機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイのモブになってしまった 作:Mr.bookman
生ぬるい潮の気配と、嫌に鼻につく硬質な金属の匂いが、麻痺していた意識の奥底を執拗に叩いていた。
(……なんだ、この臭い……)
頭蓋の奥で、重い鉄の塊がゴロゴロと転がっているような激痛がある。眉間にシワを寄せ、重い瞼を持ち上げようとしたが、まるで目蓋に鉛でも仕込まれているかのようにピクリとも動かない。
脳裏に残っている最後の記憶は、自分の部屋の薄暗い天井だった。ディスプレイの明かりだけが点滅する四畳半の部屋で、買い溜めた缶チューハイを煽りながら、動画配信サービスで映画を見ていたはずだ。深夜の静寂と、冷房の風が肌を撫でる感覚。そのまま睡魔に耐えきれず、ベッドに倒れ込んだ——そこまでは鮮明に覚えている。
だが、今自分の身を包んでいる空気は、エアコンの冷風とはまるで違っていた。
ねっとりと皮膚に張り付く湿度。どこかカビ臭く、油と錆が混じり合った独特の匂い。そして、背中を通じて伝わってくるのは、低く、重く、一定の周期で腹響く不気味な振動だった。
「……目を覚ましたか! 今、医者を呼んでくるからな!」
耳元で、かすれ声の叫びが響いた。
バタバタと慌ただしい足音が、薄暗い通路の奥へと遠ざかっていく。金属の床板を踏み鳴らすその音は、俺の知っている一般的な建築物のものじゃない。もっと分厚く、頑丈で、密閉された空間特有の反響音だ。
(誰だ……? 映画の音か……? いや、違う……)
必死に神経を集中させ、ゆっくりと瞼を開く。
視界に飛び込んできたのは、見覚えのない無骨な天井だった。
灰色の塗装がところどころ剥げ落ち、むき出しになった錆びついた配管が、まるで網の目のように縦横無尽に走っている。ところどころからプシューと小さな蒸気が漏れ出ており、その管を辿った先にある壁には、見慣れない工業用バルブやメーター類が無造作に取り付けられていた。
「ここは……どこだ……?」
口を開いた瞬間、己の喉から漏れ出た声に背筋が凍りついた。
漏れ出た声は、あまりにも低く、掠れていた。自分の声ではない。まるで長年酒と煙草で喉を潰した中年男か、過酷な訓練で声帯を傷つけた人間のような、見知らぬ他人の喉鳴らしを聞かされている感覚。
違和感はそれだけにとどまらなかった。
自分の右手を目元まで持ち上げようとして、その「重さ」に息をのむ。
視界に入ってきたのは、見慣れた自分の弱々しい手ではなかった。節々が太く、皮膚は褐色に焼け、手の甲には痛々しい生傷や古い火傷の痕が無数に刻まれた、あまりにも無骨で巨大な「男の手」だった。爪の隙間には黒い機械油がこびりついている。
(なんだこれ……俺の手じゃない……! なんだこの傷は……!?)
「動かないほうがいい。君は二日間も眠っていたんだからね」
足音が戻ってきた。視界の端に、白い診察衣を羽織った小柄な老人が映り込む。好々爺然とした穏やかな目元をしているが、その手つきは手慣れた手つきで俺の瞳孔を覗き込み、手首の脈を素早く測っていた。
「……医者、なのか……? 俺は、どうして……」
「連邦軍の小規模な実験施設で倒れていたんだよ。我々が踏み込んだ時には、君はポッドの脇で泡を吹いて倒れていた。……身体のあちこちに強化剤の投薬痕があってね。筋肉の微細断裂と脳波の異常波形が酷かった。命があっただけでも儲けものさ」
老医者は診察シートのような電子端末にペンを走らせながら、淡々と恐ろしい言葉を並べていく。
「強化剤の使用痕……メンテナンス用のポッド……現場に残されていた状況証拠。それらを総合すると、君は連邦軍が極秘裏に育成していた『実験体』……つまり、強化人間のプロトタイプである可能性が極めて高い。まともな戸籍すら与えられていないだろう」
(……連邦軍? 強化人間? 実験体……?)
頭の中で、バラバラの単語が急速に結びつき、冷たい刃となって脳髄を突き刺した。
連邦。軍。ポッド。強化人間。
そんな単語を日常的に使う世界なんて、地球上に存在するはずがない。
(待て……待て待て待て! ガンダムか!? あのガンダムの世界なのか……!??)
ドクン、と心臓が跳ね上がった。全身からドッと冷や汗が噴き出す。
ついさっきまで、自室で画面越しに見ていたアニメの世界。模倣されたフィクションの世界。そこに、俺は今「生身の人間」として放り込まれたというのか?
(嘘だろ……どの時代だ? ファーストか? Zか? ZZか? ユニコーンか? はたまたVガンダムか!? シリーズさえ特定できれば……立ち回りはいくらでもある! 知識さえあれば、生き残るルートを探せるはずだ……!)
必死に記憶の引き出しを漁り、脳をフル回転させる。もし一年戦争なら、ジオンの降下作戦に巻き込まれない場所に逃げる必要がある。Zならティターンズの暴走から隠れなければならない。Vなら……Vならもう終わりだ、地球圏そのものが狂気で満ちている。
俺が過呼吸気味に息を荒げていると、老医者の傍らに立っていた眼鏡の男——インテリ風の、だがどこか鋭い眼光を持った幹部らしき人物が、心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「……おい、大丈夫か? 顔色が劇的に悪い。具合が悪いのなら、話はまた後にするが……」
「……いえ、大丈夫です。続けてください」
俺は必死に声の震えを抑え、掠れた声で答えた。ここで「混乱している」と見なされて隔離されたら、自分の置かれた状況すら把握できなくなる。
眼鏡の男は少しだけ視線を深めると、胸の前に腕を組み、静かに口を開いた。
「そうか。なら本題に入ろう。自己紹介が遅れたな。我々はマフティー。地球を、真の意味で再生させるために活動を行っている者たちだ」
——マフティー。
その一言が発せられた瞬間、俺の思考は完全に凍りついた。
(『閃光のハサウェイ』かよぉぉぉぉぉおおお!!!!)
