初戦の興奮は、二日経ってもまだ、悠朗の中にわずかに残っていた。夜、目を閉じると、あの日の一打の感触や、進藤の声が、ふとした瞬間によみがえってくる。
朝、いつも通り早く目を覚ました悠朗は、道具袋を確認しながら、ふと考えた。
(次も、また代打で出られるかな)
出られるかどうかは、まだ分からない。それでも、出番が来た時にきちんと応えられるように、今できることをやっておきたい——そんな思いが、悠朗の中で静かに固まりつつあった。
「悠朗、朝ごはんできたよ」
母親の声に、悠朗は道具袋を置いて、台所へ向かった。
◆
初戦から二日後、Aチームの練習は、いつも通りの時間に始まった。夏の日差しは相変わらず強く、グラウンドの土は朝からすでに乾き始めていた。
「よし、浮かれてる暇はないぞ。二回戦の相手は、去年ベスト4のチームだ」
Aチームのコーチがそう告げると、練習前の空気が、一気に引き締まった。悠朗は道具袋からグラブを取り出しながら、その言葉を頭の中で繰り返した。
(ベスト4……)
具体的にどれほど強いのか、悠朗にはまだうまく想像がつかなかった。それでも、コーチの声のトーンから、これまでとは違う相手だということだけは、はっきりと伝わってきた。
周りの選手たちの表情も、いつもより張りつめて見えた。特に六年生たちは、練習開始前から、すでにキャッチボールの一球一球に力がこもっていた。
「去年、あそこにボロ負けしたんだよな」
隣で準備をしていた先輩選手が、ぽつりとそう漏らした。
「そんなに強いの?」
「ああ。ピッチャーの球も速いし、守備も堅い。とにかく隙がないチームだった」
その話を聞きながら、悠朗はグラブに軽く手を当て、型崩れがないかを確かめた。相手がどれほど強くても、自分にできる準備は変わらない——そんな思いが、静かに悠朗の中にあった。
◆
その日の練習は、いつも以上に実戦形式のものが多かった。ノックの球足は速く、紅白戦も、普段よりずっと本気の空気で行われた。
守備練習では、これまで以上に厳しい打球が飛んできた。悠朗はライトの守備位置で、一球ごとにあのスプリットステップを意識しながら、打球への反応を磨いていた。何度か追いつけずに後逸することもあったが、そのたびに、悠朗は自分の中で原因を考え直し、次の一球に活かそうとした。
「悠朗、今の反応、悪くなかったぞ」
コーチにそう声をかけられると、悠朗は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
打撃練習に移ると、悠朗はもう一度、三遊間への流し打ち、一二塁間への引っ張り——コーチに言われるまま、様々なコースへの打ち分けを繰り返した。
「悠朗、いいぞ。外角も内角も、しっかり対応できてる」
コーチの言葉に、悠朗は小さく頷いた。だが、心のどこかでは、まだ物足りなさも感じていた。
(もっと、狙ったところに、狙った通りに打ちたい)
まだ言葉にはうまくできない感覚だったが、悠朗の中で、次の目標のようなものが、少しずつ形を持ち始めていた。ただ当てるだけでなく、狙った方向へ、狙った強さで打球を運ぶ——そんな精度を、もっと身につけたいという思いだった。
◆
練習の終わりに、Aチーム全員がベンチに集められた。コーチが、他チームの指導者仲間から聞いたという二回戦の相手の情報を、選手たちに話して聞かせた。
「相手のピッチャーは、去年から見ても随分成長してるらしい。速球一本槍だが、その分、コントロールも良くなってきてるってさ」
コーチの言葉に、選手たちは真剣な表情で耳を傾けていた。
「守備も堅い。簡単には得点をやらないチームだ。だから、俺たちは一つのミスも見逃さず、確実にチャンスをものにしていく必要がある」
悠朗は、コーチの言葉を一つも聞き逃さないよう、じっと集中していた。相手投手の情報、守備の特徴——まだうまく戦略として消化できているわけではなかったが、それでも、頭の中に少しずつ、対策のようなものが積み重なっていくのを感じていた。
「代打で使うかもしれない選手にも、しっかり準備しておいてもらいたい」
コーチがそう言った瞬間、悠朗の背筋が、少しだけ伸びた。名指しはされなかったが、自分のことを言われているのだと、はっきり分かった。
「はい」
短く、しかしはっきりとした声で、悠朗は答えた。
◆
ミーティングが解散したあと、進藤が悠朗のところへやってきた。
「悠朗、ちょっといいか」
「うん」
進藤は、少し言いにくそうに、口を開いた。
「二回戦の相手、正直、去年の俺らじゃ歯が立たなかった相手なんだ」
「……そうなんだ」
「向こうのピッチャー、去年の時点でもう学年離れした球速があった。今年はもっと成長してるはずだ」
進藤の口調には、単なる警戒以上の、何か重いものが滲んでいた。
「でも、今年のうちは、去年とは違う。お前みたいなのも入ってきたしな」
その言葉に、悠朗は少し驚いた顔をした。
