Sillage 作:匿名
Lost Cherry
阪神国道の駅を出て、二号線とは反対のほうへ二本入る。看板は小さい。出ていなければ休みだった。
扉を押すと、店は空いていた。
カウンターだけの店で、椅子が七つある。彼女は左から三番目に座った。
甘い匂いが、少し遅れて届いた。
マスターは何も言わずにおしぼりを出した。それから、何も聞かずにグラスを取った。
「今日ね、有給とってん」
一杯目が置かれた。
「昼から寝てた。ずっと。起きたら四時。何もしてへん。えらいわ、私。有給の使い方としては満点やんな。百点。表彰してほしいわ」
マスターはグラスを拭いていた。
「はい」
彼女は少し笑って、飲んだ。
「あ、これ。うん。これやわ」
しばらく黙って、それから続けた。
「マスター、聞いてくれる」
「はい」
「聞いてくれるよな。ここ来る人みんなそうやろ。ええねん、返事せんでも」
「十月十九日ね。日曜。あの日、私、実家帰っててん。徳島。母の誕生日やったから。前の日に高速バス予約して、朝の八時のに乗って、着いたんが十時半」
「あの人は仕事や言うてた。日曜やのに。あ、でもあの人の会社そういうとこあるから、別に。ほんまに。土曜出勤も普通にあったし」
「で、帰ってきたんが月曜の夜。九時過ぎ。うちに寄るって言うたら、今日は疲れてるからって」
グラスを両手で持った。
「それだけやったらね。何も思わへんかったと思う」
二杯目を頼んだ。
「洗面所にな」
「はい」
「置いてあってん。ヘアゴムが。黒いやつ。細いの」
「私、あれ使わんのよ。髪痛むから。太いやつしか使わんの。だから、あ、これ私のちゃうわって、それだけやってんか。最初は」
「聞いた。誰のって。そしたら妹のって言うた」
「あの人、妹おらんねん」
笑った。
「おらんのよ。三人兄弟の下から二番目で、上に兄貴、下に弟。私、両方会うたことあんねん。結納の話しに行ったとき」
「なんで妹って言うたんやろな」
飲んだ。
「たぶんなー、咄嗟に出たんやと思う。妹のって、一番言い訳っぽくないやん。実際そこで私が黙ってたら終わってた話やもん」
「十一月に入ってから、いろいろ出てきて」
マスターは氷を割っていた。
「詳しいこと言うても面白くないから、まあ、そういうことよな。はい。さくちゃんやって。」
グラスを持ち上げて、置いた。
「あ、でもこれは言うわ。式場。万博公園の、迎賓館の」
「はい」
「予約したん去年の四月やねん。四月十三日。日曜。二人で見に行って、その場で決めて、内金入れて」
「桜な、もう散っとった。ほぼ葉っぱだけ。まあ四月の半ばやしな」
「内金十万。キャンセル料はね、十二万八千円。契約書に書いてあんねん。九十日前を切ったら二十パーセントって。ちゃんと読んでたんやで私。読んでたけど、そんなん自分に関係あると思わへんやん普通」
「半分出す言うてきた。六万四千円。振り込みますって、メッセージで」
「メッセージで」
もう一口飲んだ。
「とはいえ、払うって言うだけマシなんかな。知らんけど。全部出せよな。」
三杯目が置かれた。
「指輪はなー、私が返した」
「返さんでええって言われたけど、いや要らんやろって。持っといても仕方ないやん。売ったところで二束三文やし。あ、調べたんやで一応。買取。三分の一以下やった。ひどない?」
「せやから返した。箱ごと。郵送で。着払いにしたろかと思ったけど、なんかそれもダサいから普通に送った。八百四十円やった、レターパック」
「送ったあと、なんも来えへんかった。届きましたも」
グラスの中で氷が動いた。
「別にええねんけどな。もう関係ないし」
「マスター、私さ」
「はい」
「あの人のこと、そんな好きやったんかな」
マスターは手を止めなかった。
「いや、好きやってんで。好きやったから結婚するって話になってんし。せやけど、なんていうん」
少し間があった。
「二年やん。こっち来て二年。ここ来るようになったんもそのくらいやんな」
「そうですね」
「私、大学出て就職して、こっち出てきて、それだけやねん。それしかしてへん。仕事覚えて、部屋借りて、この人と結婚するんやなって思って。それで二年」
「そう思うとさ」
言いかけて、やめた。
「あ、ここのお通しさ、変わった? 前、豆やったやん」
「今は季節のもので」
「へえ。おいしい。前のも好きやったけど」
四杯目のあたりから、同じ話が二回出た。
ヘアゴムの話をもう一度した。細いやつやってん、私太いのしか使わへんねん、と同じ順番で言った。
マスターは同じように聞いた。
そのあと、十月十九日が日曜だったことをもう一度言った。
「日曜やってん。あの日」
「はい」
「そんで四月の下見んとき、桜もう散っとってん。葉桜。ほぼほぼ葉っぱ」
グラスを回した。氷がぶつかった。
「あ」
彼女が顔を上げた。
「マスター。今きづいた」
「はい」
「春に桜散っとって、秋にさくちゃんやろ」
「秋の桜て」
一拍おいて、
「コスモスやんけ」
自分で笑った。カウンターを一回叩いて、しばらく笑っていた。
マスターは氷を割っていた。手は止まらなかったし、顔も動かなかった。
彼女の笑いが少し小さくなった。
「今の、うまない?」
「はい」
「うまいやろ。秋桜。書くやん、秋の桜って」
「はい」
「いや、うまいて」
そこで止まった。
外を、車が通った。二号線の音が、扉の向こうから薄く入ってきていた。閉めていても抜けなかった。
彼女はグラスを両手で持ったまま、何も言わなかった。
水滴が、コースターに輪をつくっていた。
「マスター」
「はい」
「お会計」
伝票を置いた。彼女は財布を出して、数えて、少し多めに置いた。
「おつり、ええわ」
「ありがとうございます」
立ち上がって、椅子の背にかけていた上着を取った。袖を通すのに手間取って、一度やり直した。
鞄を肩にかけた。
それから、扉のほうを向いたまま言った。
「私な」
「はい」
「地元、帰ることにしてん」
マスターは顔を上げた。
「来月末で辞めるけん。もう言うてある」
そのひとことだけ、音が違った。
「実家。徳島」
「そうですか」
「あっちで仕事も決まってんねん。前から声かけてもろてて。ちょうどええかなって」
「はい」
「まあ、こっちは二年おったけどね。二年やしね」
マスターは、しばらく何も言わなかった。
それから、頭を下げた。
「お元気で」
「うん」
扉を開けた。
風が入った。二号線の音が、一瞬だけ大きくなった。
彼女は振り返らなかった。
扉が閉まった。
店に、甘い匂いが残っていた。
マスターはグラスを片づけて、コースターの輪を拭いた。左から三番目の椅子を、まっすぐに戻した。
外へ出て、扉の札を裏返した。
CLOSE
戻って、扉を閉めた。
匂いは、もうしなかった。