新エリー都の昼下がりは、ホロウの不穏な影を忘れさせるほどの、偽りの平穏に満ちている。
六分街の通りには、愛らしいボンプたちが忙しなく走り回り、一般の市民たちが他愛のない会話を交わしながら行き交っていた。だが、その平和な雑踏の影で、冷徹な情報戦が音もなく繰り広げられていることを、知る者はごく僅かしかいない。
半人半狼の執事、フォン・ライカンは、仕立ての良い衣服に身を包み、いつも通りの穏やかな足取りで六分街のメインストリートを歩いていた。その視線は、一見するとただの優雅な散歩のようでありながら、黒手袋に包まれた手の内側では、新エリー都市長から直接下された、極秘の調査ファイルを固く握り締めていた。
――各地のホロウ最深部で見つかる、既存のエーテル技術を完全に無視した、未知の黄金の財宝。
―― そして、その財宝の付近に防護服もつけずに必ず現れるという、まばゆい金髪の青年。
新エリー都の最高権力者である市長が、特務班を動かしても尻尾すら掴めなかったその不確定要素が、なんとこの六分街に一般の観光客として紛れ込んでいるという目撃情報が入ったのだ。
ライカンは、ヴィクトリア家政のプロフェッショナルとして、単独での極秘追跡任務を買って出た。
(……おや、見つけました。確かに、あれほど周囲から浮き上がっている存在であれば、見失う方が難しいですね)
ライカンは片方の耳をピクリと動かし、人混みの向こうへと視線を固定した。
そこにいたのは、燃えるようなまばゆい金髪を揺らした、端正な顔立ちの青年だった。ストリート系の超高級ブランドを完璧に着崩し、ポケットに手を突っ込んで歩くその姿は、一見するとただの傲慢な富豪の若者にしか見えない。
ギルガメッシュ。
市長が血眼になって警戒している謎の青年。その男は今、六分街のゲームセンター『ゴッドフィンガー』の前で足を止め、退屈そうにゲームの筐体を眺めていた。
ライカンは通行人のフリをしながら、一定の距離を保って彼の動向を注意深く観察し始めた。
だが、その後のギルガメッシュの行動は、ライカンの予想を大きく裏切る、ひどくコミカルなものだった。
ゲームセンターに入った青年は、ディニーのコインを無造作に投入すると、格闘ゲームのボタンを気怠げに、しかし凄まじい精度で叩き始めた。画面の向こうの対戦相手を瞬時に完璧なコンボでボコボコに叩きのめすと、「ふん、他愛もない」と吐き捨てて景品のメダルすら残したまま立ち去る。
続いて彼が向かったのは、ニューススタンドだった。店先に並ぶゴシップ雑誌には目もくれず、青年は店頭に置かれた『スクラッチカード』の束を気怠げに指差した。ディニーのコインを投げて適当に一枚引き抜くと、懐から取り出した見慣れぬ
ニューススタンドの店主が呆気に取られる中、削り終えたカードを一瞥したギルガメッシュは「ふん、他愛もない」と鼻で笑い、最高額の当選証明が出たそのカードを、カウンターの上にゴミのように放り捨ててそのまま歩き出してしまった。残された店主が絶叫する声を背に、青年はただ退屈そうに金髪を揺らす。
さらに、喉が渇いたのか路面店の喫茶店に立ち寄ると、メニューも見ずに「最もマシな茶を出せ」と店員に理不尽な注文をつけ、出された安価なアイスコーヒーを一口飲んで「下俗な泥水だな」と盛大に顔をしかめてみせた。
極めつけは、六分街の名物である麺屋だった。カウンターに堂々と腰掛けた青年は、差し出された熱々のラーメンを物珍しそうに箸で弄り、スープを一口すすると「ほう、安物の割には、ほんの僅かばかり素材の調和が取れているな」と、何様だと言わんばかりの超上から目線の評価を下し、スープまで綺麗に完食していった。
ただの、あまりにも唯我独尊で、あまりにもエゴイスティックな、新エリー都を珍しそうに巡る「ただの傲慢な観光客」。ライカンから見れば、その一連の挙動はあまりにも規律がなく、どこか滑稽でさえあった。
(……ふむ。これが本当に、各地のホロウで恐るべき構造のお宝を出現させ、大企業や治安局の上層部を震撼させているという、あの噂の人物なのでしょうか……?)
