Sillage 作:匿名
その年も、九月の終わりに匂いが来た。
姿より先に匂いが来る。毎年そうだった。どこの木なのか、トキは知らない。路地を三つばかり抜けた先の、塀の内側のどれかだろうと思っている。見に行ったことはない。行けば分かってしまう気がして、行かなかった。
夜になると匂いは濃くなった。
トキは籠を提げて、決まった角に立つ。
夕方から夜半まで、通る人に声をかける。籠には菊と、竜胆と、名前を知らない白い小花。売れ残りは水に挿して翌日も使う。二日目までは花で、三日目からは花ではなくなる。だから二日で売り切るのが仕事だった。
秋はよく売れる。彼岸を過ぎても墓へ行く人がいるし、酒を飲んだ帰りに何か持って帰りたくなる人もいる。冬は売れない。夏は傷む。九月と十月がいちばんいい。
その夜も冷えた。
石畳から冷たさが上がってきて、足の指の感覚が薄くなる。トキは片足ずつ交互に持ち上げて、指を動かした。慣れていた。
「花はいかがですか」
若い男が二人、笑いながら通り過ぎた。一人が振り返って何か言い、もう一人が肩を叩いて連れて行った。
その少しあと、年配の男が立ち止まった。
「菊を三本」
包んで渡す。男は代金を置いて、それから籠を覗いた。
「花だけかい」
「花だけです」
男は少し笑って、そうか、と言って歩いていった。悪い笑い方ではなかった。それきり、その男のことは考えなかった。
蕎麦屋のばあさんが屋台を引いて通りかかり、トキの顔を見て足を止めた。
「トキちゃん、まだいたの」
「あと少しで」
「冷えるよ」
「はい」
ばあさんは丼を一つ、無言で差し出した。トキは両手で受け取った。汁の湯気で、指の先がじんと痛んだ。
「金木犀、匂うね」
「匂いますね」
「うちの婿がね、あれ好かんて言うんだよ。便所の匂いがするって」
トキは笑った。
「私は好きです」
「そうかい」
ばあさんは満足そうに屋台を引いていった。
出たのは、その二日後の夜だった。
路地の奥、板塀と塀のあいだの暗がりに、白いものが浮いていた。
拳ほどの大きさで、地面から二尺ばかりのところをゆっくり漂っている。灯りのようにも見えるし、大きな羽虫のようにも見える。近づいたことはないから、どちらとも分からない。
金木犀が匂い始めると出る。匂いが終わると消える。毎年そうだった。
トキが子供の頃からいた。母もいると言っていたし、蕎麦屋のばあさんも見たことがあると言っていた。誰も名前をつけていない。名前をつけるほどのことでもなかった。蛍と同じで、季節が来れば出るものだった。
「出たね」
通りがかりの女が言った。
「出ましたね」
それだけの会話だった。
女は籠から竜胆を二本買って帰った。
近づいてきたのは、その夜だった。
トキは籠の水を替えていた。顔を上げると、白いものが路地の奥から、まっすぐこちらへ来ていた。
塀を離れて、路地を出て、石畳の上を渡ってくる。
トキは動かなかった。怖くはない。ただ、初めてだった。
十年以上、毎年見ている。あれが暗がりから出てくるのを見たのは初めてだった。
それは籠の前で止まった。
近くで見ても、やはり分からなかった。光のようでもあり、羽を畳んだ何かのようでもある。輪郭が定まらない。ただ、下のほうに手のようなものがあった。それだけははっきりしていた。細くて、白くて、指が四本あるのか五本あるのか、数えるとおかしくなりそうだったから数えなかった。
「花はいかがですか」
言ってから、自分でも少し驚いた。口が勝手に動いていた。
それは答えなかった。
代わりに、その手が動いた。
何かが差し出された。
トキは両手を出した。
載せられたものには、重さがあった。
大きさは、抱えるほどではない。両手で持てる。冷たかった。石よりは柔らかく、布よりは重い。目を落としても、輪郭がよく見えない。見えないのに、確かに手の中にある。
そして、金木犀の匂いがした。
籠の花からではない。手の中から匂っていた。
「これを」
声がした。
耳から入ってきたのか、それとも別のところから来たのか、あとになってもトキには分からなかった。ただ、低くも高くもない、普通の声だった。
「包んでください」
トキは手の中のものを見た。それから、相手を見た。
「持ち込みですけど、いいですか」
そう言ってから、間の抜けた確認だと思った。
「はい」
「包み代だけいただきます。花の分は要りませんから」
「はい」
商売の話をしている。相手も普通に応じている。それがいちばん妙だった。
トキは足元の風呂敷を開いた。中に、畳んだセロファンが入っている。花屋から分けてもらったもので、いい紙ではない。皺が寄りやすいし、切り口が波打つ。それでも夜の灯りの下では、これが一番きれいに見えた。
一枚を引き出す。
音が響いた。
石畳の路地は静かだった。虫の声と、遠くの犬と、それだけの夜に、セロファンの音だけが場違いに大きく鳴った。あの、乾いた、割れるような音。
トキは手を止めた。
