世界を奪おう。強い船を沈めよう。私達は海賊だから 作:ミヤフジ1945
――暖かい。
それが、最初に感じたことだった。
どこまでも柔らかく、心地のいい温もりに包まれている。
身体が、ゆっくりと揺れている。
一定のリズムで、ゆらり、ゆらりと。
まるで、誰かに抱かれているような。
あるいは、深い水の中に浮かんでいるような。
そんな、不思議な感覚だった。
(……ん……?)
何かを考えようとした。
けれど、頭がうまく働かない。
眠い。
ただ、それだけだった。
目を開けようとしているのか。
それとも、もう閉じているのか。
そもそも、自分に目があるのかすら分からない。
そんな曖昧な意識の中で、ただ温もりに身を委ねている。
ゆらり。
ゆらり。
身体が揺れる。
それに合わせるように、意識もまた浮かんでは沈んでいく。
(……気持ちいいな……)
それだけを、ぼんやりと思った。
何かをしなければならない。
そんな考えも浮かばない。
誰かに急かされることもない。
時間を気にする必要もない。
明日のことを考える必要もない。
ただ、暖かい。
ただ、心地いい。
そして――眠い。
(……もう少し、このままで……)
そう思ったところで、また意識が遠のいていく。
夢を見ているのか。
それとも、眠っているのか。
その境目さえ分からない。
ただ、どこまでも穏やかな場所で。
彼は、もう一度深いまどろみへと沈んでいった。
* * *
どれほどの時間が経ったのだろう。
分からない。
ただ、ずっと暖かかった。
ゆっくりと揺られながら、何も考えずに眠っていた。
そのまま、いつまでもここにいられる。
そんな気さえしていた。
――けれど。
ある時から、何かがおかしくなった。
(……ん?)
今までとは違う。
身体が、強く揺れている。
ゆらゆらとした穏やかな揺れではない。
もっと大きく。
もっと激しく。
まるで、身体そのものが押し動かされているようだった。
(……なんだ?)
眠気が少しずつ薄れていく。
ぼんやりしていた意識が、ゆっくりと浮かび上がってくる。
何かが起きている。
そう思った。
けれど、何が起きているのかは分からない。
身体を動かそうとする。
すると――
動いた。
(……動く?)
今まで、意識して身体を動かした覚えなどなかった。
それなのに。
足を動かす。
……動いた。
身体を縮める。
……できる。
(俺……身体を動かせるのか?)
そんな疑問が浮かんだ、その瞬間。
ぐっ、と身体が押された。
「……っ」
声を出したつもりだった。
けれど、声は出ない。
代わりに、身体だけが大きく動かされる。
(なんだ……これ)
怖い。
初めて、そんな感情が生まれた。
今までの暖かく穏やかな世界が、急速に遠ざかっていく。
押される。
狭い。
苦しい。
何かに身体を押し出されている。
(待て……)
何とかしようとする。
けれど、どうすればいいのか分からない。
ただ、流されるまま押されるままに身体が動いていく。
そして――
突然。
身体が、外へと滑り出した。
――寒い。
一瞬だった。
今まで全身を包んでいた暖かさが、消えた。
代わりに、冷たい空気が身体を包み込む。
(……寒っ)
眩しい。
暗闇に慣れていた意識には、あまりにも強い光だった。
思わず目を閉じる。
けれど、それすら自分でできているのか分からない。
何かに身体を受け止められた。
硬いが、どこかふわふわしている。
冷たいが、どこか熱気のようなものがあった。
ざらざらしている。身じろぎするたびにガサガサと擦れる音がする。
床。そして敷き詰められた藁。
その言葉が、ぼんやりと頭に浮かんだ。
(……ここ、どこだ……?)
声が聞こえる。
「……大丈夫です」
「頑張れ」
「もう少しだ」
知らない人間の声。
複数いる。
何を言っているのか、まだ頭がうまく理解できない。
ただ、さっきまでいた場所とは違う。
ここは――外だ。
そのことだけは、何となく分かった。
(外……?)
ゆっくりと目を開ける。
光が入ってくる。
ぼやけた視界の向こうに、何かが動いている。
人。
白い服を着た人間。
作業着のような服を着た人間。
上等なスーツを着た人間。
その姿を見て、ようやく少しだけ安心する。
自分は助かったのだ。
そう男は思った。
だが。
すぐに、別の違和感に気付いた。
(……あれ?)