ライカンの理知的な脳裏に、微かな疑問がよぎる。
確かに彼が纏っている空気は常人とは明らかに一線を画している。だが、そこにあるのは強暴なエーテルの波長でも、新エリー都の既存の勢力が持つような殺気でもない。ただの、世界を退屈そうに見物している青年の姿だ。
(もしや、市長の懸念はただの杞憂……。あるいは、裏社会の噂が尾ひれをつけて膨らんだだけでは――)
ライカンがそう思考を進め、彼の歩幅に合わせて細い路地へと足を踏み入れた、まさにその瞬間だった。
周囲の空気が、一瞬にして凍りついた。
ライカンは本能的な戦慄と共に、ハッと周囲を見回した。いつの間にか、賑やかだった六分街の雑踏の音は完全に途絶えていた。崩落した古いコンクリートの壁に囲まれた、日光すら届かない、完全に人気のない無人のエリア。
尾ひれを追っていたつもりが、気がついた時には、完全に彼自身の自覚がないまま、この閉ざされた空間へと誘導されていたのだ。
前方を歩いていたギルガメッシュが、ピタリと足を止める。彼は振り返りすらしない。
その刹那、ライカンの全身の体毛が逆立った。彼の半獣としての鋭い戦闘本能が、最大級の赤色警報を脳内で鳴り響かせる。
ギルガメッシュが、ほんの微かに指先を動かした。
――ドゴォォォン!!
事前の予備動作も、エーテル気流の乱れも、一切の軌跡すら存在しない。
目にも留まらぬ、完全に不可視の神速の一撃が空を切り裂き、ライカンのつま先の僅か数ミリ先の地面を爆砕した。
立ち込める凄まじい硝煙と衝撃波。ライカンはシリオンとして優れた身体能力を極限まで爆発させ、寸前で後方へと跳躍して直撃を回避した。しかし、黒手袋の表面が熱風でジリジリと灼かれ、彼の冷徹な双眸は、目の前の信じられない光景に完全に硬直していた。
◇
立ち込める凄まじい硝煙の向こうで、金髪の青年――ギルガメッシュはゆっくりと身を翻した。 その顔に浮かんでいるのは、怒りでも苛立ちでもない。己の影を踏んだ羽虫の羽ばたきを眺めるような、どこまでも底冷えのする冷酷な薄笑いだった。赤い瞳が、ライカンの鋭い牙や半獣の肉体を、冷徹に値踏みするように捉える。
ライカンは右足の強化装甲の火花を収めると、戦闘態勢を維持しつつも、スッと背筋を伸ばして完璧な執事の一礼をして見せた。この絶望的な実力差の前にあってなお、ヴィクトリア家政としての礼節を崩さないことこそが、彼のプライドだった。
「――これは大変失礼いたしました。貴方のような高貴なお方の後ろを、許可なくコソコソと這い回った私の非礼、深くお詫び申し上げます。……戦闘の意図はございません。ただ、我が主、ひいては新エリー都の長より、貴方に一つ、ささやかなご提案と――」
「不愉快だな。雑種」
ライカンがスマートに交渉の言葉を紡ぎかけた、まさにその瞬間だった。
ギルガメッシュは、ライカンの洗練された言葉を、まるで路傍のハエの羽音でも払うかのように強引にへし折った。彼の赤い双眸に宿ったのは、対等な会話を求める者への、絶対的な拒絶と傲慢の光だった。
「誰が我が前で口を開いてよいと言った? 貴様ら地を這う虫ケラの提案など、我が耳を汚す価値もないわ。人の服を着せられ、人の言葉を仕込まれたとて、獣の分際で我と対等に言葉を交わそうなどと……大言が過ぎるぞ」
「……これは手厳しい」
ライカンの額を、冷たい汗が伝う。 ギルガメッシュはポケットから片手を引き抜くと、気怠げにその指先を空中に向けた。
「だが、良い。我は寛大だ。泥の中で必死に生きる野獣が、どれほどの足掻きを見せるか……。ほんの僅かばかり、我が暇潰しのための『試練』を与えてやろう。貴様が我が気まぐれにどこまで耐えられるか、その身を以て証明してみせよ。我が退屈を凌ぎきったならば、その時に限り、雑種の一言くらいは聞いてやらんでもない」
「――! なるほど、こちらの選択権は最初から無い、ということですか!」
ライカンが叫んだ刹那、ギルガメッシュの背後の空間が、陽炎のように不自然に歪んだ。
虚空に次々と浮かび上がるのは、まばゆい黄金の光を放つ無数の波紋。その静謐な渦の奥底から、現代のエーテル工学はおろか、新エリー都のいかなる最新技術をも超越した、神々しいまでに美しい超古代の財宝が姿を現した。あるものは冷徹な冷気を放つ銀の長剣、あるものは装飾の施された巨大な斧、あるものは魔力を帯びた黄金の槍――それらの至高の宝具の刃先が、一斉にライカンへと向けられる。
事前の予備動作も、エーテル気流の乱れも、一切の兆候すらない。
次の瞬間、黄金の渦から解き放たれた財宝の雨が、目にも留まらぬ神速の弾丸となってライカンへと容赦なく射出された。
ドンッ!
