五歳児たちは、転生よりも「この人を助けて」を選びました 作:ぶるぶるメタボ
「仲間を」
アルシェは、もう一度言った。
「返して」
声はまだ震えていた。
目の前にいるのは化け物だ。
自分たちを簡単に踏みにじった存在――アインズ・ウール・ゴウン。
あの闘技場でヘッケランたちは敗れ、自分も逃げることしかできなかった。
怖い。
今でも怖い。
それでも、逃げるわけにはいかなかった。
胸元。服の内側には、一枚の紙がある。
――おうちに、かえってね。
その言葉が、アルシェの背中を押していた。
「返して」
もう一度、言う。
「お願いだから」
「…………」
アインズは目の前の少女をじっと見ていた。
動けないのではない。
動かないのだ。
まず情報が必要だった。
シャルティアを一撃で吹き飛ばした。
しかも、本人曰く、ただ手を振っただけ。
そんな存在へ不用意に攻撃するなど愚策にもほどがある。
「仲間、か」
アインズが低い声で言った。
「そう」
アルシェは頷く。
「ヘッケランと、イミーナと、ロバーデイク。返して」
「…………」
アインズがわずかに沈黙した。
アルシェは、その沈黙を嫌なものとして感じ取った。
「……どこ?」
「…………」
「どこにいるの?」
視線を動かす。
闘技場。
そこに――いた。
いや。
正確には。
――いたものが。
「…………」
アルシェの呼吸が止まった。
「……え?」
足が勝手に動く。
一歩。
また一歩。
見間違いであってほしかった。
でも、違う。
分かる。
分かってしまう。
ヘッケラン。
イミーナ。
ロバーデイク。
自分の仲間たち。
ずっと一緒だった。
金のために危険な仕事へ何度も行った。
馬鹿な話もした。
笑った。
喧嘩した。
助けてもらった。
自分も助けた。
そんな仲間たちが。
「…………」
アルシェの唇が震えた。
「これ……」
誰も答えない。
「これ……何?」
アインズがゆっくりと口を開く。
「侵入者への――」
「違う」
アルシェが遮った。
声が変わっていた。
震えが消えている。
「何をしたの」
「…………」
「この人たちに、何をしたの?」
アインズは、わずかな違和感を覚えた。
さっきまであれほど怯えていた少女。
その目が、今は違う。
怒っている。
いや。
それだけではない。
悲しみ。
絶望。
そして、それら全てを押し潰す何か。
「答えて」
アルシェが言う。
「…………」
アインズは考えた。
嘘を言う必要はない。
「処罰した」
「…………」
「この大墳墓へ無断で侵入した者として」
「…………」
「相応の――」
その瞬間。
アルシェが消えた。
「――っ!?」
アインズの視界から、文字通り消えた。
違う。
動いたのだ。
ただ、見えなかっただけだ。
次の瞬間。
「アインズ様!!」
アルベドが飛び込んだ。
主を守るため、アルシェの前へ立つ。
「貴様ぁぁぁぁぁ!!」
拳を振るう。
アルベドが迎撃しようとする。
だが、その瞬間。
アルシェの手が触れた。
ただ、それだけだった。
ドン。
「――え?」
アルベドが消えた。
正確には、吹き飛ばされた。
闘技場の反対側まで一直線に飛び、壁へ激突する。
ズドォォォォン!!
「アルベド!?」
アインズが振り向く。
その隙に、コキュートスが前へ出た。
「主ニ!」
武器を振り下ろす。
「近ヅクナ!!」
アルシェは一瞥し、反射的に腕を払った。
ドン。
「グ――!?」
コキュートスの巨大な身体が横へ吹き飛び、地面を何度も転がる。
「な……」
デミウルゴスが目を見開く。
理解が追いつかない。
だが止めなければならない。
それが自分たちの役目だ。
「下がれ!」
魔法が発動する。
炎。
拘束。
支配。
複数の術が一気にアルシェへ襲いかかった。
「邪魔しないで!!」
アルシェが叫び、拳を一つ振るう。
その瞬間。
空気が爆ぜた。
衝撃だけで魔法が消える。
デミウルゴスが目を見開く。
「な――」
その次の瞬間には、アルシェの拳が腹部へ叩き込まれていた。
ドン。
「がっ!?」
デミウルゴスの身体が宙を舞う。
そして、そのまま視界の彼方へ消えた。
「…………」
アインズは動けなかった。
何だ、これは。
何なのだ。
守護者が。
次々と。
人間一人に吹き飛ばされている。
「アインズ様ぁぁぁ!!」
シャルティアが叫びながら立ち上がる。
先ほど自分を吹き飛ばした相手。
怖い。
それでも主を守る。
「今度こそ――」
アルシェが振り返る。
その視線を受けた瞬間、シャルティアの身体が一瞬固まった。
「…………」
嫌な記憶が蘇る。
一撃。
吹き飛ばされた。
だが、それでも止まれない。
「死ぬでありんす!!」
シャルティアが襲いかかる。
アルシェは拳を振るった。
「またぁぁぁぁぁぁ!?」
ドン。
シャルティアが飛ぶ。
また。
「アインズさまぁぁぁぁぁぁぁぁ――!!」
悲鳴だけが遠ざかっていく。
「…………」
そして。
アインズだけが残った。
静かだった。
妙に静かだった。
アルシェがこちらを見る。
「…………」
アインズの精神が大きく揺れた。
直後、緑色の光が走る。
感情抑制。
強制的に冷静さが戻る。
――落ち着け。
考えろ。
対策。
時間停止。
転移。
召喚。
即死。
防御。
まずは距離を取るべきだ。
「待て」
アインズが言う。
アルシェは歩く。
一歩。
「待て」
もう一歩。
アインズは防御魔法を展開した。
一つ。
二つ。
三つ。
物理防御。
魔法防御。
耐性。
障壁。
ありったけを重ねる。
「まず話を――」
アルシェの拳が握られる。
「あなたが」
一歩。
「あなたが」
もう一歩。
「みんなを……!」
アインズはさらに障壁を追加する。
「待て!」
アルシェが走った。
「返して!!」
拳が前へ突き出される。
最初の障壁に触れる。
割れた。
いや。
違う。
消えた。
二枚目も。
三枚目も。
四枚目も。
まるで最初から存在していなかったかのように、次々と消えていく。
アインズの眼窩に灯る赤い光が大きく揺れた。
「え」
拳が。
腹部へ。
直撃した。
ドゴォォォォォォォン!!
