フリーザ、ヒーローになる ~宇宙の帝王がワンパンマン世界に墜ちた結果~ 作:&劉
サイタマとの戦いから、数日が過ぎていた。 その間、フリーザは地球を見て回っていた。もちろん観光ではない。彼にとって観光とは、支配する予定の星を下見する行為に近く、海が青いとか山が美しいとか、そういうことに大した価値はない。壊してしまえば、どれも最後は同じ色の塵になる。 知りたいのは、この星がどれほど使えるかだった。 文明。科学。軍事力。そして、強者。
フリーザは雲より高い場所を飛んでいた。白と紫の身体が青空を一本の線となって走り、その下では都市も道路も列車も、人間の目にはほとんど変化が分からない速さで後方へ流れていく。 本気で飛べば、調査にならない。
衝撃波だけで地上の建物が吹き飛び、人間は自分の頭上を何かが通過したことすら知らないまま死ぬ。それでは文明水準を見極めるどころではないため、フリーザは彼なりに速度を抑えていた。 もっとも、その「抑えた速度」でも地球人から見れば十分に異常だった。
大都市を越える。海を渡る。別の大陸が現れる。高層建築、立体交差する道路、地下鉄、工場、港湾施設、空港、発電所、軍事基地。窓際で朝食を取る家族も、横断歩道を渡る会社員も、着陸態勢へ入った旅客機も、フリーザの目にはほとんど静止画のように見えていた。 世界を一周する。 もう一周する。
三周目には、国ごとの違いにも飽きた。建物の形や服装、使っている言葉は少しずつ違う。しかし大局的に見れば、どこも同じ程度の技術で動いている。 五周目を終えたところで、フリーザは大都市の上空に停止した。
「なるほど。予想以上に遅れていますね」
腕を組み、眼下を眺める。
宇宙航行技術は未熟。重力制御もなければ、惑星間を自由に移動する転送技術もない。異星間通信も実用化されておらず、地球人が誇る軍事兵器も、フリーザ軍の基準で見れば随分と可愛らしい。 戦車、戦闘機、艦船、ミサイル。都市一つを焼く程度の兵器を国家の切り札として抱えている。 その事実に、フリーザは少し機嫌をよくした。 未熟な文明は扱いやすい。 問題は、文明の発達度と個人の戦闘力がまるで釣り合っていないことだった。 これほど遅れた星に、サイタマという男がいる。
あの強さは科学の産物には見えない。特殊な装備もない。気の扱いすら、少なくともフリーザが知る戦士たちのようには見えなかった。 ただ、肉体が強い。 あまりにも単純で、それだけに理解しがたい。
「この星には、まだ何かありそうですね」
フリーザは地上へ降りた。
◇
着地したのは繁華街の裏路地だった。 昼間だというのに薄暗く、壁には落書きが重なっている。生ごみと酒、それに排気ガスの臭いが混じり、フリーザはほんの少し顔をしかめた。
通りへ出ると、人間たちの多くが手のひらほどの薄い板を持っていることに気づく。黒い画面へ指を滑らせると文字や映像が現れ、会話、地図、買い物、写真撮影まで一台で済ませているらしい。
「ほう。生活用品としては、悪くありませんね」 文明全体は遅れていても、日常の情報端末としては使い勝手がよさそうだった。 ちょうど前から、若い男が画面を見ながら歩いてくる。 フリーザはその前へ降りた。
「それを、少しお借りしてもよろしいですか?」
「は?」
男は顔を上げた。白と紫の小柄な宇宙人を上から下まで見て、露骨に眉をひそめる。
「何だよ、コスプレか? 邪魔なんだよ」
肩を押そうと手を伸ばした。 触れるより先に、男の手から端末が消えた。
「おい!」
フリーザは奪った端末を眺める。画面には暗証番号の入力欄が表示されていた。
「面倒ですね」
指先から髪の毛より細い光を出し、側面へ当てる。 端末の画面が消えた。
