五歳児たちは、転生よりも「この人を助けて」を選びました   作:ぶるぶるメタボ

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一枚の白い紙。

 

 それは誰にも気づかれないまま、世界を越えた。

 

 一つ。

 

 また一つ。

 

 違う場所へ。

 

 違う人へ。

 

 届けられていく。

 

 そこに書かれているのは、力のことではない。

 

 奇跡のことでもない。

 

 もっと小さなこと。

 

 一人の子供のこと。

 

 その子が何を見て、何を思い、最後に何を願ったのか。

 

 ただ、それだけだった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 最初の紙は、湿地へ降りた。

 

 湖に風が吹き、水面が静かに揺れている。

 

 リザードマンたちの集落では、あの戦いが終わってから少し時間が経っていた。

 

 ザリュース・シャシャは岸辺に座り、自分の手を見つめていた。

 

 何度見ても分からない。

 

 あの日、突然自分の中に現れた力。

 

 コキュートスを凍らせ。

 

 守護者たちを退け。

 

 自分たちを救った力。

 

「…………」

 

 怖くないと言えば嘘になる。

 

 自分のものなのに、自分のものではないような。

 

 そんな不思議な力だった。

 

「ザリュース」

 

 声がして、振り返る。

 

 クルシュが近づいてきていた。

 

「また考えていたの?」

 

「……ああ」

 

 ザリュースは苦笑する。

 

「これが何なのか、俺にはまだ分からない」

 

 そう言って、自分の手を握る。

 

 その時だった。

 

 ひらり、と何かが落ちてきた。

 

「ん?」

 

 二人が見る。

 

 白い紙。

 

 空から降ってきた。

 

 風はある。

 

 それなのに紙は流されず、真っ直ぐザリュースの前へ落ちてくる。

 

「…………」

 

 警戒するのは当然だった。

 

 だが、不思議と嫌な感じはしない。

 

 ザリュースは紙を拾う。

 

「これは……」

 

 文字が読める。

 

 最初に書かれていたのは、自分の名前だった。

 

 ――ザリュース・シャシャへ。

 

「俺に?」

 

 続きを読む。

 

 あなたへ、一つ伝えなくてはならないことがあります。

 

 あなたがあの日、なぜ生き残ることができたのか。

 

 なぜ、それまで持っていなかった力を手にしたのか。

 

 その理由を。

 

 ザリュースが眉を寄せる。

 

 クルシュも隣から紙を覗き込む。

 

 そして二人の表情が、少しずつ変わっていった。

 

 あなたを助けた者がいます。

 

 その者は、あなたとは会ったことがありません。

 

 あなたの名前も知りませんでした。

 

 あなたと同じ世界に生きていた者でもありません。

 

 その子は五歳でした。

 

 遠足へ向かう途中、事故で命を落としました。

 

「…………」

 

 ザリュースの手が止まる。

 

 五歳。

 

 子供。

 

 それが、どうして自分と関係がある?

 

 だが、続きを読む。

 

 その子には、別の世界でもう一度生きる機会が与えられるはずでした。

 

 その際、あなたの世界を映像で見せました。

 

 そしてその子は、あなたを見ました。

 

 仲間を守るために立ち、敗れようとしているあなたを。

 

 その子は私に聞きました。

 

 「このトカゲさん、どうなるの?」

 

 私は答えました。

 

 「このままなら、死んでしまいます」

 

 すると、その子は少し泣きました。

 

 そして、こう言いました。

 

 「じゃあ、ぼくのてんせー、このひとにあげる」

 

 と。

 

「…………」

 

 ザリュースは動かなかった。

 

 クルシュが口元に手を当てる。

 

「ザリュース……」

 

 返事はない。

 

 紙を持つ手が震えている。

 

 私は何度も聞きました。

 

 それをすれば、あなたはもう別の世界で生きられないと。

 

 その子は言いました。

 

 「でも、このトカゲさん、みんなをまもってるから」

 

 「しんだら、みんな、かなしいよ」

 

 と。

 

 そして、あなたに力が与えられました。

 

「…………」

 

 ザリュースは目を閉じた。

 

 思い出す。

 

 あの時。

 

 聞こえたような気がした。

 

 幼い声。

 

 ――がんばって。

 

 幻聴だと思っていた。

 

 だが、違った。

 

「俺は……」

 

 声が掠れる。

 

「子供に助けられたのか……?」

 

 紙はまだ続いていた。

 