「ぉ――」
一瞬。
空白。
そして。
「お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛っ!?」
声が出た。
出してから、アインズ自身が驚いた。
何だ、今の声は。
そんなことを考える間もなかった。
身体が飛ぶ。
闘技場の壁が迫る。
激突。
突破。
ドゴン!!
次の壁。
突破。
ドゴン!!
さらに次。
ドゴン!!
止まらない。
アインズの身体が止まらない。
ナザリック内部の何枚もの壁、何層もの構造を全て貫きながら、上へ、外へと飛んでいく。
そして、ついに。
ズドォォォォォォン!!
アインズの身体が地表を突き破り、夜空へ飛び出した。
そのまま地面へ落下する。
ドン!!
「ぐっ!?」
一回。
バウンド。
ドン!!
二回。
ドン!!
三回。
ズザザザザザザザザザ――!!
ようやく止まった。
「…………」
仰向けになったまま、空を見る。
星が見えた。
綺麗だ。
そんなことを思った。
次の瞬間。
「――っ!!」
何かが来た。
腹部。
いや。
腹部という表現で正しいのか。
骨しかない。
肉はない。
内臓もない。
痛覚もない。
そのはず。
なのに。
「い……」
声が震えた。
「痛い……?」
自分で言っておきながら理解できない。
痛い。
なぜ。
アンデッドである自分に、なぜ痛みがある。
「ぐ……!」
痛みが全身を走る。
いや。
身体ではない。
存在そのものが、内側から握り潰され、砕かれ、引き千切られているような感覚。
「ぐぉぉぉぉぉぉ!?」
アインズは身体を丸めた。
支配者としての威厳など、今はどうでもいい。
そんなものを気にしていられる余裕がない。
「な、何だ……!」
緑の光。
感情抑制。
強制的に少し冷静になる。
だが次の瞬間。
激痛。
「ぐおおおおおおおお!!」
再び感情が跳ね上がる。
また緑の光。
鎮静。
激痛。
また跳ね上がる。
「なぜだ!?」
自分でも分からない。
「なぜ痛い!?」
ユグドラシルの知識が意味を成さない。
防御も意味を成さない。
耐性も意味を成さない。
アンデッドとしての特性すら意味を成さない。
何だ。
あの力は。
何だ。
あの少女は。
その時。
気配を感じた。
アインズの動きが止まる。
「…………」
ゆっくりと顔を上げる。
目の前に。
アルシェが立っていた。
「…………」
いつの間に。
そんな疑問すら、もうどうでもよかった。
怖い。
アインズは初めて、目の前の人間を明確に恐怖した。
アルシェは泣いている。
怒っている。
拳を握っている。
アインズは後ずさった。
「ま、待て」
声が出る。
低く。
威厳を持たせようとした。
無理だった。
「話し合おう」
アルシェが一歩近づく。
アインズはさらに後ろへ下がる。
「要求があるなら」
声が上ずる。
「聞く」
アルシェがまた一歩。
「だから」
さらに一歩。
「待て」
アルシェは止まらない。
アインズの思考が崩れていく。
支配者。
演技。
威厳。
全部が消えた。
残ったのは、ただ一つ。
死にたくない。
それだけ。
「待ってくれ!」
アルシェが一瞬止まる。
アインズは必死だった。
「殺さないでくれ!」
「…………」
今度はアルシェが固まった。
アインズはさらに続ける。
「頼む!」
「…………」
「命だけは――」
アルシェが一度瞬きする。
二度。
怒りが、わずかに引いていく。
そして、自分を指差す。
「…………」
次に、アインズを指差す。
「…………」
また自分。
「…………」
アインズ。
「…………」
アルシェの口から、小さな声が漏れた。
「……は?」
夜は静かだった。
風だけが吹いている。
ついさっきまで、絶対に勝てないと思っていた化け物。
それが今。
地面に倒れ、自分に命乞いをしている。
アルシェの理解が追いつかない。
「…………」
アインズも理解が追いつかない。
「…………」
二人はしばらく見つめ合った。
その時。
アルシェの胸元から、一枚の白い紙が少しだけ覗いた。
そこに書かれている、最後の言葉。
――おうちに、かえってね。
アルシェの拳がわずかに緩む。
そのことを、アインズはまだ知らない。
自分の命が今。
遠い世界でもういなくなってしまった五歳の少女の、たった一言によって。
救われようとしていることを。