Sillage   作:匿名

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第二章「甘いもの」
Lost Cherry


阪神国道の駅を出て、二号線とは反対のほうへ二本入る。看板は小さい。出ていなければ休みだった。

 

扉を押すと、店は空いていた。

 

カウンターだけの店で、椅子が七つある。彼女は左から三番目に座った。

 

甘い匂いが、少し遅れて届いた。

 

マスターは何も言わずにおしぼりを出した。それから、何も聞かずにグラスを取った。

 

 

「今日ね、有給とってん」

 

一杯目が置かれた。

 

「昼から寝てた。ずっと。起きたら四時。何もしてへん。えらいわ、私。有給の使い方としては満点やんな。百点。表彰してほしいわ」

 

マスターはグラスを拭いていた。

 

「はい」

 

彼女は少し笑って、飲んだ。

 

「あ、これ。うん。これやわ」

 

しばらく黙って、それから続けた。

 

「マスター、聞いてくれる」

 

「はい」

 

「聞いてくれるよな。ここ来る人みんなそうやろ。ええねん、返事せんでも」

 

 

「十月十九日ね。日曜。あの日、私、実家帰っててん。徳島。母の誕生日やったから。前の日に高速バス予約して、朝の八時のに乗って、着いたんが十時半」

 

「あの人は仕事や言うてた。日曜やのに。あ、でもあの人の会社そういうとこあるから、別に。ほんまに。土曜出勤も普通にあったし」

 

「で、帰ってきたんが月曜の夜。九時過ぎ。うちに寄るって言うたら、今日は疲れてるからって」

 

グラスを両手で持った。

 

「それだけやったらね。何も思わへんかったと思う」

 

 

二杯目を頼んだ。

 

「洗面所にな」

 

「はい」

 

「置いてあってん。ヘアゴムが。黒いやつ。細いの」

 

「私、あれ使わんのよ。髪痛むから。太いやつしか使わんの。だから、あ、これ私のちゃうわって、それだけやってんか。最初は」

 

「聞いた。誰のって。そしたら妹のって言うた」

 

「あの人、妹おらんねん」

 

笑った。

 

「おらんのよ。三人兄弟の下から二番目で、上に兄貴、下に弟。私、両方会うたことあんねん。結納の話しに行ったとき」

 

「なんで妹って言うたんやろな」

 

飲んだ。

 

「たぶんなー、咄嗟に出たんやと思う。妹のって、一番言い訳っぽくないやん。実際そこで私が黙ってたら終わってた話やもん」

 

 

「十一月に入ってから、いろいろ出てきて」

 

マスターは氷を割っていた。

 

「詳しいこと言うても面白くないから、まあ、そういうことよな。はい。さくちゃんやって。」

 

グラスを持ち上げて、置いた。

 

「あ、でもこれは言うわ。式場。万博公園の、迎賓館の」

 

「はい」

 

「予約したん去年の四月やねん。四月十三日。日曜。二人で見に行って、その場で決めて、内金入れて」

 

「桜な、もう散っとった。ほぼ葉っぱだけ。まあ四月の半ばやしな」

 

「内金十万。キャンセル料はね、十二万八千円。契約書に書いてあんねん。九十日前を切ったら二十パーセントって。ちゃんと読んでたんやで私。読んでたけど、そんなん自分に関係あると思わへんやん普通」

 

「半分出す言うてきた。六万四千円。振り込みますって、メッセージで」

 

「メッセージで」

 

もう一口飲んだ。

 

「とはいえ、払うって言うだけマシなんかな。知らんけど。全部出せよな。」

 

 

三杯目が置かれた。

 

「指輪はなー、私が返した」

 

「返さんでええって言われたけど、いや要らんやろって。持っといても仕方ないやん。売ったところで二束三文やし。あ、調べたんやで一応。買取。三分の一以下やった。ひどない?」

 

