フリーザ、ヒーローになる ~宇宙の帝王がワンパンマン世界に墜ちた結果~ 作:&劉
宇宙には、静かな場所など存在しない。
音が伝わらないという意味では、宇宙は静かである。
だが、燃えている星がある。
惑星は無数のデブリを引き連れて回転している。
銀河は互いを引き裂きながら、途方もない速度で膨張している。聞こえないだけだ。
宇宙は、いつだって叫んでいるのだ。その絶叫の中を、一隻の宇宙船が進んでいた。
流線型の、所々に球体のようなオブジェが着いた巨大な船体が轟炎を吹かせながら星の海を泳いでいる。
その船の中、玉座のような座席で一人の小柄な異星人が腰かけていた。
白と紫の滑らかな体。
細く長い尾。
赤い瞳。
宇宙の帝王、フリーザである。
彼は頬杖をつき、窓の外に広がる星々を眺めている。その表情は穏やかだった。
だからこそ、部下たちは恐れていた。
怒鳴っているときよりも、こういうときのほうが危険だと、彼らはよく知っているからだ。
「それで?」
フリーザが言った。
「わたくしに、修行をしろと?」
正面に立っていた兵士の肩が跳ねた。
「は、はい。その、もちろん、ふ、フリーザ様はすでに宇宙最強のお方でございます。ただ、その……先日の戦闘を分析いたしますと……」
「先日の戦闘?」
「ブ、ブロリーというサイヤ人との……」
艦内の空気が固まった。
兵士は、自分がいま地雷を踏んだことを理解した。フリーザの口元には笑みがある。
しかし、尾の先端が床を叩いていた。
一度。
二度。
三度。
「わたくしが、一時間近くもの間殴られ続けた件ですか?」
こめかみに筋が一本走る。
「も、申し訳ございません!」
兵士は床に額をこすりつけた。
謝罪には、ほとんど意味がない。
命乞いには、さらに意味がない。が、面を合わす勇気などありはしない。
フリーザ軍の兵士たちは知っているからだ。フリーザが殺すと決めれば、相手が何を言っても殺す。殺さないと決めていれば、多少の無礼は見逃す。
すべては帝王の気分次第。だからこそ恐ろしいのだ。
幸運なことに、その日のフリーザは、部下を殺すよりも自分の敗北について考えることを優先していた。
敗北。
正確には敗北ではない、と彼は考えている。
あの場には孫悟空とベジータもいる。ブロリーは理性を失っていたうえに自分は不意を突かれた。そもそも、目的はドラゴンボールの回収だ。
言い訳なら、いくらでも思いつくが、どれほど言葉を並べても、身体に残った記憶までは消せなかった。
握られた巨拳。
岩盤に叩きつけられる背中。
内臓を揺さぶる拳。
視界いっぱいに迫る、怒りに染まったサイヤ人の顔。
あれほど長い時間、一方的に殴られたことはなかった。とんだ屈辱だった。
そして、フリーザは受けた屈辱を決して忘れない。
「続けなさい」
「は、ははぁっ!!ふ、フリーザ様は、わずか四か月の訓練で黄金の形態を獲得されました。したがって、適切な環境と優秀な修行相手さえ用意できれば、さらなる進化も十分可能かと…」
「優秀な修行相手、ですか」
フリーザは小さく鼻を鳴らした。
簡単に言ってくれる。
宇宙には強者が少ない。
いや、正しくは、フリーザにとって強者と呼べる存在が少ない。
一般的な星の戦士など、どれだけ集めても準備運動にすらならない。鍛錬とは、肉体に適切な負荷を与える行為である。触れただけで壊れてしまう玩具を、いくら並べても意味はない。
候補であるのは破壊神ビルス。魔人ブウ、孫悟空やベジータであるが…それはありえない。
何より、ヤツらに自分から修行を申し込むなど、死んでも御免だった。
「それで、何か当てがあるのでしょうね?」
「ご、ございます…!」
兵士は震える手で端末を操作した。
空中に、青い惑星の映像が浮かび上がる。
地球によく似ていた。
青い海。白い雲。複数の大陸。
「辺境宙域で発見された惑星です。名称は不明。特殊な時空歪曲層に覆われており、外部とは時間の流れが異なっています」
「…聞いたことがあります。地球にあると言われる、外部と時空の流れが違う場所。精神と時の部屋、と言われていたような気がします」