 最後だけ、文字の形が少し違う。

 

 幼い。

 

 不器用な文字。

 

 トカゲのおじちゃんへ。

 

 ぼく、おじちゃんのなまえ、しらないです。

 

 でも、みんなをまもってたから、がんばってって、おもいました。

 

 みんなと、いっしょにいてね。

 

 もう、しんじゃだめだよ。

 

「…………」

 

 一滴。

 

 紙が濡れた。

 

 ザリュースは驚いた。

 

 自分が泣いている。

 

「……そうか」

 

 顔を上げる。

 

 湖を見る。

 

「そうだったのか」

 

 クルシュは何も言わず、そっと隣に座った。

 

 ザリュースは紙を胸に当てる。

 

「……聞こえるか」

 

 誰に言うでもなく、空へ向かって。

 

「俺は生きている」

 

 後ろでは、集落の子供たちが走り回っている。

 

 笑い声が響く。

 

 仲間たちも生きている。

 

「みんなも、ここにいる」

 

 ザリュースは目を閉じた。

 

「お前が、守ってくれた」

 

 そして。

 

「ありがとう」

 

 風が吹く。

 

 水面が揺れる。

 

 返事はない。

 

 それでもザリュースは、もう一度言った。

 

「ありがとう」

 

     ◇ ◇ ◇

 

 次の紙は、聖王国へ届いた。

 

 そこにはまだ戦いの傷跡が残っていた。

 

 壊れた街。

 

 焼けた家。

 

 それでも、人々は動いている。

 

 瓦礫を片付け。

 

 負傷者を治療し。

 

 子供たちが走り回り。

 

 少しずつ、生活を取り戻そうとしていた。

 

 王宮。

 

 カルカ・ベサーレスは机に向かっていた。

 

 地図。

 

 資料。

 

 報告書。

 

 その山。

 

 眠れていない日が続いている。

 

「陛下」

 

 側近が心配そうに声をかける。

 

「少しお休みください」

 

「大丈夫です」

 

 カルカは微笑んだ。

 

 だが、疲れは隠しきれていない。

 

「今は、やることがたくさんありますから」

 

 ナザリック。

 

 アインズ。

 

 ヤルダバオト。

 

 調査を進めなければならない。

 

 そして国の再建。

 

 人々を守ること。

 

 全部、やらなくてはならない。

 

「…………」

 

 その時。

 

 机の上に小さな光が生まれた。

 

「……?」

 

 一枚の白い紙が現れる。

 

 誰も触れていない。

 

 魔法。

 

 側近が警戒して前へ出る。

 

「陛下!」

 

「待って」

 

 カルカが止めた。

 

 不思議だった。

 

 危険な感じはしない。

 

 むしろ、どこか懐かしいような。

 

 そんな感覚。

 

 カルカは紙を手に取る。

 

 そこには、自分の名前が書かれていた。

 

 ――カルカ・ベサーレスへ。

 

「…………」

 

 読み始める。

 

 そして、少しずつ表情が変わっていく。

 

 あなたが生きている理由をお伝えします。

 

 あなたがあの日、悪魔に抵抗できた理由。

 

 その力を与えた者がいます。

 

 カルカが目を細める。

 

 その子は、五歳の女の子でした。

 

 あなたとは何の関係もありません。

 

 あなたの国を知りません。

 

 あなたが聖王女であることも知りません。

 

 ただ、映像の中で悪魔に捕らえられたあなたを見ました。

 

 そして私に聞きました。

 

 「このお姉ちゃん、いたいことされるの?」

 

 私は答えました。

 

 「はい」

 

 女の子は泣きました。

 

 そして言いました。

 

 「かわいそう」

 

 「たすけてあげて」

 

 と。

 

 カルカの指が止まる。

 

 声が出ない。

 

 その子には、新しい人生が与えられるはずでした。

 

 その権利を使えば、あなたを救えると説明しました。

 

 何度も、本当にいいのかと聞きました。

 

 女の子は答えました。

 

 「うん」

 

 「このお姉ちゃん、いっぱいのひと、まもってるんでしょ?」

 

 「だったら、しんじゃだめ」

 

 と。

 

「…………」

 

 カルカの唇が震える。

 

 守る。

 

 自分が国民を。

 

 ずっと、そう思っていた。

 

 でも。

 

 自分も誰かに守られた。

 

 知らない。

 

 五歳の女の子に。

 

 紙の最後。

 

