私の周りの困ったさん   作:劇団おこめ座

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 2話完結のシリーズものを書こうと思い作成しました。
 いつもよりTS感は弱いと思いますが、気に入っていただけたら幸いです。


1話 騒音トラブル

 私はおじさんである。

 正確には元おじさんである。

 悲しいかな、現代に女の子として転生した。

 はっきり言って美少女だ。

 赤子から育つにつれて、あからさまに美少女だった。

 程よく艶のある髪に、二重まぶたの大きな瞳。誰にでも優しそうな少し垂れた目に、不思議なほどいい匂い。平均身長よりもやや小柄な感じが周りに安心感と守ってあげたい感覚を植え付ける。

 チートだ。こんなのチートだ。

 と言うか、人生2回目と言う時点でチートである。

 とは言ったものの、チートを活かせるほど、私はしたたかに生きたくはなかった。

 前世では、それなりに辛いこともあった。

 物理的にも精神的にも酷く汚いものも見てきた。

 世の中の嫌なところも、それなりに知っている。

 どんな最後を迎えたかは覚えていないが、人様に語れるような経験談も誇れるような英雄譚もない。

 だから、身の丈にあった人生を歩もうと思った。

 背伸びした評価や有効活用できないようなお金も持ちたくない。おそらく、ろくな目に合わないだろう。

 静かに本や映画でも見て、美味しいものを食べて。時々旅行でもして……。

 そのまま、穏やかに人生を終えたい。

 でも、人生というものは、こちらの希望など聞いてくれない。

 

 今世の両親を不安にさせないために、それなりに勉強した。

 学校にも真面目に通ったし、今も通っているわけだけど。

 その結果、前世の経験がある分、どうしても普通の子供より少しだけ要領がいいし、物分かりもいい。

 それに加えて……まあ、控えめに言っても美少女だった。

 親からすれば、

 

『うちの子は頭もいいし、可愛いし、しっかりしている』

 

 という、たいへん自慢の娘だったのだろう。

 だから、親は、私に人生経験を積ませようと考えた。

 

 高校一年生はまだ子供だけど、手際の良いうちの娘なら、一人暮らしを早くから経験させてやろう。

 

 きっと、そう考えたのだと思う。

 どうしても消し去ることはできない人生経験の勘や所作から、大人びた子供に見えてしまったようで、私は強く後悔した。

 

 そして、こんな見た目で一人暮らしをすれば、何かと絡まれやすい。そのことに、私自身がまだ気づいていなかった。

 

ーーー

 

 いつもの早朝。

 アラームがなる前に起きてしまう。

 

「……ん……」

 

 薄暗い部屋の天井をぼんやり眺める。まだ眠い。

 できることなら、あと三十分くらい寝ていたい。

 だけど。寝れば遅刻するだろうな、と思いベッドからはい出て、キッチンに向い、コーヒーを淹れる。朝の始めのコーヒー、これだけは前世からやめられない。

 少し苦い香りが、眠気の残った頭をゆっくりと目覚めさせていく。

 

「……朝はやっぱりこれだな」

 

 耳に入る声は可愛らしいのに、おっさん臭丸出しの言葉使いだ。人前では気をつけなければ。

 

 冷蔵庫から食パン一枚を冷蔵庫から取り出して、トーストにするのは面倒で、すぐに口にくわえた。

 すると、呼び鈴が鳴った。

 

 こんな朝早くに、誰だ?

 

 ちらりと時計を見ると、まだ学校に行くには少し早い時間だ。

 新聞なんて取ってないし、そもそも新聞ならポストに投げ込まれるだけだし、宅配便にしては時間が早すぎる。

 私はインターホンの画面を確認する。

 そこに映っていたのはショートボブの高齢の女性だった。

 髪には少し白髪が混じっており、それを紫色に染めていた。

 年齢は70歳くらいで、寝間着の上からカーディガンを羽織っている。

 どこかで見たような……でも、どう見ても、私の知り合いではない。

 

 私は少し迷ったが、相手が女性だったこともあり、私の歯形が残ったパンを皿に置いて玄関を開けた。

 

 それが間違いだった。

 

「あんたね! こんな朝早くから大音量でテレビをつけて、迷惑なのよ!」

 

