世界を奪おう。強い船を沈めよう。私達は海賊だから   作:ミヤフジ1945

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第七話 一歳の春とこれから

 

 

春が来た。

 

長かった冬が終わり、牧場を覆っていた雪も、いつの間にかその白い姿を消していた。

 

雪解け水が土へ染み込み。

 

霜で凍っていた地面が、少しずつ柔らかくなっていく。

 

厩舎の周囲にも、まだ小さな青草が顔を出し始めていた。

 

「……今年も春になったな」

 

朝の放牧を終えた厩務員が、厩舎の前で空を見上げる。

 

深く吐いた息は、もう白くない。

 

冬の寒さが遠ざかっていくのを感じる。

 

けれど。

 

その男の視線は、すぐに放牧地へ向けられた。

 

「……あれ?」

 

思わず声が漏れる。

 

放牧地の中を、一頭の若い馬が走っていた。

 

黒鹿毛の馬体。

 

まだ幼さの残る身体。

 

だが、その走りは以前とは明らかに違っていた。

 

地面を蹴る。

 

首を伸ばす。

 

脚を大きく動かす。

 

そして、その少し前を――

 

一頭の鹿毛馬が走っていた。

 

「……キングスか」

 

五歳になったキングスバッカニア。

 

その後ろを、一歳になったバッカニアが必死に追っている。

 

しかし。

 

昔のように、ただ追いかけているだけではない。

 

距離が縮まっている。

 

また縮まる。

 

キングスが少し速度を上げる。

 

バッカニアも速度を上げる。

 

「……速くなったな」

 

厩務員は思わず呟いた。

 

その声を聞いて、隣にいた若い厩務員も放牧地へ目を向ける。

 

「本当ですね」

 

「冬の間、ずっと走ってましたからね」

 

「キングスもよく付き合ったもんですよ」

 

「付き合った……っていうより」

 

厩務員は苦笑する。

 

「自分が走りたかっただけじゃないか?」

 

「ああ、それはありそうですね」

 

二人の視線の先で。

 

キングスが大きく外へ回る。

 

バッカニアも、それを追う。

 

雪解けの終わった地面を、二頭の蹄が叩いていく。

 

その姿を見ていると。

 

ふと、厩務員は思った。

 

最初は、柵越しだった。

 

バッカニアが放牧されるようになってからも、キングスとの間にはずっと柵があった。

 

互いに鼻先を近づける。

 

匂いを嗅ぐ。

 

時々、鼻を鳴らす。

 

それだけだった。

 

それがいつの間にか。

 

柵越しではなくなっていた。

 

いつからだっただろう。

 

気がつけば、二頭は同じ放牧地にいた。

 

最初はキングスとバッカニアだけ。

 

やがて。

 

そこへ他の引退した馬が一頭、また一頭と加わっていった。

 

今では、何頭かの馬が同じ放牧地でのんびりと過ごしている。

 

その中に。

 

バッカニアも、当たり前のように混ざっていた。

 

「……最初は、どうなることかと心配していたんですけどね」

 

若い厩務員が呟く。

 

「何が?」

 

「バッカニアですよ。他の馬と一緒にしたら、怖がるんじゃないかって」

 

「それが今じゃ――」

 

二人は放牧地を見る。

 

走り終えたバッカニアが、別の馬の隣へ並んで歩いている。

 

その馬が草を食べ始めると、バッカニアも隣で草を食べ始めた。

 

しばらくすると、今度は別の馬がバッカニアへ近づいてくる。

 

バッカニアは少しだけ顔を上げ。

 

鼻先を近づける。

 

それだけで、また何事もなかったように草を食べ始める。

 

「……完全にバッカニアは群れの一員ですね」

 

「だな」

 

厩務員は笑った。

 

そして。

 

少しだけ遠くを見る。

 

「ただな」

 

「はい?」

 

「そろそろ、次のことを考えないとな」

 

若い厩務員も、その意味を察した。

 

バッカニアは、もう一年近くこの牧場で過ごしている。

 

まだまだ競走馬としては幼い。

 

だが。

 

競走馬として走るための時間は、少しずつ近づいていた。

 

「……育成牧場、ですか」

 

「ああ」

 

春の風が、二人の間を吹き抜けた。

 

放牧地では。

 

キングスが再び走り出していた。

 

そして。

 

それを見たバッカニアも、すぐに後を追って走り出す。

 

その姿を見ながら。

 

厩務員は小さく息を吐いた。

 

「……早いもんだな」

 

