世界を奪おう。強い船を沈めよう。私達は海賊だから 作:ミヤフジ1945
――あれから、八か月ほどが経った。
バッカニアにとって、この八か月は長かったようで、短かった。
生まれたばかりの頃は、何も分からなかった。
自分がどこにいるのか。
なぜ馬になったのか。
目の前にいる人間たちは何者なのか。
そして、自分はこれからどうなるのか。
何も。
けれど。
毎日を過ごしていくうちに、少しずつ分かってきたこともあった。
まず。
ここは――牧場だった。
それも、かなり小さな牧場らしい。
競馬場のように大勢の馬がいるわけではない。
厩舎も大きくない。
働いている人間も、バッカニアが見かける限りでは数人ほど。
最初の頃は、それが普通なのだと思っていた。
馬というものは、こんな場所で暮らしているものなのだと。
けれど。
テレビで見た競馬の映像や。
人間たちの話を聞いているうちに、どうやらそうではないらしいと分かってきた。
ここは――
生産と、養老。
その二つを中心にした牧場だった。
つまり。
新しい馬を生み。
育て。
そして、役目を終えた馬たちが静かに余生を過ごす場所。
少なくとも。
バッカニアにはそう理解できた。
もっとも。
今のところ、この牧場には自分以外の仔馬はいない。
それどころか。
アンメアリー以外に、繁殖をする牝馬もいなかった。
厩舎を歩き回っても。
放牧場を見渡しても。
見える馬は、ほとんど自分と母だけ。
たまに別の場所から馬が来ることはあっても、普段から一緒に暮らしているわけではない。
だから。
バッカニアにとって、アンメアリーは母親であると同時に。
この世界で最も身近な「馬」でもあった。
(……母さん以外の馬って、あんまり見ないな)
最初は、それも少し不思議だった。
けれど。
八か月も暮らしていれば、そんな環境にも慣れてくる。
そして。
もう一つ。
この牧場でバッカニアやアンメアリーを世話する厩務員の他に、頻繁に見かける人間がいた。
最初に自分の名前を付けた、あのスーツの男だ。
上等なスーツ。
整えられた髪。
いつも少しだけ高価そうな靴。
牧場には似つかわしくない格好をしている。
それでも。
その男は、かなり頻繁にここへやって来た。
来るたびに、まずアンメアリーのところへ行く。
そして。
必ずバッカニアのところにも来る。
「元気か、バッカニア」
そう言いながら、頭を撫でる。
最初の頃は、その手が少し怖かった。
大きな手が頭に乗るたびに、身体をびくりと震わせていた。
けれど。
何度も何度も来るうちに。
今ではすっかり慣れてしまった。
むしろ。
その男の車の音が聞こえると、バッカニアの耳が自然とそちらを向くようになった。
(……また来た)
別に嫌いではない。
むしろ、好きなほうだった。
何かを持ってきてくれることもある。
身体の具合を確認してくれることもある。
アンメアリーと話している姿を見ることも多かった。
ただ。
バッカニアには、彼がいったい何者なのか分からなかった。
人間たちは、その男のことを時々――
「オーナー」
と呼んでいた。
(オーナー……?)
