Sillage 作:匿名
幕間_蛍
風呂に入る前に、一本吸う。
サッシを開けると、部屋の空気が押し出されて、入れ替わりに外のが入ってくる。夜のほうが少し重い。
南向きなので、正面に山が見える。
黒い。輪郭だけがある。中腹の灯りがいくつか光っていて、それが動かない。毎晩同じ位置にある。
近いのに、登ったことは数えるほどしかない。
灯りは五つか六つある。数えたことはあるが、覚えていない。数えたのに覚えていないので、たぶん次に数えても同じ数にはならない。
何の灯りなのかは知らない。展望台があるらしいことは知っている。ロープウェイもあるはずだが、乗ったことはない。
蛍が出る場所もあるらしい。時期になると人が見に行くと聞いた。実物は見たことがない。見に行こうと思ったこともない。
消える時刻があるのかどうかも分からない。風呂に入って出てくるころには、こちらはもう窓を見ていない。
朝は見えない。灯りがついていないのか、明るくて見えないだけなのかも分からない。確かめようと思ったことは何度かあって、そのたびに忘れている。
大学二年の冬から吸っている。
そのころ付き合っていた人と別れた。それとつながっているのかどうかは、今となってはよく分からない。
始めたことだけ覚えていて、始めた理由のほうは、いつのまにか手元になくなっている。
部屋の中では吸わない。決めたわけではないが、一度も吸っていない。灰皿はベランダに置いてある。前は流しの下にしまっていて、そのころは吸うたびに出していた。いつから出したままなのかは覚えていない。
火をつける。
風がある日は、手で囲う。ない日は、そのままつく。
一口目を吸って、上に向けて吐く。煙が街灯のところまで上がって、そこで見えなくなる。
下の道を、たまに車が通る。
隣の部屋のベランダには、洗濯物が出しっぱなしになっている。もう何日もそのままだ。
半分ほど吸ったところで、何も考えていないことに気づく。
考えていないというより、考えるものがない。
明日の仕事のことは、外に出る前に一度考えて、それきり止まっている。山を見ているが、見ようと思って見ているわけではない。ただ正面にある。
灰が長くなって、落ちた。
吸い終わる。
灰皿に押しつけて、消す。
そのまま少し立っている。
すぐ入ってもいいのだが、毎回そうしない。だいたい一分か二分、何もしないで外にいる。
冬は寒い。夏は虫が来る。それでも同じだけ立っている。
山の灯りは、まだ同じ位置にある。
サッシを開ける。
入って、閉める。
鍵をかける。
部屋は蒸し暑かった。
つけっぱなしのテレビが、まだ同じ番組をやっている。
タオルを取って、風呂場へ行った。