 女性が、いきなり声を張り上げ、噛み付くように怒鳴り込んできた。

 私は寝起きの頭で、状況を飲み込むのに数秒かかった。

 私は玄関先で固まったまま、何度か瞬きをする。

 

「え、あの……テレビ、うちにはないんですけど」

 

「とぼけないで!」

 

 とぼけないで、という声だけが共同住宅の廊下に、きれいにこだました。全く、内容はきれいでもなんでもないけれど。

 

「毎朝毎朝、壁越しにガンガン響いてくるのよ! こっちは眠れやしない!」

 

 女性の目は充血していた。寝巻きの上のカーディガンを握りしめた拳が小刻みに震えている。

 

「本当に、テレビはないんです。良かったら中、見てもらえますか」

 

 私は部屋の中を振り返って、どうぞと指示した。

 私はそもそもテレビを見る習慣がない。

 前世でもほとんど見なかったし、今世でも必要性を感じなかったので買っていない。

 

「嘘でしょう?」

 

「嘘じゃないです」

 

 私は玄関を大きく開けた。おばあちゃんは疑わしそうな顔のまま部屋に上がり込むと、ベッドの下、本棚の裏、クローゼットの中まで、一つ一つ覗き込んでいった。

 

「どうせ、ババアだと思って隠して笑っているんでしょ!」

 

 ローテーブルの下に膝をつき、コンセントの差し込み口まで確かめる念の入れようだった。

 

 やがて、探すものが見当たらないと分かると、その場にしゃがみ込んだまま動かなくなった。

 

「……あの、どうかしたんですか?」

 

 私はしばらく黙って、それだけを聞いた。

 

 おばあちゃんは俯いたまま、しばらく答えなかった。それから、絞り出すような声で言った。

 

「……本当に、どこからか聞こえるのよ。朝も、昼間、夜だって……誰に言っても、気のしすぎじゃないか、と言って取り合ってもらえなくて」

 

 肩が小さく震えていた。

 

「もう、誰を頼ればいいのか分からなくて……」

 

 その言葉には、怒りよりも疲れがにじみ出ていた。

 

 私は少し考えてから、床にしゃがんだままのおばあちゃんに目線を合わせた。

 

「良かったら、少しお話聞かせてもらえますか」

 

 

 

 おばあちゃんの名前は真田小春さん。今年で73歳になる人だ。

 2年前に旦那さんを亡くし、同居する家族はいなく、時々息子さんやら娘さんが様子を見に来ているそうだ。

 去年頃からテレビの音やどこからか来る足音などの生活音に悩まされているらしい。

 

「この前なんか、真夜中にトイレの流す音が何度も聞こえて、起こされてね……走り回る足音も聞こえて……」

 

 走り回るか……足音が聞こえると言うことは、上の階か……。まあ、確かに足音はたまに聞こえるけれど……。

 

「どこから聞こえてくるように感じますか?」

 

「どこからわかったら苦労しないわ!」

 

 小春おばあちゃんよ目つきが険しくなった。それ以上、深掘りはしない方が良さそうだ。

 

「とりあえず、大家さんか管理会社に相談してみましょう」

 

 集合住宅における騒音トラブルの鉄則は、自分で直接交渉せず、物件の大家さんや管理会社を通すことだ。

 管理会社には契約内容の変更や、最悪の場合は契約更新の拒否や退去勧告を出す権限がある(もちろん借主保護の法律があるため簡単ではないが)。普通の居住者であれば、自分が周囲に迷惑をかけていると知れば改善しようとするし、第三者である管理会社からの注意には一定の効力がある。

 もしそれを無視し続ける悪質な入居者であれば、連帯保証人や職場へ連絡が行き、ブラックリストとして同系の管理会社間で情報が共有されることだってある。つまり、改めて別の物件を借りようとした場合、今回の管理会社が関係していれば契約を拒否される。

 次に……

 

「どうしても変わらなければ警察に通報するという手もあります」

 

 警察は騒音トラブルにも対応してくれる。24時間即時受付対応してくれる管理会社は少ないが、警察は24時間休みなく、通報すればほぼ間違いなく来てくれる。

 

「警察……! 警察が動いてくれるの!?」

 

「はい。ただ、警察は管理会社と違って賃貸契約をどうこうする権限はありません。『近所迷惑だからやめましょう』と注意するのが限界です。相手が大事になるのを嫌がって大人しくなるケースもありますが……」

 

