二回戦当日の朝、悠朗はいつも通り早く目を覚ました。
初戦の日ほどの緊張はなかったが、それでも布団から出た瞬間から、体のどこかに、じわりとした重みを感じていた。
「悠朗、今日も早いね」
台所から声をかけてきた母親に、悠朗は小さく頷いた。
「うん。……今日の相手、強いから」
朝食を済ませると、悠朗はいつものように道具袋を開き、グラブとバットを一つずつ確認した。汚れやほつれがないかを丁寧に見ていく作業は、もうすっかり体に染みついた習慣になっていた。
「今日も、頑張れよ」
父親にそう声をかけられ、悠朗は静かに頷いた。
「うん。……行ってきます」
◆
二回戦当日、球場に着いた瞬間から、これまでとは違う緊張感が漂っていた。
相手チームのアップを遠目に見ながら、悠朗は思わず息を呑んだ。声の張り、動きのキレ、どれを取っても、初戦の相手とは明らかに違う。
「聞いてた通り、隙がなさそうだな」
隣にいた先輩選手が、ぽつりと呟いた。悠朗は小さく頷きながら、道具袋の中身を、もう一度だけ確かめた。
Aチームのベンチでは、進藤が円陣の中心に立っていた。
「今日は初戦以上に、一つのミスも許されない相手だ。守り一つ、走塁一つ、丁寧にいくぞ」
「おう!!」
声を揃える六年生たちの表情には、これまで以上の覚悟が滲んでいた。悠朗もその輪の中で、静かに拳を握りしめていた。
◆
試合は、初回から重苦しい展開になった。
相手の先発投手は、噂に違わぬ実力者だった。速球のスピードはもちろん、コースへの投げ分けが徹底しており、Aチームの上位打線も、なかなか手が出ない。
一回、二回と、両チームとも無得点のまま試合が進んだ。悠朗はベンチから、その緊迫したやり取りを、息を詰めるようにして見守っていた。
「悠朗、今日は出番あるかな」
隣に座る先輩選手が、小声で話しかけてきた。
「……分かんない。でも、いつでも準備しとく」
そう答えた悠朗の視線は、ずっとグラウンドに向けられたままだった。相手投手の癖、Aチームの打者たちの反応——一つ一つを、頭の中に刻み込むように見つめ続けていた。
三回表、相手チームが先制点を挙げた。四球と犠打で走者を進められ、タイムリーで一点を献上する。
「切り替えろ、まだ序盤だ!」
進藤の声がベンチに響いた。だが、その声にも、いつもよりわずかな硬さがあることを、悠朗は感じ取っていた。
ベンチの空気は、決して暗くはなかったが、これまでの試合にはなかった重さを帯びていた。誰もが、相手の強さを肌で感じながら、それでも諦めずに次の攻撃を待っていた。
◆
四回、Aチームにもようやく反撃の兆しが見え始めた。先頭打者が粘って四球を選び、続く打者がヒットでつなぐ。一死一・二塁の好機で、打席には進藤が入った。
「ここで決めろよ、進藤!」
ベンチから声援が飛ぶ中、進藤は一度、深呼吸をしてから打席に入った。悠朗はその後ろ姿を、じっと見つめていた。普段は飄々とした進藤が、ここぞという場面で見せる集中力の高さは、これまでの練習でも何度となく目にしてきたものだった。
進藤は、いつものように軽くバットを二度素振りしてから構えた。
一球目、内角の速球。進藤のバットが力強く反応し、打球はレフト線を破る二塁打となった。二塁走者が生還し、一塁走者も三塁まで進んで、Aチームが同点に追いつく。
「よし、いいぞ!!」
ベンチが沸き立つ中、進藤は二塁ベース上で拳を軽く握った。派手なガッツポーズはしなかったが、その表情には確かな手応えが浮かんでいた。
その後、五回に相手チームが勝ち越しの一点を挙げ、Aチームは二対一とリードを許したまま、試合は終盤に突入した。
◆
六回表、Aチームの攻撃。一死走者なしの場面で、コーチがベンチを見渡した。
「悠朗、代打だ」
短くそう告げられ、悠朗の心臓が、いつもより速く動いた。
「はい」
ヘルメットをかぶり、バットケースから自分のバットを取り出す。グリップの汚れを丁寧に拭き取ってから、打席へと向かった。
歩きながら、悠朗はこれまでの練習の一つ一つを、頭の中で思い返していた。短く持ったグリップ、外角球への流し打ち、内角球への引っ張り——どれも、ここに至るまでに積み重ねてきたものだった。
打席の手前で足を止め、深く、静かに一礼をする。
マウンドの投手は、初回からずっと安定した投球を続けている。決して衰えを見せない、粘り強い相手だった。悠朗は構えながら、進藤の言葉を思い出していた。