「せやから返した。箱ごと。郵送で。着払いにしたろかと思ったけど、なんかそれもダサいから普通に送った。八百四十円やった、レターパック」

 

「送ったあと、なんも来えへんかった。届きましたも」

 

グラスの中で氷が動いた。

 

「別にええねんけどな。もう関係ないし」

 

 

「マスター、私さ」

 

「はい」

 

「あの人のこと、そんな好きやったんかな」

 

マスターは手を止めなかった。

 

「いや、好きやってんで。好きやったから結婚するって話になってんし。せやけど、なんていうん」

 

少し間があった。

 

「二年やん。こっち来て二年。ここ来るようになったんもそのくらいやんな」

 

「そうですね」

 

「私、大学出て就職して、こっち出てきて、それだけやねん。それしかしてへん。仕事覚えて、部屋借りて、この人と結婚するんやなって思って。それで二年」

 

「そう思うとさ」

 

言いかけて、やめた。

 

「あ、ここのお通しさ、変わった? 前、豆やったやん」

 

「今は季節のもので」

 

「へえ。おいしい。前のも好きやったけど」

 

 

四杯目のあたりから、同じ話が二回出た。

 

ヘアゴムの話をもう一度した。細いやつやってん、私太いのしか使わへんねん、と同じ順番で言った。

 

マスターは同じように聞いた。

 

そのあと、十月十九日が日曜だったことをもう一度言った。

 

「日曜やってん。あの日」

 

「はい」

 

「そんで四月の下見んとき、桜もう散っとってん。葉桜。ほぼほぼ葉っぱ」

 

グラスを回した。氷がぶつかった。

 

「あ」

 

彼女が顔を上げた。

 

「マスター。今きづいた」

 

「はい」

 

「春に桜散っとって、秋にさくちゃんやろ」

 

「秋の桜て」

 

一拍おいて、

 

「コスモスやんけ」

 

自分で笑った。カウンターを一回叩いて、しばらく笑っていた。

 

マスターは氷を割っていた。手は止まらなかったし、顔も動かなかった。

 

彼女の笑いが少し小さくなった。

 

「今の、うまない?」

 

「はい」

 

「うまいやろ。秋桜。書くやん、秋の桜って」

 

「はい」

 

「いや、うまいて」

 

そこで止まった。

外を、車が通った。二号線の音が、扉の向こうから薄く入ってきていた。閉めていても抜けなかった。

 

彼女はグラスを両手で持ったまま、何も言わなかった。

 

水滴が、コースターに輪をつくっていた。

 

 

「マスター」

 

「はい」

 

「お会計」

 

伝票を置いた。彼女は財布を出して、数えて、少し多めに置いた。

 

「おつり、ええわ」

 

「ありがとうございます」

 

立ち上がって、椅子の背にかけていた上着を取った。袖を通すのに手間取って、一度やり直した。

 

鞄を肩にかけた。

 

それから、扉のほうを向いたまま言った。

 

「私な」

 

「はい」

 

「地元、帰ることにしてん」

 

マスターは顔を上げた。

 

「来月末で辞めるけん。もう言うてある」

 

そのひとことだけ、音が違った。

 

「実家。徳島」

 

「そうですか」

 

「あっちで仕事も決まってんねん。前から声かけてもろてて。ちょうどええかなって」

 

「はい」

 

「まあ、こっちは二年おったけどね。二年やしね」

 

マスターは、しばらく何も言わなかった。

 

それから、頭を下げた。

 

「お元気で」

 

「うん」

 

扉を開けた。

 

風が入った。二号線の音が、一瞬だけ大きくなった。

 

彼女は振り返らなかった。

 

扉が閉まった。

 

店に、甘い匂いが残っていた。

 

マスターはグラスを片づけて、コースターの輪を拭いた。左から三番目の椅子を、まっすぐに戻した。

 

外へ出て、扉の札を裏返した。

 

CLOSE

 

戻って、扉を閉めた。

 

匂いは、もうしなかった。

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