Sillage 作:匿名
La Religieuse
修道院に彼女が現れたのは、百年以上も昔の冬だった。
その年は雪が深く、山道で三人の旅人が凍死した。井戸には朝ごとに厚い氷が張り、夜になると鐘楼が風に軋んだ。古参の修道女たちは、今年は山から悪いものが降りてくる、と囁いた。
そして降りてきた。
月のない夜、門扉の前にひとりの女が倒れていた。黒い髪、雪より白い肌、裸足。凍死しかけた人間なら青ざめているはずなのに、唇だけがひどく赤かった。
修道女たちは彼女を中へ運び、火を焚き、濡れた身体を拭いて毛布をかけた。女が目を覚ましたのは翌朝である。名を尋ねられ、少し考えてから、リディア、と答えた。嘘だった。誰も問いたださなかった。
リディアは悪魔だった。
人の欲望を喰う。淫魔と呼ぶ者もいた。男でも女でも構わない。愛されたい、触れたい、奪いたい、妬まれたい、自分だけを見てほしい。人間が胸の奥へ押し込めたそれらを、ほんの少し掻き立てればいい。人は熱を持つ。理性と欲望の境目が溶ける、その直前。魂はひどく甘く香った。リディアはそれを喰った。
だから修道院を見つけたときには、笑いを堪えるのに苦労した。ここには欲望を抑えることを善と信じる者が大勢いる。蓋を固く閉じた瓶ほど、開けたときにはよく香る。
三日もあれば十分だった。一人か二人を壊して腹を満たし、山を下りる。そのつもりだった。
三日目の朝、食堂の隅で、年老いた修道女がリディアの前に皿を置いた。名をマルタといい、小柄で、背中が少し曲がっていた。
「まだ身体が冷えるでしょう」
湯気の立つスープだった。リディアは匙を取らなかった。
「なぜ?」
「何がです?」
「なぜ、私に食事を」
マルタは不思議そうに首を傾げた。
「お腹が空いているでしょう?」
それだけだった。
リディアは女の内側を探った。感謝されたい。善人と思われたい。神に評価されたい。何かあるはずだった。だが何も見つからない。マルタはただ、腹を空かせた者に食事を出しただけだった。
その感情の味が、リディアには分からなかった。気味が悪かった。
だから、もう少しだけ残ることにした。
修道院の庭には代々、祭壇に供えるための白百合が植えられていた。大きく端正で、聖堂によく似合った。
春、マルタはその列の端で、一株の白百合を植え直していた。
何年経っても花をつけない株だった。掘り返してみても根が腐っているわけではない。マルタは場所が悪いのかもしれない、と少しだけ位置をずらし、根元へ丁寧に土を寄せた。
それが済むと、そのすぐ隣を少し空けて、別の苗を埋めた。
「それは何です」
「茉莉花」
「祭壇には使わないでしょう」
「使わないわね」
それだけ言って、マルタは土をかけた。
初夏、白百合が咲いた。
「これは分かります」とリディアは言った。「綺麗でしょう。形も整っている」
マルタは笑った。「あなた、変なところで真面目ね」
リディアは庭の隅を指した。まだ青い葉しかない。
「では、あれは」
「私が好きなの」
「なぜ」
「好きなものに理由が必要?」
リディアは鼻で笑った。
その夏の夜、茉莉花が初めて咲いた。白百合とは比べものにならないほど小さく、昼間なら見落としてしまいそうなほど慎ましい花だった。だが日が沈むと、甘く濃密な香りが庭を満たした。
リディアは眉をひそめた。「強すぎる」
「そう?」
「花の姿と釣り合っていません」
「夜になると、よく香るのよ」マルタは楽しそうに花を眺めた。「昼間はあんなに大人しい顔をしているのにね」
その言い方が、妙に気に障った。
「嫌いです」
「そう」
「抜いてしまえばいい」
「それは困るわ。私は好きなの」
翌朝、枯れた茉莉花を摘んでいたのは、なぜかリディアだった。