「は、はあ…そのことについてはわかりかねますが、おそらくは近いものかと。内部で長期間を過ごしても、我々の宇宙ではわずかな時間しか経過しない可能性があります」
「なるほど」
「さらに、遠距離観測によれば、この惑星では強力な生命反応が頻繁に出現しています」
空中映像が切り替わった。
巨大な昆虫。
海から出現する怪物。
街を踏み潰す巨人。
地下から這い出す異形の群れ。
フリーザは目を細めた。
「ずいぶんと品のない生物ばかりですね」
「ですが、戦闘能力の測定値には大きな幅があります。修行相手として適した個体が存在する可能性も――」
「わかりました」
フリーザは椅子から立ち上がった。
その瞬間、部下たちは一斉に背筋を伸ばした。
「行ってみましょう」
「はっ!」
「つまらない星でしたら、破壊して帰ればいいだけのことです」
それは、旅行先の食事が口に合わなければ店を変えればいい、とでも言うような口調だった。
宇宙船は進路を変更した。
青い惑星が、少しずつ大きくなっていく。
その惑星の名はーーー地球。
だが、フリーザが知る地球とは違う。
大陸の形も、都市の構造も違う。
そしてそこには、孫悟空も、ベジータもいない。代わりに、一人の男がいた。
趣味でヒーローをやっている男が。
宇宙船が惑星の大気圏に差しかかったとき、最初の異変が起こった。
船体が大きく揺れた。床が傾き、立っていた兵士たちが壁に叩きつけられる。
警報の赤い光と騒音が艦内を染める。
『警告。機体前方に高密度時空断層を確認』
「な、何だと!」
操縦席の兵士が叫ぶ。
モニターには、紫色の稲妻が無数に走っていた。それは雲ではない。
空間そのものが裂けているのだ。宇宙船の船首が見えない壁に衝突した。
金属が泣いた。巨大な手で雑巾のように絞られたかのように、船体が歪む。
「右舷推進器、停止!」
「重力制御装置に異常!」
「船体強度、六十パーセントを下回りました!」
部下たちが叫び、走り回る。
何人かは祈っていた。何に祈っているのか、彼ら自身にもわからなかった。
フリーザは窓の外を見ていた。紫の光が船体を這っている。装甲板が剥がれ、回転しながら暗闇へ吸い込まれていく。
「フ、フリーザ様!」
兵士が床を這いながら近づいてきた。
「脱出用ポッドへ! この船はもちません!」
「そうですか」
フリーザは笑った。
「面白い」
兵士は耳を疑った。
「は?」
「墜落というものは、これまで何度も見てきました。ですが、自分が乗っている船が墜落するのは、考えてみれば初めてかもしれません」
さらに激しい衝撃が走った。天井が裂けた。
空気が悲鳴を上げながら船外へ流れ出していく。固定されていなかった兵士が一人、暗い穴へ吸い込まれようとしていた。
その兵士がめいっぱい手を伸ばしフリーザの尻尾をつかむ。こちらを見たフリーザが口元に笑みを浮かべた。
兵士の顔に安堵が浮かぶ。
「フリーザ様……!」
「邪魔ですよ」
尾が軽く振られ、兵士は船外へ放り出された。
一瞬の後、その姿は紫の稲妻に呑まれて消えた。
「脱出ポッドは、わたくしの分だけで結構です」
宇宙船は崩壊を始めていた。船尾が千切れ、爆発する。炎が真空の中で一瞬だけ花を咲かせた。その中央から、丸い脱出ポッドが射出される。直後、宇宙船は時空断層に飲み込まれた。巨大な船体が、紙細工のように潰れた。
ポッドの中で、フリーザは笑っていた。
その笑みは、遊園地の乗り物を楽しむ子供に似ていた。ただし、その子供は星を壊せる。青い惑星が迫る。ポッドは炎に包まれ、大気を切り裂きながら降下していった。
そのころ、Z市では、別の災厄が始まっていた。
空が紫色に染まっていた。
正確には、紫色の光が空を照らしていた。
光の発生源は、一体の怪人である。
異様に発達した筋肉。
頭部から伸びる触角。
醜悪な顔。
身体の表面に走る血管。
ワクチンマン。
彼は、崩れたビルの上に立っていた。
周囲では炎が燃えている。
道路は裂け、車は裏返り、信号機は曲がっていた。逃げ遅れた人々が悲鳴を上げている。
ワクチンマンは両手を広げた。
「人間どもよ!」
声が街全体を揺らした。
「地球という生命体を蝕む病原菌め! 大地も、海も、大気も、お前たちによって汚染された!」