バッカニアが、この牧場を出ていく日まで。

 

もう、そう長くはない。

 

「……それで、候補は見つかったのか?」

 

厩務員が尋ねる。

 

「いくつかありますよ」

 

若い厩務員が手元の資料を開いた。

 

「北海道内でも、育成を専門にしているところを何カ所か。設備もうちのよりずっと整っています」

 

「坂路は?」

 

「あります。屋内の調教施設もあるところです」

 

「なるほどな」

 

厩務員は資料へ目を落とした。

 

バッカニアは、これから競走馬になる。

 

今はまだ放牧地を走り回っているだけだ。

 

けれど。

 

いずれは人を乗せ。

 

決められたコースを走り。

 

他の馬と競い合うことになる。

 

そのためには、ここだけでは足りない。

 

「……秋頃ですかね」

 

「ああ」

 

厩務員が頷く。

 

「遅くとも、そのくらいには移した方がいいでしょう」

 

「そうだな」

 

その時だった。

 

「何の話だ?」

 

背後から声がした。

 

二人が振り返る。

 

「旦那」

 

牧場へやって来た村上が、厩務員たちの話へ加わった。

 

「バッカニアのことか?」

 

「ええ。そろそろ育成牧場へ移す時期を考えた方がいいかと」

 

「……そうか」

 

村上は少し黙った。

 

そして。

 

窓の外を見る。

 

放牧地では、二頭の馬が走っていた。

 

キングス。

 

そして、その後ろを追うバッカニア。

 

「もうそんな時期か」

 

「早いですよね」

 

若い厩務員が苦笑する。

 

「ついこの間まで、あんなに小さかったのに」

 

村上も、しばらく二頭を見つめていた。

 

「キングスと一緒にして正解だったな」

 

「そう思います」

 

「最初はどうなるかと思いましたけどね」

 

「今じゃ、あいつが一番の先生ですから」

 

厩務員が笑う。

 

「先生?」

 

「ええ」

 

放牧地を見る。

 

キングスが速度を落とした。

 

バッカニアも、それに合わせて速度を落とす。

 

キングスが首を少し横へ向ける。

 

バッカニアが近づく。

 

すると。

 

「……ブルル」

 

キングスが鼻を鳴らした。

 

「何か言ってますね」

 

「また始まったな」

 

二人が笑う。

 

キングスはバッカニアの前へ回り込む。

 

そして。

 

少しだけ走る。

 

バッカニアも追う。

 

キングスが速度を上げる。

 

バッカニアも上げる。

 

だが。

 

バッカニアの走りを見たキングスが、すぐに足を止めた。

 

「……?」

 

バッカニアも止まる。

 

キングスが振り返る。

 

「アシ」

 

バッカニアが首を傾げる。

 

「……脚?」

 

「コウシロ」

 

キングスが、自分の前脚を大きく動かして見せる。

 

「モット」

 

バッカニアも真似する。

 

前脚を伸ばす。

 

だが。

 

キングスが首を横に振った。

 

「チガウ」

 

「違う?」

 

「アシダケジャナイ」

 

キングスが身体を揺らす。

 

「カラダ、ゼンブ」

 

「……身体全部?」

 

「ソウダ」

 

キングスが再び走り出す。

 

今度はゆっくり。

 

身体全体を使うように。

 

バッカニアは、その動きをじっと見る。

 

そして。

 

真似する。

 

前脚だけではない。

 

後ろ脚。

 

背中。

 

首。

 

身体全体を使って走る。

 

まだ幼い。

 

まだ上手くはいかない。

 

それでも。

 

「……おいおい」

 

窓から見ていた若い厩務員が笑った。

 

「本当に教えてますよ」

 

「何を教えてるのかは分からんがな」

 

「でも、バッカニアも真似してます」

 

村上も笑った。

 

「……あいつ、本当にキングスのことが好きなんだな」

 

「でしょうね」

 

その言葉を聞いたように。

 

キングスが再び走り出す。

 

バッカニアも追う。

 

春の放牧地を、二頭の馬が駆けていく。

 

その姿を見ながら。

 

村上は静かに口を開いた。

 

「……秋か」

 

「はい」

 

「それまでに、しっかり仕上げてもらおう」

 

「分かりました」

 

村上はそう言って、もう一度放牧地へ目を向けた。

 

二頭の馬が走っている。

 

先を行くのはキングス。

 

その後ろを、バッカニアが追っている。

 

だが。

 

