フリーザ、ヒーローになる ~宇宙の帝王がワンパンマン世界に墜ちた結果~   作:&劉

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第八話 恐怖と勇気の巻

 

テレビ局という場所を、フリーザは嫌いではなかった。 少なくとも、人間社会の中では比較的わかりやすい場所だと思っている。ここでは、誰もが何かを演じている。興味のない話に大げさな相槌を打ち、使ったこともない商品を素晴らしいと褒め、企業は利益を求めながら「皆様の生活を豊かにするため」と語る。

 

司会者は番組を滞りなく進めるために明るく振る舞い、出演者は人気を得るために最も魅力的に見える角度を選ぶ。観客もまた、自分を楽しませてくれる刺激を求めてそこへ来ている。

 

誰もが欲望を持っている。ただ、その欲望へ夢、希望、社会貢献、感動、正義といった綺麗な名前を付けるだけだ。

 

フリーザは、そうした言葉をさほど信用していない。宇宙には「民のため」「祖国のため」「星の未来のため」と唱えながら、自分の権力を守るためだけに戦争を始める王がいくらでもいた。

 

それに比べれば、視聴率、広告料、人気、契約を欲しがるテレビ局の方が理解しやすい。少なくとも、数字にすれば何を欲しがっているのか見える。 重要なのは、その欲望が善いか悪いかではない。 利用できるかどうかだった。

 

都心部にある巨大テレビ局。その高層階の大型スタジオでは、数十台の照明が磨き上げられた床へ白い光を落としていた。巨大モニター、色鮮やかなセット、百人近い観覧者、そしてスタジオ中央へ向けられた複数のカメラ。 二脚の椅子の片方には、アマイマスクが座っていた。

 

A級一位のヒーローであり、俳優、歌手、モデルとしても成功している男である。整いすぎた顔、白い肌、わずかな角度まで計算されているような髪。脚を組むだけで絵になり、目線を少し動かしただけで女性客から小さな歓声が上がった。

 

カメラは残酷だ。肌荒れ、不自然な笑み、視線の迷い、本人が隠したつもりの一瞬まで拡大してしまう。

 

それでもアマイマスクには隙がない。どの角度から映されても破綻せず、どの瞬間を切り取られても美しい。それは容姿というより、自分がどう見えるかを完全に支配する能力に近かった。 その隣に座るのは、小柄な異星人だった。 白と紫の滑らかな身体。赤い瞳。細長い尾。 フリーザ。

 

かつて宇宙の帝王と呼ばれ、現在はS級ヒーローにしてフリーザ・コーポレーション代表取締役である。

 

人間社会に完全に溶け込んだとは言い難い。椅子へ座れば足は床へ届かず、外見だけを見れば怪人と呼ばれても不思議ではない。 それでも、観客の視線に以前ほどの恐怖はなかった。 見慣れたのだ。

 

巨大隕石事件、世界各地での怪人討伐、犯罪組織の連続壊滅、急成長するフリーザ・コーポレーション。ニュース、映像、広告、ネット記事を通じて、人々はこの異星人の姿を毎日のように目にしている。 人間は恐怖にも異常にも慣れる。 フリーザは、その習性を短期間で理解していた。

 

「本日のゲストはこちらのお二人です!」

 

司会者がよく通る声を響かせる。

 

「まずは今、最も注目を集めるトップヒーローの一人! A級一位、イケメン仮面アマイマスクさん!」

 

大きな拍手と歓声が上がった。 アマイマスクは柔らかく微笑む。

 

「よろしくお願いします」

 

たった一言で、客席から再び歓声が上がる。 フリーザは横目で見た。 大したものだと思う。 戦闘力とは違う。だが、人間を動かす力という意味ではかなり強い。 だから選んだ。

 

「そして、設立からわずか二か月余りで急成長! 怪人対策、技術開発、警備事業などを展開するフリーザ・コーポレーション代表! S級ヒーロー、フリーザさんです!」

 

「これはどうも」

 

フリーザは軽く頭を下げた。 アマイマスクほどではないが、十分な拍手が返ってくる。

 

二か月前、この星へ落ちてきたばかりの頃なら、同じ場所へ座っただけで悲鳴が上がっていたかもしれない。今はS級ヒーロー、経営者、有名人という肩書きが付いている。 人間は肩書きにも弱い。

 

「今回、一番驚いたのはこちらです!」

 

司会者が大型モニターを指した。 画面には、アマイマスクの広告写真と会社ロゴが映し出される。 FREEZA CORPORATION。 その下には、『怪人対策・技術開発――安心と安全を、より速く』という文言。

 

フリーザ自身は、この広告文をさほど気に入っていなかった。

最初に提出した案は『逆らう怪人はすべて殺しますよ』だったのだが、広告代理店、法務、広報の全員に反対された。地球人の社会は、少々面倒である。

 