意味は、なんとなく分かる。
けれど。
それが「馬主」という意味だとは、まだ知らなかった。
実際には。
その男こそが、バッカニアの馬主だった。
父親の代から馬を所有してきた人物で。
この牧場に預けられているアンメアリーも。
そして、生まれたばかりのバッカニアも。
彼の所有する馬だった。
だからこそ。
男は何度もここへ足を運んでいた。
ただの見物ではない。
自分の馬を見に来ているのだ。
もちろん。
そんな事情を、バッカニアは知らない。
彼にとっては。
よく会いに来る人間。
自分の頭を撫でてくれる人間。
そして。
自分に「バッカニア」という名前をくれた人間。
それだけだった。
だから。
男が来ると。
バッカニアは少しだけ嬉しくなる。
そんな日々を。
八か月ほど過ごしてきた。
その間に。
自分の身体も、大きく変わった。
生まれたばかりの頃は。
立つことすらできなかった。
歩くことも。
走ることも。
何もかもが初めてだった。
けれど。
今では違う。
四本の脚は、もう自分の意思通りに動く。
首を振る。
耳を動かす。
尻尾を振る。
鼻を鳴らす。
草を食べる。
眠る。
そして――
走る。
少し前から。
バッカニアは、母親と一緒にもしくは厩務員とバッカニアだけで放牧場へ出る時間が増えていた。
そして最近では。
人間たちが、自分の食事にも変化を加え始めていた。
母乳だけではない。
柔らかな飼料。
そして。
青草。
最初は変な味だと思った。
けれど。
今では違う。
地面いっぱいに広がる緑色の草を見ると。
自然と腹が減る。
「ほら、今日は天気がいいぞ」
そんな人間の声が聞こえた。
バッカニアは顔を上げる。
厩舎の向こう。
外には。
青い空が広がっていた。
アンメアリーが、先に歩き出す。
「ブルル」
その声に。
バッカニアも後を追った。
蹄が地面を踏む。
カッ。
カッ。
外へ出る。
風が身体を撫でた。
広い。
何度見ても。
放牧場は広かった。
そして。
その向こうには。
自分がまだ知らない世界がある。
そんな気がした。
バッカニアは、母の隣を歩きながら。
遠くを見つめた。
(……あの先には、何があるんだろう)
八か月前。
何も分からなかった世界。
今では。
少しだけ分かるようになった。
ここが牧場であること。
母がアンメアリーという名前であること。
自分の名前がバッカニアであること。
自分を世話してくれる人間たちがいること。
そして。
頻繁に会いに来る、あのスーツの男が。
自分の馬主であること。
けれど。
それでも。
まだ分からないことは、たくさんある。
牧場の外に何があるのか。
この世界には、どんな場所があるのか。
自分は、これからどうなるのか。
そして――
自分の中にある、この妙な感覚はいったい何なのか。
前世の記憶。
人間だった頃の知識。
馬として生まれた今の身体。
その二つを抱えながら。
バッカニアは、静かに歩いていた。
すると。
アンメアリーが足を止めた。
首を下げる。
青々とした青草へ鼻先を近づける。
そして。
むしゃ。
草を食べ始めた。
バッカニアも母の隣で足を止める。
鼻先に。
爽やかな草の匂いが届いた。
(……これか)
少しだけ迷ってから。
バッカニアも首を下げた。
そして。
青草を一口。
むしゃ。
――悪くない。
もう一口。
むしゃ。
風が吹く。
草が揺れる。
母が隣で草を食べている。
空は青い。
バッカニアは、そんな景色の中で。
ゆっくりと青草を味わった。
八か月前には。
立つことすらできなかった。
今は。
自分の脚で立ち。
自分の脚で歩き。
自分の意思で草を食べている。
そして――
もうすぐ。
自分の脚で。
もっと遠くまで走れるようになる。
そんな予感がしていた。
* * *
その日の夕方。
牧場の事務所には、珍しく三人の人間が集まっていた。
古びた木製の机。
壁に掛けられたカレンダー。
隅には、何年も使われている小さな冷蔵庫。
そして、机の上には何枚かの書類が広げられている。
その一枚には、一頭の黒鹿毛の仔馬の写真があった。
まだ幼さの残る顔。
