世界を奪おう。強い船を沈めよう。私達は海賊だから 作:ミヤフジ1945
その朝も、いつもと変わらなかった。
「ほら、バッカニア。行くぞ」
聞き慣れた声。
バッカニアは、その声に顔を上げた。
厩舎の扉が開く。
朝の光が差し込んでくる。
「ヒヒン」
小さく鳴いてから、バッカニアは厩務員の後について歩き出した。
このところ、放牧へ出ることがすっかり日課になっている。
厩舎を出て。
決まった道を歩き。
いつもの放牧地へ向かう。
そして、たまに母親と一緒に青草を食べる。
それが、今のバッカニアにとって当たり前の日常だった。
今日もいつものように放牧地へ向かう。
そう思っていた。
――だが。
放牧地へ近づいたところで、バッカニアは足を止めた。
(……ん?)
何かいる。
いつもの景色と違う。
隣の放牧地。
そこに――
一頭の馬がいた。
バッカニアは思わず首を伸ばした。
(……誰だ?)
知らない馬だった。
身体が大きい。
アンメアリーよりも大きく見える。
首も長い。
脚も太い。
そして何より。
堂々としていた。
ただそこに立っているだけなのに、妙な存在感がある。
黒い毛並みが朝の光を受けている。
バッカニアは、その馬から目を離せなかった。
「気になるか?」
隣を歩いていた厩務員が笑った。
「そうだよな」
もう一人の若い厩務員は、バッカニアの首を軽く撫でる。
「今日は、お前に会わせたい奴がいるんだ」
(……会わせたい?)
バッカニアは首を傾げた。
そんなことを言われても分からない。
いつもと違うことと言えば、隣の放牧地にあの馬がいることくらいだ。
厩務員はそのままバッカニアを連れて、放牧地の柵の近くまで歩いていく。
一歩。
また一歩。
黒い馬との距離が近づいていく。
向こうもこちらに気付いた。
ゆっくりと顔を上げる。
視線が合った。
バッカニアは、思わず立ち止まった。
(……なんだ?)
妙な感じがする。
怖いわけではない。
むしろ。
なぜか気になる。
初めて見る馬のはずなのに。
どこか引っかかる。
厩務員は、そんなバッカニアの様子を見ながら柵のすぐ前まで連れていった。
そして。
「ほら」
黒い馬へ向かって声をかける。
「こいつがお前の父親だよ」
続けるように、若い厩務員が言葉を紡ぐ。
「キングスバッカニアっていうだ」
――父親。
その言葉は、バッカニアにも聞こえた。
(……父親?)
何のことだろう。
もしや目の前のこの馬が俺の父親ということだろうか。
けれど。
意味がよく分からない。
厩務員は続ける。
「キングス。この子はバッカニアだ」
その名前を聞いて、バッカニアは耳を動かした。
自分の名前。
それは分かる。
だが。
「お前の子供だぞ、キングス」
――キングス。
その名前も、初めて聞いた。
バッカニアは目の前の馬を見る。
キングス。
それが、この馬の名前らしい。
キングスは、しばらく何もせずにバッカニアを見ていた。
ただ。
じっと。
静かに。
その視線を向けている。
バッカニアも動かなかった。
互いに見つめ合う。
やがて。
キングスがゆっくりと首を下げた。
柵の向こうから鼻先が近づいてくる。
バッカニアは少しだけ後ろへ下がりかけて――
止まった。
怖くない。
それどころか。
もっと近くで確かめたい。
そんな気がした。
バッカニアも首を伸ばす。
互いの鼻先が、柵を挟んで近づいていく。
そして。
ふっ。
風が通り抜けた。
知らない匂い。
けれど。
その瞬間。
バッカニアの身体が、ほんの少しだけ反応した。
(……?)
何だろう。
この感じ。
初めて会う。
間違いなく初めて会う馬だ。
なのに。
どこか懐かしい。
そんな気がする。
キングスも同じように、鼻を動かした。
匂いを確かめている。
何度か小さく息を吸う。
そして――
「……ブルル」
低く。
小さく。
鼻を鳴らした。
バッカニアの耳が動く。
すると。
ただの嘶きのはずなのに頭の中に、自然と言葉が浮かんだ。
言葉。
いや。
正確には、言葉のようなもの。
――オマエ。
(……俺?)