「なんと、アマイマスクさんがフリーザ・コーポレーションの公式イメージキャラクターに就任されたんですよね?」

 

「ええ。彼ほど適任の方はいないでしょう」 フリーザが答える。 アマイマスクも完璧な笑顔を崩さない。

 

「光栄ですよ」 声、表情、姿勢、すべてが美しく整っている。 ただし、本心は正反対だった。

 

数日前。 アマイマスクは、都内の撮影スタジオで化粧品会社の広告撮影を行っていた。 白い背景と柔らかな照明。高級感のある衣装。カメラマン、メイク、スタイリスト、マネージャー。多くの人間が、一人の男を最も美しく見せるために動いている。

 

「いいですね! もう少し顎を上げて!」

 

アマイマスクが動く。

 

「目線だけこちらへ!」 動く。

 

「そのまま!」 微笑む。 何度撮っても失敗しない。

 

アマイマスクは、自分がどう見えるかを誰より理解していた。どの角度で、どの表情を作り、どの視線を向ければ人間が魅力を感じるのかを知っている。 美しいということは、彼にとって単なる外見の問題ではない。 力であり、正義であり、資格でもある。 だからこそ、醜い怪人も、醜い感情も、醜い生き方も許せない。 その撮影スタジオから少し離れた廊下を、フリーザが歩いていた。 左目にはスカウター。 短い電子音が鳴る。 怪人反応。 場所は、この建物の中。

 

「妙ですね」

 

怪人災害の通報はない。悲鳴も爆発もなく、逃げる人間もいない。それなのに、スカウターは確かに反応している。しかも、そこまで弱くない。 機械の故障を疑い、フリーザはスカウターを外した。 目を閉じる。 建物の中にいる生命反応を、自分の感覚で拾っていく。 スタッフ。 警備員。 撮影関係者。 ほとんどは普通の人間である。 その中に、一つだけ違うものがあった。 人間の気配に似ている。 だが、完全には同じではない。 表面へ綺麗な膜を張り、その内側に別のものを押し込めているような感触。 フリーザは目を開けた。

 

「なるほど」

 

そのまま撮影スタジオへ向かう。 入口で警備員が立ちはだかった。

 

「関係者以外立入禁止です」

 

フリーザは歩みを止めない。

 

「聞いてますか?」

 

警備員が肩へ手を伸ばしかけた。 フリーザが見る。 赤い目と視線が合った瞬間、警備員の手が止まった。 理由は分からない。 ただ身体の方が、これ以上近づくなと理解した。 フリーザはその横を通り過ぎ、扉を開けた。

 

「誰ですか?」

 

「撮影中ですよ!」

 

スタッフの声を聞き流し、スタジオ中央を見る。 アマイマスク。 スカウターを付け直す。 電子音。 反応が一致した。 その瞬間、アマイマスクもフリーザを見た。 ほんの一瞬だけ、完璧な笑顔が消えた。 警戒。 それだけで十分だった。

 

「撮影中です。後にしてもらえますか?」

 

アマイマスクの声は穏やかだった。

 

「ええ。もちろん」

 

フリーザはあっさり引き下がった。 その場で秘密を暴く必要はない。 秘密は、本人だけが知られている状態の方が価値が高い。

 

数時間後、地下駐車場。 冷たい蛍光灯の下に高級車が並び、換気扇だけが低く唸っている。 撮影を終えたアマイマスクが一人で歩いてきた。マネージャーやスタッフは先に帰してある。 自分の車へ近づいたところで足を止めた。 壁際にフリーザがいた。 壁へ軽く背を預け、長い尾をゆっくり揺らしている。

 

「お待ちしていました」

 

「何の用です?」

 

「少々、お話を」

 

「僕は忙しい」

 

「怪人でもですか?」

空気が変わった。 アマイマスクの表情から、笑顔が消える。

 

「何の話です?」

 

「とぼけるのがお上手ですね」

 

フリーザが一歩近づく。 小柄な身体なのに、距離が縮まるほど圧が増す。

 

「人間の姿。人気ヒーロー。芸能界のスター。ずいぶん綺麗に整えておられますが、中身は別物でしょう?」

アマイマスクは答えない。

 

「根拠は?」

 

「気です」

 

「気?」

 

「怪人には特有の気がありましてね。まあ説明しても理解してもらえないでしょうが」

 

「なら、証拠にならない」

 

「証拠?」

フリーザの口元が上がる。

 

「必要ですか?」

 

アマイマスクの拳が僅かに握られる。

 

「あなたが怪人に近い存在であることを、わたくしは確信しています」

 

数秒の沈黙。

 