「……壊れてしまいましたか」
「当たり前だろ! ふざけんな!」
「耐久性にも問題がありますね」 男が掴みかかってきたので、フリーザは端末を投げ返した。額へ当たった男がその場へ尻もちをつく。 フリーザはもう興味を失い、歩き出した。
暗証番号を解除するたびに端末を壊していては効率が悪い。ならば、最初から所有者ごと確保した方が早い。 そう考えたところで、路地の奥から複数の男が現れた。 派手な服。鋭い目つき。金属製の棒を持った者までいる。先ほどの若者が、その後ろへ隠れた。
「兄貴、こいつです」
「何だ、このチビ」 先頭の男がフリーザを見下ろす。
背後には古びた建物があり、窓には黒いフィルムが貼られている。入口の監視カメラと、周囲の通行人が露骨にこの一角を避けている様子から、どういう集団かはおおよそ察せられた。
「あなた方は、この辺りを仕切っている犯罪組織か何かですか?」
「あ?」
「軍隊ではない。警察でもない。それでも周囲の人間はあなた方を避けている。少々、興味がありまして」
「てめえ、喧嘩売ってんのか」
「質問に答えてください」
男は金属棒を振り上げた。
「死ねや!」
フリーザは小さく息を吐いた。 数分後、建物の中は静かになっていた。
机は倒れ、壁にはいくつも穴が開いている。黒い服の男たちは床や壁際に転がり、動く者はいない。怒ったわけではない。情報を渡す気がなく、こちらへ攻撃してきたので排除した。それだけだった。
「話を聞かない方が多い星ですね」
フリーザは机の上に置かれていた別の端末を手に取った。 今度は画面が開いている。 指紋認証を求められたため、床に倒れている所有者の指を使った。
「便利ですね」
椅子へ座り、数分ほど操作する。
検索、通信、映像、位置情報、翻訳、買い物、銀行取引。この薄い端末一枚に、人間の生活のかなりの部分が詰め込まれているらしい。 安全性には大いに疑問があった。 所有者を無力化すれば簡単に奪える。 ただし、情報収集には使える。 フリーザは検索欄へ一つの単語を入力した。 怪人。 画面が一気に埋まった。
巨大昆虫、突然変異した人間、地下から現れた種族、海から上陸した化け物、宇宙から飛来した侵略者。原因も姿もまるで統一されていない。 どうやらこの星では、人間社会へ害を与える異形の存在をまとめて「怪人」と呼ぶらしい。 さらに危険度による分類がある。 狼、虎、鬼、竜、神。
「神、ですか」
災害レベル神――人類滅亡の危機。 説明を読んで、口元が僅かに上がった。 自分はどこに分類されるのだろう。 都市を一つ破壊できれば竜。人類を滅ぼせるなら神。 では、星そのものを消せる場合は。 該当する項目がない。
「分類が足りませんね」
次に調べたのはヒーロー協会だった。
怪人や犯罪者から市民を守るための組織。登録されたヒーローを各地へ派遣し、その活動実績や人気、社会貢献によって順位を決める。 C級、B級、A級、S級。 フリーザは露骨に顔をしかめた。
「くだらない」
正義を名乗る者は好きではない。 弱者を守る。悪を倒す。世界を救う。
そうした言葉を当然のように口にし、自分たちが勝てば正義が証明されたような顔をする者を、フリーザは何度も見てきた。 彼に言わせれば、勝った者が残り、負けた者が消えるだけでいい。 宇宙はその方が分かりやすい。 強い者が上に立つ。弱い者は従う。従わなければ排除される。 善悪など、そこへ後から付ける飾りにすぎない。
「プロヒーロー、ですか。人助けを職業にし、報酬と順位と人気まで求めるとは、随分と忙しい善人たちですね」
鼻で笑う。 制度そのものには興味がない。 しかし、そこに所属する強者には興味があった。 フリーザはS級ヒーローの一覧を開いた。