一年が過ぎ、リディアは祈りを覚えた。最初は真似事だった。膝をつき、手を組み、目を閉じる。祈る相手などいない。悪魔に神はいらない。けれど毎朝毎晩、皆と同じ言葉を唱えているうちに、祈祷の時刻がずれると落ち着かなくなった。
三年経ち、庭仕事を覚えた。土は嫌いだった。爪の間に入るし、虫もいる。それでもマルタが腰を痛めてからは、茉莉花の世話を代わった。
五年。村から来る子供たちに文字を教えた。十年。泣く者の背中を撫でることを覚えた。二十年。笑うことが増えた。
二十七年目の夏、リディアは初めて、マルタの欲望を嗅いだ。
雨の夜だった。礼拝堂には二人しかいなかった。マルタは祭壇の前で古い手紙を握っていた。紙から、もう遠い昔に消えた男の気配がした。
そしてマルタの胸の奥には、まだ火があった。小さく、静かに、消えずに。
リディアの喉が鳴った。
「誰です」
マルタの肩がわずかに動いた。「昔の友人よ」
「嘘」リディアは隣に膝をついた。「愛していた」
沈黙のあと、「ええ」とマルタは答えた。
「今も?」
「分からないわ」
「分からない?」
「会いたいとは思う。幸せでいてほしいとも思う。でも、この場所を捨てたいとは思わない」
リディアには理解できなかった。欲しいなら求めればいい。要らないなら忘れればいい。なぜ人間は、相反するものを同じ胸の中に抱えたがるのだろう。
「私なら」とリディアは言った。「消してあげられます」
「何を」
「その人を欲しいと思う心」
久しぶりに、昔の笑い方をした。
「そうすれば、もう苦しくない」
マルタはリディアを見つめた。驚かなかった。怯えもしなかった。
「私が何者か、分かっているのですか」
「少しは」
「いつから」
「最初の冬から」
リディアは言葉を失った。マルタは困ったように笑った。
「人間にしては、あまりにも綺麗だったもの」
「では、なぜ追い出さなかった」
「寒そうだったから」
あまりにもマルタらしい答えだったので、腹が立った。
「その気持ちを消せば、あなたはもっと善良になれる」
「いいえ」
「なぜ」
「欲しいと思う心までなくしてしまったら」マルタは静かに言った。「それは、私が善くなったことになるの?」
リディアは黙った。
「私はあの人を愛した。それも私よ」
「罪でしょう」
「そうかもしれない」
「なら捨てればいい」
「罪であることと、なかったことにすることは違うわ」
マルタはリディアの手を取った。年老いて、温かい手だった。
その瞬間、リディアは初めて、マルタを喰いたいと思った。
無垢だからではない。善良だからでもない。自分には理解できないものを、この女が持っているからだった。
その静かな魂を壊したら。欲望を暴き出して、信仰も理性も全部剥ぎ取ったら。どれほど甘いだろう。
喉が焼けるように渇いた。あと一言、ほんの少し力を使えばいい。
だが、マルタは手を離さなかった。
「リディア」
「何です」
「あなたも、ここにいていいのよ」
リディアは何もできなかった。
八年後、マルタは床についた。冬だった。百合は枯れ、茉莉花も眠っていた。
「怖くないのですか」寝台の横でリディアが尋ねた。
「少しはね」
「神のもとへ行くのでしょう」
「そう信じています」
「なら、なぜ怖い」
マルタは微笑んだ。
「信じていても、怖いものは怖いわ」
まただ。この女は最後まで矛盾している。
「庭をお願いね」
「嫌です」
「あら」
「茉莉花は匂いが強すぎる」
「でも毎年あなたが世話をしていたでしょう」
「仕方なくです」
「そういうことにしておきましょう」
マルタは目を閉じた。呼吸が浅い。しばらくして、ぽつりと言った。
