五歳児たちは、転生よりも「この人を助けて」を選びました 作:ぶるぶるメタボ
白い。
どこまでも白い空間。
その中に、女神は一人で立っていた。
周囲には、いくつもの映像が浮かんでいる。
アルシェ。
ザリュース。
カルカ。
ガゼフ。
そして、他にもいくつもの世界。
本来なら失われていたはずの命。
壊されていたはずの人生。
それらが今も続いている。
「…………」
女神は静かに映像を見つめていた。
以前の自分なら、こんなことはしなかった。
転生者を送り出す。
それで終わり。
その先で何が起きようと、見ることはなかった。
それはその者の人生であり、自分が関わることではない。
ずっとそう思っていた。
だが、今は違う。
「…………」
アルシェの映像を見る。
地面に倒れたアインズ。
その前で拳を握っている少女。
けれど、もう殴ろうとはしていない。
アルシェは胸元へ手を当てる。
そこには、一枚の紙がある。
――おうちに、かえってね。
その言葉を思い出しているのだろう。
「…………」
女神は少しだけ微笑んだ。
次にザリュースを見る。
仲間たちは生きている。
カルカは自分の国を立て直そうと動き始めている。
ガゼフも王国へ帰ろうとしている。
「…………」
自分は見ている。
命令されたからではない。
義務だからでもない。
自分から、彼らのその後を。
「不思議ですね」
誰にともなく呟く。
人間なら、これまで数え切れないほど見てきた。
だが、本当の意味では見ていなかった。
そのことに、今になって気づいた。
そして女神には、もう一つ知りたいことがあった。
視線を下げる。
そこには一つの名簿があった。
事故。
遠足。
幼稚園。
バス。
園児。
引率者。
その中に、一つの名前がある。
「…………」
女神は目を閉じた。
魔法を展開すると、白い空間に光が広がっていく。
「来てください」
静かに告げる。
「あなたに、聞きたいことがあります」
魔法陣が輝いた。
そして、一人の人間が現れた。
◇ ◇ ◇
「…………」
その人物が、ゆっくりと目を開く。
最初は何も分からなかった。
真っ白な場所。
そして、そこに立っている自分。
「ここは……?」
大人だった。
幼稚園の先生。
少しずつ記憶が戻ってくる。
遠足。
子供たち。
バス。
歌。
笑い声。
それから――。
「…………!」
先生の顔色が変わった。
事故。
衝撃。
悲鳴。
そして、子供たち。
「みんな!?」
先生が叫ぶ。
「みんなは!?」
周囲を見回す。
だが、誰もいない。
「子供たちは!?」
「落ち着いてください」
声がした。
先生が振り返る。
そこには女神が立っている。
「あなたは……?」
「女神です」
「…………」
一瞬、先生が固まった。
だが、そんなことはどうでもよかった。
「子供たちは!?」
女神の目がわずかに見開かれる。
最初に聞くことが、自分自身についてではない。
「一緒にいた子供たちは!?」
「…………」
「お願いします! 教えてください!」
「みんなは――」
そこで言葉が詰まった。
もう先生自身、分かっているのだろう。
自分がこの場所にいる。
事故があった。
そして目の前には、女神と名乗る存在。
「……亡くなったのですか?」
女神は嘘を言わなかった。
「はい」
「…………」
先生は動かなかった。
「全員……?」
「はい」
「…………」
膝から力が抜ける。
その場に座り込んだ。
「そんな……」
両手で顔を覆う。
「そんな……」
そして。
「ごめんなさい……」
女神がわずかに眉を寄せた。
「……なぜ」
先生は泣いていた。
「ごめんなさい……みんな……」
声が震える。
「ごめんなさい……守れなくて……」
女神は何も言わなかった。
先生が泣き止むまで。
かつて最初の少女へそうしたように。
ただ、そばで待った。
◇ ◇ ◇
どれほど時間が経ったのか。
天界では、時間というものにあまり意味はない。
先生の目はまだ赤かった。
それでも、ようやく顔を上げる。
「……すみません」
「いいえ」
「それで……」
先生が女神を見る。
「私は、どうなるのでしょうか」
「本来なら」
女神が答える。
「あなたにも、新しい世界でもう一度生きる機会が与えられます」
「転生……ですか?」
「はい」
先生はすぐに理解した。
子供たちよりずっと早い。
当然だ。
大人なのだから。
そして先生が、次に尋ねた。
「子供たちは?」
女神が止まる。
「…………」
「みんなも、転生したんですか?」
女神はしばらく先生を見つめた。
そして静かに答える。
「いいえ」
「…………え?」
先生の表情が固まった。
「どういう……」
「そのことについて」
女神が言う。
「私は、あなたに聞きたいのです」
「私に?」
「はい」
女神が手を上げる。
光が生まれ、一つの映像が現れた。
そこに映っているのは最初の女の子。
五歳。
黄色い帽子。
先生の目が大きく見開かれる。
「――っ!」
名前を呼ぶ。
何度も呼んだ名前。
園庭で。
教室で。
遠足の日にも。
毎日、何度も呼んできた。
大切な園児。
「この子……!」
映像が進んでいく。
女神と少女。
オーバーロード世界。
捕らえられたアルシェ。
少女が聞く。
――このお姉ちゃん、どうなるの?
