一礼の天才   作:大浦泉

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第12話 次への準備

初戦の興奮は、二日経ってもまだ、悠朗の中にわずかに残っていた。夜、目を閉じると、あの日の一打の感触や、進藤の声が、ふとした瞬間によみがえってくる。

 

朝、いつも通り早く目を覚ました悠朗は、道具袋を確認しながら、ふと考えた。

 

(次も、また代打で出られるかな)

 

出られるかどうかは、まだ分からない。それでも、出番が来た時にきちんと応えられるように、今できることをやっておきたい——そんな思いが、悠朗の中で静かに固まりつつあった。

 

「悠朗、朝ごはんできたよ」

 

母親の声に、悠朗は道具袋を置いて、台所へ向かった。

 

 

初戦から二日後、Aチームの練習は、いつも通りの時間に始まった。夏の日差しは相変わらず強く、グラウンドの土は朝からすでに乾き始めていた。

 

「よし、浮かれてる暇はないぞ。二回戦の相手は、去年ベスト4のチームだ」

 

Aチームのコーチがそう告げると、練習前の空気が、一気に引き締まった。悠朗は道具袋からグラブを取り出しながら、その言葉を頭の中で繰り返した。

 

(ベスト4……)

 

具体的にどれほど強いのか、悠朗にはまだうまく想像がつかなかった。それでも、コーチの声のトーンから、これまでとは違う相手だということだけは、はっきりと伝わってきた。

 

周りの選手たちの表情も、いつもより張りつめて見えた。特に六年生たちは、練習開始前から、すでにキャッチボールの一球一球に力がこもっていた。

 

「去年、あそこにボロ負けしたんだよな」

 

隣で準備をしていた先輩選手が、ぽつりとそう漏らした。

 

「そんなに強いの?」

 

「ああ。ピッチャーの球も速いし、守備も堅い。とにかく隙がないチームだった」

 

その話を聞きながら、悠朗はグラブに軽く手を当て、型崩れがないかを確かめた。相手がどれほど強くても、自分にできる準備は変わらない——そんな思いが、静かに悠朗の中にあった。

 

 

その日の練習は、いつも以上に実戦形式のものが多かった。ノックの球足は速く、紅白戦も、普段よりずっと本気の空気で行われた。

 

守備練習では、これまで以上に厳しい打球が飛んできた。悠朗はライトの守備位置で、一球ごとにあのスプリットステップを意識しながら、打球への反応を磨いていた。何度か追いつけずに後逸することもあったが、そのたびに、悠朗は自分の中で原因を考え直し、次の一球に活かそうとした。

 

「悠朗、今の反応、悪くなかったぞ」

 

コーチにそう声をかけられると、悠朗は小さく頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

打撃練習に移ると、悠朗はもう一度、三遊間への流し打ち、一二塁間への引っ張り——コーチに言われるまま、様々なコースへの打ち分けを繰り返した。

 

「悠朗、いいぞ。外角も内角も、しっかり対応できてる」

 

コーチの言葉に、悠朗は小さく頷いた。だが、心のどこかでは、まだ物足りなさも感じていた。

 

(もっと、狙ったところに、狙った通りに打ちたい)

 

まだ言葉にはうまくできない感覚だったが、悠朗の中で、次の目標のようなものが、少しずつ形を持ち始めていた。ただ当てるだけでなく、狙った方向へ、狙った強さで打球を運ぶ——そんな精度を、もっと身につけたいという思いだった。

 

 

練習の終わりに、Aチーム全員がベンチに集められた。コーチが、他チームの指導者仲間から聞いたという二回戦の相手の情報を、選手たちに話して聞かせた。

 

「相手のピッチャーは、去年から見ても随分成長してるらしい。速球一本槍だが、その分、コントロールも良くなってきてるってさ」

 

コーチの言葉に、選手たちは真剣な表情で耳を傾けていた。

 

「守備も堅い。簡単には得点をやらないチームだ。だから、俺たちは一つのミスも見逃さず、確実にチャンスをものにしていく必要がある」

 

悠朗は、コーチの言葉を一つも聞き逃さないよう、じっと集中していた。相手投手の情報、守備の特徴——まだうまく戦略として消化できているわけではなかったが、それでも、頭の中に少しずつ、対策のようなものが積み重なっていくのを感じていた。

 

「代打で使うかもしれない選手にも、しっかり準備しておいてもらいたい」

 

コーチがそう言った瞬間、悠朗の背筋が、少しだけ伸びた。名指しはされなかったが、自分のことを言われているのだと、はっきり分かった。

 

「はい」

 

短く、しかしはっきりとした声で、悠朗は答えた。

 

 

ミーティングが解散したあと、進藤が悠朗のところへやってきた。

 

「悠朗、ちょっといいか」

 

「うん」

 

進藤は、少し言いにくそうに、口を開いた。

 

「二回戦の相手、正直、去年の俺らじゃ歯が立たなかった相手なんだ」

 

「……そうなんだ」

 

「向こうのピッチャー、去年の時点でもう学年離れした球速があった。今年はもっと成長してるはずだ」

 

進藤の口調には、単なる警戒以上の、何か重いものが滲んでいた。

 

「でも、今年のうちは、去年とは違う。お前みたいなのも入ってきたしな」

 

その言葉に、悠朗は少し驚いた顔をした。

 

「……俺?」

 

「ああ。低学年から上がってきて、代打でちゃんと結果出す奴なんて、そうそういない」

 