「もっとも、どうでもよいのですが」

 

アマイマスクの目が動いた。

 

「何?」

 

「あなたが人間か、怪人か。正義を信じているか、美しさに執着しているか。わたくしには興味がありません」

それは本心だった。 フリーザの価値観は単純である。 強いか。 弱いか。 邪魔か。 使えるか。 そして、自分の目的に役立つか。 懐から一枚の紙を取り出した。 広告契約書。

 

「わたくしの会社の広告塔になりなさい」

 

アマイマスクは一拍遅れて意味を理解した。

 

「断る」

 

「そうですか」

 

「僕を脅迫するつもりですか?」

 

「ええ」

即答だった。 アマイマスクの眉が僅かに動く。

 

「断れば?」

 

「秘密を公表する、と言いたいところですが」

フリーザは少し考えるように首を傾げた。

 

「面倒なので、あなたを消します」

 

契約条件の一項でも説明するような口調だった。 アマイマスクの表情から、ついに柔らかさが完全に消えた。

 

「僕を殺せると思っている?」

 

「思う?」

 

フリーザは静かに笑う。

 

「違いますよ。できます、ですよ。それも簡単にね。」

 

アマイマスクの重心が落ちた。 筋肉が僅かに膨らみ、足元のコンクリートへ細い亀裂が入る。

 

「あなたが何者かは知らない。だが、僕は怪人を許さない。醜いものを許さない。正義を脅かす存在も、あなたのようなものも排除する」

 

フリーザの笑みが深くなった。

 

「その言葉、ご自身にも向けているのですか?」

 

ほんの一瞬だけ、アマイマスクの目が揺れた。 次の瞬間には殺気へ変わる。 踏み込もうとした。 その前に、フリーザがごく僅かだけ気を解放した。 本当に僅かだった。 戦闘で使う力から見れば誤差に近い。 それでも地下駐車場の空気が爆発した。

 

ーーーーー死ーーーーーーー

 

何十台もの車が横滑りし、窓ガラスが一斉に砕ける。照明が破裂し、天井と柱へ亀裂が走り、警報が鳴り響いた。 アマイマスクの髪と衣服が激しく煽られる。 身体が動かない。 フリーザは攻撃していない。 拳も握っていない。 ただ、力を少し漏らしただけ。 それだけで、本能が理解した。 勝てるとか勝てないとかではない。

 

アマイマスクは強い。A級一位に留まっているのは実力不足ではなく、本人の意思によるものだ。多くの怪人を倒し、S級に劣らない力を持っている。 それでも、目の前の存在は同じ物差しに乗らない。 フリーザが気を収める。 風が止み、静けさが戻った。 残ったのは壊れた車、割れたガラス、警報音だけ。

 

「さて」

 

フリーザが契約書を差し出す。

 

「もう一度お伺いしましょう。広告塔になっていただけますか?」

 

長い沈黙。 アマイマスクは契約書を見た。 次にフリーザを見る。

 

「……契約内容を確認する」

 

「もちろん」

 

フリーザは満足そうに笑った。

 

「ビジネスですから」

 

テレビスタジオ。 回想の中とは別人のように、アマイマスクは完璧な笑顔を保っている。

 

「フリーザ・コーポレーションは、とても将来性のある会社だと思います」

司会者が大きく頷いた。

 

「アマイマスクさんほどの方からそう言っていただけると説得力がありますね!」

 

「ええ。彼には非常に期待しています」

 

フリーザが笑う。 アマイマスクは一瞬だけ横目で見た。 嫌悪。 警戒。 殺意。 それらを全部、完璧な笑顔の下へ隠している。 フリーザは気づいている。 気にしない。 むしろ少し楽しかった。

 

「さて、そして最近非常に注目されているのがこちらです!」

 

司会者が話題を変えた。 テーブルの上にはスカウター。 大型モニターにも、その姿が拡大表示される。

 

「フリーザ・コーポレーション開発の怪人探知装置!」

 

フリーザは一つ手に取った。

 

「正確には、わたくしの故郷で使われていた技術を、この星向けに再設計したものです」

 

「もともとは何に使う装置なんですか?」

 

「生命体の戦闘力を測定します」

 

「戦闘力?」

 

「簡単に言えば、強さを数値化するための装置ですね」

 

観覧席がざわつく。

 

「そんなことが可能なんですか?」

 

「完全ではありません。力を隠す者、特殊能力を使う者、身体能力だけでは測れない者など、例外はいくらでもあります」

 

フリーザの頭へ、サイタマの顔が浮かんだ。 測ろうとすると数値が妙に揺れ、時には機械そのものが判断を諦める男。

 

「ですが、地球用モデルにはもっと実用的な機能を追加しました」

 

