆっくりと形を変えていき、やがて一枚の白い紙になる。
ひらり、と。
それはアルシェの足元へ落ちた。
「…………」
怪しい。
どう考えても怪しい。
けれど、このまま何も知らない方がもっと怖かった。
アルシェは慎重に紙を拾う。
そこには見慣れない文字――ではなく、なぜか自分にも理解できる言葉で文章が書かれていた。
アルシェ・イーブ・リイル・フルトへ。
突然のことに混乱していると思います。
まず、あなたに起きた現象について説明します。
あなたには、ある少女の願いによって特別な力が与えられました。
「……少女?」
アルシェが眉を寄せる。
そのまま続きを読む。
少女の年齢は五歳。
あなたとは一度も会ったことがありません。
あなたの名前も、今日初めて知りました。
「…………は?」
思わず間の抜けた声が漏れた。
意味が分からない。
会ったことがない。
五歳。
自分のことを今日初めて知った。
では、なぜその子が自分に力を与える?
アルシェは困惑したまま、さらに読み進めた。
少女は、自らの世界で事故に遭い、命を落としました。
本来、彼女には別の世界で新たな人生を始める権利が与えられる予定でした。
しかし、転生先となる世界を確認している途中、少女はあなたの姿を見ました。
あなたが捕らえられ、このままでは命を失うことを知りました。
そして少女は、私に一つの願いを告げました。
アルシェの指が止まった。
胸の奥がざわつく。
嫌な予感ではない。
もっと別の、今まで感じたことのない、理解できない何かだった。
紙を持つ手がわずかに震える。
「このお姉ちゃんを助けて」
それが、少女の願いでした。
「…………」
アルシェは言葉を失った。
視線が、その一文から動かない。
助けて。
ただ、それだけ。
何の見返りもなく。
何の関係もない自分を?
もう一度最初から読み直しかけたが、まだ先が残っていた。
私は少女に説明しました。
あなたを救うには、彼女自身に与えられるはずだった転生の権利を放棄する必要があると。
その権利を代価として、あなたに世界の常識を大きく超える力を与えることができると。
そして、そうすれば少女自身は別世界で新しく生きることはできなくなると。
私は何度も確認しました。
本当にそれで良いのかと。
少女は答えました。
「いいよ」
と。
「…………」
アルシェの呼吸が止まった。
「……嘘」
声が掠れる。
「そんなの……」
続きを読むのが怖い。
読みたくない。
それなのに、目を離すこともできなかった。
私は少女に尋ねました。
なぜ、会ったこともないあなたのために、自分の未来を手放すのかと。
少女はこう答えました。
「だって、このお姉ちゃんのほうが、いま、こまってるから」
そして、もう一つ。
「わたし、ママをおいて、べつのおうちの子になりたくないから」
と。
ぽたり。
紙の上に何かが落ちた。
アルシェは、しばらくそれが何なのか分からなかった。
もう一滴。
文字の上に透明な雫が落ちる。
「あ……」
涙だった。
自分が泣いている。
「なんで……」
唇が震える。
「なんでよ……」
知らない。
本当に何も知らない子だ。
会ったこともない。話したこともない。
自分がどんな人間なのかも、自分が何をしてきたのかも知らない。
それなのに、その子は自分のために、一度しかないはずの新しい人生を手放した。
「私なんかのために……」
アルシェは紙を握る。
「そんな……」
自分は立派な人間ではない。
金のために危険な仕事をしてきた。
ワーカーとして、違法すれすれの依頼だって受けたことがある。
今回だって金に釣られ、墓荒らしのような真似をした。その結果がこれだ。
自業自得だと言われても、何も言い返せない。
なのに。
その子は、そんな自分を見て。
ただ「かわいそう」と思った。
それだけで助けた。
「馬鹿……」
涙が止まらなかった。
「馬鹿だよ……」
紙を胸に抱く。
「そんなの……知らない人に……そんな大事なもの……」
声が崩れる。
「使っちゃ駄目じゃない……」
誰に言っているのか、自分でも分からない。
その少女は、もうここにはいない。
それでもアルシェは言わずにはいられなかった。
しばらくの間、静かな地下の通路で、たった一人。
アルシェは、知らない誰かの優しさのために泣き続けた。
◇ ◇ ◇
やがて、アルシェはもう一度紙を見る。
最後の部分だけ、少し文字の形が違っていた。
まるで幼い子供が一生懸命に書いたような、拙い文章だった。
アルシェお姉ちゃんへ。
わたしは、お姉ちゃんのこと、しらないです。
でも、いもうとちゃんがいたから、かえしてあげてほしいって、おもいました。
おうちに、かえってね。
いもうとちゃんと、いっぱい、あそんでね。
ないちゃだめだよ。
がんばってね。
「…………っ」
アルシェは紙で顔を覆った。
「う……」
もう駄目だった。
「うぅ……っ」
声が漏れる。
妹たちの顔が浮かぶ。
クーデリカ。
ウレイリカ。
帰らなければ。
帰って、抱きしめなければ。
自分はまだ生きている。
この子が、生かしてくれた。
ならば帰らなければならない。
絶対に。
「……帰る」
アルシェは目を真っ赤にしながら顔を上げた。
「帰るよ」
誰もいない空間へ向かって言う。
「絶対に」
紙を大切に服の内側へしまい、一歩踏み出した。
その時。
三人の顔が脳裏に浮かぶ。
ヘッケラン。
イミーナ。
ロバーデイク。
「…………」
足が止まった。
自分だけ帰る?
