世界を奪おう。強い船を沈めよう。私達は海賊だから   作:ミヤフジ1945

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第1話 社会の奴隷

 

 

朝。

 

スマホで設定した目覚まし用のアラーム音が、部屋の中に響いていた。

 

「……ん」

 

億劫に、モゾモゾと布団の中から手を伸ばす。

 

何度も鳴り続ける単調な音を止めると、部屋は再び静かになった。

 

男はしばらく目を閉じたまま動かなかった。

 

眠い。

 

身体が重い。

 

まだ寝ていたい。

 

だが、起きなければならない。

 

「……行くか」

 

誰に言うでもなく呟き、男はゆっくりと布団から身体を起こした。

 

カーテンを開ける。

 

東の空から少しだけ顔を出している朝の光が、ほとんど物のない質素な男の部屋へと差し込んだ。

 

特別な景色ではない。

 

どこにでもある住宅街。

 

どこにでも来るであろう朝。

 

男は重たい体を引きずるように洗面所へ向かい、顔を洗う。

 

鏡に映った自分の顔を見る。

 

目の下には薄く隈ができている。

 

髪も少しボサボサで、白髪も前より増えた気がする。

 

それを直す気力すら、男にはあまりなかった。

 

簡単にスーツへと着替え、コンビニで買ったパンを鞄に放り込む。

 

朝食を食べる時間はない。

 

いや。

 

正確には、食べる時間くらいはある。

 

だが、少しでも長く寝ていたかった。

 

それだけだった。

 

玄関を出る。

 

鍵を掛ける。

 

そして、通い慣れたいつもの道を歩く。

 

駅へ向かう人々。

 

制服姿の学生。

 

スーツを着た会社員。

 

自転車に乗った人。

 

皆、それぞれの一日を始めようとしている。

 

男も、その中の一人だった。

 

ぎゅうぎゅう詰めの満員電車に乗る。

 

人の波に押されながら、なんとか車内へ入り込む。

 

スマートフォンを取り出す。

 

ニュースを見る。

 

政治。

 

芸能。

 

スポーツ。

 

そして、仕事のメール。

 

「……はぁ」

 

朝から届いているメールを見て、男は小さく息を吐いた。

 

昨日の夜に帰る直前、上司から頼まれた仕事。

 

それとは別に、新しい依頼が一件。

 

そして、さらにもう一件。

 

まだ始業時間にもなっていない。

 

それでも仕事は既に始まっていた。

 

男はスマートフォンをポケットへ戻した。

 

電車が揺れる。

 

眠い。

 

それでも眠るわけにはいかなかった。

 

会社に着けば、やることはいくらでもある。

 

そう思っているうちに、電車は目的の駅へ到着した。

 

男は人の流れに混ざり、駅を出た。

 

そして、いつものように会社へ向かう。

 

 

* * *

 

 

「おはようございます」

 

「おはよう」

 

出社すると、すでに何人かの社員が仕事を始めていた。

 

男も自分の席へ座る。

 

パソコンを起動する。

 

メールを確認する。

 

未読が並んでいる。

 

「……多いな」

 

一つずつ開いていく。

 

確認。

 

返信。

 

確認。

 

修正。

 

また返信。

 

気が付けば、始業時間になっていた。

 

「ちょっといいか?」

 

背後から声を掛けられる。

 

振り返る。

 

上司だった。

 

「はい」

 

「悪いんだけど、これ今日中にやっといてくれ」

 

そう言って、資料の束を机へ置く。

 

男はそれを見る。

 

「……今日中、ですか?」

 

「ああ。できるよな?」

 

一瞬だけ、言葉に詰まる。

 

昨日頼まれた仕事も、まだ終わっていない。

 

今日の予定も詰まっている。

 

どう考えても簡単な仕事ではない。

 

それでも。

 

「……分かりました」

 

「助かるよ」

 

上司はそれだけ言って、自分の席へ戻っていった。

 

男は資料を手に取る。

 

そして、パソコンの画面へ視線を戻した。

 

「……やるか」

 

そう呟いた。

 

断るという選択肢は、最初から男の頭にはなかった。

 

 

* * *

 

 

昼を過ぎても、男は仕事を続けていた。

 

気付けば昼食を取る時間もなくなっていた。

 

別に珍しいことではない。

 

最近はいつもそうだった。

 

誰かが、

 

「昼飯、食べに行かないの?」

 

と声を掛けてくることもある。

 

男は、

 

「先にこれ終わらせるよ」

 

と答える。

 

「また?」

 

「うん」

 

「お前、断った方がいいって」

 

「……そうだな」

 

笑って返す。

 

だが、断れるわけがない。

 

仕事を終わらせなければならない。

 

そうしなければ、明日の仕事が増える。

 

それに、明日になればまた新しい仕事がやってくる。

 

終わりはない。

 

そんな毎日だった。

 

 

* * *

 

 

午後。

 

一瞬だけ仕事の手が止まった。

 

画面の隅に表示されたニュース記事が目に入ったからだ。

 

競馬の記事だった。

 