掌の上に光球が生まれる。エネルギーが凝縮され、周囲の空気を震わせた。
「私は地球の意志によって生まれた! 貴様らを根絶するためにな!」
光球が放たれた。ビルが消えた。爆発したのではない。光に触れた部分が、最初から存在しなかったかのように削り取られたのだ。
衝撃波が通りを走る。窓ガラスが一斉に砕け、逃げる人々の背中へ降り注ぐ。
ワクチンマンは笑った。
見ろ、人間ども。お前たちが傷ついているが、この地球は何倍もお前たちにより傷つけられている。それに比べれば、この程度なんだというのか。
まだまだ、足りない。
「滅びろ! 人間!」
ワクチンマンが次の光球を作り出した、そのときだった。
空から、何かが落ちてきた。はじめは、小さな星に見えた。白い光点が、急速に大きくなり、やがて炎に包まれた球体となり、雲を突き破った。
ワクチンマンが顔を上げる。
「何だ?」
脱出ポッドは、彼から数百メートル離れた交差点に落下した。轟音。地面が陥没した。
アスファルトが波打ち、周囲の建物が揺れる。粉塵が巨大な柱となって立ち上った。
逃げていた人々が足を止める。
ワクチンマンも動きを止めた。
やがて粉塵の中から、丸い影が見えた。
金属製の小型宇宙船だった。
表面は焼け焦げ、あちこちから煙が上がっている。扉が吹き飛び、中から、小柄な者が姿を現した。
白と紫の身体。
細い尾。
赤い目。
フリーザは、焦げた船体を振り返った。
「ずいぶん乱暴な着陸になってしまいましたね」
彼は肩についた埃を払った。
それから周囲を見回す。
崩れた街。
燃える建物。
逃げ惑う人間。
見覚えのある生物だった。
「地球人?」
フリーザは首を傾げた。
「ですが、ここは孫悟空さんたちの地球ではないようですね」
視線を動かす。
ビルの上に立つワクチンマンと目が合った。
「ちょうどいいところに現地の方がいらっしゃるではありませんか」
フリーザは地面から浮かび上がった。
ゆっくりと、ワクチンマンの前まで上昇する。
二人の間に、熱風が流れた。
「こんにちは」
フリーザは丁寧に言った。
「少しお尋ねしたいのですが、この星の名前を教えていただけませんか?」
ワクチンマンは返事をしなかった。
目の前の生物を観察している。
小さい。禍々しい気配は感じる。
だが、見た目には筋肉も乏しく、武器も持っていない。
何より、自分の演説を中断させた。
それだけで殺す理由としては十分だった。
「貴様も人間の仲間か」
「質問をしているのは、わたくしなのですが」
「地球を蝕む害虫め!」
ワクチンマンが腕を振るう。拳がフリーザの顔面を捉えた。空気が弾けた。衝撃波が地面を伝い、砂塵が舞う。
「……何?」
ただ、それだけだった。
ワクチンマンの拳はフリーザの顔面に触れたまま止まっている。
フリーザは、何事もなかったようにそのまま喋った。
「いまのが、この星の挨拶ですか?」
ワクチンマンは拳を引き、再び殴った。今度は腹部。重い音がした。
フリーザの身体は動かない。
続けて肘。
膝。
裏拳。
一撃ごとに大気が震え、周囲の瓦礫が跳ね上がる。
だが、フリーザはそこにいた。さきほどから何一つ変わらない顔で、ワクチンマンの攻撃を眺めている。
「ふむ」
拳を受けながら、フリーザはつぶやいた。
「スカウターがあれば便利なのですが」
ワクチンマンの蹴りが側頭部に入った。
「弱くはありませんね。少なくとも、そこらの兵士よりはましでしょう」
もう一発。
「ですが」
さらに一発。
「修行相手としては」
拳が頬に当たる。
「不合格です」
フリーザの尾が動いた。
鞭のような一撃が、ワクチンマンの脇腹を打つ。ワクチンマンの巨体が消えた。
否。
目で追えない速度で吹き飛ばされたのだ。
ビルを一つ貫通し、二つ目を崩し、三つ目の壁にめり込んで止まった。
数秒後、瓦礫が落下する音が響いたと同時にフリーザは小さく息を吐く。
「まったく。会話のできない方は嫌いです」
崩れたビルの中で、何かが動いた。
瓦礫が爆発する。ワクチンマンが飛び出した。
口元から血を流している。その顔から、先ほどまでの余裕は消えていた。
「き、貴様……何者だ!!」
「ようやく質問に答える気になりましたか」