側面のスイッチを押す。 大型モニターに世界地図が表示された。 赤、黄色、青の点が散らばっている。

 

「赤は怪人と思われる反応。黄色は正体不明。青は登録ヒーローです」

 

司会者が身を乗り出した。

 

「つまり、世界中の怪人を探せる?」

 

「条件次第では、ええ。都市監視網、衛星観測、ヒーロー協会の災害データ、生命反応。それらを統合しています」

 

フリーザはカメラへ目を向けた。

 

「これまでのやり方では、怪人が現れ、人を襲い、通報され、協会が確認し、そこからヒーローを派遣する。その間にも被害は広がります」

 

少し間を置く。

 

「遅いのですよ」

 

声は穏やかだったが、断定に迷いはない。

 

「でしたら、こちらから探せばよい。人間を襲った後ではなく、可能な限り襲う前に向かう」

 

客席から拍手が上がる。 アマイマスクは横目でフリーザを見た。 この男は嫌いだ。 強さを理由に脅迫し、他人を利益へ変えようとする。 だが、この部分だけは嘘ではない。

 

実際、サイタマはこの装置によって怪人の出現地点へ以前より早く到着し、討伐実績を急速に積み上げてA級まで上がった。 会社も成果を出している。 理屈は成立していた。 その時だった。 ピピピピピピ、と鋭い警告音がスタジオへ響いた。 空気が一瞬で変わる。 フリーザが画面を見る。 赤い反応。 強い。

 

「おや」

 

「何かありましたか?」

 

「怪人です」

 

観客席がざわつく。 フリーザは表示を拡大した。

 

「J市。海岸部。避難施設付近」 反応はさらに上がっている。 雨と海水に触れることで、対象の生命反応が増していた。

 

「推定、災害レベル鬼」

 

スタジオ全体へ緊張が走る。 アマイマスクが即座に立ち上がった。

 

「僕も行く」

 

「結構ですよ」

 

「何?」

 

「番組を続けてください」

 

「あなた一人で行くつもりですか?」

 

「ええ。その方が宣伝になりますので」

 

アマイマスクの眉が僅かに動いた。 この男は、本当に何でも利用する。 フリーザは立ち上がり、カメラへ向けて一礼した。

 

「では皆さん、少々仕事をしてまいります」

 

窓へ向かう。 スタッフが慌てた。

 

「そっちは出口じゃありません!」

 

フリーザは窓を開けた。 外は高層階の空中である。

 

「ここ二十階ですよ!?」

 

「ご心配なく」

窓の外へ浮く。 次の瞬間、その姿が消えた。 一拍遅れて風がスタジオへ入り込み、観客が騒然とする。 アマイマスクだけは、フリーザが消えた方向を数秒見ていた。 やがて座る。

 

「番組を続けましょう」

 

声はいつもの完璧なものへ戻っていた。 ただ、その目だけは冷たかった。

 

J市は雨に沈んでいた。 分厚い雲が空を覆い、まだ昼間なのに街は夕方のように暗い。海から吹きつける風には塩の匂いが混じり、街路樹が根元から抜けそうなほど揺れている。斜めに叩きつける雨で道路は浅い川のようになり、遠くでは雷が鳴っていた。 本来なら、この荒天だけで人は外へ出たがらない。 だが、いまJ市の人間が恐れているものは雨でも海でもない。 怪人だった。

 

街の一角にある巨大なドーム型避難施設。その内部では、逃げ込んだ数百人の市民が身を寄せ合っている。子供、老人、会社員、学生、負傷者。避難誘導に当たっていた者もいれば、たまたま近くにいて逃げ込んだ者もいる。 外では雨が暴れている。 ドームの中を満たしているのは、それより重い恐怖だった。 その中心に、一体の怪人が立っている。 深海王。

 

緑色の巨体は雨と水分を吸って大きく膨れ上がり、乾燥していた時とは別物になっていた。腕には太い筋肉が幾重にも盛り上がり、肩は張り、胸板は鎧のように厚い。裂けた口の奥には牙が並んでいる。 まさに水を得た魚だった。 いや、海の王を名乗る者にとっては、雨の地上こそ本来の舞台なのかもしれない。 すでに何人ものヒーローが倒されている。 イナズマックス。 スティンガー。 ぷりぷりプリズナー。 ほかにも名の知られていないヒーローたちが床に伏していた。 深海王は彼らを見下ろし、つまらなそうに笑う。

 

「地上の生き物ってのは、本当に弱いなァ」

 

出口の前には怪人がいる。 立ちはだかったヒーローは全員倒れた。 次に誰が殺されてもおかしくない。 避難スペースの一角で子供が泣き、母親が震えながら抱き寄せている。

 