戦慄のタツマキ。シルバーファング。アトミック侍。童帝。メタルナイト。キング。ゾンビマン。駆動騎士。超合金クロビカリ。番犬マン。閃光のフラッシュ。ジェノス。金属バット。タンクトップマスター。ぷりぷりプリズナー。そして、ブラスト。 超能力、剣術、機械兵器、異常な耐久力、高速戦闘。 この星の文明水準から考えれば、確かに興味深い者はいる。 ただし、記事だけでは本当の強さなど分からない。 目撃者は誇張する。弱者は自分より少し強いだけの存在を神のように語る。
「実際に会って確かめる必要がありますね」
その中で、特に記事の多い男がいた。 キング。 地上最強の男。 幾多の怪人を倒し、戦場へ現れるだけで敵が逃げ出すS級ヒーロー。 画面には、顔へ大きな傷のある男が映っている。
「地上最強……」
フリーザはその言葉を楽しそうに繰り返した。 サイタマより強いのか。 それとも、サイタマの存在を知らない人間たちが勝手にそう呼んでいるだけなのか。 確かめる価値はある。 さらに調べると、ヒーロー協会へ入るには試験が必要だと分かった。 体力試験と筆記試験。 合格後は実績に応じた階級へ配属される。 もちろん、プロヒーローそのものになる気はなかった。 人間を救いたいわけでもない。報酬が欲しいわけでもない。金など必要ならいくらでも手に入る。
だが、協会へ所属すれば怪人の出現情報が集まる。危険度の高い怪人、S級ヒーローの動向、この星の強者が現れる場所。 強者を探すための情報網としては、非常に便利だった。 何より、サイタマがヒーローを名乗っている。 それなのに登録すらしていない。 あれほどの強さで無名。 この世界は、サイタマという存在をほとんど知らない。 フリーザには、それがひどく滑稽に思えた。
「なるほど。使える制度ではありますね」
端末を机へ置いた。 知りたいことはある程度分かった。 残りは、この星の住人へ直接聞いた方が早い。 そして、聞く相手は決まっている。 フリーザは目を閉じた。 意識を地球全体へ広げる。 無数の小さな生命反応。その中に、いくつか明らかに強いものや、異質な気配が混ざっている。 サイタマだけは相変わらず分かりにくい。
戦っている時には、世界そのものが人間の形をして立っているような圧力を感じた。ところが日常状態では、巨大な海を一滴の水へ押し込んだように静かだった。 それでも一度拳を交えた相手である。 特徴は覚えている。 探る。 見つけた。
「そこですか」
フリーザは窓ではなく、壁へ向かって飛び出した。 建物の外壁が円形に抜け、事務所全体が揺れる。 誰も咎める者はいなかった。
◇
Z市の無人地区は、昼でもひどく静かだった。 怪人の出現が多いため住民のほとんどが移転しており、建物だけが生活の抜け殻のように残されている。 フリーザは上空から古びた集合住宅を見つけた。 その一室にサイタマの気配がある。 もう一つ、知らない反応があった。 人間に近いが、身体の大半が機械で構成されている。生体反応とは別の高出力エネルギー源も感じる。 フリーザは少し興味を持ち、窓の外へ降りた。 部屋の中では、サイタマが床へ座っている。 その正面には金髪の青年が正座していた。 黒い服。鋭い目。機械で作られた両腕。 青年は真剣な顔で語っている。
「先生。俺を弟子にしてください」
「いや、だから弟子とか取ってないんだけど」
「俺は四年前、暴走サイボーグに故郷を破壊されました」
「話、長いやつ?」
「家族も、すべてを失いました」
「やっぱり長いやつか」
青年――ジェノスは気にせず話を続ける。