「……俺?」
「ああ。低学年から上がってきて、代打でちゃんと結果出す奴なんて、そうそういない」
進藤はそう言うと、少し照れくさそうに視線を逸らした。
「まあ、期待してるってことだよ」
短いその言葉に、悠朗は静かに頷いた。
「うん。……頑張る」
「頑張るじゃなくて、思いっきりだって、この間も言っただろ」
進藤がそう言って笑うと、悠朗も釣られるように、小さく口元を緩めた。
「うん。……思いっきり、やる」
◆
夕方、練習が終わった後も、悠朗は一人グラウンドに残り、素振りを続けていた。
「まだやってんのか」
声をかけてきたのは、笹本コーチだった。Bチームの指導が一段落したタイミングで、様子を見に来たらしい。
「あ……はい」
「Aチームでの調子、聞いてるぞ。代打で結果出したんだってな」
「……はい」
「お前がBチームにいた頃から、ずっと見てきたからな。ここまで来たかって、正直、驚いてるよ」
笹本はそう言うと、懐かしそうに目を細めた。
「入団したばっかりの頃、グラブの土をあんなに丁寧に払ってた一年生が、まさかAチームで代打の切り札になるなんてな」
「……切り札は、言い過ぎです」
悠朗が少し照れたようにそう言うと、笹本は声を出して笑った。
「まあ、これからだよ。短く持つの、まだ続けてるか」
「はい。……あの時教わったの、今でも使ってます」
「そうか。それは嬉しいな」
笹本はそう言うと、少しの間、悠朗の素振りを黙って見ていた。
「フォーム、随分しっかりしてきたな。Bチームの頃とは、見違えるようだ」
「……ありがとうございます」
短いやり取りだったが、悠朗の中には、Bチーム時代からの積み重ねが、今もしっかりとつながっているという実感があった。
◆
グラウンドを出ようとしたところで、悠朗は偶然、練習を終えたばかりの大地と出くわした。
「悠朗、まだいたのか」
「うん。……大地も、居残り?」
「おう。俺もBチームでレギュラー争い中だからな。のんびりしてらんねえよ」
大地はそう言うと、傍らに置いていたバットを取り、素振りをして見せた。以前よりも、その振りにはずいぶん力強さが増しているように見えた。
「大地、うまくなってる」
「だろ? 短く持つやつ、俺もようやく板についてきたんだ」
二人はしばらく、それぞれのチームでの近況を話し合った。大地はBチームでの試合の様子を、悠朗はAチームでの練習の様子を、お互い包み隠さず語り合った。学年もチームも同じだった頃とは、少し違う関係になりつつあったが、それでも根っこの部分は変わっていないように、悠朗には感じられた。
「悠朗、二回戦、頑張れよ」
「うん。……大地も、次の試合」
「おう、任せとけ」
二人はそこで別れ、それぞれの帰り道へと歩き出した。夕暮れの中、少しずつ遠ざかっていく大地の背中を見送りながら、悠朗は、自分もまた前に進み続けなければと、静かに思いを新たにした。
◆
家に帰る道すがら、悠朗は父親に、今日聞いた二回戦の相手について話した。
「去年のベスト4なんだって」
「へえ、強豪だな。緊張するか?」
「……うん、ちょっと」
「でも、初戦もちゃんと結果出せたじゃないか。大丈夫だよ」
父親の言葉に、悠朗は小さく頷いたが、内心では、初戦とは違う種類の緊張感があることも、なんとなく感じていた。初戦は、無我夢中で打席に立った。だが今度は、相手の強さを事前に知った上で臨む試合になる。
「相手のピッチャー、すごく速いんだって」
「そうか。速い球への対応、最近やってるやつだな」
「うん。短く持って、食らいつく」
「よし、それでいい。今日教わったこと、忘れずにな」
「もっと、練習したい」
「よし、じゃあ今日も、庭で少しやるか」
夕食を済ませたあと、悠朗はいつもの場所でバットを振り始めた。三遊間への流し打ち、一二塁間への引っ張り。まだ完全に思い通りとはいかないが、一振り一振りに、確かな手応えを積み重ねていく。
「悠朗、そろそろお風呂入りなさい」
母親の声が家の中から聞こえてきたが、悠朗は「あと少しだけ」と答えて、素振りを続けた。空にはもう星が見え始めていたが、悠朗の集中は途切れなかった。
二回戦は、もうすぐそこまで迫っていた。
◆
その夜、風呂から上がった悠朗は、布団に入る前に、もう一度自分の道具袋を開いた。グラブとバットを取り出し、傷や汚れがないか、最後にもう一度だけ確かめる。
(明日も、ちゃんと準備しよう)
道具を丁寧に扱うこと、諦めずに食らいつくこと——それが、なぜかっこいいのか、悠朗自身、うまく言葉にはできなかった。それでも、あの日テレビで見た選手の姿が、今でも自分の中にしっかりと根付いていることだけは、はっきりと分かっていた。
道具袋を閉じ、布団に横になると、悠朗はすぐに深い眠りに落ちていった。明日への準備は、もう十分すぎるほど積み重ねてきた。あとは、その一つ一つを、グラウンドの上で出し切るだけだった。
(つづく)