女神が答える。
――命を落とします。
少女が悲しむ。
そして言う。
――このお姉ちゃん、たすけて。
「…………」
先生は何も言わず見ていた。
転生。
説明。
その代償。
少女はそれを聞いてもなお。
――わたしのぶん、あのお姉ちゃんにあげて。
「…………」
先生の目から涙が落ちた。
「この子……」
映像はさらに進む。
アルシェが力を得る。
シャルティアが吹き飛ぶ。
アルシェが助かる。
少女が笑う。
――よかったぁ!
そして消えていく。
最後に。
――女神さま。
――ありがとう。
光が消えた。
「…………」
先生は言葉を失っていた。
だが、それで終わりではなかった。
女神が次の映像を出す。
男の子。
ザリュース。
同じ。
次に女の子。
カルカ。
また同じ。
その次。
男の子。
ガゼフ。
やはり同じ。
一人。
また一人。
さらに一人。
先生は、全てを見た。
子供たちが、知らない誰かのために泣く。
そして、自分の第二の人生を差し出す。
誰も迷わない。
いや。
本当は怖がっていた子もいる。
お母さんに会いたいと泣いた子もいた。
お父さんはどこ、と聞いた子もいた。
それでも。
映像の中に、自分よりもっと困っている誰かがいると知れば。
全員、同じことを言った。
――たすけてあげて。
最後の映像が消える。
「…………」
先生は俯いた。
肩が震えている。
女神は何も言わず待った。
やがて先生が、小さく呟く。
「……馬鹿」
女神がわずかに驚く。
先生は泣きながら笑っていた。
「馬鹿だよ……みんな……」
両手で顔を覆う。
「そんな……そんな大事なものまで……」
声が震える。
「自分のことも、大切にしなさいって……教えたのに……」
女神の視線が動いた。
「……自分のことも?」
先生は頷く。
「はい」
涙を拭う。
「私は、自分を犠牲にして他人を助けなさいなんて、一度も教えていません」
「…………」
「むしろ」
先生は続ける。
「自分も、お友達も、みんな大切にしようって。そう教えていました」
女神は黙った。
少し、予想と違っていた。
もっと特別な教育があったのだと思っていた。
何か強烈な教え。
あの園児たち全員が同じ選択をするほどの、特別な何か。
「では」
女神が尋ねる。
「なぜですか?」
先生が顔を上げる。
「なぜ、この子たちは全員、同じ選択をしたのですか?」
「…………」
「一人ではありません。二人でもありません」
女神は先生をまっすぐ見つめる。
「全員です」
そして、ずっと聞きたかった問いを口にした。
「あなたは、あの子たちに何を教えたのですか?」
「…………」
先生はすぐには答えなかった。
長く考える。
そして最後には、困ったように笑った。
「……特別なことなんて、何も」
「…………」
「本当に、何も」
女神が首を傾げる。
先生は目を閉じ、生前のことを思い出していた。
◇ ◇ ◇
園庭。
一人の男の子が転んだ。
「うわぁぁぁん!」
泣き出す。
先生が駆け寄ろうとする。
けれど、その前に近くにいた女の子が心配そうに見ていた。
「どうしたの?」
先生が、その子へ聞く。
「転んじゃった」
「そうだね」
先生は笑う。
「じゃあ、『大丈夫?』って聞いてあげようか」
女の子が頷く。
「だいじょうぶ?」
泣いている男の子が答える。
「いたい……」
女の子が先生を見る。