暴走サイボーグへの復讐。改造手術。怪人との戦い。モスキート娘との敗北。そして、サイタマの圧倒的な強さ。 一息で全部説明するつもりらしい。 サイタマは途中から湯飲みを見ていた。 フリーザは窓の外でその様子を眺める。 サイボーグ。 強さを求め、サイタマへ弟子入りしようとしている青年。 端末で見たS級ヒーローの一人と一致する。
「なるほど。これがジェノスさんですか」 フリーザは窓を軽く叩いた。 ジェノスが即座に振り返る。 サイタマも遅れて顔を向けた。 窓の外に、フリーザが浮いている。
「おや」
フリーザは窓を開けようとした。 鍵がかかっている。 留め具を指先で折った。 そのまま部屋へ入る。
「ごきげんよう、サイタマさん」
サイタマは壊れた留め具を見る。 次にフリーザを見る。
「窓から入ってくんなよ」
「玄関まで回るのが面倒でしたので」
「壊れてんじゃん」
「修理代が必要ですか?」
「出すの?」
「出しません」
「じゃあ壊すなよ」
そのやり取りの間に、ジェノスはすでに立ち上がっていた。
両腕を僅かに開き、いつでも攻撃へ移れる姿勢を取っている。瞳の奥でセンサーが動き、フリーザの体温、骨格、筋肉量、エネルギー反応を解析していた。 測定不能。 外見から想定される身体能力と、実際に感じる危険度がまるで一致しない。 何より、この存在は音もなく窓の外へ現れた。 接近を感知できなかった。 ジェノスの内部で警告が鳴る。
「先生。そいつから離れてください」
「知り合いだぞ」
「知り合い?」
「この前、ちょっと戦った」
ジェノスの警戒が一段上がった。 サイタマと戦った。 それで生きている。 その事実だけで、目の前の小柄な宇宙人が普通ではないことは十分に理解できる。
「先生に何の用だ」
ジェノスが低く問う。 フリーザは彼を見ず、サイタマへ話しかけた。
「少しお尋ねしたいことがありまして。あなた、プロヒーローになるおつもりはないのですか?」 サイタマが目を瞬いた。
「今、それ話してた」
「おや」
「こいつがヒーロー協会ってのに登録するらしくてさ。俺も試験受けようかなって」
ジェノスが訂正した。
「正確には、俺もこれから登録する予定です。先生が受験されるなら、俺も同時に受けます」
「そうだったっけ」
「先ほど説明しました」
「長くて途中から聞いてなかった」
ジェノスは一瞬黙った。 しかし、すぐにフリーザへ視線を戻す。
「なぜ貴様が先生の進路を気にする」
「進路。面白い表現ですね」
「質問に答えろ」
「この星の仕組みを少々調べましてね。ヒーロー協会へ所属すれば、強い怪人や上位ヒーローの情報が集まるのでしょう?」
「それがどうした」
「ですから、わたくしもサイタマさんと一緒に登録してみようかと思ったのです」 サイタマがフリーザを見る。
「お前、ヒーローやるの?」
「ヒーローという肩書き自体には何の興味もありません」
「じゃあ、やらないんじゃないの?」
「怪人の情報は欲しい。S級とやらがどれほど強いのかも知りたい。組織に入るのが最も効率的です」
「動機がヒーローじゃないな」
「あなたも趣味でしょう?」
「そうだけど」
「大差ありませんよ」
「結構あると思うけど」
ジェノスの視線がさらに鋭くなった。
「先生に馴れ馴れしく話しかけるな」
そこで初めて、フリーザがジェノスを見る。 赤い瞳が機械の青年を捉えた。
「あなたは?」
「ジェノス。先生の弟子だ」
「弟子?」
フリーザはサイタマを見る。
「弟子は取っていないのでは?」
「俺もそう言ったんだけど」
「俺は必ず認めてもらう」
ジェノスは迷いなく断言した。 フリーザは彼の身体を改めて観察する。