「大丈夫」 何度も繰り返す。 だが、その場にいる誰も、その言葉を信じていなかった。 ここで終わる。 多くの人間が同じことを思った時、一人の男が立ち上がった。 ヘルメット。 ゴーグル。 自転車用のスーツ。 無免ライダー。 C級一位。 超能力はない。強化装甲もない。サイボーグでもなければ、一流の武術家でもない。 身体能力も、鍛えた一般人の域を大きく越えるものではなかった。 深海王と比べれば、勝負にすらならない。 しかも、すでに一度殴られている。

 

スーツは裂け、血が滲み、片目は腫れていた。脚は震え、腕もまともに上がらない。息を吸うだけで胸が痛むらしく、呼吸のたび顔が歪む。 それでも立った。

 

「まだだ……」 深海王が血管を顔面に浮かび上がらせながら答えた。

 

「もう飽きたのよ。」

 

無免ライダーは拳を握った。 力はほとんど残っていない。 それでも握る。

 

「俺が……やらなきゃ……ここにいる人たちが……」

 

最後まで言わせる気はなかったらしい。 深海王が腕を振った。 本人にとっては軽い一撃。 だが、人間なら十分すぎるほど致命的な拳だった。 鈍い音が響き、無免ライダーの身体が宙へ浮く。 床へ叩きつけられ、転がり、再びぶつかる。 血が飛んだ。 群衆から悲鳴が上がる。

 

「無免ライダー!」

 

「もうやめろ!」

 

「逃げて!」

 

逃げ場などない。 それでも、人々は彼に逃げてほしかった。 もう戦わなくていい。 死なないでくれ。 その願いだけは本物だった。 無免ライダーは床へ手をついた。 身体を押し上げようとして肘が折れる。 一度倒れる。 もう一度、手をつく。

 

「俺は……C級ヒーローだ。し、C級が大して役に立たないなんてことは俺が一番よくわかってる」

 

「な~にボソボソほざいてるのよ。命乞い?」

 

深海王が吐き捨てる。 無免ライダーは血の付いた口元で苦く笑った。

 

「俺じゃ、勝てない」

 

ドームの中が静かになった。 誰よりも本人が分かっている。 勝てない。 自分では、この怪人を倒せない。

 

「そんなこと、最初から分かってる」

 

深海王の笑みが少し薄れた。 理解できないのだ。 弱い。 勝てない。 なら、なぜ立つ。

 

「でも、だ、だからって逃げていい理由にはならない…」

 

無免ライダーは拳を構えた。 腕は震え、足元も定まらない。 ひどく頼りない構えだった。

 

「勝てる勝てないじゃなく。ここで俺はお前に立ち向かわなくちゃいけないんだ!」

 

深海王の顔が歪んだ。 苛立ち。 弱者なら怯えろ。 跪け。 逃げろ。 それが自然だ。 なのに、この男は立っている。

 

「訳わかんないこと言ってないではやくくたばりなさい」

 

巨大な拳が持ち上がった。 無免ライダーが頭を庇う。 群衆が叫んだ。 拳が振り下ろされる。 その瞬間だった。 白と紫の小柄な影が、深海王と無免ライダーの間へ着地した。 フリーザ。 深海王の拳は止まらない。 そのままフリーザの顔面へ直撃した。 轟音。 床が砕け、円形の亀裂が走る。衝撃波で周囲の髪や服が揺れ、濡れた床の水が一斉に飛び散った。 無免ライダーが目を見開く。 深海王の拳はフリーザの頭をほとんど覆い隠していた。 それでも、フリーザは一ミリも動いていない。 首すら傾いていなかった。 ゆっくり目を上げる。

 

「いま、何かなさいました?」

 

深海王の理解が一拍遅れた。

 

「……何?」

 

拳を引き、今度は腹へ叩き込む。 鈍い音。 動かない。 左。 右。 拳、肘、膝。 頭、胸、腹、脇腹。 一撃ごとに床や壁が震える。 それでもフリーザは両手を背中で組んだまま、雨が止むのを待っているような顔をしていた。 深海王の呼吸が荒くなる。

 

「…わたしは深海の王。海は万物の源でもあり母のようなものつまりは海の支配者こそが…」

 

「ほ…ほ…ほーーーーーーーーーほっほっほ!!!」

 

「…なにがおかしいの」

 

「こんなちっぽけな星の!!こんな小さな海の底で暮らしている珍獣が支配者気どりをしているのですよ!!しかもこんなに貧弱なパンチで!!」

 

フリーザは笑いが止まらない。

 

「笑ったものか!!馬鹿にしたものか!!これは迷う!!迷いますねぇ!!」

 

