世界を奪おう。強い船を沈めよう。私達は海賊だから 作:ミヤフジ1945
それからしばらく。
バッカニアとキングスの間には、奇妙な日々が流れていた。
二頭は、毎日のように顔を合わせた。
といっても。
最初から一緒に放牧されていたわけではない。
間には、いつも柵があった。
バッカニアが放牧地へ出る。
その隣にはキングスがいる。
最初の頃は、互いに顔を合わせるだけだった。
今ではバッカニアは母親から離れ、1人で放牧地に居るのが当たり前になっていた。
「……ブルル」
「……ブル」
鼻を鳴らす。
それだけ。
時には、柵越しに鼻先を近づける。
互いの匂いを確かめる。
そして、それぞれが好きなように草を食べる。
キングスが草を食べれば、バッカニアも草を食べる。
キングスが水を飲めば、バッカニアも水を飲む。
けれど。
それ以上、干渉することはなかった。
親子だからといって、いつも寄り添っているわけではない。
馬とは、そういうものなのだろう。
バッカニアにも、少しずつそれが分かってきた。
ただ。
キングスには、一つだけ妙なところがあった。
よく走る。
それも。
やたらと走る。
「……また始まったな」
ある日の午後。
厩務員が苦笑しながら隣の放牧地を見た。
キングスが、端から端まで走っている。
ゆっくり歩いていたかと思えば。
突然、首を上げる。
耳を立てる。
そして――
駆け出す。
地面を蹴る。
一歩。
二歩。
三歩。
速度が上がる。
たてがみが風に揺れる。
そのまま放牧地を大きく回り、反対側まで走っていく。
「元気だなぁ」
若い厩務員が笑った。
「まだ五歳だからな」
「種牡馬になってからも、ああなんですか?」
「まあな。走るのが好きなんだろ」
バッカニアは、柵越しにその姿を眺めていた。
(……速い)
ただ走っているだけなのに。
目を奪われる。
脚の動き。
身体の揺れ。
地面を蹴る音。
どれも、自分とはまるで違った。
キングスは自由だった。
誰にも乗られていない。
誰にも指示されていない。
ただ、自分の意思で走っている。
その姿を見ていると。
胸の奥が、妙にざわついた。
(……俺も)
走りたい。
そんな気持ちが生まれた。
バッカニアは、ゆっくりと歩き出した。
そして。
キングスの走る方向へ向かって、自分も走り始める。
最初は、ほんの少しだけ。
とことこと。
それでも。
走っている。
身体が軽くなる。
風が顔に当たる。
蹄が地面を叩く。
(……気持ちいい)
もっと。
もう少し。
バッカニアは速度を上げた。
けれど。
未だバッカニアの身体は幼い。
脚がもつれる。
バランスを崩す。
「……おっと」
なんとか転ばずに踏みとどまった。
向こうでは、キングスが走っている。
バッカニアのことなど気にしていない。
ただ、自分が走りたいから走っている。
その背中を見て。
バッカニアもまた走った。
それが、新しい二頭の日常になっていった。
柵を挟んで。
同じ時間に。
同じ方向へ。
ただ走る。
一緒に走っているようで。
実際には、まだ一度も並んだことはない。
そんな日々が続いた。
そして――
ある日のことだった。
キングスが、いつものように走っていた。
バッカニアも、その姿を追っている。
すると。
キングスが突然、足を止めた。
「……?」
バッカニアも止まる。
キングスがこちらを見る。
しばらく、じっと見つめていた。
そして。
ゆっくりと柵へ近づいてくる。
「……ブルル」
「……ブル」
いつもの挨拶。
けれど。
今日は少し違った。
キングスが、バッカニアの顔を覗き込む。
「オマエ」
(……俺?)
「ハシルナ」
「……走る?」
キングスが鼻を鳴らした。
「スキカ」
バッカニアは少し考えた。
そして。
「……好き」
小さく答える。
キングスは、しばらく黙っていた。
やがて。
「ソウカ」
短く呟いた。
それから。
もう一度、バッカニアを見る。
「ナラ」
一拍。
「イツカ、ミンナト、ハシル」
(みんなと……走る?)