「庭の端の白百合。まだ一度も咲かなかったわね」
「まだ諦めていないのですか」
「百年くらい待てば、咲くかもしれないわ」
「百年」
「あなたなら見られるでしょう」
リディアは顔を上げた。
「そんな先まで私がここにいると思っているのですか」
マルタは答えなかった。しばらくして、最後に一度だけ目を開いた。
「いてくれたら嬉しいわ」
それが最後だった。
その夜、リディアは鐘楼に上った。雪が降っていた。
悪魔は死者のために泣かない。そのはずだった。
それでも朝まで涙が止まらなかった。
春、リディアは庭を整えた。枯れた白百合を植え直し、茉莉花の枝を剪定した。
庭の端にある、あの一株だけは掘り返さなかった。水だけをやった。
五十年。七十年。九十年。
修道院は一度焼け、建て直された。院長は何人も変わり、村へ続く道には石が敷かれた。マルタを知る者は、とうにリディアだけになった。
白百合は毎年咲いた。ただ一株、マルタが植え直した株だけは、一度も花をつけなかった。
リディアは毎年その株にも水をやった。理由は考えなかった。
百年目の春、アンナという娘が修道院に入った。
二十二歳で、よく笑った。祈祷中に居眠りし、洗濯物を風に飛ばし、食堂で皿を割った。
ある朝、アンナは空腹のまま朝食に遅れた。厨房にはもう誰もいない。困って立っていると、リディアがスープを温め直して、彼女の前に置いた。
「すみません。わざわざ」
「食べなさい」
「どうして、そんなに優しくしてくださるんです?」
リディアの手が止まった。百年前の湯気が、一瞬だけ目の前をよぎった。
「お腹が空いているでしょう?」
アンナは意味も分からず笑った。リディアも、ほんの少しだけ笑った。
夏、茉莉花が咲いた。
ある夜、アンナが告解室にやってきた。
「眠れないんです」
「身体の具合が悪い?」
「違います」
仕切り板の向こうに沈黙が落ちた。そして、香った。
長いあいだ遠ざけていた匂いだった。暖かく、柔らかく、ひどく甘い。人間の欲望。
リディアの身体の奥で、古いものが目を覚ました。
「誰かを想っていますね」
向こうで息を呑む音がした。
「はい」
「村の人?」
「はい」
「会いたい?」
長い沈黙のあと、
「はい」
舌の裏側が疼いた。懐かしかった。少し聞けばいい。触れたい? 抱かれたい? 名前を呼ばれたい? 修道服を脱ぎ捨てて、夜の山道を駆け下りたい?
「でも」とアンナが言った。「この気持ちさえなくなれば」
リディアの心臓が跳ねた。
「私は、もっとちゃんと神に仕えられると思うんです」
その言葉は、百年前に自分がマルタへ差し出したものと、まったく同じだった。
食べればいい、と悪魔が囁いた。喉が渇いている。百年も我慢した。
食べればいい、と修道女も囁いた。そうすればこの娘は苦しまない。男を想って眠れない夜も終わる。罪悪感も消える。きっと立派な修道女になる。
二つの声が、初めて完全に同じ答えを出した。
リディアは震えた。悪魔として腹を満たし、修道女として魂を救う。こんなに美しい答えがあるだろうか。
「アンナ」
声が変わった。低く、甘く、耳ではなく身体の奥に触れる声。
「私なら」
仕切り板の向こうで、呼吸が止まる。
「その気持ちを、なくしてあげられる」
沈黙。やがて、
「本当に?」
「ええ」
甘い香りが濃くなる。アンナの魂が開いていく。
「お願いします」
それで十分だった。リディアは手を伸ばした。
守りたい。壊したい。救いたい。食べたい。
無垢なままでいてほしい。その無垢を、自分の手で冒涜したい。善意と渇望が絡まり、どちらがどちらなのか分からなくなる。
指先がアンナに触れる寸前、百年前の声がした。
――それは、私が善くなったことになるの?