違う。
まだ彼らがいる。
フォーサイト。
自分の仲間たちが。
「……まだ」
小さく呟く。
「まだ、終わってない」
拳を握った。
先ほど自分が何をしたのか、アルシェ自身にも完全には理解できていない。
それでも一つだけ分かることがある。
あの化け物を吹き飛ばせた。
ならば、もしかしたら。
仲間たちも助けられる。
「待ってて」
来た道を振り返る。
腕で涙を拭う。
「今度は、私が助けるから」
そしてアルシェは走り出した。
◇ ◇ ◇
ナザリック地下大墳墓、闘技場。
戦いはすでに終わっていた。
その中央に立つのは、絶対者アインズ・ウール・ゴウン。
彼の前には戦いの痕跡と、愚かにも大墳墓へ侵入したワーカーたちの末路が残されている。
アインズは淡々と戦後処理を進めていた。
表面上はいつも通りだった。
冷静。
威厳。
絶対者として、完璧な姿。
内心では先ほどまでの出来事を整理している。
侵入者への対応。
ナザリックの防衛体制。
守護者たちへの教育。
今後に活かせる点。
特に問題はない。
予定通り、ナザリックの勝利だった。
そう考えていた、その時。
〈メッセージ〉による通信が入った。
「む?」
アインズがわずかに反応する。
相手はシャルティアだ。
「シャルティアか」
何かの報告だろう。
逃走したワーカーを始末した。
その程度のものだと考えながら通信を繋ぐ。
『アインズ様!』
瞬間、アインズの思考が止まった。
声がおかしい。
シャルティアの声が、明らかに焦っている。
『アインズ様! 大変でありんす!』
「どうした?」
アインズは平静を装って尋ねる。
『あ、あの人間が――』
その時。
通信の向こうで、ドン、という鈍い破壊音が響いた。
『……え?』
シャルティアの困惑した声。
続けて、
『なっ!?』
さらに音が近づいてくる。
ドン。
ドン。
ドン。
何かが壁を次々に破壊しているような音だった。
「シャルティア?」
アインズが呼びかける。
『ちょっ――』
一瞬、通信の向こうで風を切るような音がした。
『待つでありんす――!?』
轟音。
『ひぃっ!?』
「…………」
アインズは沈黙した。
周囲にいた守護者たちも、一斉にこちらを見る。
デミウルゴスが眉を寄せ、コキュートスがわずかに身構える。アルベドの表情も険しくなった。
通信の向こうから、さらに何かが壊れる音。
そして――。
『アインズさまぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?』
ブツッ。
通信が切れた。
「…………」
闘技場に静寂が落ちる。
アインズは数秒、動かなかった。
「……は?」
思わず声が漏れた。
その瞬間。
闘技場の壁が大きく膨らんだ。
「――!」
守護者たちが一斉に反応する。
次の瞬間――。
ドゴォォォォォォォォォォォォォォン!!
壁が吹き飛んだ。
石と瓦礫と粉塵が、凄まじい勢いで闘技場へ撒き散らされる。
そして、その中心から赤い何かが飛んできた。
「…………?」
アインズが見る。
人影だった。
高速で地面へ叩きつけられ、一度、二度、三度とバウンドする。
地面を抉りながら転がり、最後は壁際で止まった。
「…………」
守護者たちが沈黙する。
そこに倒れていたのは――。
シャルティア・ブラッドフォールン。
「…………」
アインズも沈黙した。
何が起きた。
シャルティアは守護者の一人。
ナザリック最高峰の戦闘能力を持つ存在だ。
その彼女が今、文字通り吹き飛ばされてきた。
「……シャルティア?」
アインズが呼ぶ。
瓦礫の中で、シャルティアの指がぴくりと動いた。
「ア……」
掠れた声。
「アインズ……様……」
生きている。
アンデッドなのだから、それ自体は不思議ではない。
問題は、なぜこうなったのかだ。
その時。
粉塵の向こう。
破壊された壁の穴から、足音が聞こえた。
コツ。
コツ。
コツ。
誰かが歩いてくる。
全員の視線がそこへ集まった。
アインズも見る。
そして――。
「…………」
思考が止まった。
現れたのは少女だった。
人間。
金色の髪。
ボロボロの装備。
そして、泣いた跡。
つい先ほど見た侵入者の一人。
ワーカーチーム、フォーサイトの魔法詠唱者。
「……アルシェ?」
アインズが名前を口にする。
間違いない。
逃亡したあの人間だ。
脅威度は低い。
少なくともナザリックにとっては、取るに足らない存在。
そのはずだった。
なのに。
アルシェは歩いてくる。
シャルティアを吹き飛ばし。
壁を破壊して。
ここまで。
「…………」
アインズの頭の中で無数の可能性が暴れ始めた。
アイテム?