おかしい。
身体が、妙に小さい。
それに――
重い。
いや。
正確には、身体を思うように動かせない。
手を動かそうとする。
……動いた。
けれど。
(……手?)
違う。
これは手ではない。
細く、指がない。
先端が丸く固いナニカで覆われている。
何だ、これ。
今度は反対側を動かしてみる。
同じものが動いた。
さらに、身体の後ろ側にも何かがある。
動かしてみる。
やはり、動いた。
(……なんだ、これ)
必死に身体を動かす。
そのたびに、四本の細いものがばたばたと動く。
四本。
そこで、ようやく気付いた。
(……四本?)
自分の身体には、四本の脚がある。
そんなはずはない。
人間なら、二本だ。
自分だって、そうだった。
少なくとも――
死ぬ前までは。
(……待て)
そこで、頭の中に記憶が蘇った。
会社。
パソコン。
仕事。
残業。
深夜のオフィス。
そして――
倒れた。
(……俺、死んだんじゃなかったか?)
そうだ。
間違いない。
あの時、自分は死んだ。
なのに。
今、こうして生きている。
それどころか。
(……なんだ、この身体)
手がない。
二本の足もない。
四本の脚がある。
そして――
身体を動かすたびに、妙な感覚がする。
自分の身体なのに、自分のものではないような。
そんな違和感。
(……まさか)
頭の中に、一つの考えが浮かんだ。
けれど。
そんな馬鹿な。
ありえない。
そう思った。
思ったのだが。
すぐそばから、別の声が聞こえた。
「ほら……お母さんがいるぞ」
その言葉に、ゆっくりと顔を動かす。
目の前に、大きな何かがいる。
黒い。
大きい。
長い首。
そして、こちらを見つめる二つの目。
(…………)
言葉が出なかった。
いや。
そもそも、今の自分に言葉を発することができるのかも分からない。
その大きな何かが、ゆっくりと鼻先を近づけてくる。
そして、優しく自分の身体に触れた。
不思議だった。
初めて見るはずなのに。
知らないはずなのに。
なぜか――
とても安心する。
胸の奥に、温かいものが広がっていく。
(……母さん?)
なぜ、そんな言葉が浮かんだのか。
自分でも分からなかった。
ただ。
その存在が、とても暖かく感じられた。
大きな身体。
優しい目。
そして、自分を確かめるように触れてくる鼻先。
その瞬間。
ぼんやりとしていた頭の中に、一つの答えが浮かんだ。
(……馬?)
ニュースで見たことがある。
テレビで走っているのを見たこともある。
競馬。
競走馬。
それくらいの知識しかない。
そんな自分でも分かる。
目の前にいるのは――馬だ。
なら。
(……俺は?)
嫌な予感がした。
恐る恐る、自分の身体を見る。
小さな身体。
四本の脚。
蹄のようなもの。
そして、身体を覆う真っ黒な毛。
(……いや、待て)
認めたくない。
だが。
認めざるを得ない。
(俺……馬になってる?)
その瞬間。
自分でも確かめるように、口を動かした。
何か声を出そうとした。
そして――
「――ヒヒン」
…………。
自分の耳に、その声が届いた。
彼は固まった。
しばらく、何も考えられなかった。
そして。
(…………は?)
今の声。
誰の声だ。
いや。
違う。
これは――
俺の声だ。
「俺の声だ」
そう理解した途端。
立たなければ。何故かそう思った。
床に寝転がったままでは、何も分からない。
自分がどうなってしまったのかも。
ここがいったいどこなのかも。
何も。
だから、とにかく身体を起こそうとした。
前脚に力を入れる。
「……っ」
ぐっ、と身体を持ち上げる。
だが。
ぐらり。
身体が大きく傾いた。
「……おっと」
誰かの声が聞こえる。
それと同時に、前脚から力が抜けた。
べしゃっ。
身体が藁の上へ落ちる。
(……痛い)
思わず顔をしかめる。
痛みはある。
けれど、それ以上に驚いた。
(今の……俺がやったのか?)