指が止まる。
「シスター?」
リディアは目を閉じ、長く息を吐いた。
「嫌です」
「え?」
「できません」
「でも、今」
「できる」リディアは言った。「だから、しない」
仕切りを開いた。アンナが涙に濡れた顔を上げる。リディアは真正面から彼女を見た。
「よく聞きなさい」
悪魔の声は消えていなかった。甘く、低く。けれど今度は、誘惑するためではなかった。
「その欲望は、あなたのものです」
「でも、罪です」
「だから何です」
アンナが目を見開いた。
「会いたいと思った。触れたいと思った。愛されたいと思った。それがあなたでしょう」
「シスター」
「神にも」リディアは微笑んだ。それは百年前と同じ、悪魔の笑い方だった。「修道院にも」少しだけ歯を見せた。「まして私なんかに、それを奪わせてはいけない」
アンナの頬を涙が落ちた。
「私は、どうすれば」
「会いなさい」
「え?」
「明日、院長に相談して村へ帰りなさい。その人に会って、自分が何を望んでいるのか確かめてきなさい」
「戻れなくなるかもしれません」
「それなら、戻らなくていい」
「そんな」
「あなたがここに残ることより」リディアは静かに言った。「あなたが、あなたであることの方が大切です」
聖職者として正しい言葉なのか、リディアには分からなかった。ただ、気の遠くなるような歳月を欲望の甘さだけを頼りに生きてきた彼女が、初めて、自分で正しいと思って口にした言葉だった。
アンナは村へ帰った。
三週間後、手紙が届いた。修道院には戻らない。その男と結婚することにしたという。
他の修道女たちは喜んだ。院長は少し残念そうに、神はあの娘に別の道を用意されたのでしょう、と言った。リディアは何も言わなかった。
その夜、ひとりで庭へ出た。
茉莉花がむせ返るほど甘く香っていた。腹が減っていた。恐ろしいほどに。
食べてしまえばよかった。そう思う自分が、確かにいた。
アンナの魂を守りたかった。同時に、その魂を壊したかった。幸福になってほしかった。同時に、幸福になる直前の、あの最も美しい欲望を喰らってしまいたかった。
百年経っても、自分は悪魔なのだ。
リディアは笑った。
そのとき、庭の奥に白いものが見えた。
足を止めた。
一輪の白百合が咲いていた。あの株だった。春の日にマルタが植え直し、リディアが百年、水をやり続けた株。
いつ開いたのかは分からない。昨夜だったのかもしれないし、もっと前だったのかもしれない。
誰も見ていなかった。
月明かりの中で、白百合は静かに咲いていた。
リディアは長い間それを見ていた。やがて声が漏れた。
「ああ」
「百年は、もう来ていたのね」
風が吹き、茉莉花の甘い香りが白百合の周りを通り過ぎた。
マルタは帰ってこなかった。声も聞こえなかった。
リディアは白百合へ手を伸ばした。指先が花弁に触れる寸前で止まり、摘まなかった。
代わりに、隣の茉莉花を一輪摘んだ。小さな白い花。昼には慎ましく、夜になるほど甘く濃く香る花。修道服の胸元に挿す。
「あなたにはなれなかったわ」
白百合に向かって言った。しばらく考えて、少し笑った。
「でも、それでいいのでしょうね」
その夜、礼拝堂には蝋燭が一本だけ灯っていた。
それから何十年経ったのか、修道院の記録にはっきりしたことは残っていない。
ある春、若い修道女が庭を掃いていた。塀に沿って、茉莉花が何十株も植えられていた。
「シスター。どうしてここには、こんなに茉莉花が多いんですか」
年長の修道女は箒を止めた。
「昔、この花をとても大切にしていた人がいたそうよ」
「修道女ですか」
「そう聞いているわ」
若い修道女は一輪の花を覗き込んだ。
「ずいぶん昔?」
「ずいぶん昔」
「どんな人だったんです」
年長の女は少し考えた。
「それがね」声を潜める。「悪魔だった、なんて話もあるの」
若い修道女は吹き出した。
「まさか」
「でしょうね。古い修道院には、そういう話が一つくらいあるものよ」
「その悪魔は、何をしたんです」
「さあ。人を誘惑して食べてしまったとか」
「怖い」
「逆よ。人を助けたという話もあるわ」
「どっちなんですか」
「だから昔話なの」
二人は笑った。
若い修道女は、ふと庭の奥を見た。白百合が一輪だけ咲いている。その周りを茉莉花が取り囲んでいた。
「その人は、最後どうなったんです」
年長の修道女は箒を動かしながら答えた。
「知らないわ」
「記録にないんですか」
「ある朝、いなくなっていたそうよ」
「どこへ」
「それも、誰も知らない」
風が吹いた。茉莉花が揺れ、甘い香りが二人の間を通り抜ける。若い修道女は鼻をくすぐられて笑った。
「すごい匂いですね」
「夜はもっと香るわよ」
「こんな小さい花なのに」
年長の修道女は、なぜか少しだけ懐かしそうに笑った。
「そうね」
そして言った。
「昼間は、あんなに大人しい顔をしているのにね」
若い修道女は、茉莉花を一輪摘もうと手を伸ばした。
「それは摘まない方がいいわよ」
「どうして」
「昔の修道女が怒るから」
「まだいるんですか」
年長の修道女は答えなかった。ただ、白百合の方を一度見た。
その夜、礼拝堂には、誰が灯したのか分からない蝋燭が一本だけ燃えていた。
庭では、雪のような白百合が音もなく月を受けていた。その傍らで、茉莉花だけが、どうしようもなく甘く香っていた。