絶望の悲鳴が、脳内で響き渡った。
よりにもよって、宇宙世紀の中でも屈指の救いがない時代。宇宙世紀0105年。
地球連邦政府の腐敗は極まり、特権階級だけが地球に居座り、一般民衆を強引に宇宙へ追放する「マンハンター」が横行する最悪の時代。
そして「マフティー・ナビーユ・エリン」。
反地球連邦組織。テロリスト。地球環境の保全と連邦政府の不法法案を阻止するために立ち上がった義勇軍……と言えば聞こえはいいが、その実態は、圧倒的な物量を誇る連邦軍に単機主力のモビルスーツ数機で挑む、極小規模の反乱分子だ。
(終わった……詰んだ……)
思考が急激に冷えていく。
軍の実験体だったという設定なら、戸籍など当然ない。身寄りもない、金もない、この体には不気味な強化剤の爪痕が残っている。今ここで「降りる」と言ってこの船を降りたところで、待ち受けているのはマンハンターに捕獲されるか、野良犬のように路地裏で野垂れ死ぬ未来だけだ。
生き残るためには、このマフティーの船に引き取られるしかない。
(だが……マフティーは破滅する……!)
俺は知っている。映画の結末を。原作の結末を。
彼らはアデレード会議を妨害しようと必死に抗うが、やがて連邦軍の巧妙な補給線遮断によって追い詰められ、継戦能力を完全に失う。
そして、リーダーであるハサウェイ・ノアは捕らえられ、実の父親の手で——あるいは父親の与知らぬところで、見せしめとして処刑されるのだ。組織は跡形もなく瓦解し、歴史の闇に葬り去られる。
俺は今、これから確実に沈むことが決定している「泥船」の甲板に、無理やり乗せられようとしているのだ。
「君は行く当てもないだろう。我々も、連邦の実験体として使い潰されようとしていた君を放ってはおけない。どうだ、身体が動くようになるまで、この船で手伝いでもしないか?」
老医者の温かい言葉。それは救いの手などではなく、死刑台への招待状にしか聞こえなかった。
俺は、乾いた唇を噛み締めながら、ただ静かに頷くことしかできなかった。
あてがわれた狭い個室に入り、重い金属のスライドドアがシャットアウトした途端、張っていた緊張の糸がプツリと切れた。
膝の力が急速に抜け、俺は壁に背中を擦りつけながら、ズルズルと湿った床へへたり込んだ。
冷たい鉄の感触がズボン越しに伝わってくる。手のひらを見つめると、ごつごつとした指先が、不自然なほど細かく、ガチガチと震えていた。
(……死ぬ。このままだと、絶対に死ぬんだ)
喉の奥がカラカラに干からび、引きつった悲鳴のような息しか吐き出せない。
映画のスクリーン越しに見ていた、夜空を切り裂く高出力ビームの閃光。街を焼き尽くす炎。重爆撃の振動。そして、巨大なモビルスーツの鉄足に踏み潰されていく人々の惨叫。
それらが今、フィクションの映像ではなく、「数ヶ月後に自分が体験する現実」として、皮膚の毛穴という毛穴から重く圧しかかってくる。
逃げ道はない。この世界に転移した以上、連邦の追手か、マフティーの破滅かの二択だ。
(……いや、待て)
膝を抱え、暗闇の中で激しく呼吸を整えながら、俺は必死に思考を巡らせた。
(未来を知っている……俺は、この世界の『結末』を知っているんだ)
ならば、生き残る方法は一つしかない。
マフティーが敗北し、ハサウェイが処刑されるという「未来の筋書き」そのものを、俺の手で根本から叩き壊す。
ハサウェイ・ノアという男の運命が狂い始めたきっかけ。
マフティーの作戦が失敗へと向かい、連邦軍の網が狭まっていった最大の原因。
——ギギ・アンダルシア。
——そして、ケネス・スレッグ。
あの二人がハサウェイと出会い、彼の青臭さや迷いを見抜き、連邦軍の追撃態勢を完璧に組み上げたことで、マフティーは詰みへと追いやられたのだ。
本来のストーリー通り、タサダイ・ホテル襲撃作戦まで待っていたら遅すぎる。あのホテルでギギとケネス、ハサウェイが交錯した時点で、運命の歯車は不可逆回転を始める。
二人が本格的にハサウェイと接触し、彼の心を揺さぶり、追撃の陣形を整える前に——あの二人を、この手で排除する。
(殺すんだ……。ダバオの飛行場で……二人を……)
しかし、彼らが乗ってくるハウンゼン367便には、ハサウェイ本人も同乗している。シャトルごと爆破すればハサウェイまで巻き込んでしまい、歴史がどう狂うか分からない。ターゲットはあくまで、真っ昼間にシャトルがダバオ飛行場へ着陸し、タサダイ・ホテルへ移動するためにリムジンへ乗り込む「あの瞬間」だ。
「俺が……俺が歴史を変えてやる……!」
暗闇の個室で、俺は自分の腕を強く噛み締め、激しい恐怖を殺しながら誓った。