有名な競走馬の名前が、大きく載っている。

 

男はしばらく画面を眺めた。

 

競馬には詳しくない。

 

馬券を買ったこともない。

 

競走馬の名前だって、ほとんど知らない。

 

それでも、いくつか名前を知っている馬はいた。

 

ディープインパクト。キタサンブラック。フォーエバーヤング。

 

ニュースで何度も名前を聞いた。

 

競馬に詳しくない男でも知っているくらい、有名な馬たちだった。

 

「……馬か」

 

男は小さく呟いた。

 

画面には、走っている馬たちの写真が載っている。

 

力強く地面を蹴っている。

 

何頭もの馬が、同じ方向へ向かって走っている。

 

男は、それを少しだけ羨ましいと思った。

 

もちろん、本気で羨ましいわけではない。

 

そんなことを考える余裕もない。

 

ただ。

 

「……自由に走れて、いいよな」

 

冗談半分に呟いた。

 

そして、すぐに仕事へ戻った。

 

その言葉が、自分の人生に関わることになるなど。

 

この時の男は、知る由もなかった。

 

 

* * *

 

 

夜。

 

時計の針は、すでに二十二時を回っていた。

 

オフィスには、まだ何人かの社員が残っている。

 

男は黙々とキーボードを叩いていた。

 

カタカタという音だけが、静かなフロアに響いている。

 

「……終わらないな」

 

資料を見る。

 

画面を見る。

 

また資料を見る。

 

目が疲れていた。

 

肩も痛い。

 

背中も重い。

 

それでも手を止めるわけにはいかない。

 

「お先に失礼します」

 

同僚が帰っていく。

 

「お疲れ」

 

男は顔を上げることもなく返した。

 

また一人帰る。

 

また一人。

 

気が付けば、フロアに残っている人間は少なくなっていた。

 

二十三時。

 

もうすぐ日付が変わる。

 

午前零時。

 

男は時計を見た。

 

「……まだか」

 

今日中に終わらせる。

 

そう言われた仕事は、まだ終わっていない。

 

それでも、あと少しだった。

 

「これが終われば……」

 

帰れる。

 

シャワーを浴びて。

 

寝て。

 

また明日、会社へ行く。

 

それだけ。

 

男は再び画面へ向き直った。

 

 

* * *

 

 

午前一時。

 

ようやく最後の資料を保存した。

 

「……終わった」

 

男は椅子の背もたれに身体を預けた。

 

深く息を吐く。

 

疲れた。

 

ただ、それだけだった。

 

達成感などない。

 

嬉しくもない。

 

明日になれば、また仕事がある。

 

男はパソコンを落とそうとした。

 

その時だった。

 

視界が不自然に揺れた。

 

「……あれ?」

 

目の前の画面が滲む。

 

目を擦る。

 

戻らない。

 

おかしい。

 

疲れているだけだ。

 

そう思った。

 

椅子から立ち上がる。

 

その瞬間。

 

身体から力が抜けた。

 

「……っ」

 

机に手を伸ばす。

 

届かない。

 

床が近づいてくる。

 

「……なんだ、これ」

 

膝が崩れる。

 

そのまま、男は床へ倒れ込んだ。

 

静かなオフィスに、鈍い音が響いた。

 

誰もいない。

 

助けを呼ぶ声も出ない。

 

男は床に横たわったまま、ぼんやりと天井を見つめた。

 

もう、身体を動かすことができなかった。

 

ゆっくりと意識が薄れていく。

 

不思議と、怖くはなかった。

 

ただ、頭の中に今までの人生が浮かんでくる。

 

学校を卒業した。

 

就職した。

 

仕事を覚えた。

 

怒られながら仕事が増えた。

 

褒められながら仕事が増えた。

 

また仕事をした。

 

休日に何をしたか。

 

……思い出せない。

 

最後に旅行へ行ったのは、いつだっただろう。

 

友達と遊んだのは。

 

趣味に時間を使ったのは。

 

何かを楽しみにして、一日を過ごしたことは。

 

考えてみても、すぐには思い出せなかった。

 

男は天井を見つめた。

 

「……俺」

 

声が出ない。

 

それでも、心の中で呟いた。

 

(何してたんだろうな)

 

生きるために働いていたはずなのに。

 

いつの間にか働くために生きていた。

 

気が付けば、それだけの存在なっていた。

 

大金が欲しかったわけじゃない。

 

出世したかったわけでもない。

 

誰かに認められたかったわけでもない。

 

ただ、普通に生きたかった。

 

休日に好きなだけ眠って。

 

気が向いたらどこかへ行って。

 

くだらないことをして笑って。

 

何かを好きになって。

 

明日の予定を、自分で決めて。

 

そんな人生でよかった。

 

そんな、普通の人生でよかった。

 

けれど。

 

もう遅い。

 

男はゆっくりと目を閉じた。

 

そして、最後に一つだけ思った。

 

(……もっと)

 

(もっと、自由に生きてみたかったな)

 

それが。

 

彼が最後に抱いた願いだった。

 

やがて、意識は静かに消えていった。

 

 

 

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