 それに、叩かれて全く埃が出てこない人なんていないので警察が来ることを基本的に嫌がる。

 しかし、

 

『恥をかかされた』

『警察にチクった奴がいる』

 

と逆恨みを買う可能性が高い。

 だから、警察を利用する場合はハイリスクローリターンの諸刃の剣になる可能性があるので注意しなければならない。

 

「後は、録画とか録音することですかね」

 

 大家さんも管理会社も、ただ、うるさくて迷惑している、と入居者の声だけだとなかなか強く言えない。証拠となる録画動画などを見せれば、実際に起きていることだから言いやすいし、騒音発生先に具体的な注意ができる。

 

 順を追ってひとつひとつ説明すると、小春さんは憑き物が落ちたように胸を撫で下ろし、何度も何度も「ありがとうねぇ」と私の手を握りしめてから、自分の部屋へと帰っていった。

 パタン、と玄関のドアが閉まる。

 私はその場にへたり込み、深々と溜め息をついた。

 冷めてすっかりぬるくなったコーヒーを口に含み、苦味と強くなった酸味を噛みしめる。

 一人暮らしの高齢者にありがちな、話し相手への飢え、のせいか、同じ話を何度も何度もループされて大幅に時間を削られてしまった。

 歯形のついた食パンもカチカチだ。

 時計を見上げる。……うん、完全に遅刻決定だ。

 諦めて、やるべきことをしておくか。

 

「もしもし、◯◯市の福祉課さんですか? となりの高齢者が困っていると話していて、こちらに連絡してないかな、と思って連絡したんですけど……」

 

 困った時は早めの行政。

 高齢者の困り事の時は福祉課とか地域包括支援センターの窓口だ。

 

ーーー

 

 一週間後、深く目にクマを作ったおばあちゃん、真田小春さんが私の部屋の呼び鈴を鳴らした。

 

「足音が酷いのよ。上の階の人。朝から晩までずっと走り回っていて……さっきも、うるさかったのよ」

 

 そう言って、スマホを渡された。

 

「うまく操作できなくて、録画出来なかったの。やり方教えてくれないかしら」

 

 そう言われて小春おばあちゃんのスマホを操作する。

 

「このカメラみたいな絵のところありますよね。これを触ると、下にビデオと書かれた場所を押して、赤いボタンを押すとできます」

 

「あらあら、こんな風に操作するのね」

 

 感心して小春おばあちゃんはスマホを覗き込んだ。

 何度か操作方法を説明して、最後はやり方を紙に書いて渡した。

 小春おばあちゃんが、とても感謝して、

 

「大したお返しはできないけれど、晩御飯、うちで食べていかないかい?」

 

と言ってきた。余程、嬉しかったのだろう。

 誰かに親切にされて、こんなにも喜べる人が、そしてお礼をしようとする人が、どうして、こんな目に遭うんだろう。

 神様ってやつは不公平なんだろうな。

 柄にもなく、そんなことを思った。

 

 でも、私は丁寧に断り、帰ってもらった。

 

 

 

 ふと気になり、一つ上の階に上がる。

 小春おばあちゃんの部屋の丁度一つ上の部屋。

 表札は置かれてない。

 

 さっきもうるさかったか……

 

 部屋の前に立つが足音だとか生活音、テレビの音は聞こえない。

 ここまでする必要がないよな……でも、やるか、とため息をはいて、玄関ドアに耳を当てる。

 ブオンブオンと遠くで冷蔵庫のコンプレッサーの音が聞こえるくらい。

 人がいるにしては静かだった。

 ちょうどタイミング良く、外出したタイミングなのだろうか。

 するとエレベーターが上がる音が聞こえてきて、ドアから耳を離す。

 やっていることは完全な不審者なのだ。

 善意とはいえ、不審者だ。

 何食わぬ顔でその場から離れていくと、エレベーターから身長の高い女性が向かってきた。少し痩せ気味で、目の下にはクマができていた。スーパーのビニール袋にお菓子やら牛乳、食料品を抱えて少し大きめのリュックサックを担いでいた。髪は少し明るめの茶色に染めていた。