腕、脚、胸部の動力炉、内部へ組み込まれた兵器。人間の身体を戦闘用機械へ置き換えた技術は、この星の文明水準から考えればかなり高度だった。 気も、そこらの人間とは比較にならない。 だが。 サイタマと同じ場所に置くほどではない。
「そうですか」
フリーザはすぐに興味を失ったように、サイタマへ顔を戻した。
「では試験の日程を教えてください。わたくしも参加しましょう」
「待て」
ジェノスの声が低くなる。 フリーザは無視した。
「筆記試験はどの程度の内容なのでしょう。体力試験は問題ないでしょうが、戸籍や身分証明が必要となると少々面倒ですね」
「聞け!」
ジェノスの足元で床が軋んだ。 機械の腕から駆動音が鳴る。 それでもフリーザは振り返らない。 ジェノスはサイタマの前へ出た。
「先生に用があるなら、まず弟子である俺を通せ」
「お前、いつから秘書になったんだ」
「先生の身辺に危険な者を近づけるわけにはいきません」
「俺よりお前の方が危ないと思うけど」
「俺のことは問題ではありません」
フリーザの口元が僅かに上がった。 なるほど。 この青年はサイタマを尊敬している。 いや、崇拝に近い。
認めてもらいたい相手の前へ、突然自分より遥かに強い者が現れ、しかもサイタマと対等に会話している。 面白くないのだろう。
「弟子を名乗るのは自由ですが」
フリーザは静かに言った。
「実力が伴っていないようですね」
部屋の空気が冷えた。 ジェノスの目が細くなる。
「何だと」
「聞こえませんでしたか? サイタマさんの弟子を名乗るには、あまりにも弱すぎると言ったのですよ」 ジェノスの腕から炎が漏れた。 床板が焦げる。
「訂正しろ」
「事実を?」
「貴様が先生とどういう関係かは知らない。だが、先生を利用しようとする者を見過ごすつもりはない」
「利用、ですか」
フリーザの笑みが深くなった。 鋭い。 完全に間違っているわけではない。
フリーザはサイタマを修行の基準として利用するつもりだった。超えるべき壁であり、自分の成長を測る相手でもある。 友人になるつもりはない。 弟子になる気など、もちろんない。 対等という言葉さえ、フリーザはあまり好まない。 いずれ自分が上に立つ。 それだけである。
「あなたには関係のないことでしょう?」
「ある」
「では、どうなさるのです?」
ジェノスの掌が開いた。 中心部から砲口が現れ、高熱のエネルギーが収束し始める。
「実力が伴っていないと言ったな」
「ええ」
「ならば確認させてやる」
「ジェノス」
サイタマが呼んだ。 ジェノスは視線を動かさない。
「先生。止めないでください」
「いや、別に止めないけど」
「では――」
「ここでやるな。部屋が壊れる」
すでに窓の留め具は壊れている。 床も焦げている。 サイタマにとっては、戦いより修理費の方が切実だった。 ジェノスは数秒黙った。
「表へ出ろ。外で相手をする」
フリーザは腕を組む。
「あなたが、わたくしの相手を?」
「怖いのか」
あまりにも単純な挑発だった。 本来なら、フリーザには何の意味もない。 ただ、今回は乗ってもよかった。 サイタマの弟子を名乗る者がどの程度なのか。 S級ヒーローという肩書きが、この星ではどれほどの水準なのか。 確かめるにはちょうどいい。
「いいでしょう。少し遊んで差し上げます」
「遊びで済むと思うな」
「その言葉は、もう少し強くなってから使いなさい」 ジェノスの表情から熱が消えた。 怒りが消えたのではない。 限界を越えて、冷たく固まったのだ。 フリーザは窓から外へ出る。 ジェノスも続こうとした。 その背中へ、サイタマが声をかける。
「ジェノス」
「はい、先生」
「気をつけろよ」
ジェノスが振り返った。 いつもと変わらないサイタマの顔。 しかし、声には僅かに真剣なものが混じっている。 自分を心配している。 ジェノスはそう受け取った。
