Sillage   作:匿名

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L’Orpheline

鍵は、思っていたより簡単に回った。

 

引き戸を開けると、空気が押し返してきた。埃と、木と、それから何か。

 

上がり框に腰を下ろして、靴を脱いだ。

 

まず窓を開けた。全部で七つあった。

 

ゴミ袋を三十枚持ってきていた。足りるだろうと思っていた。

 

 

 

台所から始めた。

 

戸棚を開ける。皿が積んである。欠けているものを袋に入れた。欠けていないものも入れた。

 

急須。捨てた。

 

湯呑みが五つ。うち二つは同じ柄だった。五つとも捨てた。

 

醤油差し。中身が固まっている。捨てた。

 

引き出しを開けた。箸が二十本ほど。あとは輪ゴム。輪ゴムが丸めてある。玉になっている。握り拳ほどの大きさで、何年もかけて外から足していったものだった。誰が始めたのかは分からない。中心のほうはもう白く固まって、粉になりかけていた。

 

袋に入れた。

 

鍋。捨てた。

 

やかん。底が焦げていた。捨てた。

 

冷蔵庫は開けなかった。業者に頼むことにしてある。

 

 

 

茶の間。

 

座卓を立てかけた。座布団が四枚。日に焼けて色が違っていた。四枚とも袋に入れた。

 

テレビ。あとで運ぶ。

 

カレンダーが壁に掛かっていた。めくられていない。捨てた。

 

新聞が積んである。紐で縛った。

 

薬の箱。中を見ずに捨てた。

 

爪切り。捨てた。

 

置き時計。止まっていた。裏を開けて電池を抜き、電池だけ別の袋に入れた。本体は捨てた。

 

 

 

仏間の襖を開けた。

 

線香の匂いが残っていた。何年も焚いていないはずなのに、畳と壁が吸っている。

 

窓を開けても抜けなかった。

 

仏壇の中身は、先に業者に見てもらってある。位牌だけ持って帰ることになっていた。

 

灰を掬って、袋に移した。指の跡がついた。

 

鈴を布に包んだ。

 

線香の残りが半箱あった。捨てた。

 

畳に、仏壇の脚の跡が四つ、四角く残っていた。周りより色が濃い。指で押すと、そこだけ沈まなかった。

 

 

 

押し入れ。

 

布団が四組。膨らみが失われて、板のようになっていた。全部出した。廊下に積むと、天井に届いた。

 

段ボールが六つ。開けた。

 

一つ目は衣類。捨てた。

 

二つ目は書類。年金と、保険と、何かの控え。持ち帰る分だけ分けて、残りは袋に入れた。

 

三つ目は空だった。

 

四つ目に写真があった。袋に入れた。

 

五つ目は食器。捨てた。

 

六つ目は雑誌。紐で縛った。

 

 

 

日が傾いてきた。

 

袋は二十二になった。足りた。

 

廊下に並べて、玄関から外へ出していった。四往復した。汗が背中を伝った。

 

家の中に戻ると、ものが減ったぶん、匂いが強くなっていた。

 

 

 

手を洗おうと思った。

 

洗面所の電気は点かなかった。窓から入る明かりで足りた。

 

蛇口をひねる。水は出た。赤い水が少し出て、それから透明になった。

 

石鹸受けに、石鹸があった。

 

箱に入ったままだった。青い箱で、角がへたって、上蓋の合わせが浮いている。湿気で紙が波打っていた。牛の絵の輪郭が擦れて、白く抜けている。裏返すと、内側に脂が回って、紙が飴色に染みていた。

 

出した。

 

小さくなっていた。角が丸く、片側だけ薄い。誰かが同じ向きで持って、同じ場所ばかり使ったのだと分かる大きさだった。

 

表面が白く粉を吹いている。

 

水をかけた。粉が溶けて、下から滑らかな面が出た。

 

両手で挟んで、回した。

 

泡が立った。

 

 

 

匂った。

 

手が止まった。

 

何の匂いなのか、分からなかった。石鹸の匂いだとは思った。ただ、それだけではない何かが混ざっていた。花のようでもあり、そうでないようでもある。この家に入ってからずっとしていたものと、同じ種類のものかもしれなかった。

 

蛇口から水が出続けていた。

 

もう一度、手を回した。

 

泡が増えた。匂いは、増えなかった。

 

 

 

洗った。

 

指のあいだ。爪の中。手首。二の腕まで。埃が灰色の筋になって、白い陶器の上を流れていった。

 

流し終えるまで、水は止めなかった。

 

石鹸を石鹸受けに戻した。

 

少し考えて、また取った。

 

箱に入れて、袋には入れず、鞄の外の隙間に押し込んだ。

 

手を振って水を切った。拭くものがなかったので、そのままにした。

 

乾くと、手がつっぱった。指を曲げると、甲の皮が引かれるのが分かった。

 

 

 

窓を七つとも閉めた。

 

雨戸も引いた。家の中が暗くなった。

 

上がり框で靴を履いた。

 

引き戸を閉めて、鍵をかけた。回すときに、来たときより固かった。

 

袋は明日、業者が持っていく。

 

 

 

坂を下りた。

 

日が落ちきる前で、空はまだ明るかった。風が出ていた。

 

途中で、ふと匂った。

 

石鹸の匂いだった。

 

自分の手からなのか、風に乗ってきたのか、確かめる前に、次のものが来た。どこかの家の、夕飯の油の匂いだった。

 

そのあとに、排気。

 

それから、乾いたアスファルトの匂い。

 

石鹸は、もう分からなくなっていた。

 

 

 

駅までは、まだ距離があった。

 

手を握ったり開いたりしながら歩いた。乾ききって、皮が張っている。歩いているうちに、それも気にならなくなった。

 

電車は空いていた。

 

窓の外が暗くなって、ガラスに自分が映った。

 

膝の上に鞄を載せていた。手を洗ったのに、爪の縁にまだ細く埃が残っているのが、明かりの下では見えた。

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