怒りとともに、さらに水分を吸収する。 筋肉が膨らみ、背丈が増す。 本気の拳がフリーザの頭部へ叩き込まれた。 轟音。 足元の床が大きく陥没する。 粉塵と水が舞う。 数秒後。 そこにフリーザがいる。 傷はない。 頬が赤くすらなっていない。

 

「ほーーーほっほっほ!!」

 

高笑いを続けるフリーザに深海王が一歩下がった。 本人は気づいていない。 頭ではまだ戦うつもりなのに、身体の方が先に逃げていた。

 

「なぜ……なぜ効かない!」

 

「あなたが弱いからでしょう」

 

あまりにも単純な答えだった。 深海王が咆哮し、再び猛烈なラッシュを見舞う---否、見舞うつもりであった。

 

「…?」

 

当たらない。しかしフリーザは動いていない。では…

 

フリーザは手に持った『手』をほうり捨てた。深海王の手を失った腕から血が吹き出る。

 

「汚らしいですね」

 

群衆は静まり返っていた。 数分前まで、深海王は死そのものだった。 何人ものヒーローを倒し、誰も止められない怪物。 それが今、子供が大人を殴っているようにしか見えない。 何をしても効かない。 フリーザは、まともに動いてすらいない。 差が大きすぎて、理解が追いつかない。 フリーザは周囲へ視線を巡らせた。 一般人の手にはスマートフォン。 何台ものカメラがこちらを向いている。 テレビ局の生放送も続いているはずだ。 アマイマスクも見ている。 ヒーロー協会も、後で映像を確認する。 ならば、強さは見せ方まで考えた方がよい。 本来なら、デスビーム一発で終わる。 あるいは気を少し放つだけでも、深海王は耐えられない。 だが、それでは人間には分かりにくい。 何が起きたのか。 どちらがどれほど強かったのか。 だからフリーザは、わざと攻撃を受けた。 相手が殴る。 自分は無傷。 次は自分が殴る。 相手は倒れる。 単純で、比較しやすい。 テレビ向きである。

 

「さて」

 

フリーザが背中で組んでいた両手をほどいた。

 

「こちらからも、少し攻撃してみましょうか」

 

フリーザは拳を握った。 気はほとんど使わない。 本気から見れば、百分の一どころかさらに下。 一歩踏み出す。 深海王の目には、その動きまでは見えた。 次の瞬間には消えている。

 

「――?」

 

気づけば、腹の前にフリーザがいた。 拳が触れる。 本当に、軽く押す程度。 低い音がした。 深海王の目が見開かれ、身体が折れる。

 

「が……!」

 

肺の中の空気が一度に吐き出され、膝が落ちた。 次の瞬間には床を転がり、巨大な身体を丸めてのたうち回っている。 フリーザは自分の拳を見た。 力加減は悪くない。 まだ死んでいない。 まずはそれでよい。 群衆は呆然としていた。 だが今度は、誰にでも分かった。 一撃だった。 深海王が倒れた。 フリーザは少し笑う。

 

「これなら、分かりやすいでしょう?」

 

最初の拍手は一人だった。 ぱち、と乾いた音が響く。 その隣で、もう一つ。 そこから波のように広がった。

 

「すげえ!」

 

「フリーザだ!」

 

「S級!」

 

「助かった!」

 

「倒してくれ!」

 

歓声がドームを満たしていく。 深海王は震えながら床へ手をつき、無理やり立ち上がった。

 

「貴様……殺す……!」

 

「まだ立てますか。執念だけはたいしたものですね」

 

フリーザはゆっくり歩く。 急ぐ理由はない。

 

「必ず……!」

 

「そうですか」

 

もう一度、同じ位置へ軽く拳を入れた。 深海王の身体が僅かに浮き、口から血が噴き出した。 落下。 膝が崩れ、そのまま床へ倒れる。 もう立てない。

 

「さてと」

 

フリーザは人差し指を上げた。

 

「フィニッシュは何がいいですか?」

 

攻撃的なほほえみと共に、指の先端へ小さな赤い光が集まる。 深海王の目へ、そこで初めてはっきりとした恐怖が浮かんだ。今、自分はここで 死ぬ。 それを理解したのだ。

 

「ま――」

 

赤い光が走った。 一瞬だった。 深海王の全身が光へ包まれ、皮膚も肉も骨もまとめて消えていく。 残ったのは、床へ刻まれた黒い痕だけだった。 数秒、誰も声を出せない。 次の瞬間。 歓声が爆発した。

 

「うおおおおお!」

 

「やった!」

 

「フリーザ!」

 

「ありがとう!」

 

「助かった!」

 

その中で、誰かが叫んだ。

 

「フリーザ様!」

 

フリーザの眉が僅かに上がる。

 

「フリーザ様万歳!」

 

懐かしい言葉だった。 別の声が続く。

 

「万歳!」

 

「フリーザ様!」

 