違う。
魔法?
観測できない。
未知の武技?
あり得るのか?
タレント?
世界級アイテム?
プレイヤー?
いや。
待て。
落ち着け。
情報が足りない。
アルシェは闘技場の中で立ち止まり、アインズを見る。
怖い。
明らかに彼女は怯えている。
身体も震えている。
それでも逃げない。
「……仲間を」
声が震えた。
「返して」
「…………」
アインズは何も言わなかった。
いや、すぐには言えなかった。
アルシェが一歩前へ出る。
「お願い」
瞳にまた涙が滲む。
「返して」
「…………」
アインズは沈黙した。
奇妙だった。
目の前の少女は明らかに自分を恐れている。
それなのに、なぜか自分たちの側が慎重になっている。
いや。
当然だ。
シャルティアがあの状態なのだ。
何の情報もないまま不用意に動く方が愚かである。
アインズはそう自分に言い聞かせる。
「シャルティア」
「……は、はい……」
「何があった?」
シャルティアが瓦礫の中からゆっくりと起き上がる。
そしてアルシェを見る。
びくり。
身体がわずかに震えた。
アインズはそれを見逃さなかった。
「報告せよ」
「わ……」
シャルティアが口を開く。
「わからないのでありんす……」
「何?」
「わたくしにも……」
シャルティアは頬を押さえながら、アルシェを指差した。
「ただ……その人間に……叩かれたのでありんす……」
「…………」
アインズが少しだけ首を傾げる。
「叩かれた?」
「はい……」
「それで?」
「吹き飛ばされたのでありんす」
「…………」
アインズは沈黙した。
「どの程度の攻撃だ」
「…………」
今度はシャルティアが沈黙する。
「シャルティア」
「その……」
「申せ」
「多分……」
シャルティアの赤い瞳が揺れた。
「ただ……手を振っただけでありんす」
「…………」
アインズ。
デミウルゴス。
アルベド。
コキュートス。
全員が沈黙した。
「……手を?」
「はい」
「振った?」
「はい」
「それが当たった?」
「はい」
「それで?」
「飛んだのでありんす……」
「…………」
アインズの精神が大きく揺れる。
直後、緑色の光が身体を包み、感情が強制的に鎮静される。
だが、その光が消えた直後。
再び精神が揺れた。
また緑色の光が走る。
「…………」
そんな彼らを、アルシェは困惑しながら見ていた。
実のところ、本人にも分かっていない。
自分がどれほど強くなっているのか。
だからアルシェ自身も怖い。
それでも、一つだけ決めている。
「仲間を」
もう一度、言う。
「返して」
アインズは目の前の少女を見つめながら考えた。
最悪の可能性を。
この世界には、ユグドラシルに存在しなかった未知の存在がいる。
それはすでに理解していた。
だが、もし目の前の少女がそれに類する何かなのだとしたら。
あるいは、この少女の背後に何者かがいるのだとしたら。
なぜ今までその力を隠していた?
なぜ捕まるまで使わなかった?
なぜ突然発現した?
分からない。
何も分からない。
だからこそ、恐ろしい。
アインズ・ウール・ゴウンは、この時初めて、目の前にいる一人の人間を慎重に観察した。
ただのワーカーではない。
少なくとも、もうそう扱うことはできない。
「…………」
空洞の眼窩に灯る赤い光が揺れる。
そして、心の中にたった一つの言葉が浮かんだ。
――何だ、これは。
その答えを知る者は、この場には一人もいない。
アルシェ自身ですら知らない。
この異常の始まりが、遥か遠い別世界で遠足を楽しみにしていた、たった一人の五歳の少女だったことを。
そして、その少女が最後に残した、ほんの短い言葉。
――おうちに、かえってね。
その願いだけが今。
絶対的だったはずのナザリック地下大墳墓の力の常識を、音を立てて壊し始めていた。