世界を奪おう。強い船を沈めよう。私達は海賊だから 作:ミヤフジ1945
北海道の春は、まだ寒い。
4月に入ったとはいえ、本州とは違い雪も残り夜になれば氷点下まで大きく下がる。
特に今日の空は、朝から不安定だった。
風が強く、雲が低い。
時折、みぞれの混じった雨が牧場の屋根を叩いていた。
嵐と呼ぶほど強い訳ではない。
だがそれでも、春先の北海道としては少し荒れた夜だった。
小さな牧場の厩舎には、普段よりも多くの明かりが夜の闇を照らしていた。
その明かりのほとんどは、出産を間近に控えた一頭の牝馬のために灯されていた。
その牝馬の名は、アンメアリー。
アン・ボニー。
メアリー・リード。
その名前は、かつて海を駆けた二人の女海賊から取られた。
この小さな牧場で唯一の繁殖牝馬であり、馬主や厩務員を含め、多くの人間から可愛がられている元競走馬だった。
そのアンメアリーが、今夜は落ち着かない。
厩房の中をゆっくりと歩き、時折立ち止まっては、大きく息を吐く。
その様子を、厩務員の男が心配そうに見つめていた。
「……大丈夫か?」
返事があるはずもない。
それでも、思わず声を掛けてしまう。
アンメアリーは、ちらりと男の方を見る。
そしてまた、ゆっくりと歩き始めた。
男は腕時計を見る。
予定より少し早い。
だが、こういう時は何が起こるか分からない。
「獣医さんには連絡してあります」
隣にいた若い厩務員が言った。
「ああ。もう来てもらってる」
二人ともアンメアリーから目を離さない。
何度も出産に立ち会ってきたわけではない。
ましてや、今夜生まれてくる仔馬は、この牧場にとって特別な一頭になるかもしれない。
だからこそ、誰もが慎重だった。
アンメアリーが、また足を止める。
男は一歩だけ近づいた。
「大丈夫だアン。俺たちがついてる」
そう言って、厩房の柵越しに彼女の首筋をそっと撫でる。
アンメアリーは嫌がらなかった。
ただ静かに、耐えるように目を閉じる。
外では、ガタガタと風が強く厩舎の壁を叩いていた。
屋根を叩く雨の音が、少しだけ大きくなる。
若い厩務員は屋根ごし空を見上げる。
「……今日は荒れますかね」
「さあな」
男はアンメアリーを優しく見つめた。
「だが、アンが頑張る夜だ。俺たちも起きてるさ」
若い厩務員は、もう一度アンメアリーを見る。
「アンって、そんなに人懐っこいんですか?」
「ん?」
「いやほら……俺、ここに来てまだそんなに長くないんで」
男は少しだけ笑った。
「そうだな。昔から人が好きな馬だよ」
「競走馬だったんですよね?」
「ああ」
「結構走ったんですか?」
男は少し考えるように黙った。
「……まあ、そこそこだな」
「重賞とか?」
「いや。そこまではいってない」
若い厩務員が意外そうな顔をする。
「じゃあ、なんで繁殖に?」
「さあな」
男はアンメアリーの首筋を見つめる。
「でも、あの人――」
そこで一度言葉を切った。
「前の馬主さんが、この馬をえらく気に入ってたんだよ」
若い厩務員は黙ってアンメアリーを見る。
「だから残った」
「……なるほど」
若い厩務員は、それ以上は聞かなかった。
男も何も言わず、アンメアリーを見つめている。
しばらくして、アンメアリーが小さく嘶いた。
「おっ……」
若い厩務員が身を乗り出す。
「始まったんですか?」
「まだだ。だが、そろそろだろう」
男は時計を見る。
その時だった。
厩舎の外から、車の音が聞こえてきた。
二人が同時に厩舎の入口を見る。
「こんな時間に?」
若い厩務員が呟く。
やがて車が止まり、ドアの閉まる音がした。
足音が近づいてくる。
そして厩舎の扉が開いた。
「こんばんは」
濡れたコートの男が入ってくる。
三十代半ばほど。
肩にはまだ雨粒が残っている。
「村上さん」
厩務員の男が驚いたように声を上げる。
村上は軽く男へと頭を下げると、真っ先にアンメアリーのいる馬房へ向かった。
「アンは?」
「今のところ大丈夫です。ただ、予定より少し早く始まりそうで」
「そうか」
村上は柵の前に立つ。
アンメアリーが彼を見る。
「……久しぶりだな、アン」
村上は静かに笑った。
その声を聞いたアンメアリーが、少しだけ首を動かす。
村上は柵越しに彼女の顔を眺めた。
「親父も、よくこうしてたっけな」
厩務員が頷く。
「ええ。アンメアリーのところには、よく来てました」
「そうだったな」
村上はアンメアリーの腹を見る。
「……今夜か」
「ええ」
村上はしばらく黙っていた。
そして、小さく息を吐いた。
「どんな子が出てくるんだろうな」
村上の言葉に、厩務員の男が小さく笑った。
「前の旦那さんも、同じことを言ってましたよ」
「親父が?」
「ええ。アンメアリーがここに来た頃です」
村上は少し意外そうな顔をした。
「……そうだったか」
「『この馬から、面白い子が出るかもしれない』って」
「親父らしいな」
村上は苦笑する。
村上の父親は昔から、他人には分からないところに価値を見つける人間だった。
競走成績だけを見れば、アンメアリーは決して目立つ馬ではない。
それでも父親は、何故かこの牝馬を手放そうとはしなかった。
「血統がどうとか、よく話してましたよ」
「血統か……」
村上はアンメアリーを見る。
彼女は静かに立っている。
「キングスの様子はどうだ?」
「血の所為ですかね、もう若くはないのにまだまだ元気いっぱいですよ。さっきも様子を見てきましたけど、いつも通りでした」