ズドォォン!!
ライカンはシリオンの高い身体能力を極限まで爆発させ、崩落した路地裏の壁を蹴って激しく跳躍した。神話の刃が突き刺さるたびに、彼がそれまでいた地面が、未知の凄まじい質量爆発によって一瞬でクレーターのように抉り取られる。
技の性質も、エネルギーの波長も、既存のどの戦闘理論にも該当しない、圧倒的な富の暴力。
ギルガメッシュは一歩も動かない。ただ、指先を気怠げに動かすだけで、空間の波紋から無尽蔵に湧き出る美しき財宝の嵐が、ライカンの逃げ場を完全に塞ぐようにして降り注ぐ。
「くっ……おおおおおっ!」
ライカンは空中で体を捻り、右足の強化装甲を最大出力で駆動させた。キィィィンと高音のエネルギー音が響き、迫り来る黄金の槍の軌道に対し、鋼鉄をも容易く切り裂く脚撃を叩き込んでどうにか相殺する。
しかし、一撃を相殺するたびに、ライカンの右脚のギアが悲鳴のような金属音をあげ、黒手袋の表面が熱風でジリジリと灼かれていく。戦っているのではない。これは文字通り、神が羽虫を気まぐれに潰しようとしているかのような、一方的な試練という名の蹂躙だった。
どれほどの時間が経ったか。ライカンにとっては、永遠にも思える死線の中。
最後の巨大な斧の投擲を、右脚の全力の回し蹴りでどうにか側壁へと受け流したライカンは、ボロボロになった路地裏の床に、激しく息を切らせて着地した。
彼の仕立ての良い衣服は熱風で擦り切れ、強化装甲からはプスンと黒い煙が上がっている。これほどの一方的な破壊、そして既存のどのエネルギー体系とも異なる未知の力。ライカンは今、己の肉体をもって、目の前の存在が新エリー都に存在するあらゆる能力者とも異なる次元の「怪物」であることを、骨の髄まで理解していた。
正面に立つギルガメッシュは、相変わらず衣服のチリ一つ汚れていない。彼は、空間の波紋を消し去ると、限界まで足掻き、かろうじて立っている半人半狼の執事を冷徹に見下ろし、不敵な薄笑いを浮かべた。
「――フッ、身の程を知らぬ野獣かと思ったが、牙の鋭さだけは僅かばかり見所があったな。貴様の主とやらに伝えるがよい。これ以上我が歩みを阻むならば、次はその蟻塚の都ごと、我が財の錆にしてくれるとな」
その一言には、圧倒的な破壊の嵐の終わりを告げる、絶対的な王の宣告が込められていた。ライカンは溢れ出そうとする獣の本能的な恐怖を必死に抑え込み、震える足でどうにかその場に直立するしかなかった。
◇
黄金の波紋が虚空へと溶けるように消え去り、路地裏を包んでいたおぞましい重圧が霧散していく。
ギルガメッシュは、限界まで足掻き、ボロボロになりながらも執事としての直立を維持しているフォン・ライカンを、退屈そうに一瞥した。彼にとって、この半人半狼の執事をねじ伏せることなど、羽虫を払うほどの労力すら要さない。もちろん、試練を耐えたからといって、己の宝物庫の財を雑種に分け与えるような真似など、王のプライドが許さなかった。お宝も、コインも、何一つそこには残されない。
青年は再びポケットに片手を突っ込むと、踵を返し、何事もなかったかのように薄暗い路地裏の出口へと歩き始めた。その足取りは、先ほど六分街のゲームセンターや麺屋を巡っていた時と何ら変わらない、気怠げな観光客のそれだった。
だが、数歩進んだところで、ギルガメッシュは足を止め、振り返ることもなく冷酷な声を響かせた。
「我が前でなおその薄汚い礼節を崩さぬか。……フッ、どこまでも飼い慣らされた獣め。精々その歪んだ檻の中で、我が暇潰しのための喜劇を演じ続けるがよい」
それだけ言い残すと、ギルガメッシュは身を翻し、ネオンの光が渦巻く六分街の雑踏の中へと、霧のように静かに消えていった。
残されたライカンは、激しい脱力感と共に、プスンと黒い煙をあげる右脚の強化装甲を庇うようにして、深く息を吐き出した。そこにあるのは、新エリー都のいかなる最高権力者が束になって挑もうとも決して届かない次元の超越者がもたらした、最悪の最後通牒だけだった。
「……ふぅ。おもてなしのプロを自負していましたが……文字通り、手も足も出ないとは、このことですね」
ライカンは指ぬきの黒い手袋の感触を確かめ、熱風で微かに焦げた手元の毛並みを見つめた後、ボロボロになった衣服を軽く整えて重い足取りでその場を後にした。