細い脚。
そして、どこか落ち着きのない大きな目。
「……順調なんですよね?」
そう尋ねたのは、若い厩務員だった。
向かいに座る牧場主が頷く。
「ああ」
「食欲もありますし、身体の成長も問題ありません」
「アンメアリーの状態もいい」
「じゃあ、何が問題なんです?」
そう言われて、牧場主は少しだけ黙った。
机の上の写真を見る。
そこに写っているのは、バッカニアだった。
「……一頭なんだよ」
「はい?」
「仔馬が、あいつ一頭しかいない」
それは、この数か月間ずっと感じていたことだった。
この牧場には、繁殖牝馬アンメアリーしかいない。
大手のように広大な土地があるわけでもない。
競走馬を何十頭、何百頭と育てる大規模な育成牧場でもない。
細々と生産を続けながら、引退した馬たちを預かる。
種牡馬だったり、馬術馬だったり、乗馬用だったり……
村上が預けている種牡馬のキングスが異例なだけで、本来ならばそんな馬たちは預からない。
競走馬を引退し、第二のキャリアを引退した馬たちが余生を過ごす。
そんな小さな生産・養老牧場だった。
だからこそ。
仔馬が一頭しかいないこと自体は、珍しいことではない。
問題は――
その一頭が、このまま競走馬になろうとしていることだった。
「身体の成長は問題ない」
牧場主はもう一度言った。
「性格も悪くない」
「むしろ、人間にはかなり慣れてきましたね」
「それはいいんだけどな」
そこで言葉が途切れる。
「……馬には?」
若い厩務員が、少しだけ困った顔をした。
「それが……」
窓の外を見る。
日が傾き始めた放牧地。
その向こうには、アンメアリーの姿がある。
そして、その隣には小さな黒鹿毛の仔馬。
バッカニア。
母親の後ろをついて歩いている。
草を食べるときも。
水を飲むときも。
休むときも。
いつも母親と一緒だった。
もちろん、それ自体は悪いことではない。
むしろ今の時期なら自然なことだ。
親離れもつつがなく進んでいる。
バッカニアは人間を信用しているのか、母親と離しても寂しがったり暴れたりはしなかった。
だが――
「同じくらいの歳の仔馬と遊んだ経験がない」
「……そうなんですよね」
「走り回ることもあるんですが」
「相手がいないからな」
牧場主は苦笑した。
「結局、アンメアリーを追いかけて終わりだ」
若い厩務員も窓の外を見る。
すると、ちょうどその言葉を証明するように。
バッカニアが母親の横を走り始めた。
アンメアリーが少しだけ歩調を速める。
それを追いかけるように、バッカニアも走る。
そして追いつくと、また母親の横へ戻る。
「……元気ではあるんですけどね」
「元気なのと、集団に慣れているのは別だからな」
牧場主は腕を組んだ。
競走馬として育てるなら。
いずれは他の馬と一緒になる。
複数の馬がいる場所で過ごし。
その中で走り。
前を走る馬を追い。
横に馬がいても気にせず走れるようになる必要がある。
もちろん、それはまだ先の話だ。
今すぐどうこうというわけではない。
だが。
「早いうちに経験させた方がいいんじゃないか」
若い厩務員が言った。
「俺もそう思います」
「ただ……」
「ただ?」
「この牧場じゃ、相手がいない」
二人とも黙った。
その問題を解決する方法はいくつかある。
他の生産牧場へ預ける。
あるいは、育成牧場へ早めに移す。
規模の大きな場所なら、同年代の馬もいる。
人間にも馬にも慣れることができる。
競走馬として必要な環境を経験することもできる。
それが一番簡単な答えだった。
「……村上さんに相談するか」
牧場主がそう言った。
若い厩務員が頷く。
「そうですね」
* * *
数日後。
牧場の事務所に、一人の男が入ってきた。
もはやこの牧場の一員と言ってもいいほど頻繁に訪れる男。
村上。
バッカニアの馬主であり、母親のアンメアリーの馬主でもある男。
「どうも」
「わざわざありがとうございます」
「いやいや」
村上は軽く手を上げると、いつものように事務所の椅子へ腰を下ろした。
そして。
「それで?」
と、牧場主を見る。