「そうか」
村上は少しだけ安心したように頷いた。
キングスバッカニア。
かつて村上の父が所有していた牡馬であり、今ではこの牧場で静かに余生を送っている。
そして今夜、産まれるかもしれないアンメアリーの腹の中にいる仔馬の父でもある。
「親父は、あの馬も随分と気に入ってたな」
「ええ。キングスもアンも、旦那さんが亡くなるまで手放さなかった馬ですから」
「……そうだったな」
村上は二頭のことを思い出す。
父親は、派手な実績を持つ馬だけを集めるような人間ではなかった。
むしろ、誰も見向きもしないような血統や、忘れられかけた馬に目を向けることが多かった。
「アンメアリーも、キングスも……親父が残したかったんだろうな」
「そうだと思います」
その時だった。
ブルルルッ……
アンメアリーが、突然大きく身体を動かした。
「っ!」
村上が振り返る。
厩務員もすぐにアンメアリーへ駆け寄った。
「始まります!」
先ほどまでとは明らかに違う。
アンメアリーは浅く早く息を吐きながら、その馬体を馬房の床へと横たえる。
獣医もすぐに入ってくる。
「村上さん、少し下がっていてください」
「ああ」
村上は一歩、後ろへ下がった。
それでも目はアンメアリーから離さない。
外では風が吹き荒れている。
みぞれが窓を叩く。
牧場の中で、誰もが一頭の牝馬を見守っていた。
そして――
長い夜が、始まった。
それから、どれほどの時間が経っただろう。
外では、相変わらず冷たい風が吹いていた。
時計の針だけが、静かに進んでいく。
誰も口を開かなかった。
聞こえるのは、アンメアリーの荒い息遣いと、外から響く雨の音だけ。
村上は、ただ後ろの方で黙って見守っていた。
やがて――
獣医が小さく息を吐いた。
「……もう少しです」
村上は頷く。
アンメアリーが、もう一度大きく身体を震わせる。
そして。
「……来ました」
その声とほぼ同時に、厩務員が動いた。
長い夜の中で、ほんの一瞬。
時間が止まったように感じられた。
やがて、濡れた小さな身体が姿を現す。
「……牡馬です」
獣医のその言葉に、村上は何も返さなかった。
ただ、その小さな身体を見つめていた。
アンメアリーの傍らで、小さな仔馬が動く。
まだ自分の脚で立つこともできない。
それでも、生きている。
懸命に身体を動かしている。
「……元気そうですね」
厩務員が安堵したように呟いた。
村上は、ようやく息を吐いた。
「……ああ」
その声は、少しだけ震えていた。
アンメアリーが仔馬の身体を鼻先で確かめる。
そして、小さく嘶いた。
仔馬も、それに応えるように身体を動かした。
外では、まだ風が吹いている。
だが――
さっきまでとは、少しだけ違って聞こえた。
アンメアリーが、仔馬の身体を舐めている。
仔馬はしばらくの間、母の傍らで身体を動かしていた。
そして――
小さな脚を、床につける。
「おっ……」
若い厩務員が思わず声を漏らした。
仔馬は震える脚で、身体を起こそうとする。
一度、二度。
そのたびに身体が傾く。
それでも、諦めない。
「頑張れ……」
誰に言うでもなく、若い厩務員が呟いた。
三度目。
仔馬の脚が、しっかりと床を捉えた。
まだ頼りない。
今にも倒れそうだ。
それでも――
立った。
「……立った」
若い厩務員が、嬉しそうに小さく笑う。
村上も、黙ってその姿を見ていた。
小さな身体。
父であるキングスバッカニアと同じ、美しい黒鹿毛の毛並み。
母親譲りの小さく細い流星。
この仔馬はまだ何も知らない。
この仔馬はまだ何も持っていない。
ただ、この世界に生まれてきたばかりの無垢な一頭の牡馬。
村上は、しばらくその姿を見つめていた。
そして、不意に父親の言葉を思い出した。
――面白い子が出るかもしれない。
「……親父」
村上は小さく呟いた。
「見てるか?」
もちろん、返事はない。
それでも村上は、少しだけ嗤った。
この仔馬となら、自身の夢を叶えれるかもしれない。
その時。
仔馬がふらつきながら、一歩を踏み出した。
その先には、母であるアンメアリーがいる。
仔馬は母の身体に鼻先を寄せる。
アンメアリーが、そっと優しく仔馬を受け入れる。
村上は、その光景を見つめながら言った。
「名前……どうするかな」
厩務員が振り返る。
「もう決めてたんじゃないんですか?」
「いや」
村上は首を横に振った。
「まだ何も」
少し考える。
そして、村上はふと、隣の厩舎の方へ視線を向けた。
そこには、父親が最後まで手放さなかった一頭の牡馬がいる。
キングスバッカニア。
その名前を思い浮かべる。
「……バッカニア」
村上が呟いた。
「バッカニア?」
若い厩務員が聞き返す。
村上は頷いた。
「親父が大事にしてたキングスはご先祖様から取った名前だ。」
そう言って、もう一度仔馬を見る。
「こいつにも、同じようにそれを貰おう」
仔馬は何も知らない。
ただ母親の傍らで、まだ覚束ない脚を踏みしめている。
その姿を見ながら、村上は静かに笑った。
「……バッカニア」
その名を、もう一度呼んだ。
外では、いつの間にか雨が弱くなっていた。
「登録出来ると良いですね」
由来を知っている厩務員の男が村上の笑みにつられるように笑いながらそう返した。
「……ああ」
まだ正式な名前ではない。
それでも――
今夜、この仔馬には確かに一つの名前が生まれた。
バッカニア。