 切れ長の瞳が私に目を向ける。

 冷たい眼差しだった。

 すぐに興味をなくしてそのまままっすぐ進んだ。

 私はすれ違って、数歩歩きしゃがんで、靴紐をわざと解いて、ゆっくりと結び直し始める。

 ガチャガチャと鍵を回す音とかちゃりと落ちる音が聞こえた。

 空気が吸われるような、扉を開ける音が聞こえた瞬間、顔をそちらに向けた。

 勝手に閉まっていくドアは、あの、小春おばあちゃんが困っていた上の階の部屋のドアだ。

 扉は勢いよく音を立てて閉まった。

 

 その時、先ほどはなかったネックストラップに繋がったカード入れ……ネームプレートが共用通路内に落ちていた。

 小春おばあちゃんが困っていた騒音源と思われる部屋の前だ。

 それをすっと拾う。

 職場と名前が書かれていた。

 呼び鈴をして、それを返しつつ、世間話を交えてその場から離れた。

 

 彼女は、思っていたより普通の人だった。

 少なくとも、話した限りでは。

 

ーーー

 

 ある日の夜の9時ころ。

 エアコンをつけるほどでもないし、外の夜風の方がいいなと思って、窓を開ける。

 時折、車の通り過ぎる音や飲み会帰りの機嫌良さげなグループの声が聞聞こえた。

 学校から出された課題を広げて、ペンを走らせ、しばらく時間が経ったころ、呼び鈴が鳴らされた。

 こんな時間に誰だろう、と足音を小さくして、呼び鈴のカメラの前に立つ。

 

 水色の半袖ワイシャツに紺色の重たそうなベストに無線機などをくくりつけた、お巡りさんが立っていた。

 

 こんな時間に?

 

 えっ、通報されるようなことしてない。

 

 詐欺の一種かな?

 

 などと頭に浮かぶが、また一人のお巡りさんが映り込む。

 少し遠かったので、腰には拳銃ホルスターや警棒が映っていた。

 

「上に当たってきます」

 

と述べて、画面外へ消えていく。

 多分本物のお巡りさんだろう。

 私は、玄関を開けて顔を出した。

 

「こんばんは。こんな時間にどうされました」

 

 お巡りさんは、申し訳なさそうな顔をしながら敬礼をし、所属と名前を名乗った。

 

「大変申し訳ありません。今、騒音苦情の通報を受けてこちらに伺ったのですが、こちらで大きな音を立てた、とか、大声で話したとかありましたか?」

 

「いいえ。静かに宿題していたので……」

 

 そう伝えると、お巡りさんは玄関の足元の方へ視線がいく。

 

「テレビをつけていたり、家族でお話ししていたりということはないですか?」

 

「テレビはないし、今一人なんで……あっ、配信なんかも興味ないのでしてません……部屋確認します?」

 

 お巡りさんは額に手を当て、

 

「いや、中の確認まではいいです。静かにされていた、ということであれば、騒音を感じませんでしたか? 足音とか……?」

 

「全く感じなかったんですよね」

 

 そう言って、私は小声で

 

「……隣の小春おばあちゃん、真田さんからですか?」

 

「あ……隣の人と知り合いなの?」

 

「騒音で困っていると相談されたことがあります。大家さんか管理会社に相談して見たら、と動画撮影で録音のやり方を教えたんですけど……録音できてました?」

 

「今回の通報が隣の人かどうかはお答えできませんが、その人にも騒音について聞いてみたけれど、録音はできてなかったね。あの紙、きみが作って渡したのかい?」

 

 私はお巡りさんの耳元に声を出す。するとお巡りさんは笑顔を作りながらメモをしていた。

 

「そうそう、未成年の方ですよね? 名刺をお渡ししますので、お母さんとか帰ってこられたら、このお巡りさん来て騒音の通報があって騒音源を探していたと伝えてください」

 

 丁寧に名刺を私に渡して、再度敬礼をした。その時に、上の階に行って来たお巡りさんが戻ってきて、私の目の前にいたお巡りさんに

 

「上の人はいつもどおり出てきませんね」

 

「多分、そうだろうね」

 

と話し合い、ため息を吐いて帽子を被り直した。

 

「じゃっ、親御さんにもよろしく伝えてくださいね」

 

 お巡りさんがドアを閉めて廊下を歩く足音が響く。

 小春おばあちゃんの部屋の前付近で足音が止まった気がしたので、自分のドアに耳を近づける。

 

「すみませーん、真田さん。ちょっといい?」

 

「注意してきたの?」

 