「答えろ!」
「人に名を尋ねる前に、自分から名乗るのが礼儀でしょう」
「私は人間どもが環境汚染を繰り返すことによって生まれたワクチンマン! 害悪文明を滅ぼすために地球の意志によって生みだされたのだ!」
「ワクチンマン」
フリーザはその名を口の中で転がした。そして、わずかに眉をひそめる。
「そのままですね。
それに、なんだかわたしの声真似をされているようで不快です」
「黙れ!」
ワクチンマンが両手を突き出した。無数の光球が生まれる。
数十。
数百。
光が空を覆う。
「消え失せろ!」
光球が一斉に降り注いだ。フリーザの姿が爆炎に呑まれる。
大地がえぐれ、ビルが崩壊する。
爆発が爆発を呼び、Z市の一画が巨大な炎の渦に包まれる。
ワクチンマンは荒い息を吐いた。
これほどの攻撃を一点へ集中させたのは初めてだった。生物である以上、耐えられるはずがない。そう思い、黒煙を見た時ーーーー驚愕した。
影があった。
小柄な影。腕を組み、宙に浮かんでいる。
傷一つない。フリーザは、自分の肩に付着した煤を指で払った。
「それが全力ですか?」
ワクチンマンの目が見開かれた。
「馬鹿な……」
「しかし感心しませんね。まだ私の質問に答えていただけていません。」
「なぜだ」
ワクチンマンの声が震えた。
「なぜ死なない!」
「あなたが弱いからでしょう」
単純な答えだった。単純すぎて、ワクチンマンには受け入れられなかった。彼は地球の意志によって生まれた。人類を滅ぼすための存在だ。
自分は選ばれた生命であり、裁きを下す側である。それなのに、目の前の小さな生物は、自分を弱いと言った。
世界の中心に立っていたと思い込んでいたワクチンマンは、この瞬間、自分が世界の端にすら届いていなかったことを知った。
「認めん……」
身体が膨張する。筋肉が盛り上がり、皮膚が裂ける。骨格が変形し、背中から突起が伸びる。
人型に近かった姿が、より巨大で、より醜悪な怪物へ変わっていく。
「認めんぞ!」
咆哮が街を震わせた。
変身したワクチンマンは、先ほどの倍以上の大きさになっていた。
全身から溢れ出る紫色の気が、周囲の瓦礫を浮かび上がらせる。爆発的なまでに、エネルギーが集約されている。
「この街ごと消し飛べ!」
ワクチンマンが自分自身をフリーザに放った。
大質量の破壊的エネルギーが、フリーザへ迫る。
フリーザは動かなかった。避けもしない。
腕を組んだまま、光を正面から受けた。
世界が紫色になった。轟音が遅れてやってくる。大地が沈む。遠く離れた窓ガラスまで砕け散る。
巨大な爆炎が天へ昇り、雲に穴を開けた。
ワクチンマンは笑った。笑うしかなかった。
あれで死ななければ、もう理屈が通じない。
そして煙の中から、声がした。
「なるほど」
ワクチンマンの笑いが止まる。
「変身して戦闘力を上昇させるタイプですか」
煙が左右に割れた。フリーザが立っている。
いや、大地がなくなったところに浮いている。
やはり傷はない。それどころかその場から1ミリも動かせていない。
「先ほどよりは、ほんの少し強くなりましたね」
フリーザは微笑んだ。
「ですが、それだけです」
ワクチンマンは後退した。
一歩。
巨大な足が、瓦礫を踏み砕く。
「待て」
その言葉は、命乞いに近かった。
「この星について知りたいのだろう。ならば教えてやる。この星のヒーローとかみ――」
「結構です。」
フリーザの人差し指が上がった。
指先に、小さな赤い光が灯る。
ワクチンマンの本能が叫んだ。
逃げろ。
だが、身体が動くより先に、光が走った。
細い光線。あまりにも細く、頼りなく見えた。
それはワクチンマンの眉間にするりと入り、何の抵抗もなく後頭部から抜けた。
一瞬の静寂。
巨体が揺れる。
目から光が消えた。
ワクチンマンは、自分が死んだことを理解する暇もなく、仰向けに倒れた。
地響きが起こる。
「他の方に聞くことにします。」
地上へ降りる。ワクチンマンの死体を一瞥する。期待外れだった。
この星には強い生命反応が頻繁に現れると聞いたが、最初に遭遇したのがこの程度では先が思いやられる。
それでも、最後に気になることを言っていた。