——お前みたいなのも入ってきたしな。まあ、期待してるってことだよ。
一球目、外角低めの速球。悠朗は無理に引っ張らず、バットを合わせるようにミートし、逆方向へ運んだ。打球は三遊間を鋭く抜けていった。
「抜けた!」
ベンチから声が上がる。悠朗は一塁を駆け抜けながら、確かな手応えを感じていた。派手なガッツポーズはしなかったが、口元にはっきりとした喜びが浮かんでいた。
◆
続く打者が送りバントを決め、悠朗は二塁へ進んだ。二死二塁の場面で、打席には下位打線の選手が入る。
ベンチの中で、悠朗は二塁ベース上から、その打者の一挙手一投足を見守っていた。ここで一本出れば、同点に追いつける——そんな思いが、自然と体に力を入れさせていた。
初球、その打者のバットが振り抜かれた。打球はセンター前へ抜けるヒットとなり、悠朗は二塁から一気にホームへ生還した。
「よっしゃあ!!」
ベンチが沸き立つ中、悠朗はホームベースを踏んでから、静かに息を整えた。二対二、Aチームが土壇場で同点に追いついた瞬間だった。打者は二死ながら一塁に生きている。続く打者が四球を選んで一・二塁とすると、さらに次の打者が放ったセンター前へのタイムリーで、二塁走者がホームを陥れ、Aチームがついに勝ち越した。
進藤がベンチで、思わず立ち上がっていた。
「……あいつ、いい流れ作りやがったな」
呟いたその声には、驚きよりも、確かな信頼が滲んでいた。
◆
六回裏、相手チームの最後の攻撃。Aチームの投手陣は、粘る打者たちを丁寧に打ち取っていった。二死一塁まで詰め寄られる場面もあったが、最後は内野ゴロで試合終了。
三対二、Aチームの勝利だった。
◆
試合後、進藤が悠朗のもとへやってきた。
「悠朗、今日もいい場面で決めたな」
「うん。……何とか、当たった」
「何とか、じゃねえよ。あの投手相手に、しっかり流し打ちできてただろ」
進藤はそう言うと、少し照れくさそうに続けた。
「お前がベンチにいると、こっちも安心して勝負できる。ありがたい話だよ」
その言葉に、悠朗は静かに頷いた。
「うん。……次も、頑張る」
近くにいたコーチも、悠朗の肩を軽く叩いた。
「ナイスバッティングだったぞ、悠朗。あの外角球、狙い通りだったんじゃないか」
「はい。……練習でやったこと、そのままでした」
その言葉に、コーチは満足そうに頷いた。
球場の出口に向かう途中、悠朗は応援に来ていた大地とすれ違った。
「悠朗、見てたぞ! すげえ活躍だったな」
「うん。……ありがとう」
「俺も、次はお前に負けないように頑張るからな」
大地はそう言うと、力強くグラブを握りしめて見せた。悠朗はその様子に、小さく笑みを浮かべた。
「うん。……お互い、頑張ろう」
◆
帰りのバスの中、悠朗は今日の一打を、何度も頭の中で反芻していた。無理に引っ張らず、来た球にそのまま素直に対応する——練習で繰り返してきたことが、初めて大きな場面で結果につながった実感があった。
隣の座席では、選手たちが今日の試合について興奮気味に語り合っている。悠朗はその輪に静かに耳を傾けながら、まだ実感の湧ききらない喜びを、少しずつ噛みしめていた。
大会は、まだ続く。次は準々決勝——相手はまだ分からないが、悠朗の中には、これまでにない確かな自信が、静かに芽生え始めていた。
◆
家に着くと、悠朗はいつものように道具の手入れを始めた。今日一日、緊張の中で使い続けたグラブとバットを、丁寧に、一つ一つ確かめていく。
「今日は勝ったんだって? コーチから聞いたよ」
夕食の席で、父親がそう声をかけてきた。
「うん。……ぎりぎりだったけど」
「代打で、決勝点に絡む一打だったんだろう?」
「うん。……三遊間、抜けた」
悠朗が短くそう答えると、父親は嬉しそうに目を細めた。
「二試合連続で結果出すって、大したもんだな」
「……まだ、次がある」
悠朗の言葉に、父親と母親は、顔を見合わせて微笑んだ。
その夜、悠朗はいつも通り庭先でバットを振った。今日の一打の感触が、まだ体のどこかに残っている。無理に引っ張らず、来た球に素直に対応する——その感覚を確かめるように、悠朗は何度も、何度もバットを振り続けた。
大会は、まだ続いている。次の相手がどんなチームであれ、自分にできることを積み重ねていくだけだと、悠朗は静かに思っていた。
(つづく)