「フリーザ様万歳!」

 

昔にも同じ言葉を何度も聞いた。 宇宙船の中。 侵略した惑星。 何万もの兵士。 フリーザ様。 万歳。 だが、今は少し違う。 あの頃の声には恐怖が混じっていた。 命令され、逆らえば殺されるから叫んでいた者も多い。 目の前の声には、それがない。 恐怖ではなく歓喜。 命令ではなく感謝。 助かったという感情が、そのまま声になっている。 フリーザは少し不思議な気分になった。 悪くない。 もちろん、善意だけで来たわけではない。 怪人を倒す。 会社を宣伝する。 実績を作る。 この星で活動しやすくする。 その先には、サイタマとより効率よく修行できる環境を整えるという目的がある。 結局、自分の都合しか考えていない。 それでも結果として人間は救われ、感謝している。 善悪など、ますますどうでもよく思えた。 何を思って行動したかより、何を残したか。 少なくとも人間社会では、そちらの方が大きいらしい。 そして何より。 カメラがある。 スマートフォン。 テレビ中継。 ヒーロー協会の記録。 全てが、この瞬間を映している。 宣伝の機会としては完璧だった。 フリーザが片手を上げる。

 

「皆さん」

 

声を張ったわけではないのに、よく通った。 歓声が少しずつ静まる。 人前で話すことには慣れている。

 

かつて何万もの部下を従え、星一つを前に降伏を迫ったことさえある。数百人の観衆など大した人数ではない。

 

「今回、わたくしが迅速にこちらへ到着できたのは――」

 

耳元のスカウターへ触れる。

 

「怪人探知システムのおかげです」

 

人々が見る。 聞く。 つい先ほど深海王を倒した本人が言うのだから、説得力は十分だった。

 

「フリーザ・コーポレーションでは、怪人災害への早期対応、危険地域の監視、ヒーロー活動の支援、技術開発、警備業務などを行っております」 怪人を消した直後に会社の宣伝。 平時なら不謹慎だと眉をひそめる人間もいるだろう。 だが、今は誰も文句を言わなかった。 命を救われた直後である。 目の前の結果以上に強い広告はない。

 

「また、現在は人材も募集しております」

 

その言葉に、床へ倒れていたヒーローたちが反応した。 B級らしい一人が痛む身体を起こす。

 

「あの!」

 

「何でしょう?」

 

「俺でも入れますか?」

 

その隣から別の声が飛ぶ。

 

「俺も応募したい!」

 

「給料いいって聞いたんですけど!」

 

「怪人を倒したら成果報酬って本当ですか?」

 

「装備支援もあります?」

 

質問が一斉に飛んできた。 フリーザが半歩下がる。 深海王より、こちらの方が少し面倒だった。

 

「希望者は履歴書を会社へ送ってください。審査します」

 

「履歴書?」

 

「志望動機も?」

 

「当然です」

 

「写真は必要?」

 

「できれば」

 

「面接は?」

 

「書類選考後です」

 

「福利厚生は?」

 

フリーザの目が少し細くなる。

 

「詳しくは求人票をご覧ください」

 

まだ質問が続く。 これは長くなる。 そう判断したフリーザは、ふわりと宙へ浮いた。

 

「では、本日はこれで。残りはヒーロー協会の方へお任せします」

 

上に出口はない。 フリーザは天井を見た。 指先へ小さな光を作る。 次の瞬間、屋根へ綺麗な円形の穴が開いた。 雨が一気に落ちてくる。

 

「おい!」 誰かが叫んだ。 フリーザは気にせず、その穴から上昇した。 雨の中へ。 さらに雲を抜ける。 姿が消えた。

 

ドームの中では、少しずつ現実が戻り始めていた。 救護班が負傷者を運び、家族が抱き合い、倒れていたヒーローたちも治療を受けている。 その片隅に、無免ライダーが横たわっていた。 意識はある。 だが身体は動かない。 フリーザが開けた天井の穴から雨が落ちてくる。 そこへ、妙に緊張感のない足音が近づいた。 黄色いスーツ。 白いマント。 禿げた頭。 サイタマだった。 無免ライダーの横へしゃがみ込む。

 

「大丈夫か?」

 

無免ライダーが目を開けた。

 

「君は……」

 

「サイタマ」

 

知っている。 最近、異常な速度でA級まで上がってきた男。 怪人を一撃で倒すという噂も聞いている。

 

「……ああ。遅かったな」

 

無免ライダーが弱く笑った。 その笑いだけで胸が痛んだらしく、すぐ咳き込む。

 

「フリーザに先越された」

 

サイタマは周囲を見る。 深海王の姿はない。 床に黒い痕が残っているだけ。 無免ライダーが起き上がろうとした。 腕に力が入らない。 サイタマは何も言わず、背中を向けてしゃがんだ。