自分より強いヒーロー。
ならば、探してみる価値はある。フリーザが空を見上げた、そのときだった。
背後から、足音が聞こえた。
ぺた。
ぺた。
フリーザは振り返る。
そこに、一人の男が立っていた。
黄色いスーツ。
白いマント。
赤い手袋。
赤い長靴。
そして、禿げた頭。
男は、倒れているワクチンマンを見た。
次に、フリーザを見る。さらに、壊れた街を見た。その顔には、怒りも恐怖もない。
「えーと」
男――サイタマは、ワクチンマンの死体を指さした。
「そいつ、倒したのお前?」
「ええ」
フリーザは男を観察する。気を感じない。
少なくとも、孫悟空たちのような気の高まりはない。身体もやつらほど鍛えられているようには見えない。
構えもない。隙だらけ。
一般人にしか見えなかった。
「あなたも、この星の住人ですよね?」
「は?」
「この星の名前を教えていただけますか?」
サイタマは一瞬考えた。
「…地球だけど。何言ってんのお前?」
フリーザの笑みが止まった。
「地球?」
「うん」
「この星も、地球というのですか」
「この星も?」
「いえ、こちらの話です」
奇妙な偶然だった。
別の宇宙。
異なる時間。
異なる大陸。
それでも星の名前は地球。
宇宙というものは、案外、命名の種類が少ないのかもしれない。
サイタマはワクチンマンの死体へ近づいた。
反応はない。
「死んでるな」
「眉間を撃ち抜きましたからね」
「そうか」
サイタマは立ち上がった。その肩が、わずかに落ちている。フリーザには、それが悲しみに見えた。仲間を殺されたのかもしれない。
「お知り合いでしたか?」
「いや」
「では、なぜ残念そうな顔を?」
サイタマは答えなかった。少し前まで、ワクチンマンの出現を知り、急いでここへ向かっていた。街を壊している怪人。強そうな怪人。
もしかすると、久しぶりに胸が高鳴る戦いができるかもしれない。
そう思っていた。
だが、到着したときには終わっていた。
いつもとは逆だった。
普段は自分が一撃で終わらせる。
今回は、別の誰かが先に終わらせていた。
恐らく、一撃で。
見ればわかるし、気づいている。
しかし、聞かずにはいられなかった。
「お前、強いの?」
あまりにも直接的な質問だった。フリーザは目を細める。これまで、無数の者が彼に同じような問いを投げかけた。挑発として。
恐怖を隠すために。
あるいは、死ぬ前の虚勢として。
だが、この男の声には何もなかった。純粋に知りたがっている。
子供が、袋の中身を尋ねるように。
「そうですね」
フリーザは笑った。
「少なくとも、いま倒した方よりは、はるかに強いですよ」
サイタマの目に、ほんの少しだけ光が宿った。
フリーザはそれを見逃さなかった。
「あなたは?」
「俺?」
「ええ。見たところ、戦闘用の服装をしているようですが」
「ヒーロー」
「ヒーロー?」
「趣味でやってる」
フリーザは数秒、黙った。宇宙には多種多様な戦士がいる。
復讐のために戦う者。
金のために戦う者。
誇りのために戦う者。
支配のために戦う者。
変な趣味を持ったやつらを部下にしたことはあるが、趣味でヒーローをしているやつは見たことがない。
「変わった方ですね」
「…お前に言われたくはないな」
「この怪物を倒しに来たのですか?」
「そうだな。先越されたけど」
「それは申し訳ありませんでした」
フリーザは丁寧に頭を下げた。もちろん、心から謝ってはいない。
「代わりと言っては何ですが、あなたが相手をしてくださいますか?」
サイタマは少し考えた。
「お前、もしかして悪いやつか?」
「基準によりますね」
「街、壊した?」
「わたくしの宇宙船が墜落した際に、多少は」
フリーザは後方のクレーターを指した。
「ただし、大半を壊したのは、そちらに転がっている方です」
「宇宙船…ってお前宇宙人か!?」
「あなたから見れば、そうでしょうね。しかし、わたしはこの星へ修行に来たのです。無意味な破壊をするつもりは、いまのところありません」
いまのところは。
その部分で、サイタマは少し眉をひそめた。だが、それ以上に気になることがある。
「修行相手を探してるのか」
