一礼の天才   作:大浦泉

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エピソード0 テレビの向こうの一礼

六歳の青柳悠朗は、居間の畳に寝転がって、点けっぱなしのテレビをぼんやり眺めていた。

 

日曜の昼下がり。母親は台所で洗い物をしていて、父親は縁側で新聞を読んでいる。特に見たい番組があったわけではない。ただ、チャンネルを変える気力もなく、そこに映っていたものを、なんとなく目で追っていただけだった。

 

画面の中では、白いユニフォームの高校生たちが、土だらけになりながら白球を追いかけていた。

 

「地方大会、準々決勝」

 

画面の隅に、小さくそう表示されている。スコアボードには、悠朗にはまだよく分からない数字が並んでいたが、片方のチームが、もう片方に大きく差をあけられているらしいことだけは分かった。

 

(負けてるんだ、あのチーム)

 

悠朗はそう思った。それだけだった。テレビの中の試合は、自分とは関係のない、遠い世界の出来事だった。

 

けれど。

 

九回の裏、大差のついたその試合で、負けているチームの打者がバッターボックスに向かって歩いていくとき、悠朗の目は、画面に釘付けになった。

 

その選手は、打席に入る前に、足を止めた。

 

そして、深く、静かに一礼をした。

 

勝てるはずのない試合。消化試合に近い展開。それでも、その一礼には迷いも、投げやりな空気も、微塵もなかった。まるで、これが人生でいちばん大事な一打であるかのように。

 

結果は、内野ゴロだった。あっけなく試合は終わり、負けたチームの選手たちは、整列して深々と頭を下げた。勝ったチームの選手たちも、同じように頭を下げ返した。

 

「……かっこいい」

 

気づけば、悠朗は畳の上に体を起こしていた。

 

何が、と聞かれても、うまく言葉にできなかった。派手なホームランを打ったわけでも、劇的な逆転をしたわけでもない。ただ、負けが決まりきった試合の、最後の一球にまで、あんなに丁寧に向き合う人たちがいる。そのことが、六歳の悠朗の胸の奥に、静かに、けれど確かに焼きついた。

 

「父さん」

 

悠朗は縁側の父親を振り返った。

 

「野球、やりたい」

 

新聞から顔を上げた父親は、少し驚いたように目を丸くしてから、ゆっくりと笑った。

 

「……そうか。よし、じゃあ、グラブ買いに行くか」

 

その日から、青柳悠朗の野球人生が始まった。

 

誰に教わったわけでもない。家族の誰かが野球経験者だったわけでもない。ただ、あの日テレビの向こうで見た、一礼の静けさだけが、悠朗の中でずっと変わらない原点になった。

 

技術は、これから何年もかけて磨かれていくことになる。

 

だが、道具を大切に扱うこと。打席に入る前に一礼すること。結果がどうであれ、態度を変えないこと——それだけは、最初から、悠朗の中にあった。

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