「せんせー、いたいって」
「うん。じゃあ、一緒に保健室まで行こうか」
「うん!」
◇ ◇ ◇
お昼。
お菓子をたくさん持っている子がいる。
その隣。
忘れてしまった子が、しょんぼりしている。
先生が言う。
「どうしようか?」
「…………」
持っている子は少し悩んだ。
そして、一つ差し出す。
「これ」
「いいの?」
「うん」
二人が笑う。
先生も笑った。
◇ ◇ ◇
教室。
一人の子が泣いていた。
喧嘩をした。
先生が隣に座る。
「嫌だったね」
子供が頷く。
「でも、あの子も泣いてるよ」
「…………」
「どうする?」
子供はしばらく悩んだ。
「……ごめんなさい、する」
「うん。先生も一緒に行こうか」
「うん」
◇ ◇ ◇
園庭。
一人だけ輪に入れずにいる子。
先生が気づく。
そして、別の園児も気づいた。
「あの子、ひとりだよ」
「そうだね」
「どうする?」
「いっしょにあそぶ!」
「うん。じゃあ、呼んできてあげて」
子供が走っていく。
「いっしょにあそぼー!」
そして、笑顔が一つ増えた。
◇ ◇ ◇
天界。
先生はゆっくりと話した。
「転んでいる子がいたら、大丈夫って声をかけようね」
「一人でいる子がいたら、一緒に遊ぼうって言ってみようね」
「誰かが泣いていたら、どうしたのって聞いてあげようね」
「お友達が困っていたら、自分にできることがあるか考えてみようね」
そして、少しだけ苦笑する。
「それくらいです」
「…………」
女神は黙って聞いている。
「本当に、それだけです」
先生は続けた。
「どこの幼稚園でも教えているような、普通のことです」
「…………」
女神には分からなかった。
「それだけで?」
「はい」
「それだけで、あれほどのものを差し出せるのですか?」
先生は黙る。
「転生です」
女神が言う。
「新しい人生です。二度目の、生きる機会です」
静かな声に、少しだけ理解できないという感情が混じる。
「大人でさえ、それを手放すことは容易ではありません。それなのに、五歳の子供たちが全員、見知らぬ他人へそれを差し出した」
「…………」
女神は困ったように言った。
「私には、理解できません」
先生は女神を見る。
そして、少し考えた。
「多分」
「…………?」
「あの子たち、そこまで難しく考えてないんだと思います」
「…………」
女神が瞬きをする。
「難しく?」
「はい」
先生は少し笑った。
「転生の価値とか、自分がどれだけ大きなものを失うとか。それと誰かの命を天秤にかけるとか」
ゆっくりと言う。
「そんなこと、あの子たちは考えていなかったんじゃないでしょうか」
「では、なぜ?」
先生は映像を見る。
最初の女の子。
アルシェを見ている。
悲しそうな顔。
「……困っていたから」
「…………」
「それだけです」
女神は動かなかった。
「この人、困ってる」
「この人、泣いてる」
「この人、お家に帰れない」
先生は小さく笑う。
「だったら、助けよう」
「…………」
「きっと、それだけだったんです」
女神の目がゆっくりと見開かれる。
「…………」
そうだった。
最初の女の子。
――このお姉ちゃん、しんじゃうの?
――だったら、たすけてあげて。
男の子。
――トカゲさん、かわいそう。
女の子。
――このお姉ちゃん、いたいことされるの?
男の子。
――おじちゃん、まけちゃうの?