 じょおうさまへ。

 

 わたし、おひめさま、すきです。

 

 じょおうさまも、おひめさまみたいで、きれいでした。

 

 わるいひとに、まけないでね。

 

 いっぱいのひと、まもってね。

 

 でも。

 

 じょおうさまも、ちゃんと、げんきでいてね。

 

「…………っ」

 

 最後の一文に、カルカは耐えられなかった。

 

 紙を胸に抱く。

 

 涙が落ちる。

 

「陛下……?」

 

 側近が戸惑う。

 

 カルカは何も答えない。

 

 長い間、ただ泣いた。

 

 やがて。

 

「……はい」

 

 小さく呟く。

 

 誰もいない場所へ向かって。

 

「約束します」

 

 紙を握る。

 

「この国を、守ります」

 

 そこで一度止まる。

 

 もう一度、最後の一文を見る。

 

 ――じょおうさまも、ちゃんと、げんきでいてね。

 

 カルカは泣きながら笑った。

 

「……私も」

 

 そして。

 

「ちゃんと、生きます」

 

 空を見上げる。

 

「ありがとう」

 

 静かに言った。

 

「あなたが、私に明日をくれたから」

 

     ◇ ◇ ◇

 

 次。

 

 王国の訓練場。

 

 剣の音が響く。

 

 ガゼフ・ストロノーフは一人、剣を振っていた。

 

 あの日から、何度同じことを考えたか分からない。

 

 アインズは時間を止めたはずだった。

 

 それなのに自分は動けた。

 

 そして勝った。

 

 あり得ない。

 

「…………」

 

 ガゼフが剣を止める。

 

「まったく」

 

 自嘲するように笑った。

 

「夢だったと言われた方が、まだ納得できるな」

 

 その時。

 

 足元に一枚の白い紙が落ちた。

 

「…………」

 

 拾う。

 

 読む。

 

 最初は冗談かと思った。

 

 次第に顔が険しくなる。

 

 その次には理解できなくなった。

 

 そして最後には、何も言えなくなった。

 

 あなたを助けた子は五歳でした。

 

 あなたが勝てないと知りながら、国のため、人のために剣を取る姿を見ていました。

 

 その子は私に聞きました。

 

 「このおじちゃん、まけちゃうの?」

 

 私は「はい」と答えました。

 

 するとその子は、しばらく考えてこう言いました。

 

 「じゃあ、ぼくのつよいやつ、このおじちゃんにあげる」

 

 と。

 

 ガゼフは紙を下げ、遠くを見る。

 

 五歳。

 

 自分に孫がいてもおかしくない年齢。

 

 そんな子供が。

 

 自分を救うために。

 

「……何という」

 

 声が震える。

 

「無茶を」

 

 それでも、続きを読む。

 

 つよいおじちゃんへ。

 

 ぼくも、おおきくなったら、つよくなりたいです。

 

 でも、せんせいが。

 

 つよいひとは、ひとをいじめないって、いってました。

 

 おじちゃん、つよそうだから。

 

 みんなを、まもってね。

 

 まけないでね。

 

「…………」

 

 ガゼフは長く黙った。

 

 やがて、ふっと笑う。

 

「これは参ったな」

 

 目が潤む。

 

 腕で目元を拭った。

 

「こんな老兵に、随分と大きな期待を背負わせてくれる」

 

 紙を丁寧に折り、胸元へしまう。

 

 そして剣を握り直した。

 

「だが」

 

 空を見る。

 

「任された以上は」

 

 もう一度構える。

 

「応えねばな」

 

 一振り。

 

 鋭く風を切る。

 

「ありがとう」

 

 そして、静かに。

 

「名も知らぬ、小さな戦友よ」

 

     ◇ ◇ ◇

 

 そして。

 

 別の世界。

 

 別の場所。

 

 また、紙が届く。

 

 本来なら失われていた一人。

 

 また一人。

 

 ある者は泣いた。

 

 ある者は怒った。

 

「なぜ自分なんかのために」

 

 そう言った者もいた。

 

 ある者は長い間、紙を見つめていた。

 

 ある者は誰にも見せず、大切にしまった。

 

 ある者は家族へ話した。

 

「自分は、知らない子に救われたのだ」

 

 と。

 

 そして最後。

 

 みんな同じ言葉を口にした。

 

 ――ありがとう。

 

 世界は違う。

 

 互いを知らない。

 

 同じ時ですらない。

 

 それでも。

 

