大会のベンチ入りメンバーが発表されたのは、その三日前のことだった。
練習後、Aチームのコーチが全員を集めて、一枚の紙を読み上げていく。低学年からAチームに上がったばかりの選手が、大会のベンチ入りに名を連ねることは、決して当たり前ではなかった。名前が一人ずつ読み上げられるたびに、グラウンドには小さな緊張感が漂っていた。
「……青柳」
自分の名前が呼ばれた瞬間、悠朗は一瞬、聞き間違いかと思った。
「はい」
短くそう返事をすると、周囲の視線が、一瞬こちらに集まるのが分かった。同じAチームの選手たちの中には、驚いた顔をする者もいれば、当然だというように頷く者もいた。
発表が終わったあと、進藤が悠朗の肩を軽く叩いた。
「よかったな」
「うん。……頑張る」
短いやり取りだったが、悠朗の中では、その日から大会本番までの三日間が、これまでとは違う重みを持って流れていくことになった。素振りの回数はいつもより増え、道具の手入れにかける時間も、心なしか長くなった。
◆
大会当日、悠朗はいつもより一時間近く早く目を覚ました。
窓の外は、すでに白々と明るくなり始めている。蝉の声が、朝からうるさいくらいに響いていた。
「悠朗、早いな」
台所から声をかけてきた母親に、悠朗は小さく頷いた。
「うん。……なんか、目が覚めた」
朝食を済ませると、悠朗は自分の道具袋を、いつも以上に念入りに確認した。グラブ、バット、スパイク、ヘルメット。一つ一つを手に取り、汚れやほつれがないか確かめてから、丁寧に袋へしまい直す。
「気合い入ってるな」
父親がそう声をかけると、悠朗は少し考えてから答えた。
「うん。……ちゃんと、準備したいから」
球場までは、父親の運転する車で向かった。窓の外を流れる夏の街並みを眺めながら、悠朗は道具袋を膝の上に抱え、何度も中身を確認するように手を触れていた。
「そんなに何度も見なくても、逃げないぞ、道具は」
父親が笑いながらそう言うと、悠朗は少しだけ照れくさそうに、袋を抱える手を緩めた。
◆
球場に着くと、すでに大勢の保護者や選手たちで賑わっていた。夏の日差しは朝からじりじりと強く、グラウンドの土が、早くも白く乾き始めている。応援席には、色とりどりの帽子や日傘が並び、あちこちから選手を呼ぶ声が飛んでいた。
荷物を降ろしながら、悠朗は隣のグラウンドで準備をしている相手チームの様子を、ちらりと目に入れた。ユニフォームの色は違うが、同じように真剣な表情で、キャッチボールをしたり、素振りをしたりしている。
「悠朗、あっちのチームも強そうだな」
聞き覚えのある声に振り返ると、大地が立っていた。今日はBチームの応援として、家族と一緒に球場に来ていたのだった。
「大地、来てたんだ」
「当たり前だろ。お前がベンチ入りしたって聞いたら、応援しないわけにいかないじゃん」
その言葉に、悠朗は少しだけ表情を緩めた。
「うん。……ありがとう」
「まあ、出るかどうかは分かんないけどな。でも、頑張れよ」
大地はそう言うと、軽く肩を叩いて、応援席の方へと歩いていった。その背中を見送りながら、悠朗はグラブを握る手に、少しだけ力を込めた。
Aチームのベンチでは、六年生たちが円陣を組んでいた。輪の中心には、進藤の姿があった。
「今日から、負けたら終わりだ。特に——」
進藤は一度言葉を切ってから、続けた。
「俺たち六年にとっては、負けたらそこで、少年団最後の日になる」
その一言に、円陣の空気が、一段と引き締まった。
「だから、今日は誰も気を抜くな。一球一球、全部大事にいくぞ」
「おう!!」
六年生たちの声が揃う。悠朗もその輪の中で、声を合わせていた。まだスタメンには入っていなかったが、それでも、悠朗の中に、他人事のような感覚は一切なかった。
円陣が解けたあと、ベンチに座った悠朗の隣に、同じくベンチ入りしている先輩選手が腰を下ろした。
「悠朗、緊張してる?」
「……ちょっとだけ」
「俺もだよ。スタメンじゃないのに、なんか手が汗ばんでる」
そう言って笑うその選手に、悠朗もつられて小さく口元を緩めた。ベンチの中には、出場する選手も、しない選手も含めて、独特の張りつめた空気が満ちていた。
◆
試合は、初回から動いた。