誰も大義を語っていない。
誰も正義を語っていない。
誰も「自分を犠牲にする」などと言っていない。
ただ。
かわいそう。
助けたい。
それだけ。
「…………」
女神が呟く。
「それだけ……」
「はい」
先生が頷く。
だが、その表情はすぐに悲しいものへ変わった。
「でも」
先生は言う。
「私は、嬉しいとは言えません」
女神が先生を見る。
「優しい子に育ってくれた。それは嬉しいです」
また涙が浮かぶ。
「誇らしいです。本当に」
「…………」
「でも」
声が震える。
「自分の未来まで、捨ててほしかったわけじゃない」
「…………」
「あの子たちにも、幸せになってほしかった」
先生は、一つ一つ思い描くように口にする。
「大きくなって、学校に行って、友達を作って、好きなことを見つけて」
「喧嘩したり、恋をしたり、失敗したり、笑ったり」
ついに涙がこぼれた。
「生きて……ほしかった」
女神は何も言えなかった。
「だから」
先生は涙を拭う。
「もし、また会えたら。褒めます」
「…………」
「優しかったねって。すごかったねって。いっぱい褒めます」
そして少しだけ怒ったような顔をする。
「そのあと、いっぱい叱ります」
「……叱る?」
「はい」
先生は泣きながら笑った。
「自分のことも大事にしなさいって。先生、ちゃんと言ったでしょって」
「…………」
女神の口元がほんの少し緩む。
「そうですか」
「はい」
しばらく、二人は黙っていた。
周囲では映像が動き続けている。
人間たち。
生きている。
園児たちが救った人生。
やがて、女神が口を開いた。
「私は……人間を、何も知らなかったのかもしれません」
先生が女神を見る。
「私は長い間、人間の魂を見てきました」
女神は続ける。
「願いを聞きました。転生させました」
周囲の映像を見る。
「でも、その人がどんな人生を送るのか。どんな人を愛するのか。何に泣くのか。何を大切にするのか」
少し自嘲するように笑う。
「知ろうとしなかった」
「…………」
「送り出せば、それで終わり」
けれど、今は違う。
「それなのに、今は知りたい」
アルシェを見る。
「この子が、妹たちの元へ帰れるのか」
ザリュース。
「この人が、仲間たちとどう生きるのか」
カルカ。
「この人が、国をどう立て直すのか」
ガゼフ。
「この人が、何を守っていくのか」
「…………」
女神は自分の胸へ手を当てた。
「どうして、こんなことを思うようになったのでしょう」
先生は少し笑った。
「気になったからじゃないですか?」
「……気になった?」
「はい。人のことが」
「…………」
女神は黙る。
先生は続けた。
「だったら、見ていればいいんじゃないですか?」
女神が顔を上げる。
「見る?」
「はい」
先生は頷いた。
「知りたいなら、見て、話して、聞いて。それで少しずつ知ればいいと思います」
「…………」
「人間なんて」
先生が苦笑する。
「人間の私にも、よく分かりませんから」
女神が驚いた。
「あなたにも?」
「もちろんです」
先生は笑う。
「あの子たちと毎日一緒にいました。でも今日、初めて知ったことがこんなにありました」
「…………」
女神はゆっくりと先生の言葉を噛み締める。
見て。
話して。
聞く。
知る。
今まで自分がしてこなかったこと。
「…………」
やがて、女神は微笑んだ。
「そうですね」
「はい」
「見てみます」
周囲の映像を見る。
「これからも、この人たちを」
少し考える。
「そして、人間を」
先生は静かに頷いた。
◇ ◇ ◇
しばらくして、女神は本来しなければならないことを思い出した。
「あなたにも、転生の権利があります」
「…………」
「望むなら、別の世界で新しい人生を始められます」
先生は長く考えた。
やがて口を開く。
「……一つ、聞いてもいいですか?」
「はい」
「あの子たちは、今どこにいるんですか?」
「…………」
女神は答えた。
「元の世界の魂の流れへ戻りました」
少し間を置く。
「その後どうなるかは、私にも分かりません」
「…………」
先生は俯いた。
「また……」
声が小さい。
「あの子たちに会えることはありますか?」
女神は嘘を言わなかった。
「分かりません」
「…………」
先生は目を閉じる。
「そうですか」
少し寂しそうだった。
けれど、次の瞬間には笑った。
「だったら、私もそこへ戻ります」
女神の目が見開かれる。
「転生を放棄するのですか?」
「はい」
「なぜ?」
先生は少し困ったように笑った。
「先生ですから」
「…………?」
そして、言う。
「遠足、まだ終わってません」
女神は動かなかった。
「子供たちだけ先に帰すわけにはいきません」
「…………」
「ちゃんと、みんなと帰らないと」