「何か相談があるそうですが」
牧場主は少し迷った。
だが、隠していても仕方がない。
「バッカニアのことです」
その名前が出ると。
村上の表情が少しだけ柔らかくなった。
「バッカニアが?」
「はい」
牧場主は窓の外へ目を向けた。
今日も放牧地では、アンメアリーとバッカニアが並んで草を食べている。
「身体は順調です」
「性格も問題ありません」
「人間にも慣れてきました」
「親離れも順調です」
「ですが……」
「ですが?」
「他の馬との経験がない」
村上は黙った。
「同年代の仔馬がいませんから」
「なるほど」
「今はまだ母親がいますからいいんです」
「ただ、いずれは群れに入ることになります」
「その時に、少し苦労するかもしれません」
村上は窓の外を見た。
バッカニアが顔を上げる。
耳が動く。
そして、少し離れたところにいる牧場の人間を見つめた。
「……確かに」
村上が呟いた。
「なら、育成牧場に預けるか?」
「それも考えています」
「大きいところなら、同じくらいの馬もいるでしょう」
「ええ」
牧場主は頷いた。
「ただ、今すぐ移す必要があるのかという話もあります」
「まだ母親と一緒にいますし」
「この牧場の環境自体は悪くない」
「だったら――」
村上はそこで言葉を切った。
しばらく考える。
そして。
何でもないことのように言った。
「キングスを使えばいい」
「……え?」
牧場主が顔を上げた。
若い厩務員も目を丸くする。
「キングスを?」
「ああ」
村上は窓の外を見たまま答えた。
「キングスはまだ若い。種牡馬になったが血統的に人気もあまり無いから暇をしているはずだ」
「それじゃ駄目か?」
「いや……駄目というわけでは」
牧場主は言葉を選んだ。
キングス。
正式にはキングスバッカニア。
この牧場で大切にされている一頭の牡馬。
そして――
バッカニアの父親でもある。
だが。
「キングスは、一応種牡馬ですよ?」
「知ってる」
「それに、あいつの走りは仔馬と一緒に放すような馬じゃ……」
「分かってる」
村上は笑った。
「だから、いきなり一緒にしろとは言ってない」
「……」
「まずは様子を見る」
牧場主は黙って村上を見る。
「柵越しでもいい」
「互いの存在を認識させる」
「それから、問題がなさそうなら少しずつ距離を縮める」
村上は指を一本立てた。
「おとなしいキングスなら、相手が子供でも無茶はしないだろう」
「……まあ」
「それに」
村上は少しだけ笑った。
「バッカニアがどんな馬なのか、一番近くで見てみたいと思わないか?」
牧場主は答えなかった。
その代わり。
もう一度、窓の外を見る。
アンメアリーの横で。
バッカニアが草を食べている。
まだ小さい。
けれど。
その姿には、以前とは少し違うものがあった。
身体は大きくなっている。
脚もしっかりしてきた。
走る姿も少しずつ力強くなっている。
そして最近では――
母親だけでなく、人間の動きにも興味を示すようになっていた。
「……キングスと会わせてみますか」
牧場主が言った。
「ああ」
村上は頷いた。
「まずは、それでいい」
「大きな育成牧場へ出すのは、その後でも遅くない」
「……分かりました」
話は決まった。
* * *
その日の夕方。
キングスの馬房では。
一頭の鹿毛の馬が、静かに佇んでいた。
大きな身体と、落ち着いた目。
人の気配がしても、騒ぐことはない。
ただ。
耳だけが、わずかに動いた。
「キングス」
牧場主が声をかける。
キングスはゆっくりと顔を向けた。
「明日から、ちょっと変わったことをするぞ」
キングスは答えない。
ただ、静かに男を見る。
その姿を見ながら。
牧場主は小さく笑った。
「お前の息子と、少し遊んでもらうか」
その言葉に。
キングスの耳が、ぴくりと動いた。
もちろん。
その言葉の意味を、人間と同じように理解したわけではない。
それでも。
何かを感じ取ったかのように。
キングスは、静かに鼻を鳴らした。
「……ブルル」
その声は。
いつもより少しだけ長く。
どこか遠くにいる誰かを探すようだった。