少し前までなら、ただバッカニアが追いかけるだけだった。

 

今は違う。

 

キングスが速度を落とせば、バッカニアも落とす。

 

キングスが外へ膨らめば、バッカニアも同じように外へ膨らむ。

 

まるで。

 

親の背中を見ながら、走り方そのものを覚えているようだった。

 

「……キングスが教えたこと、バッカニアにはどれくらい残るんでしょうね」

 

若い厩務員が呟いた。

 

「さあな」

 

年長の厩務員は苦笑する。

 

「馬のやることだ。俺たちには分からんよ」

 

「ですよね」

 

「ただ――」

 

厩務員は少しだけ目を細めた。

 

「バッカニアがあいつの背中を追ってるのは、もうずっと変わらんな」

 

その言葉に。

 

村上も小さく笑った。

 

「キングスも、あれで満更じゃないんだろう」

 

「むしろ、最近は自分から教えに行ってますよ」

 

「……そうなのか?」

 

「ええ」

 

村上が少し驚いたようにそう返すと、若い厩務員が笑いながらさらに口を開いた。

 

「バッカニアが変な走り方をすると、わざわざ止まって見せるんです」

 

「へぇ」

 

「まるで『タダフムナ』とか言っているみたいで」

 

「……なんだ、それは」

 

「さぁ?俺にも分かりませんよ」

 

二人が笑う。

 

けれど。

 

村上だけは、少し遠くを見るような目をしていた。

 

キングスバッカニア。

 

現役時代、決して大きな結果を残した馬ではなかった。

 

能力がなかったわけではない。

 

逃げることも、先行することもできた。

 

前へ行く力もあった。

 

だが。

 

騎手との折り合いが悪かった。

 

馬が行きたがる。

 

騎手が抑える。

 

また馬が行こうとする。

 

それを抑える。

 

その繰り返し。

 

そして。

 

最後には、結果がついてこなかった。

 

勝てなかった。

 

何度も。

 

何度も。

 

そして馬主だった父親の死が重なり、色々と手続きをふむ関係で村上はキングスを引退させることにした。

 

だからこそ。

 

種牡馬になった今でも、キングスは走る。

 

今度は誰にも乗られず。

 

今度は誰にも手綱を握られず。

 

ただ、自分の意思で。

 

――もっと走りたかった。

 

――もっと前へ行きたかった。

 

――俺を走らせろ。

 

――俺を勝たせろ。

 

もしかしたら、まだそんな想いを抱えているのかもしれない。

 

「……不思議なもんですね」

 

若い厩務員が言った。

 

「何がだ?」

 

「競走馬としては、もう引退してるのに」

 

放牧地の中。

 

キングスが速度を上げた。

 

バッカニアも追う。

 

「こうして見ると……キングスはまだ現役みたいだ」

 

「……そうだな」

 

村上は答えた。

 

「ただ」

 

少し間を置いて。

 

「今度は、自分の意思で走ってる」

 

その言葉に。

 

厩務員は黙った。

 

春風が吹く。

 

放牧地の青草が揺れる。

 

キングスは走る。

 

バッカニアも走る。

 

二頭の距離が少しずつ縮まっていく。

 

そして。

 

ついに。

 

ほんの一瞬だけ。

 

バッカニアの肩が、キングスの肩と並んだ。

 

「……!」

 

厩務員が目を見開く。

 

だが。

 

次の瞬間には、キングスがまた前へ出た。

 

バッカニアも追う。

 

「まだまだだな」

 

村上が笑う。

 

「ええ」

 

「でも――」

 

村上は窓の外を見つめたまま言った。

 

「バッカニアもいい顔をしてる」

 

走っているバッカニアの顔には。

 

疲れも。

 

恐怖も。

 

戸惑いもない。

 

ただ。

 

楽しい。

 

もっと走りたい。

 

もっと前へ行きたい。

 

たぶん、そんな顔をしていた。

 

「……あれなら、育成に出しても大丈夫そうだな」

 

「そうですね」

 

その日。

 

バッカニアの育成牧場への移動は、正式に決まった。

 

秋。

 

一歳の秋。

 

それまでに。

 

身体を作り。

 

人を乗せる準備を整え。

 

競走馬としての第一歩を踏み出す。

 

そのために。

 

この牧場を出る。

 

――それは。

 

バッカニアにとって、初めての船出になるだろう。

 

そして。

 

キングスにとっても。

 

自分の背中を追ってきた息子を送り出す日が。

 

少しずつ近づいていた。

 

 

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