 言葉は同じだった。

 

 ありがとう。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 そして、最初の世界。

 

 夜。

 

 町。

 

 小さな家。

 

 そこへアルシェが帰ってきた。

 

「お姉ちゃん!」

 

「お姉ちゃん!」

 

 二人の小さな女の子が駆けてくる。

 

 クーデリカ。

 

 ウレイリカ。

 

 そしてアルシェへ飛びついた。

 

「ただいま」

 

 アルシェは二人を抱きしめる。

 

 強く。

 

 でも、今の自分は力が強すぎる。

 

 だから壊してしまわないように、そっと。

 

 それでも、離さない。

 

「おそい!」

 

「どこいってたの!」

 

「ごめん」

 

「もう!」

 

「かえってこないかとおもった!」

 

「……ごめんね」

 

 アルシェが泣く。

 

 妹たちも泣く。

 

 三人はしばらく抱き合ったままだった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 夜。

 

 妹たちは眠っている。

 

 アルシェは寝台の隣へ座り、二人の寝顔を見ていた。

 

「…………」

 

 胸元から一枚の紙を取り出す。

 

 もう何度読んだか分からない。

 

 端は少し傷んでいる。

 

 それでも大切に。

 

 本当に大切に持っている。

 

 最後の幼い文字。

 

 ――おうちに、かえってね。

 

「…………」

 

 アルシェは微笑む。

 

 一滴、涙が落ちた。

 

 その時。

 

 クーデリカが薄く目を開く。

 

「……おねえちゃん?」

 

「起こしちゃった?」

 

「それ」

 

 紙を指差す。

 

「なあに?」

 

 アルシェは少し迷った。

 

 そして、笑う。

 

「お手紙」

 

「だれから?」

 

「…………」

 

 アルシェは紙を見る。

 

「私を、お家に帰してくれた子から」

 

 クーデリカは眠そうな顔で首を傾げた。

 

「おともだち?」

 

「……ううん。会ったことないの」

 

「…………?」

 

 分からない。

 

 当然だった。

 

 アルシェは妹の頭を撫でる。

 

「でも」

 

 少しだけ笑う。

 

「私にとって、すごく大切な子」

 

「そっかぁ……」

 

 クーデリカは再び目を閉じた。

 

 少しして、寝息が戻る。

 

 アルシェは紙を両手で持ち、もう一度最後の言葉を読む。

 

「……帰ってきたよ」

 

 小さく言う。

 

「ちゃんと帰ってきた」

 

 眠る妹たちを見る。

 

「二人とも、ここにいる」

 

 静かな部屋。

 

「ありがとう」

 

 声が震える。

 

「本当に、ありがとう」

 

 そして少し笑った。

 

「だから」

 

 紙を胸へ抱く。

 

「あなたも、お母さんに会えてたらいいな」

 

 一度、目を閉じる。

 

「いつか」

 

 もし。

 

「もし会えるなら」

 

 声がまた震えた。

 

「その時は、私からちゃんと『ありがとう』って言わせてね」

 

     ◇ ◇ ◇

 

 天界。

 

 白い空間。

 

 女神は一人で立っていた。

 

 その周囲には無数の映像。

 

 そして、一つの声が届く。

 

 ――ありがとう。

 

 また一つ。

 

 ――ありがとう。

 

 さらに一つ。

 

 ――ありがとう。

 

 ザリュース。

 

 カルカ。

 

 ガゼフ。

 

 アルシェ。

 

 他にもたくさん。

 

 園児たちが救った人々。

 

 全員が、誰もいない空へ向かって言う。

 

 ありがとう。

 

「…………」

 

 女神は聞いていた。

 

 目を閉じる。

 

 思い出す。

 

 最初の女の子。

 

 光となって消える直前。

 

 笑って言った。

 

 ――女神さま、ありがとう。

 

 次の男の子。

 

 ――ありがとう!