数十分後、ライカンはヴィクトリア家政が管理するクラシカルな喫茶店へと、どうにか帰還していた。
チリン、とドアベルが鳴り、店に入ってきたライカンの姿を見た瞬間、ソファーでスマートフォンの画面を眺めていたエレン・ジョーは、パチパチとサメの尻尾を不快そうに床に叩きつけた。彼女はいつもの眠たげな目を僅かに見開き、くわえていたキャンディの棒を指で弄る。
「……は? 何それ。全然ウケないんだけど」
エレンはスマートフォンをポケットに押し込むと、カウンターの奥へ入っていくライカンの元へと歩み寄った。衣服は熱風で擦り切れ、脚のギアからは今も黒い煙が上がっている。その全身から漂う、新エリー都のいかなるエーテル兵器とも異なる未知の硝煙の臭いに、エレンは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「ボス、その格好。あの金ピカを追って、ホロウの最深部にでも突っ込んだわけ? シフト上がりのアタシに、これ以上めんどくさい仕事残さないでほしいんだけど」
「いいえ、エレン。ホロウではありませんよ。……この六分街の路地裏です」
ライカンは痛む身体を少しも表に出さず、いつもの完璧な所作でカウンターの奥へと入り、新しい黒い手袋へと付け替えるために指先を動かした。その双眸に、普段の温和な執事のものとは異なる、冷徹な光を宿す。
「完全にこちらの完敗です。戦うどころか、対話のテーブルにつくことすら許されませんでした。……空間を割って、見たこともない数々の美しい財宝を、目にも留まらぬ神速で降らせてくる。我々ヴィクトリア家政の戦力を以てしても、あの男の歩みを阻むことは不可能です」
「……」
エレンは黙ってライカンの言葉を聞いていた。
冷徹な戦闘のプロであるライカンが、ホロウの外で、それも一方的にここまでボロボロにされるなど、普通のレイダー相手ならあり得ない。エレンの野生の本能が、その「金髪の青年」というイレギュラーの存在に、底知れない世界の危うさを感じていた。
「じゃあ、あの市長が懸念してたお宝は?そいつ、何か残していかなかったわけ?」
「何も。ただ、市長への冷酷な最後通牒だけです。『これ以上我が財に触れるならば、次はその都ごと、我が財の錆にしてくれる』……とね。お宝や報酬などという甘い誘惑は、最初からあのお方には存在しません。我々はただ、あのお方の暇潰しの盤面で、一方的に転がされただけに過ぎないのです」
「めんどくさ……。何そいつ。市長直々の依頼だからって真面目に追ったのに、そんな天災みたいな怪物まで街をうろついてるとか、本当に最悪なんだけど」
エレンはフンと息を吐き、カウンターの壁に背中を預けた。いつもは「バイト代の分しか働かない」と公言している彼女だったが、今回ばかりは新エリー都の安全のために動いていた市長の懸念が、とんでもない虎の尾を踏んでしまったことを察していた。
「ボス、これ、市長にはどう報告するのよ。あの人、これを聞いたらもっと街の防衛体制をガチガチにしろとか言い出すんじゃない?」
「いいえ。市長は誰よりも理知的で、この都の安全を最優先に考えるお方です。……私のこの姿と、私が持ち帰る『神話の如き格差』の報告を聞けば、これ以上の調査が新エリー都そのものを滅ぼしかねないと、必ずやご理解してくださるはずです。私はこれから、今回の顛末をありのまま市長へ報告に赴きます。あの男には二度と手を出すな、と……ヴィクトリア家政としての最大の忠告を添えてね」
ライカンは指ぬきの黒い手袋をしっかりと締め直し、完璧な執事の姿勢へと戻った。 新エリー都の最高指導者からの極秘依頼。しかし、その調査対象であったギルガメッシュという怪物は、最初から新エリー都のルールなど一顧だにしていなかった。彼はただ、この終末の世界を気まぐれに観光し、己の財に群がる人間の浅ましさを、特等席から見物して愉しんでいるだけなのだ。 外界のネオンの光が、喫茶店のガラス窓を妖しく染め上げる。
あの大嵐のような男の気まぐれが、これから新エリー都の支配者層にさらなる混沌と、誰も抗えない絶対的な恐怖をもたらす予兆であることは、誰の目にも明らかだった。