「…………」
女神の胸に、また何か温かいものが生まれる。
「会えるとは限りませんよ」
「はい」
「永遠に会えないかもしれない」
「はい」
「それでも?」
先生は迷わず頷いた。
「それでも。少しでも同じところへ行ける可能性があるなら、私はそっちがいいです」
女神は先生を見る。
そして、ふと思った。
なるほど。
この人なのかもしれない。
あの子たちが、ああだった理由。
特別な言葉を教えたわけではない。
特別な教育をしたわけでもない。
ただ毎日一緒にいた。
困っている子を助けた。
泣いている子に寄り添った。
一人でいる子を輪の中へ入れた。
そして今。
この人は、自分にも同じことをしている。
子供たちだけを先に行かせない。
自分も同じ場所へ行く。
女神はようやく分かった。
子供は、言葉だけで育つのではない。
見ていたのだ。
この先生を。
毎日。
ずっと。
「…………」
女神が手を上げる。
光が先生の身体を包む。
「では、あなたを元の世界の魂の流れへお返しします」
「ありがとうございます」
先生の身体が少しずつ透けていく。
「…………」
消える直前、先生が女神を見る。
「女神様」
「はい」
「一つ、お願いしてもいいですか?」
「何でしょう」
先生は周囲の映像を見る。
アルシェ。
ザリュース。
カルカ。
ガゼフ。
園児たちが救った人々。
「この人たちに、いつか教えてあげてください」
「…………」
「自分を助けた子が、どんな子だったのか」
女神の目が見開かれる。
「名前も、好きだったものも、どんな風に笑っていたかも」
先生の目に、また涙が浮かぶ。
「全部」
「…………」
「覚えていてくれる人が一人でも増えたら、きっとあの子たち、嬉しいと思うから」
「…………」
女神はゆっくりと頷いた。
「約束します」
「ありがとうございます」
先生が笑う。
身体が光へ変わっていく。
「それじゃあ」
最後に。
「行ってきます」
女神は一瞬、言葉を失った。
そして気づいた。
先生は「さようなら」とは言わなかった。
行ってきます。
帰るつもりなのだ。
子供たちのところへ。
だから女神も、同じように答えた。
「はい」
微笑む。
「行ってらっしゃい」
先生の姿が光となって消える。
静かに。
何も残さず。
◇ ◇ ◇
白い空間に、女神は一人残された。
「…………」
静寂。
けれど、以前の静寂とは違う。
女神は周囲を見る。
映像はまだ浮かんでいた。
以前なら消していた。
でも、今は消さない。
「見ていれば、いい……ですか」
先生の言葉を繰り返す。
アルシェを見る。
妹たちのところへ帰ろうとしている。
ザリュースを見る。
仲間たちを守ろうとしている。
カルカを見る。
国の再建を始めている。
ガゼフを見る。
剣を握っている。
「…………」
女神は少し笑った。
「では、見てみましょう」
初めて。
義務ではなく、自分から人間を見る。
「あなたたちが、これからどう生きるのか」
そして、先生との約束を思い出す。
いつか教える。
園児たちが、どんな子だったのか。
そして、その子たちが最後に何を言い残したのか。
「…………」
女神は一枚の白い紙を手に取った。
そこへ文字が浮かび始める。
最初の宛名。
――ザリュース・シャシャへ。
次。
――カルカ・ベサーレスへ。
その次。
――ガゼフ・ストロノーフへ。
そして、さらにいくつもの名前。
女神は一枚一枚、丁寧に書いていく。
あなたが、なぜ生きているのか。
あなたの運命を、誰が変えたのか。
その子が、どんな子だったのか。
そして最後に、あなたへ何を言い残したのか。
全てを伝えるために。
「…………」
女神は筆を進める。
もう、転生させたら終わりではない。
知りたい。
見ていたい。
人間が何なのか、まだ分からない。
でも、それでいい。
先生も言っていた。
人間である自分にすら、人間はよく分からないのだと。
ならば、これから知ればいい。
少しずつ。
「…………」
最後の一文字を書き終える。
白い紙が淡く光った。
「さて」
女神が顔を上げる。
いくつもの世界。
その向こうで、園児たちによって明日を与えられた人々。
「約束ですから」
女神は微笑み、手を伸ばした。
無数の白い紙が光となり、それぞれの世界へ飛んでいく。
これは転生を与えるための奇跡ではない。
運命を変えるための奇跡でもない。
ただ、伝えるだけ。
あなたを助けた人がいた。
あなたに生きてほしいと願った子がいた。
その子は最後まで、あなたの幸せを願っていた。
そのことを伝えるためだけの、小さな奇跡。
光は世界を越えていく。
女神はそれを静かに見送った。
「行ってらっしゃい」
そして物語は。
最後の一日へと向かっていった。