「ええ。できれば、簡単には壊れない方を」
サイタマは無言でフリーザを見た。直感でわかった。こいつは強い。
もしかするとーーーー
フリーザも、サイタマを見た。
炎が燃えている。
遠くから、救急車のサイレンが聞こえる。
二人の間を、焦げた新聞紙が風に運ばれていった。
サイタマが口を開く。
「じゃあ、ちょっとやる?」
フリーザの笑みが深くなった。
「よろしいのですか?」
「うん。ただ、ここだと街が壊れるから、場所変えよう」
「構いませんよ」
「あ、でも」
サイタマは急に真剣な顔になった。
フリーザは目を細めた。
この男が、初めて見せる緊張。
何か重大なことがーーーー
「今日、スーパーの特売日なんだ」
「……はい?」
「夕方までに終わらせたい」
沈黙。フリーザの頬が、わずかに引きつった。
これほど侮辱的な言葉を、これほど自然に口にした相手は初めてだった。
自分との戦いより、食料品の値引きが重要だという。
孫悟空でさえ、戦闘中にここまで無関心な態度は見せない。
「おやおや」
フリーザの声が低くなる。
「ずいぶんと余裕があるようですねえ」
「いや、余裕っていうか。卵が安いんだよ」
「卵」
「一パック九十八円」
フリーザは笑った。
怒りを通り越すと、人は笑うことがある。
彼の場合、人ではないが、その点は同じだった。
「いいでしょう」
フリーザの身体が、ゆっくりと宙へ浮かぶ。
「あなたの買い物に間に合うよう、なるべく早く終わらせて差し上げます」
「助かる」
サイタマはそう言って、膝を軽く曲げた。
次の瞬間。地面が消えた。
サイタマの足元を中心に、アスファルトが巨大な蜘蛛の巣状に砕けた。
風が爆発する。
フリーザの目の前から、男の姿が消えた。
赤い手袋が見えた。
拳。
ただの拳だった。
技の名前もない。
気の放出もない。
殺気すらない。
それなのに。
フリーザの全身を、本能的な悪寒が貫いた。
ブロリーの拳を受ける直前にもなかった感覚。
死。
その一文字が、帝王の脳裏に浮かんだ。
フリーザは反射的に上体を逸らした。
拳が鼻先を通過する。
触れてはいない。
だが、拳が押し出した空気だけで、背後の雲が数十キロにわたって割れた。
フリーザの笑みが消える。
サイタマは首を傾げた。
「避けた」
その声には、驚きがあった。
ほんのわずかだが、喜びも混じっている。
フリーザは、ゆっくりと姿勢を戻した。
頬に細い傷ができていた。拳圧だけで皮膚が裂けたのだ。
指で傷に触れた。血がついている。
フリーザはそれを見て、そして笑った。
今度の笑みは、部下たちに向けるものとは違った。
怒りでもない。
嘲笑でもない。
歓喜だった。
「素晴らしい」
フリーザの全身から、巨大な金色のエネルギーが天に向かって噴き上がる。
同時に、大地が震える。
瓦礫が宙に浮き、砕け、粉となる。
空が暗くなる。
「ようやく見つけましたよ」
白い身体が光に包まれる。
金色。
帝王の肉体が、黄金へ染まっていく。
その輝きは太陽に似ていた。
太陽は生命を育てる。
だが、この光は生命を焼くための光。
数多の生命を奪う、禍々しき金の光であった。
サイタマは、黄金のフリーザを見た。
「色、変わったな」
「ええ」
フリーザは両腕を広げた。
「ゴールデンフリーザ。わたしの進化した姿です」
「そうか」
反応は薄い。
しかし、気にならない。
そんなことより、この男の力を確かめたい。
「お名前を伺っていませんでしたね」
「サイタマ」
「サイタマさん」
フリーザはその名を記憶した。
孫悟空。
ベジータ。
ブロリー。
そして、サイタマ。
自分を脅かし得る者の名は、決して忘れない。
「では、始めましょうか」
「もう始まってたんじゃないの?」
その言葉が聞こえたとき、サイタマはすでに目の前にいた。
フリーザの瞳孔が縮む。
拳が腹部に触れる。
まだ振り抜かれてはいない。
触れただけだ。
それでもフリーザは理解した。
この星には、強者がいる。
怪人でもない。
宇宙人でもない。
神でもない。
スーパーの特売を気にする、禿げた男。
宇宙というものは、時々、冗談を言う。
そしてその冗談は、たいてい笑えない。
サイタマの拳が、動き始めた。