機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイのモブになってしまった 作:Mr.bookman
深夜の艦内は、死んだように静まり返っていた。
足元から伝わるエンジンの重低音だけが、この巨大な鉄の塊が太平洋の闇を滑るように進んでいることを伝えている。
湿った金属と冷却油の匂いが充満する細い通路を、俺は息を殺して歩いていた。あてがわれた個室を抜け出し、足が向かったのはメイン格納庫だ。
作業用照明が途切れ途切れに照らす、吹き抜けの巨大な暗闇。
その中央に、その巨躯は静かに佇んでいた。
重装甲モビルスーツ——メッサーF01型。
全高二十メートルを超える黒緑の鉄塊。スクリーン越しではなく、目の前で見上げる本物のMSは、圧倒的な存在感でそこにいた。剥き出しの関節構造、オイルの臭い、重油で汚れた装甲版の目地。そのあまりの巨大さに、視線を吸い寄せられたまま喉の奥がヒッと鳴る。
(……動かせる。身体が、手順を覚えている……)
頭の中にあるシミュレーターの記憶と、この「軍の実験体」としての肉体に刻み込まれた訓練の記憶が、ジグソーパズルのように噛み合っていく。身体のあちこちに走る痛みの原因である強化処理は、俺の意志とは無関係に、この殺人兵器を動かすための「手順」を脳裏に鮮明に浮かび上がらせていた。
ターゲットは、ダバオ飛行場の滑走路。
ハウンゼン367便が着陸し、タサダイ・ホテルへ向かうべくケネス・スレッグとギギ・アンダルシアがリムジンに乗り込む「その一瞬」。
ハサウェイを巻き込まず、二人だけを確実に蒸発させる。そうすれば、ケネスによるキンバレー隊の再編も、ギギの予知めいた直感によるハサウェイの追いつめも存在しなくなる。マフティーは破滅を免れ、俺も死なずに済むのだ。
「俺が……俺が、未来を変えてやる……!」
ハッチの開放コード。シートへの着底。全天周モニターの起動シーケンス。
頭の中で手順を猛烈な勢いで反芻しながら、俺はメッサーの足元に渡されたキャットウォークへ足をかけた。錆びついた手すりを掴み、コクピットハッチへ向かって一歩踏み出し、グリップに手をかけようとした——まさにその時だった。
胸の皮膚の裏側——鎖骨の下あたりに埋め込まれていた「冷たいしこり」が、突然バチッと激しい熱を帯びた。
「ぐっ、あ……ガっ!??!?」
絶叫すら喉に詰まった。
熱いのではない。灼熱の鉄骨を直接心臓に突き刺されたような、猛烈な激痛。視界が強烈な白光に包まれ、網膜の裏側で幾重もの光のバーストが弾ける。
脳の奥底で、カチリ、と硬質なスイッチが切り替わる音が響いた。
(何だ……これ……脳が……割れ……)
意識はそこで、プツリと途切れた。
……次の瞬間、眩いばかりの白昼の陽光が俺の視界を焼き切った。
「はっ……!? ぐ、あああっ!?」
荒い呼吸とともに目を開けると、目の前には熱気で歪む南国の青空と、どこまでも続くアスファルトの滑走路が広がっていた。全天周モニターの滑らかな表示線、手に伝わる操縦桿のゴツゴツとした振動、エンジンのうなり。俺は、メッサーのコクピットの中にいた。
モニターの中央に映し出されているのは、着陸したばかりの大型シャトルの巨躯と、その傍らで黒煙を上げて炎上する一台の高官用リムジンだった。
メッサーの右手に握られたビーム・ライフルの砲門から、揺らめく高熱の炎揺らぎが立ち上っている。俺が放った高出力ビームの一撃が、装甲リムジンを車体ごと一瞬で蒸発させたのだ。
(……やった。やったぞ……!)
ズームしたモニターの隅、赤黒く焼け焦げた鉄の残骸の脇に、二つの動かない影が倒れていた。
一人は仕立てのいい連邦軍服を着た男。もう一人は、白いドレスを身に纏った黄金色の髪の少女。
ケネス・スレッグと、ギギ・アンダルシア。
(殺した……。俺が、歴史を変えたんだ……!)
胸を刺し貫くような凄まじい罪悪感。だが、それを遥かに上回る圧倒的な安堵感が、胃の底から熱く湧き上がってきた。
これでケネスの執拗な追撃はなくなる。ギギがハサウェイの心を乱すこともない。マフティーは崩壊せず、ハサウェイは処刑されない。
そして何より——俺は、死なずに済んだのだ。
「はは……あははははっ! 生き残った……! 俺は勝ったんだ!!」
コクピットの狭いシートの中で、俺は涙と鼻水を垂らしながら、狂喜の声を張り上げた。シートをバシバシと叩き、子供のように叫び散らした。世界を変えた。俺の手で、宇宙世紀の冷酷な筋書きを塗り替えてやったのだ。
「おい……おい! しっかりしろ! 大丈夫か!?」
強い衝撃で肩を烈しく揺すぶられ、俺は弾かれたように目を開けた。
「……え?」
視界に飛び込んできたのは、眩しい南国の陽光でも、炎上するリムジンでもなかった。
うす暗く、カビと重油の臭いが充満する格納庫の通路。目の前には、作業着を着たマフティーの整備兵が、青ざめた顔で俺の顔を覗き込んでいた。
俺は、メッサーの足元の金属床の上に不格好に倒れていた。
冷たい鉄の感触が、頬を通じて伝わってくる。頭上を見上げれば、そこには起動すらしていない、冷え切った漆黒のメッサーF01型が、ただ静かに佇んでいた。
「俺は……飛行場へ……出撃して……」
「飛行場? なに寝ぼけたこと言ってるんだ。タサダイ・ホテル襲撃作戦はもう終わったぞ」
整備兵の呆れたような言葉が、頭痛の残る脳髄に突き刺さる。
「……は? タサダイ……? 襲撃……?」
「ああ。ガウマンたちが市街地でドンパチやってな。ハイジャック犯のテロリストの後にこれだから、街中はいまマンハンターやら連邦軍やらが山ほど押し寄せて厳重警戒体制だ。お前、メッサーの陰で二日も倒れてうなされてたんだぞ。無茶な外出は控えろって医者からも言われてるだろ」
血の気が、音を立てて全身から引いていった。
俺は何もしていない。出撃すらしていなかった。
ハッチを開けることすらできず、格納庫の床で泡を吹いて倒れていただけだったのだ。
「殺したはずだ……俺は昼間の飛行場で、二人を爆殺したはずだ……!」
半狂乱になって胸ポケットから端末を引っこ抜き、画面の隅に表示された日付を見る。
俺が出撃を計画し、メッサーへ向かった日時から——すでにまる二日が経過していた。
あの滑走路の光景は。炎上するリムジンは。二つの動かない死体は。
「やったぞ」と涙を流して歓喜したあの狂喜の記憶は、一体何だったのか。
夢? 幻覚? 脳の機能障害?
俺が格納庫の床で無様に倒れ、汚い吐瀉物を撒き散らしてうなされている間に、時間は——歴史は、何一つ変わることなく、本編通りの残酷な時系列を刻み続けていたのだ。