「心配はいりません」
力強く答える。 サイタマは首を振った。
「いや、お前じゃなくて」
ジェノスの動きが止まる。 サイタマは窓の外のフリーザを見た。
「フリーザ」
「何でしょう?」
「殺すなよ」
一瞬、部屋が静かになった。 ジェノスの表情が固まる。 フリーザは赤い瞳を細め、楽しそうに笑った。
「努力はしてみます」
「努力じゃなくて、殺すな」
「善処しましょう」
「信用できねえな」
ジェノスの両拳が震えた。 怒りで。 屈辱で。 サイタマは自分ではなく、戦う相手へ手加減を求めた。 戦う前から結果を知っていると言われたようなものだった。 認められない。
自分はS級ヒーローになるだけの力を持っている。数多くの怪人を焼き払い、モスキート娘に敗れた後も改良を受けた。 目の前の宇宙人がどれほど強かろうと、何もできずに終わるつもりはない。 ジェノスは窓枠へ足をかけた。
「先生。すぐに戻ります」
「窓、直してくれよ」
「承知しました」
脚部から炎が噴き出す。 ジェノスが空へ飛び上がった。 フリーザはすでに先へ進んでいる。 二つの影が、無人の市街地の向こうへ消えていった。 サイタマは一人、部屋へ残された。 壊れた窓から風が入る。 床には焦げ跡。 机には冷めた茶。 少し考える。
「大丈夫かな」
心配しているのは、ジェノスではない。 窓の修理費だった。
◇
Z市上空を飛ぶジェノスは、前方のフリーザだけを見ていた。 距離が縮まらない。 フリーザは急いでいるようには見えない。黄金の姿ですらなく、通常形態のまま、散歩でもしているような姿勢で飛んでいる。 それなのに、ジェノスが推進力を上げても追いつけなかった。 出力をさらに上げる。 脚部の炎が長く伸び、建物の屋上が線のように後方へ流れていく。 ようやく距離が少しだけ縮まった。 フリーザが肩越しに振り返る。
「もう少し急いでいただけますか?」
声には、隠そうともしない嘲りがあった。 ジェノスが奥歯を噛む。
「余裕でいられるのも今のうちだ」
「そうですか」
フリーザは前へ向き直った。
「期待していますよ」 言葉とは逆に、期待などほとんどしていない声だった。 二人の進む先には、無人となった市街地が広がっていた。 人はいない。 建物だけが残っている。 戦うには都合がいい。 フリーザは空中で停止した。 少し遅れてジェノスも止まる。 二人の間を冷たい風が吹き抜けた。 ジェノスの両腕が展開し、内部の砲身が回転を始める。 熱が上がる。 周囲の窓ガラスが、その熱だけで歪み始めた。 フリーザの尾が、僅かに楽しそうに揺れた。 弟子を名乗る機械の青年。 そして、宇宙の帝王。 まだ戦いは始まっていない。 ただ、ジェノスだけが知らないことがあった。 この数日間、フリーザはサイタマとの戦いを何度も思い返している。 拳の速度。力の流れ。身体の使い方。回避の瞬間。そして、自分の中へ残った恐怖と歓喜。 次に戦う時、同じ自分でいるつもりはない。 すでに気の配分を見直し、無駄な動きを減らし、必要な瞬間だけ力を上げる練習まで始めていた。 数日前より、ほんの少しだけ強い。
だが、フリーザほどの存在にとって、その「少し」は普通の戦士なら一生かけても埋められない差になり得る。 フリーザがゆっくり振り返る。
「この辺りでよいでしょう」
ジェノスも両手を構えた。
「先に攻撃して構いませんよ」
「後悔するな」 掌へ灼熱の光が集まる。 廃墟の窓ガラスが一斉に溶け始めた。 フリーザは腕を組んだまま動かない。 笑っている。 その笑みを見て、ジェノスは出力を最大まで引き上げた。 次の瞬間、Z市の空が白く染まった。
――第三話・終。