相手は待っていた。急かさなかった。
「どんなふうに包みましょうか」
「どんなふうにできますか」
「筒にするか、平たくするか、あとは袋みたいにも」
「袋に」
「口は閉めますか」
少し間があった。
「閉めてください」
トキは膝をついた。石畳が冷たい。セロファンを広げ、四隅を持ち上げて、手の中のものをそっと沈めた。
いつもより手間取った。
形が定まらないものを包むのは初めてだった。花なら茎の向きが決まっているし、根本を持てばいい。これは持つところがない。押さえれば逃げるし、放せば崩れる。
「動きますか」
「動きません」
「なら、私の手が下手なだけですね」
言ってから、相手のほうを見た。
笑ったのかどうかは分からなかった。ただ、白いものが少しだけ揺れた。
トキは手を変えた。下から支えるのをやめて、セロファンごと持ち上げる。すると急に落ち着いた。紙の内側で、中身が自分の重さで底に落ち着いた音がした。
「できました」
口をひねって、細く絞る。麻紐を巻いて、二度結ぶ。
そこで、手が止まった。
籠の底に、金木犀の枝が一本入っていた。
売り物ではない。
三日前、路地の塀の外にはみ出していた枝が、風でだいぶ落ちていた。掃除の邪魔だろうと思って拾い集めていたら、一本だけ折れずに残っているのがあった。捨てるのも惜しくて、籠の底に入れたままにしていた。
売れるものではない。金木犀は切り花にならない。摘めばすぐ終わる。花屋にも置いていない。だからこれは、ただ自分が好きで持っているだけのものだった。
トキはそれを取った。
三日経った枝だった。花は半分ほど落ちて、残りも色が褪せている。指で触れると、粉のように散った。
それでも、まだ匂った。
紐と紙のあいだに差し込む。少し斜めに。
代金にはならない。誰が見るものでもない。そもそも相手は金木犀の匂いをさせているのだから、こんなものは要らないはずだった。
それでも差した。
「おまけです」
トキは言った。
「要らなかったら抜いてください」
白いものは、しばらく動かなかった。
それから、抜かなかった。
「いくらですか」
「十銭で」
支払われた。
何がどう置かれたのか、トキにはよく見えなかった。ただ、気がつくと籠の縁に硬貨が二枚載っていた。冷たくなかった。手のひらで温められたあとの温度だった。
トキは包みを差し出した。
「お待たせしました」
相手はそれを受け取った。
そして、そのまま持っていた。
トキは待った。行くだろうと思っていた。だが、動かない。
だから、聞いてしまった。
「贈り物ですか」
「はい」
「そう見えました。包み方を気にされたので」
「贈答用です」
トキは笑った。
「じゃあ、もう少しきれいに包めばよかったですね」
「これでいいです」
そこで終わってもよかった。
けれど、トキはもう一つ聞いた。理由はなかった。夜が長かったからかもしれないし、その晩は客が少なかったからかもしれない。あるいは、初めて話した相手だったからかもしれない。
「どなたに差し上げるんですか」
包みが差し出された。
トキの前に。
「あなたに」
トキは両手で受け取った。
受け取ってから、何を言えばいいのか分からなかった。
礼を言うべきなのだろうと思った。だが、自分が包んだものを自分が受け取っているのだから、礼を言うのも変な気がした。
顔を上げたとき、白いものはもう石畳の半ばまで戻っていた。
止まらなかった。振り返りもしなかった。
板塀と塀のあいだの暗がりに入って、いつもの高さに浮いて、それきりいつもどおりになった。
トキは包みを抱えたまま、しばらく立っていた。
セロファン越しに、中は見えない。皺が光を散らして、白く曇っている。透けているのに、何も分からない。
開けなかった。
開けようとも思わなかった。
蕎麦屋のばあさんが屋台を引いて戻ってきた。
「まだいたの」
「もう帰ります」
「何それ」
トキは包みを見た。
「もらいました」
「誰に」
「分かりません」
ばあさんは、そう、とだけ言った。それ以上は聞かなかった。この街の年寄りは、そういうことを深く聞かない。
「気をつけてお帰り」
「はい」
籠を提げ、包みを胸に抱えて、トキは坂を上がった。
夜半を過ぎて、冷えはいっそう強くなっていた。息が白い。指の感覚はとうにない。
それでも、胸のところだけが温かかった。
包みが温まっていた。受け取ったときは冷たかったのに、抱えて歩いているうちに、体温がうつったのか、それとも中身が変わったのか、分からない。
トキは足を止めて、匂いを嗅いだ。
紙のあいだに差した枝は、もう花がほとんど落ちていた。
それでも、まだ匂った。
いや、と思い直した。
匂っているのは枝ではない。
顔を上げると、坂の上にも、下にも、塀の内側にも、どこにも見えないのに、夜じゅうに金木犀が満ちていた。
どこの木なのかは、やはり分からなかった。
トキは、もう探さないことにした。
包みを抱え直して、坂を上がっていった。