バッカニアは首を傾げた。
キングスは続ける。
「オマエ、イツカ……ミンナト、ハシル」
「……みんな?」
「ソウダ」
その言葉を聞いて。
バッカニアの胸が少し高鳴った。
まだ、知らない。
「みんな」が誰なのか。
どんな場所なのか。
それでも。
いつか、自分もそんな場所で走るのだろうか。
そう思った。
キングスは、そんなバッカニアを見ながら。
ゆっくりと鼻を鳴らした。
「ヒトツダケ、オボエトケ」
「……?」
「カチタイナラ」
キングスの目が変わった。
先ほどまでの穏やかなものとは違う。
何かを思い出しているような。
そんな目だった。
「チカラデ、ウバエ」
バッカニアは黙った。
「……力で?」
キングスが頷く。
「マエヲ、トレ」
「前を?」
「ソウダ」
キングスは柵の向こうを見る。
放牧地の先。
そのさらに先。
何か遠くを見るように。
「ナサケハ……カケルナ」
その言葉に。
バッカニアは少し戸惑った。
(……情けをかけるな?)
それは。
前世で聞いた言葉とは少し違う。
競争。
勝負。
そんなものを連想させる言葉だった。
「……どうして?」
そう尋ねても。
キングスはすぐには答えなかった。
しばらく沈黙して。
やがて。
「オレハ」
一言。
「マケタ」
バッカニアは目を見開いた。
キングスが続ける。
「ナンドモ」
「……何度も?」
「ソウダ」
淡々としている。
けれど。
その声の奥には、何かがあった。
悔しさ。
怒り。
諦め。
そして――
まだ消えていない何か。
「オレハ、マエニ、イキタカッタ」
キングスは言う。
「ハシリタカッタ」
「……」
「デモ」
キングスが首を振った。
「ヒトハ、トメタ」
バッカニアには、その意味が分かった。
人間。
騎手。
競馬。
前世の知識と、今の知識が少しずつ繋がっていく。
キングスは競走馬だった。
そして。
走ることが好きだった。
前へ行きたかった。
それなのに。
「……止められた?」
「ソウダ」
キングスが低く鼻を鳴らす。
「オレハ、モット、ハシレタ」
それは、確信なのか。
ただの悔しさなのか。
バッカニアには分からない。
けれど。
キングス自身は、そう思っている。
「オレヲ、ハシラセロ」
その言葉は。
今まで聞いたどんな言葉よりも強かった。
「オレヲ……カタセロ」
バッカニアは、黙って父を見た。
キングスは、しばらく遠くを見ていた。
やがて。
こちらへ顔を戻す。
「ダカラ」
「……?」
「オマエハ」
キングスの鼻先が、柵越しにバッカニアへ近づく。
「トメラレルナ」
「……」
「マエヘ、イケ」
その言葉が。
不思議なほど胸に残った。
キングスは、それ以上何も言わなかった。
ただ。
また放牧地の中を走り始めた。
一気に速度を上げる。
バッカニアは、その背中を見る。
そして。
自分も走り出した。
まだ追いつけない。
当然だ。
身体の大きさが違う。
脚の長さも違う。
経験も違う。
それでも。
追いかけた。
一歩。
また一歩。
必死に脚を動かす。
キングスが遠ざかっていく。
それでも。
バッカニアは走った。
(……待ってくれ)
もっと速く。
(……俺も)
もっと。
もっと速く。
キングスが遠くで振り返った。
一瞬だけ。
二頭の目が合う。
そして。
キングスは、ほんの少しだけ速度を落とした。
まるで。
追いついてこい。
そう言っているようだった。
バッカニアは歯を食いしばるように。
小さな身体へ力を込める。
そして。
さらに前へ。
まだ届かない。
まだ遠い。
それでも。
初めてだった。
誰かの背中を追いかけたいと思ったのは。
そして。
いつか。
その背中に追いつきたいと思ったのは。
* * *
それから、さらに月日が流れた。
夏の暑さはいつの間にか消えていた。
青々と放牧地を覆っていた青草も少しずつ色を変え、朝晩には冷たい風と共に雪がチラつくようになった。
バッカニアの身体も、あの頃とはずいぶん変わっていた。
生まれたばかりの頃は、脚を動かすだけでも精一杯だった。