バッカニアは目を瞬かせた。
今のは。
何だったのだろう。
キングスは、それ以上何も言わなかった。
ただ、もう一度バッカニアの匂いを確かめる。
その様子を見ていた若い厩務員が、小さく笑った。
「どうだ?」
「……分かるのかな」
厩務員が少し離れたところから声をかける。
「さあな」
「でも、嫌がってはいないですね」
「それどころか、かなり気にしてる」
人間たちがそんな話をしている。
だが。
バッカニアの意識は、もう目の前の馬から離れなかった。
キングスバッカニア。
自分の父親だと言われた馬。
父親。
その言葉の意味は分かる。
前世では知っている。
だが。
馬になった今の自分にとって。
それがどういうものなのかは、まだ分からない。
バッカニアは、もう一度キングスを見る。
大きな身体。
焦げ茶色に輝く鹿毛の体。
落ち着いた目。
そして――
どこか、自分と似ている。
(……父親)
その言葉を、心の中で繰り返してみる。
妙な感じだった。
実感なんてない。
けれど。
嫌な感じもしなかった。
むしろ。
もう少し近くで、この馬を見ていたかった。
そんな気がした。
キングスが、再び鼻を鳴らす。
「……ブルル」
そして。
――オマエ。
今度は、はっきりと。
バッカニアには、その意味が分かった。
(……やっぱり)
この馬も。
自分のことを見ている。
まるで。
何かを確かめるように。
キングスは、しばらくバッカニアを見つめていた。
そして。
もう一度、鼻先を柵へ近づける。
「……ブルル」
今度は、先ほどよりも長く息を吐いた。
バッカニアも鼻を動かす。
キングスの匂いがする。
大きな身体から漂ってくる、独特の匂い。
それを感じていると、不思議と落ち着いた。
すると。
キングスが、ぽつりと呟いた。
――オマエ。
(……俺?)
バッカニアが首を傾げる。
キングスは、じっとその姿を見つめていた。
そして。
「オマエ……アノメスト、オナジ」
(……あのメスと、同じ?)
意味を考える。
あのメス。
誰のことだろう。
すぐには分からなかった。
けれど。
バッカニアの頭に、一頭の馬の姿が浮かんだ。
アンメアリー。バッカニアの母親。
(……母さん?)
キングスは、小さく鼻を鳴らした。
「……オナジ」
「同じ?」
思わず声に出す。
当然、返ってくるのは自分の鳴き声だけだった。
それでも、キングスには何となく伝わったらしい。
「オナジニオイ」
「……同じ匂い?」
キングスは、バッカニアの身体を眺める。
首。
背中。
脚。
そして、顔。
まるで何かを確かめるように、ゆっくりと視線を動かしていく。
「デモ……」
一度、言葉を切る。
「スコシ、チガウ」
(少し違う?)
バッカニアは自分の身体を見る。
自分ではよく分からない。
黒い毛。
四本の脚。
まだ小さな身体。
それだけだ。
キングスは、そんなバッカニアを見ながら続けた。
「オレトモ……ニテル」
「……俺と?」
「ニテル」
短い言葉。
けれど。
その言葉だけは、妙にはっきりと胸へ落ちてきた。
(俺と似てる……)
バッカニアは、改めてキングスを見る。
大きな身体。
黒い毛並み。
長い首。
落ち着いた目。
そして、自分を見るその顔。
確かに。
よく見れば、どこか似ている気がした。
「……ほんとに?」
思わず呟く。
もちろん。
返事はない。
代わりに、キングスが鼻を鳴らした。
「……ブルル」
――ニテル。
そんな意味が、頭の中へ浮かんだ。
バッカニアは、少しだけ笑った。
(……そっか)
自分と似ている。
母親とも同じ匂いがする。
それなら。
もしかしたら。
本当に――
(この馬が、俺の父親なのか)
まだ実感はない。
けれど。
最初に見た時よりも。
ほんの少しだけ。
キングスという馬が、近く感じられた。
キングスは、そんなバッカニアを見つめながら。
もう一度だけ、低く鼻を鳴らした。
「……オマエ」
(うん)
バッカニアも、小さく鼻を鳴らす。
「……ブル」
柵を挟んだまま。
バッカニアとキングスバッカニア。二頭の海賊は、しばらくの間そうして互いの姿を見つめていた。