 

「乗れよ」

 

「何?」

 

「病院」

 

「俺はあるけ…」

無免ライダーが立とうとする。 膝が崩れた。 サイタマが腕を掴み、そのまま軽々と背負う。

 

「無理すんな」

 

無免ライダーは、雨で少し濡れた白いマントを見た。

 

「俺は……何もできなかった」 サイタマは歩き始める。

 

「そうか?」

 

「勝てなかった。一発も効かせられなかった。ボロボロにされただけだ」

 

ドームの外へ出る。 雨粒がサイタマの頭をぱたぱた叩く。

 

「十分じゃん」

 

無免ライダーが黙った。 サイタマは前を向いたまま続ける。

 

「勝てないって分かってて、逃げなかったんだろ」

 

雨は強い。

 

「俺が来るまでじゃなかったけど」

 

少し間を置く。

 

「フリーザが来るまで、みんなの前に立ってた」

 

無免ライダーは目を閉じた。

 

「ナイスファイト」

 

小さな声だった。 気の利いた言い回しでもない。 飾りもない。 だからこそ、真っ直ぐ胸へ落ちた。 勝ってはいない。 怪人も倒していない。 派手な技もない。 それでも、見ていた人間がいる。 認める人間がいる。 無免ライダーの唇が少し震えた。

 

「……ありがとう」

 

サイタマは返事をせず、そのまま病院の方向へ歩いていった。

 

その頃、上空ではフリーザが高速で飛んでいた。 雨雲の下は暗い。 だが、雲を抜ければ青空と太陽がある。 眩しい光の中でスカウターが鳴った。 一件。 二件。 十件。 百件。 通知が増え続ける。 会社への問い合わせ。 求人応募。 広告出演の依頼。 取材。 警備契約。 共同開発。 投資の申し出。 ヒーローからの採用問い合わせ。 フリーザは流れていく数字を眺め、口元を上げた。 怪人を一体倒す。 会社の評判が上がる。 アマイマスクを広告塔にする。 テレビへ出演する。 そこで怪人探知システムを実演する。 本当に怪人を発見する。 現地へ飛ぶ。 市民を救う。 討伐する。 その場で宣伝する。 これ以上ないほど綺麗な流れだった。 宇宙征服とはまるで違う。 惑星を攻撃するのは簡単だった。 都市を壊すのも、相手を脅すのも簡単だった。 だが会社経営には、人気、信用、契約、評判、利益、人材、法律と、やたらルールが多い。 回りくどい。 面倒だ。 力だけでは支配できない社会なら、その仕組み自体を利用しなければならない。

 

宇宙の帝王だった自分が、広告戦略や求人票や給与体系を考える日が来るなど、以前なら想像もしなかっただろう。 それでも、少し面白い。

 

「順調ですね」

 

フリーザは一度、空中で止まった。 眼下には雲。 その下には街。 そして自分の周囲には、いつの間にか様々な存在が集まり始めている。 サイタマ。 ジェノス。 アマイマスク。 メタルナイト。 ヒーロー協会。 怪人たち。 最初にこの星へ来た時、目的は修行だけだった。 強くなる。 ただ、それだけ。 今は少し違う。 サイタマという理想的な修行相手がいる。 会社がある。 金がある。 技術が集まる。 メタルナイトには宇宙船を作らせた。 スカウターは地球用へ改良された。 ジェノスを通じて、この星独自の機械技術にも触れられる。 アマイマスクは広告へ使える。 そして何より、自分自身がまだ強くなっている。 月面で感じた、黄金の先。 まだ名も形もない次の段階。 この星へ来たのは正解だった。

 

「さて」 フリーザは赤い目を細める。

 

「次は、何が出てくるのでしょうね」

 

再び加速した。 白い軌跡だけを残し、その姿が遠ざかる。 J市では、まだ雨が降っていた。 ドームの中では救護活動が続いている。 そのどこかで、また誰かが叫んだ。

 

「フリーザ様万歳!」

 

別の声が続く。

 

「万歳!」

 

「フリーザ様!」

 

その映像は動画サイト、ニュース、SNS、テレビを通じて街の外へ広がっていった。 フリーザ・コーポレーションへの問い合わせは、その後も増え続けた。 そして、その日の夜。 会社の公式サイトはアクセス集中で一度落ちた。 報告を受けたフリーザは、深海王に向けた時より露骨に不機嫌な顔をした。

 

「サーバーくらい、まともなものを用意しなさい」

 

翌日。 サーバー性能は十倍になった。 地球人の社会は、宇宙征服より面倒だ。 けれどフリーザは、その面倒を少しずつ楽しみ始めていた。

 

 

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