相手チームの先発投手は、決して弱くはなかったが、Aチームの上位打線が着実に食らいついていく。一番打者が四球を選び、二番打者が送りバント。一死二塁の場面で、三番打者の進藤が打席に入った。
進藤は、打席に入る前、いつものように軽くバットを二度素振りしてから構えた。
一球目、内角の速球。進藤のバットが鋭く反応し、打球はライト線を破った。
「よし、行った!!」
二塁ランナーが一気にホームを陥れ、Aチームが先制する。ベンチが沸き立つ中、進藤は一塁ベース上で小さくガッツポーズをした。普段の飄々とした様子からは想像できないほど、感情がはっきりと表に出ていた。
悠朗はベンチから、その姿を見つめていた。
(進藤さん、今日は、いつもと違う)
言葉にはできなかったが、悠朗にはそれが分かった。今日という日にかける思いの重さが、進藤のプレー一つ一つから、静かに伝わってきていた。
◆
二回、相手チームの反撃が始まった。先頭打者が四球で出塁すると、続く打者が右中間を破る長打を放ち、二者連続で得点圏に走者を進めた。Aチームの投手がわずかに制球を乱し、犠牲フライで一点を返される。
「切り替えていくぞ!」
ベンチから声が飛ぶ中、三回はAチームの投手が立ち直り、三者凡退で切り抜けた。悠朗はその一球ごとに、思わず拳を握りしめながら見守っていた。
「悠朗、そんなに力入れてたら、疲れるぞ」
隣の選手にからかわれて、悠朗は自分の拳を見て、少し照れくさそうにその力を緩めた。
「……つい、力入っちゃう」
「分かるよ、その気持ち。俺もだもん」
そう言って笑うその選手と、悠朗は少しだけ打ち解けたような空気を共有した。ベンチの中で、こうして他の選手と自然に言葉を交わすことは、これまであまりなかったことだった。
四回、再びAチームの攻撃。今度は下位打線からの好機だったが、相手投手も踏ん張り、無得点に終わる。攻撃が終わり守備につく選手たちを見送りながら、悠朗はふと、自分がこの場にいることの意味を考えていた。まだ試合には出ていない。それでも、ベンチの中で声を出し、仲間の一打一打を見守ること自体が、チームの一部としての役割なのだと、悠朗なりに感じ始めていた。
そして五回、Aチームが再び畳みかけた。進藤が二打席目でも安打を放ち、続く打者のタイムリーで、Aチームが勝ち越し。守備でも、進藤が難しい打球を体を投げ出して処理し、チームを援護した。
「進藤さん、守備もすごいな」
隣の選手が思わず呟くと、悠朗も静かに頷いた。
◆
ベンチの中で、悠朗はずっと声を出し続けていた。
「ナイスバッティング!」
「ドンマイ、次!」
これまでの悠朗なら、こんな風に大きな声を出すことは少なかった。それでも今日は、自然と声が出た。チームの一員として、自分にできることをしたい——そんな思いが、いつの間にか悠朗の中に芽生えていた。
「悠朗、声出てるな」
隣に座っていた先輩選手が、驚いたように言った。
「うん。……なんか、今日は、出したくなった」
六回表、Aチームにとって、この試合最後の攻撃機会が回ってきた。一死一塁のチャンスで、打順は八番。だが、コーチが動いた。
「悠朗、代打だ。行けるか」
ベンチの奥から声がかかった瞬間、悠朗の心臓が、いつもより少し速く動いた気がした。
「はい」
短くそう答えると、悠朗はヘルメットをかぶり、バットケースから自分のバットを取り出した。グリップの汚れを丁寧に拭き取ってから、打席へと向かう。
「代打、青柳」
コーチの声に、相手ベンチが一瞬ざわついた。まだ三年生の子どもが、この場面で代打に送られるとは、誰も予想していなかったのだろう。
打席の手前で、悠朗は足を止めた。
そして、深く、静かに一礼をした。
マウンドには、この日先発している、相手チームのエース投手が立っていた。速球のスピードはもちろん、コースへの投げ分けも安定している、危険な投手だった。
一球目、内角の速球。悠朗は反応したが、わずかに差し込まれ、ファウルにした。
二球目、外角低め。悠朗は見送った。ボールの判定。
三球目——投手が選んだのは、外角低め、ボール半個分だけ逃げるコースへの速球だった。これまでの悠朗なら、力負けして凡打に終わっていたかもしれないコースだった。