「今、音ないでしょ。聞いて回ってきたけれど、騒音源がはっきりしないから注意はできませんでした」

 

「はあ!? あんたたち二人も雁首揃えてきて無能なの!? 今は音が止まっているだけに決まっているでしょ! あんたらが来たら静かになるのは当たり前でしょ! 本当に警察は事件にならなかったら何もしないのね!」

 

 そんなやりとりが聞こえ、私はドアから耳を離した。

 

 

 

 土曜日、脱力してベッドの上でスマホをいじりながら過ごしていると呼び鈴がなる。

 モニターには、小春おばあちゃんが映っていた。

 パジャマで過ごしていたのもあり、居留守をしようか少し迷う。

 呼び鈴がもう一度聞こえて、急いで着替えて玄関ドアから顔を出す。

 

「ねえ、聞いてよ。役場の人が来たんだけど、腹立つのさぁ」

 

「結局は、私が引っ越しするように言ってきたの。静かな場所を紹介できるって。引越しするべきなのは上の階のうるさいやつなのに! だからね、税金泥棒って言ってやったの」

 

「ほんと、警察といい、役場といい、公務員は全部他人事。事なかれ主義の集まり」

 

「私だって馬鹿じゃない。足音なんだから上の部屋の人に決まっているでしょ」

 

「きっと、上の人は、警察や役場に知り合いがいるんでしょ!」

 

 小春おばあちゃんの口からマシンガンのように不満を吹き出していく。

 私はしばらく話を聞き、小春おばあちゃんが満足して帰っていくと、私は、財布と勉強道具を持って外に出た。

 

ーーー

 

 そろそろ寝よう、そう思い、部屋を暗くしてベッドに入る。

 

「もう我慢の限界!」

 

「あいつを殺して私も死ぬ!」

 

 物騒な言葉が聞こえて、飛び起きる。

 足音を立てないように、玄関ドアに近づき、スコープを除く。

 

 マジかよ……ヤバッ……。

 

 前世の口癖が、思わず漏れる。

 その姿に私は息を飲み、身体中に鳥肌が立った。

 目が充血してらんらんと輝く小春おばあちゃんが私の部屋を横切る。

 片手には出刃包丁が握られていた。

 小春おばあちゃんは、ふと、立ち止まり、私の部屋に顔を向けた。

 

「ごめんね、やっぱり、上の階のやつ、許せれないわ。私、やってくるね。あなたに迷惑かけたね」

 

 小春おばあちゃんは刃物を持ったまま、部屋を横切る。

 

 私は急いで県立総合病院に電話をかけた。

 震える指が、ボタンを何度も押し間違える。

 ようやく繋がり、急患ですかと聞かれた。

 

「塚田さんいます!? 塚田さんと同じマンションの斜め下に住んでいる者です。信じてもらえないかもしれないけれど、伝えてください! 塚田さんの下の階のおばあちゃん、包丁持って塚田の部屋に向かってます! 職場にいたら帰らないように、帰っていたら絶対部屋から出ないように連絡して! すぐ警察に電話します!」

 

 

 

 サイレンの音が近づき、やがて建物の下で止まった。

 複数の足音が階段を駆け上がってくる。無線のノイズ混じりの声。そして、その合間を縫うように、小春おばあちゃんの叫び声が響いた。

 

「邪魔しないで! あいつを殺して、私も死ぬんだから!」

 

「離してよ! 私は悪くない!」

 

「みんな、あいつの味方ばっかり……信じてくれない、嘘つき……」

 

「この前だって、部屋に忍者がいたのよ! あいつが放ったのよ!」

 

「薬も盗まれた! あの忍者が!」

 

 ドアの向こうから聞こえる声は、もう、私の前で健常だと振る舞っていた小春おばあちゃんのものではなかった。

 やがて、何かがぶつかる音、押し殺した怒号がマンションの通路に響き渡る。

 

 

 

「私は狂ってない! ボケてない! 認知症なんかじゃない……!」

 

 

             

 後に風の噂で聞いた話では、小春おばあちゃんは、医療施設に入院し、認知症の診断のもと、適切な治療を受け、適切な施設に引っ越した。

 

 小春おばあちゃんは、二度とこのマンションに戻って来ることはなかった。

 

 隣の部屋はしばらく空室になり、そんなことがあったとは知らないまま、また新しい誰かが引っ越してきた。

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