 

 次の女の子。

 

 ――女神さま、たすけてくれて、ありがとう。

 

 みんな言った。

 

「…………」

 

 女神は胸へ手を当てる。

 

 不思議だった。

 

 園児たちは自分に感謝した。

 

 そして、救われた人たちは園児たちに感謝している。

 

 誰も、その言葉が相手へ届くとは思っていない。

 

 それでも言う。

 

「ありがとう」

 

 という言葉。

 

 誰か一人のものではない。

 

 優しさが渡る。

 

 誰かが受け取る。

 

 その人が、また誰かを思う。

 

 そして、そこからまた何かが生まれる。

 

「…………」

 

 女神はゆっくりと目を開いた。

 

「先生」

 

 もういない人へ話しかける。

 

「少しだけ、分かった気がします」

 

 人間を全て理解したわけではない。

 

 きっと永遠に、全部は分からない。

 

 でも。

 

 分からないから、見たい。

 

 知りたい。

 

 話したい。

 

 それでいい。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 その時。

 

 新しい光。

 

 一つの魂が現れた。

 

 園児ではない。

 

 大人の男。

 

 辺りを見回し、混乱している。

 

 女神はいつものように近づく。

 

 本来なら、こう言うはずだった。

 

 あなたは亡くなりました。

 

 これから転生について説明します。

 

 でも。

 

 その前で、女神は止まった。

 

 男を見る。

 

 この人は、何をしてきたのだろう。

 

 誰を好きだった?

 

 何が嫌いだった?

 

 何に笑った?

 

 何を後悔した?

 

 何を大切にしていた?

 

 今までなら必要のない情報だった。

 

 でも、今は知りたい。

 

 女神は少しだけ微笑む。

 

 男が戸惑う。

 

「……あの、ここは?」

 

「説明します」

 

 女神は答える。

 

「でも、その前に」

 

 少し間を置く。

 

「あなたは、どんな人だったのですか?」

 

「…………え?」

 

 男が驚く。

 

 女神は、自分でも少し可笑しくなった。

 

 初めて、こんなことを聞いた。

 

 でも悪くない。

 

「よければ、教えてください」

 

 微笑む。

 

「あなたのことを」

 

 白い空間は静かだった。

 

 男は少し戸惑いながらも、やがて話し始めた。

 

 女神は聞く。

 

 途中で遮らない。

 

 少しずつ知っていく。

 

 一人の人間を。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 その頃。

 

 遠い、遠い元の世界。

 

 事故が起きた場所。

 

 道路脇には花が置かれていた。

 

 小さな花束がいくつも。

 

 ぬいぐるみ。

 

 お菓子。

 

 飲み物。

 

 そして、黄色い帽子。

 

 風が吹く。

 

 帽子の紐が少しだけ揺れる。

 

 誰かがそこへ新しい花を置いた。

 

 手を合わせる。

 

 そして静かに立ち去っていった。

 

 事故で亡くなった園児たち。

 

 そして先生。

 

 ニュースにもなった。

 

 人々は悲しんだ。

 

 家族は泣いた。

 

 友達も泣いた。

 

 そして、時間は流れていく。

 

 でも。

 

 誰も知らない。

 

 あの日、バスに乗っていた小さな子供たちが。

 

 遠い別の世界で何をしたのか。

 

 誰を救ったのか。

 

 どれだけ大きく運命を変えたのか。

 

 誰も知らない。

 

 それでよかった。

 

 子供たちは、褒められたくてしたわけではない。

 

 英雄になりたかったわけでもない。

 

 正義を語ったわけでもない。

 

 ただ。

 

 映像の向こうで誰かが泣いていた。

 

 誰かが困っていた。

 

 誰かが家へ帰れなかった。

 

 だから助けた。

 

 それだけだった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 ある世界では、アルシェが妹たちと笑っている。

 

 ある世界では、ザリュースが仲間たちと湖を見ている。

 

 ある世界では、カルカが民の前に立っている。

 

 ある世界では、ガゼフが剣を握り、誰かを守っている。

 

 そして、他にもいくつもの世界。

 

 園児たちが渡した「明日」が、今も続いている。

 

 その人たちは生きる。

 

 泣く。

 

 笑う。

 

 失敗する。

 

 誰かを好きになる。

 

 誰かと喧嘩する。

 

 守る。

 

 守られる。

 

 そして、きっといつか。

 

 自分たちも、知らない誰かへ何かを渡していく。

 

 優しさなのか。

 

 言葉なのか。

 

 差し伸べた手なのか。

 

 それは分からない。

 

 でも、一つだけ確かなことがある。

 

 誰にも知られることなく。

 

 あの日、遠足へ行くはずだった子供たちは。

 

 いくつもの世界で。

 

 確かに、誰かの明日を救っていた。

 

 そして、その明日は今も続いている。

 

 ――ありがとう。

 

 その言葉と、一緒に。

 




ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
本編はこれにて完結です。
あと一話だけ、おまけがあります。
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