だが、悠朗のバットは、短く持ったグリップのまま、鋭く、しかし力まずに振り抜かれた。無理に引っ張らず、外角球をそのままミートし、逆方向へ運ぶような打ち方だった。
小気味いい音が響いて、打球は三遊間を鋭く破っていった。
「抜けた!」
ベンチから声が上がる。一塁ランナーが二塁を蹴って三塁へ、悠朗も一塁を駆け抜けた。追加点にはならなかったが、二死一・三塁というさらなる好機を作り出した一打だった。
一塁ベース上に立つ悠朗の表情に、はっきりとした喜びが浮かんだ。派手なガッツポーズはしなかったが、口元がしっかりと緩んでいるのが、遠目にも分かった。
続く打者が放った打球は、外野の間を抜けるタイムリーとなり、三塁ランナーがホームイン。Aチームは、貴重な追加点を手にした。
ベンチが沸き立つ中、進藤も思わず立ち上がっていた。
「……マジかよ、あいつ」
呟いたその声には、驚きと、確かな手応えの両方が滲んでいた。
◆
六回裏、Aチームは二点のリードを守るため、守りに就いた。代打で出場した悠朗は、そのままライトの守備位置に入ることになった。守備位置につく前、悠朗は小さく一礼をした。誰に対してというわけではない。ただ、いつものように、そうするのが当たり前だった。
相手チームも粘りを見せ、一点を返したが、それ以上は許さなかった。悠朗の守るライト方向に大きな打球が飛んでくることはなかったが、悠朗は一球ごとに、あの日進藤から教わったスプリットステップを意識しながら、構えを崩さずにいた。
三者目の打者が投手ゴロに打ち取られると、試合終了のコールが響いた。
Aチームの選手たちから歓声が上がる。初戦、突破。
◆
試合後、進藤がベンチに戻ってきた悠朗のもとへやってきた。
「悠朗、あの代打、大したもんだな」
「うん。……ちゃんと、当たった気がする」
「それでいい。いつでも来る準備ができてる、その姿勢が大事なんだ」
進藤はそう言うと、汗を拭いながら、少しだけ遠くを見るような目をした。
「まだ一回戦だ。ここからが本番だぞ」
「うん」
短いやり取りだったが、悠朗はその言葉の奥に、進藤の並々ならぬ覚悟を感じ取っていた。
近くにいたコーチも、悠朗の肩を軽く叩いた。
「ナイスバッティングだったぞ、悠朗。あの場面で振り切れるの、大したもんだ」
「はい。……ありがとうございます」
その言葉に、少し離れたところにいた進藤が、聞こえていたのか、小さく笑ったのが見えた。
◆
帰りの車の中、悠朗は窓の外を流れる夏の景色をぼんやりと眺めていた。今日一日で見たもの、感じたことを、頭の中で何度も反芻する。
進藤の本気の横顔。チームの一体感。声を出すことの意味。代打として打席に立った、あの短い時間。そして、確かにバットに感じた、あの一打の手応え。
運転席の父親は、時折ミラー越しに、後部座席の悠朗の様子を窺っていた。何かを話しかけたそうにしていたが、悠朗が物思いに耽っている様子を見て、あえて言葉をかけずにいるようだった。
まだ、大会は始まったばかりだった。それでも、悠朗の中には、これまでにない確かな手応えが、静かに積み重なっていた。
◆
家に着くと、悠朗はまず、道具袋からグラブとバットを取り出し、いつものように丁寧に汚れを拭き取った。今日一日、グラウンドの土と汗をたっぷり吸ったグラブは、これまでよりも少しだけ重く感じられた。
「悠朗、今日はお疲れ様。晩ご飯、もうすぐできるよ」
台所から母親の声がした。悠朗は「うん」と短く答えながらも、手を止めずに、グラブの手入れを続けていた。
夕食の席で、父親が今日の試合について尋ねてきた。
「代打で出て? どんな気分だった」
「……緊張した。でも、当たって、よかった」
「そうか。声もたくさん出してたな。応援席から、ちゃんと見てたよ」
悠朗はしばらく黙って、箸を動かしていたが、やがてぽつりと呟いた。
「次も、出たい」
短いその一言に、父親と母親は、顔を見合わせて微笑んだ。
その夜、悠朗はいつも通り庭先でバットを振った。今日の試合の一球一球が、まだ体のどこかに残っている感覚があった。進藤の本気の横顔、あの一打をバットに感じた瞬間の手応え——それらを確かめるように、悠朗は何度も、何度もバットを振り続けた。
大会は、まだ始まったばかりだった。
(つづく)