母親のところまで歩くことさえ難しく、何度もよろめいていた。
それが今では。
放牧地を自分の脚で走り回れる。
身体はまだ幼い。
それでも、以前より脚は長くなり、首も伸び、走る姿にも少しずつ馬らしさが出てきていた。
キングスのところへ行く。
挨拶をする。
少し離れたところで、それぞれ好きなように過ごす。
そして。
どちらかが走り始めれば、もう一頭も走る。
最初の頃は、ただ真似をしていただけだった。
キングスが走る。
バッカニアが追いかける。
それだけだった。
けれど。
何度も繰り返しているうちに、少しずつ二頭の関係も変わっていった。
キングスは、バッカニアが走っている姿を見るようになった。
そして。
時々、口を出すようになった。
「……アシ、ヒロゲロ」
「こう?」
「チガウ」
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
「……モットダ」
そんなやり取りが、少しずつ増えていった。
バッカニアは最初、キングスの言葉の意味がほとんどが分からなかった。
けれど。
毎日のように聞いているうちに、バッカニアにも少しずつその意味が分かるようになってきた。
「マエ」
前へ。
「モット」
もっと。
「チカラ」
力を。
「ハシレ」
走れ。
短い言葉ばかりだった。
けれど。
その一つ一つが、妙に分かりやすかった。
キングスは、走りながら教える。
バッカニアは、それを見ながら試す。
上手くいかなければ、また言われる。
それを繰り返す。
そんな日々が続いていた。
そして――
季節は、冬へと変わった。
朝。
放牧地には薄く霜が降りていた。
吐く息が白い。
バッカニアは鼻先から白い息を吐きながら、いつものように放牧地を走っていた。
以前よりも速くなった。
身体も大きくなった。
自分でも、それが分かる。
だからこそ。
今日は少しだけ、調子に乗っていた。
「見てろよ、父さん」
誰に言うでもなく呟いて。
バッカニアは地面を蹴った。
一歩。
二歩。
三歩。
身体を前へ運ぶ。
冷たい風が顔に当たる。
気持ちいい。
もっと速く。
そう思って脚を動かした、その時だった。
「……オマエ」
隣の放牧地から声が飛んできた。
バッカニアが足を止める。
「なに?」
キングスがこちらを見ていた。
しばらく黙ってバッカニアを眺める。
そして。
「タダ、フムナ」
「……踏むな?」
バッカニアは首を傾げた。
「何を?」
キングスは答えない。
代わりに、自分の脚を見せるように一歩踏み出した。
そして。
放牧地の地面を強く蹴る。
「ジメンヲ、ハネロ」
「……地面を、跳ねる?」
「ソウダ」
「どういうこと?」
「タダ、フムナ」
キングスがもう一度言う。
「ジメンヲ、オシテ……ハネロ」
バッカニアはしばらく考えた。
「……よく分からない」
「ヤレバ、ワカル」
「分かるかなぁ……」
「ヤレ」
「はいはい」
バッカニアは苦笑しながら、もう一度走るために身体を構えた。
そして。
地面を踏む。
一歩。
二歩。
「チガウ」
「早いって!」
「タダ、フンデイル」
「……」
「ジメンヲ、ハネロ」
「分かったよ!」
バッカニアは再び走り出した。
今度は。
ただ脚を置くのではなく。
地面を押す。
身体を前へ送る。
そして――
跳ねる。
ほんの一瞬。
身体が軽くなった。
「……!」
バッカニアは目を見開いた。
さっきとは違う。
脚を動かしたというより。
地面から身体を押し出されたような感覚。
「……今の?」
キングスが黙っている。
バッカニアは振り返った。
「今ので合ってる?」
しばらくして。
キングスが鼻を鳴らした。
「……ソレダ」
「……!」
「ソノカンジダ」
バッカニアの耳がぴんと立った。
「もう一回やってみる」
「ヤレ」
「何回?」
「ナットクスルマデ」
「厳しいなぁ」
そう言いながら。
バッカニアは、もう一度走り出した。
白い息を吐きながら。
冷たい冬の空気を切り裂いて。
その姿を。
キングスは静かに見つめていた。