進藤はそう言うと、少し照れくさそうに視線を逸らした。

 

「まあ、期待してるってことだよ」

 

短いその言葉に、悠朗は静かに頷いた。

 

「うん。……頑張る」

 

「頑張るじゃなくて、思いっきりだって、この間も言っただろ」

 

進藤がそう言って笑うと、悠朗も釣られるように、小さく口元を緩めた。

 

「うん。……思いっきり、やる」

 

 

夕方、練習が終わった後も、悠朗は一人グラウンドに残り、素振りを続けていた。

 

「まだやってんのか」

 

声をかけてきたのは、笹本コーチだった。Bチームの指導が一段落したタイミングで、様子を見に来たらしい。

 

「あ……はい」

 

「Aチームでの調子、聞いてるぞ。代打で結果出したんだってな」

 

「……はい」

 

「お前がBチームにいた頃から、ずっと見てきたからな。ここまで来たかって、正直、驚いてるよ」

 

笹本はそう言うと、懐かしそうに目を細めた。

 

「入団したばっかりの頃、グラブの土をあんなに丁寧に払ってた一年生が、まさかAチームで代打の切り札になるなんてな」

 

「……切り札は、言い過ぎです」

 

悠朗が少し照れたようにそう言うと、笹本は声を出して笑った。

 

「まあ、これからだよ。短く持つの、まだ続けてるか」

 

「はい。……あの時教わったの、今でも使ってます」

 

「そうか。それは嬉しいな」

 

笹本はそう言うと、少しの間、悠朗の素振りを黙って見ていた。

 

「フォーム、随分しっかりしてきたな。Bチームの頃とは、見違えるようだ」

 

「……ありがとうございます」

 

短いやり取りだったが、悠朗の中には、Bチーム時代からの積み重ねが、今もしっかりとつながっているという実感があった。

 

 

グラウンドを出ようとしたところで、悠朗は偶然、練習を終えたばかりの大地と出くわした。

 

「悠朗、まだいたのか」

 

「うん。……大地も、居残り?」

 

「おう。俺もBチームでレギュラー争い中だからな。のんびりしてらんねえよ」

 

大地はそう言うと、傍らに置いていたバットを取り、素振りをして見せた。以前よりも、その振りにはずいぶん力強さが増しているように見えた。

 

「大地、うまくなってる」

 

「だろ? 短く持つやつ、俺もようやく板についてきたんだ」

 

二人はしばらく、それぞれのチームでの近況を話し合った。大地はBチームでの試合の様子を、悠朗はAチームでの練習の様子を、お互い包み隠さず語り合った。学年もチームも同じだった頃とは、少し違う関係になりつつあったが、それでも根っこの部分は変わっていないように、悠朗には感じられた。

 

「悠朗、二回戦、頑張れよ」

 

「うん。……大地も、次の試合」

 

「おう、任せとけ」

 

二人はそこで別れ、それぞれの帰り道へと歩き出した。夕暮れの中、少しずつ遠ざかっていく大地の背中を見送りながら、悠朗は、自分もまた前に進み続けなければと、静かに思いを新たにした。

 

 

家に帰る道すがら、悠朗は父親に、今日聞いた二回戦の相手について話した。

 

「去年のベスト4なんだって」

 

「へえ、強豪だな。緊張するか?」

 

「……うん、ちょっと」

 

「でも、初戦もちゃんと結果出せたじゃないか。大丈夫だよ」

 

父親の言葉に、悠朗は小さく頷いたが、内心では、初戦とは違う種類の緊張感があることも、なんとなく感じていた。初戦は、無我夢中で打席に立った。だが今度は、相手の強さを事前に知った上で臨む試合になる。

 

「相手のピッチャー、すごく速いんだって」

 

「そうか。速い球への対応、最近やってるやつだな」

 

「うん。短く持って、食らいつく」

 

「よし、それでいい。今日教わったこと、忘れずにな」

 

「もっと、練習したい」

 

「よし、じゃあ今日も、庭で少しやるか」

 

夕食を済ませたあと、悠朗はいつもの場所でバットを振り始めた。三遊間への流し打ち、一二塁間への引っ張り。まだ完全に思い通りとはいかないが、一振り一振りに、確かな手応えを積み重ねていく。

 

「悠朗、そろそろお風呂入りなさい」

 

母親の声が家の中から聞こえてきたが、悠朗は「あと少しだけ」と答えて、素振りを続けた。空にはもう星が見え始めていたが、悠朗の集中は途切れなかった。

 

二回戦は、もうすぐそこまで迫っていた。

 

 

その夜、風呂から上がった悠朗は、布団に入る前に、もう一度自分の道具袋を開いた。グラブとバットを取り出し、傷や汚れがないか、最後にもう一度だけ確かめる。

 

(明日も、ちゃんと準備しよう)

 

道具を丁寧に扱うこと、諦めずに食らいつくこと——それが、なぜかっこいいのか、悠朗自身、うまく言葉にはできなかった。それでも、あの日テレビで見た選手の姿が、今でも自分の中にしっかりと根付いていることだけは、はっきりと分かっていた。

 

道具袋を閉じ、布団に横になると、悠朗はすぐに深い眠りに落ちていった。明日への準備は、もう十分すぎるほど積み重ねてきた。あとは、その一つ一つを、グラウンドの上で出し切るだけだった。

 

(つづく)

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