もう一度、身体を動かす。
前脚。
後ろ脚。
どう動かせばいいのか、頭では分からない。
それでも、身体を起こそうとする。
ぐっ。
今度は少しだけ上手くいった。
身体が持ち上がる。
視界が高くなる。
「おっ」
「頑張れ」
人間たちの声が聞こえた。
誰が言っているのか分からない。
けれど。
自分に向けられていることだけは、何となく分かった。
(頑張れって……)
こんな状況なのに。
少しだけ可笑しくなった。
前世なら。
仕事をしている時なら。
「頑張ってね」
その言葉は、もっと嫌な言葉だった。
もうとっくに限界まで頑張ってるのだ。
頑張っても。
頑張っても。
次の仕事が来る。
終わりがない。
けれど。
今は違う。
何のために頑張っているのかすら分からない。
ただ――
立ちたい。
それだけだった。
「……もう一回」
周りの誰かの言葉と共にまた脚に力を入れた。
身体を縮める。
脚へ力を込める。
そして――
ぐっ。
身体が持ち上がった。
今度は、倒れない。
四本の脚が、プルプルと震えながらも確かに藁を敷かれた床を踏んでいる。
「……おお」
誰かが声を漏らした。
「立ったぞ!」
その声を聞いて、バッカニアは自分でも驚いた。
(……立った?)
そうだ。
立っている。
自分の四本の脚で。
まだ身体は震えている。
少しでも気を抜けば倒れそうだ。
それでも。
立っている。
(俺……立てた)
その瞬間。
胸の奥に、奇妙な感覚が広がった。
前世では、こんなことで喜んだことなどなかった。
朝起きて。
会社へ行って。
仕事をして。
帰って。
寝る。
それを繰り返すだけだった。
何かを成し遂げても。
何かを手に入れても。
「やった」と思えることなんて、ほとんどなかった。
なのに。
たった今。
ただ立っただけなのに。
少しだけ嬉しい。
(……なんだよ、これ)
自分でも分からない。
ただ。
悪くない。
そう思った。
「ほら、もう少しだ」
「ゆっくりでいいぞ」
「アンが、アンメアリーが待ってるぞ」
人間たちの声がする。
その声を聞きながら、バッカニアはゆっくりと顔を上げた。
そして。
もう一度、母親を見る。
自分と同じ真っ黒な毛に覆われた大きな馬が、こちらを見つめている。
その目は、先ほどから変わらない。
穏やかで。
優しい。
そして――
どこか待っているようにも見えた。
(……母さん)
自然と、そんな言葉が浮かんだ。
アンメアリーが、ゆっくりと首を動かす。
そして。
「……ブルル」
小さく鼻を鳴らした。
その瞬間。
また、頭の中に意味が浮かんだ。
――コッチ。
(……こっち?)
アンメアリーが、ほんの少しだけ身体を動かす。
待っている。
そう感じた。
バッカニアは、震える脚にもう一度力を込めた。
一歩。
足を前へ出す。
ぐらり。
身体が揺れる。
それでも倒れない。
もう一歩。
今度は少しだけ上手く歩けた。
そして。
ゆっくりと。
母親のところへ向かっていった。
一歩。
また、一歩。
まだ脚は思うように動かない。
前脚を出せば、後ろ脚が遅れる。
身体が傾けば、慌てて反対側の脚へ力を込める。
それでも。
少しずつ。
少しずつだけ、前へ進んでいく。
(……歩ける)
たったそれだけのことなのに。
不思議だった。
自分が自分の意思で動いている。
誰かに命令されたわけでもない。
決められた場所へ行けと言われたわけでもない。
ただ、自分が行きたいと思ったから。
その方向へ進んでいる。
(……これが、自由ってことなのか?)
そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎった。
けれど、今はそんなことを考えている場合ではなかった。
目の前に母親がいる。
あと少し。
あと、ほんの少し。
アンメアリーは動かなかった。
ただ、こちらを見つめている。
その瞳は穏やかだった。
急かすこともない。
無理に近づこうとすることもない。
ただ、待っている。
「……ブルル」
また、小さく鼻を鳴らした。
(……こっち、か)
言葉ではない。
けれど、なぜか分かる。
男は、もう一歩だけ前へ進んだ。
そして――
ふらり。
身体が大きく揺れた。
「おっと!」
後ろから人間の声が聞こえる。
倒れそうになる。
けれど。
今度は、自分で踏みとどまった。
(……危なっ)
四本の脚が震えている。
それでも、倒れなかった。
少しだけ自信がついた。
そして、最後の一歩を踏み出す。
アンメアリーとの距離が、なくなる。
大きな身体。
黒い毛。
その匂い。
前世では嗅いだことのない匂いなのに。
なぜか、懐かしい。
安心する。
男は、恐る恐る顔を近づけた。
そして――
そっと。
鼻先を、母親の身体へ寄せた。
温かい。
さっきまで自分を包んでいた温もりとは違う。
けれど。
どこか似ている。
アンメアリーは驚かなかった。
ただ、優しく鼻先を寄せ返してくる。
そして、そのまま男の身体を確かめるように、そっと触れた。
(……あったかい)
それだけだった。
言葉なんて必要なかった。
何も分からない。
ここがどこなのか。
なぜ自分が馬になっているのか。
どうして生きているのか。
何一つ分からない。
それでも。
今だけは。
そんなことを考えなくてもいい気がした。
アンメアリーの身体に寄り添う。
すると、母親は拒むことなく受け入れてくれた。
大きな身体が、すぐそばにある。
その温もりに触れていると。
胸の奥にあった不安が、少しずつ消えていく。
(……母さん)
前世では。
自分を待ってくれる人なんて、ほとんどいなかった。
帰りを待っている人も。
自分が倒れたことを心配してくれる人も。
会社を辞めてもいいと言ってくれる人も。
いなかった。
ずっと一人だった。
けれど。
今は違う。
自分を待っている存在がいる。
自分を受け入れてくれる存在がいる。
理由なんて分からない。
ただ、それだけで。
少しだけ。
胸が温かくなった。
アンメアリーが、もう一度鼻を鳴らす。
「……ブルル」
その声に、男も小さく鼻を鳴らした。
「……ぶる」
自分でも何を返したのか分からない。
けれど。
アンメアリーは、それで満足したようだった。
大きな鼻先が、もう一度優しく触れてくる。
男はその温もりを感じながら、静かに目を閉じた。
(……まあ)
(今は、これでいいか)
分からないことだらけだ。
けれど。
前世のように、明日の仕事に追われているわけではない。
怒鳴る上司もいない。
終わらない仕事もない。
時計を見る必要もない。
ただ、ここにいる。
母親の隣にいる。
そして――
自分は、生きている。
それだけで。
今は十分だった。
「……バッカニア」
上等なスーツを着た男がそう呟いたのが聞こえた。
「バッカニア?」
若い厩務員が聞き返す。
気になって男もスーツを着た男へと顔を向けた。
「親父が大事にしてたキングスはご先祖様から取った名前だ。」
そう言って、スーツの男は夢を語る少年のような表情で男を見た。
「こいつにも、同じようにそれを貰おう」
「……バッカニア」
噛み締めるようにそう語られた言葉が、スゥと男の胸に沁みた。
(バッカニア……それが俺の名前)
不思議な感覚だった。
前世では。
自分の名前を呼ばれることなど、ほとんどなかった。
会社では名字で呼ばれ。
仕事では「おい」と呼ばれることもあった。
それが普通だった。
けれど。
今は違う。
自分のために。
自分だけの意味が、ここで与えられた。
(……バッカニア)
もう一度。
心の中で、その名前を繰り返す。
悪くない。
むしろ。
なんだか、嬉しかった。
(バッカニア……)
それが。
これからの自分の名前。
前世の自分とは違う。
何も持たず。
何も残せず。
ただ働き続けて終わった男ではない。
今の自分には。
母がいる。
この身体がある。
そして――
名前がある。
(俺は……バッカニア)
そう心の中で呟いた。
アンメアリーが、隣で小さく鼻を鳴らす。
「……ブルル」
その声を聞きながら。
バッカニアは、母の温もりへ身体を寄せた。
まだ何も分からない。
ここがどこなのかも。
なぜ馬になったのかも。
この先、何が待っているのかも。
けれど。
それでいい。
前世では。
明日が決められていた。
起きる時間も。
働く時間も。
帰る時間も。
何もかも。
けれど今は違う。
何が起こるのか分からない。
だからこそ――
少しだけ、楽しみだった。
(……これから、どうなるんだろうな)
バッカニアは。
生まれて初めて。
明日を生きる意味を感じた瞬間だった。