機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイのモブになってしまった 作:Mr.bookman
自分の吐き捨てた汚物の不快な冷たさが、頬を通じて伝わっていた。
格納庫の隅、積み上げられたコンテナとコンテナの隙間。光すら届かない暗闇の中で、俺は膝を抱えて震えていた。歯がガチガチと音を立て、自分の呼気すらまともにコントロールできない。
(幻覚だった……。俺が見た『暗殺』も、『改変』も、全部……)
脳の奥で繰り返されるのは、あの白い陽光と炎上するリムジンの残骸。そして、それを踏みつけながら歓喜の声を上げていた自分自身の滑稽な姿だ。
俺は何も変えられなかった。歴史の歯車を狂わせるどころか、その足元で泡を吹いて倒れ、汚い吐瀉物を撒き散らしていただけだった。
「ひっ、く……っ、うあ……っ」
喉の奥から這い出る虫のような嗚咽が、暗い資材庫に虚しく響く。
チ・チ・チ・チ
暗闇の中で、胸ポケットの端末が突如として異質な振動を始めた。
マフティー内部の通信アラームではない。電子音が鳴るわけでもない。ただ規則正しく、心拍数と同期するかのように胸元で細かく刻まれる振動。
引きつった指先でポケットから端末を引き抜く。画面にはノイズひとつ映っておらず、漆黒の表示枠の中央に、無機質なシステムテキストだけが明滅していた。
【SYSTEM OVERRIDE / COMPLETED】
[SUBJECT ACTION: DASHBOARD INTERCEPT - CANCELLED]
「な……んだ、これ……」
血の気が引いた。
画面を見つめる俺の視界に、差出人も、企業名も、ロゴすら存在しない、ただ冷徹なログデータだけが淡々とスクロール表示されていく。
[自動介入ログ]
対象者の行動計画を検知。
胸部埋め込みデバイス経由で高負荷視覚介入を実行。
重要対象の保護プロトコル正常終了。
[通知]
本紛争の早期終結、および戦況の急激な変化は許容されない。
君の役割は『内部情報の定期提供』による戦況の平準化である。
言葉が出なかった。
俺が死にもの狂いで決意した暗殺も、未来を変えようとした叫びも、姿も名前も分からぬ「何か」にとっては、ただのシステム上のエラー処理でしかなかったのだ。怒られるわけでも、嘲笑されるわけでもない。ただ、巨大すぎる何かの意思が、機械的に不都合な芽を摘み取ったという事実。
画面のテキストが、鮮血のような赤に切り替わる。
[要求]
次回作戦ログ(補給ルート・暗号化周波数)の送信。
回答猶予:10秒。
未回答の場合、胸部デバイスによる心筋停止プロトコルを起動。
「あ……っ、待て……! 誰なんだ、お前たちは……! 頼むから待ってくれ……!」
質問も、命乞いすら届かない。画面の向こうに「人」がいるのかすら分からない。ただ「情報を差し出すか、今ここで試作品として廃棄されるか」の無機質なカウントダウンだけが画面上で刻まれていく。
9
8
7
「やめろ……! 俺は……俺はただ……!」
3
2
胸の奥底で、冷たい金属がバチッと跳ねた。
「あ……ガぁぁぁぁぁぁぁっ!??!?」
絶叫すら途絶えた。
心臓が、見えない油圧プレス機でそのまま潰されたような激痛。肺から空気が吐き出され、血の混じった唾液が口から溢れ出る。床に倒れ込み、爪が血に染まるまで喉をかきむしった。
画面には冷たく点滅する、ただ一つの入力ボタン。
【ACCEPT】
死の恐怖と激痛の中、俺は思考を奪われたまま、汚れた指先で画面を叩いた。
【TRANSMISSION COMPLETE】
心筋制御解除。作戦データの定時送信を継続せよ。
激痛が嘘のように引き、俺は床に顔を押し付けたまま、涙と吐瀉物に塗れて震えた。
会話すらしてもらえない。自分を人間として扱ってすら書いてくれない。この世界のどこかに存在する、顔も名前も分からない「巨大な影」の足元で、俺はただ首輪をつけられた端末の一部に過ぎなかったのだ。
それから、どれだけの夜を越えたか分からない。
深夜、静まり返った船内で機械的に暗号化キーを叩くたび、自分の指先が泥と血に塗れていくような錯覚に襲われた。
画面の向こうの不気味な黒幕にデータを差し出すたび、この船で笑い合い、俺を気遣ってくれる仲間たちの首にロープが巻きついていく。
「おい、顔色が悪いぞ。怪我上がりなんだから無理するなよ」
通路ですれ違うエメラルダやガウマンが、親身になって俺の肩を叩いてくれる。
その温かい手のひらの感触が伝わるたび、俺の胃の底から酸っぱい胃液が喉元までこみ上げた。俺は引きつった死人のような笑顔を返し、便所へ駆け込んで吐瀉物を吐き捨てる。
自分という人間はもう死んでいた。ただ命を引き延ばすためだけに動作する、正体不明の影の末端データ送信機。
そして、破滅はあまりにも静かに、システム通りに訪れた。
アデレード会議妨害作戦を目前に控えたある日。太平洋の海上に、巨大な黒煙が上がった。
マフティーの生命線であった大型補給船が、連邦軍の完璧すぎる待ち伏せに遭い、跡形もなく撃沈されたのだ。