一塁でアウトの判定を受けたあと、ベンチへ戻るまでの道のりが、これまでのどの試合よりも長く感じられた。
ベンチに戻った悠朗は、グラブを手に取りながらも、まだ先ほどの打席の感触を引きずっていた。狙い通りの場所に打球を運んだのに、結果は出なかった。その事実が、頭の中で何度も繰り返されていた。
(……何がいけなかったんだろう)
バットの振り、タイミング、狙った方向——どれも、これまで積み重ねてきた通りにできたはずだった。それでも、相手はそれをすべて見抜いていた。悠朗にとって、それは技術の失敗というより、もっと根本的な何かを突きつけられたような感覚だった。
「悠朗、切り替えろ。まだ同点だ」
進藤の声に、悠朗ははっと顔を上げた。
「うん。……守備、行ってきます」
グラブを手に立ち上がりながら、悠朗は小さく頭を振った。今は、考え込んでいる場合ではない。試合は、まだ終わっていなかった。
五回裏、Aチームは守りに就いた。悠朗はそのままライトの守備位置に入る。守備位置につく前、いつものように小さく一礼をする。この一つの所作だけは、どんな場面でも変わらなかった。
相手の攻撃は、二死から四球を選ばれる場面があったが、後続を打ち取り、無失点で切り抜けた。ベンチに戻る選手たちの表情には、まだ試合の行方が分からないという緊張感が張りつめていた。
◆
六回表、Aチーム最後の攻撃が始まった。
先頭打者が倒れ、二番打者も凡退。二死走者なしという、厳しい状況で、打席には進藤が入った。
これが、進藤にとって、少年団での最後の打席になるかもしれない——ベンチにいる誰もが、それを分かっていた。誰も声には出さなかったが、ベンチ全体が、その一打席に懸けるような静けさに包まれていた。
悠朗は、ベンチの中から、進藤の背中をじっと見つめていた。これまで何度も見てきたその背中が、今日はいつもより、ほんの少しだけ大きく見えた。
進藤は、いつものように軽くバットを二度素振りしてから構えた。だが、その表情には、これまでの試合にはなかった、静かな覚悟のようなものが浮かんでいた。
一球目、内角の速球。進藤は見送った。ストライク。
二球目、外角低め。進藤のバットが鋭く反応し、打球は左中間へ大きく弾かれた。
「行け、行け!!」
ベンチが総立ちになる中、打球はフェンス手前で相手外野手に処理され、進藤は三塁打で止まった。二死三塁——同点のまま、あと一本が出れば、勝ち越しの好機だった。
続く打者が、打席に入る。ベンチからは「頼むぞ!」という声が飛んだが、相手投手の疲れを感じさせない投球の前に、なかなか手が出なかった。
一球目、際どい内角球。バットが空を切る。
二球目、外角低め。またしても空振り。
ベンチの誰もが、固唾を呑んでその打席を見守っていた。三塁で息を潜める進藤の姿が、悠朗の目にも焼きついていた。
三球目——投手の渾身の速球に、バットは届かなかった。
「ストライク、バッターアウト」
三塁の進藤を置き去りにしたまま、Aチームの攻撃は終わった。
◆
六回裏、Aチーム最後の守備。
マウンドに立つ投手の顔には、隠しきれない疲労が滲んでいた。それでも、その目にはまだ、諦めていない光があった。
先頭打者を打ち取り、一死。だが、続く打者に四球を与えると、次の打者がレフト前へ運ぶヒットで、一・二塁のピンチを作られた。
ベンチの空気が、一気に張りつめた。悠朗は外野の守備位置から、その緊迫したやり取りを、息を詰めて見守っていた。
「ここが正念場だ、締めていくぞ!」
進藤の声が、これまでで一番大きく響いた。内野からも、外野からも、選手たちの声が重なり合う。誰もが、この一球一球に、少年団での最後の時間を懸けていた。
一死一・二塁。相手の打者が、初球を強振した。
打球は、悠朗の守るライト線へ、鋭く飛んでいった。
悠朗は打球方向へ、あの日教わったスプリットステップで一歩目を踏み出した。だが、打球の勢いは、悠朗の想像以上だった。グラブの先をかすめて、打球はフェンス際まで転がっていく。
二塁走者が悠々とホームを踏んだ。それだけで、試合は終わりだった。
サヨナラ。二対一。試合終了のコールが、静かにグラウンドに響いた。
◆
Aチームの、大会最後の試合が終わった。
悠朗は、しばらくの間、自分の守っていたライトの守備位置から動けなかった。あと一歩、体が前に出ていれば。あと一歩、グラブが届いていれば。そんな思いが、頭の中を巡り続けていた。
グラウンドの土を見つめながら、悠朗は唇を強く噛んだ。これまでの試合では感じたことのない、重く、鈍い痛みが、胸の奥に広がっていた。
「悠朗」
声をかけてきたのは、進藤だった。守備位置まで、わざわざ歩いてきてくれたのだった。
「……ごめん」
悠朗が絞り出すようにそう言うと、進藤は静かに首を振った。
「お前のせいじゃない。あれは、誰にも止められない当たりだった」
進藤の声には、負けた悔しさと、それでも悠朗を責めない優しさの両方が滲んでいた。
「それより——ありがとうな。この夏、お前がいてくれて、楽しかった」
その言葉に、悠朗は何も言えなかった。ただ、こみ上げてくるものを、必死にこらえていた。
進藤は、そのまま他の選手たちのところへも、一人ずつ声をかけて回っていた。誰に対しても、いつもの飄々とした調子を崩さないまま、それでいて、いつもよりずっと丁寧な言葉を選んでいるように見えた。
◆
整列し、相手チームと挨拶を交わしたあと、Aチームの選手たちは、それぞれの想いを抱えたまま、ベンチへと戻っていった。
六年生たちの中には、涙をこらえきれない者もいた。進藤は、そんな仲間たちを見渡しながら、静かに、それでいてはっきりとした声で言った。
「みんな、よく頑張った。この夏、本当に楽しかった」
短いその言葉に、六年生たちが、堰を切ったように泣き出した。悠朗はその輪の少し外側で、その光景を、目に焼きつけるように見つめていた。
まだ三年生の悠朗には、この涙の重さを、完全には理解できていなかった。それでも、進藤たちがこの一年に懸けてきたものの大きさだけは、痛いほど伝わってきていた。
◆
球場の出口に向かう途中、悠朗は応援に来ていた大地とすれ違った。
「悠朗……」
大地は、かける言葉を探しているような顔をしていた。
「負けた」
悠朗が短くそう言うと、大地は静かに頷いた。
「見てた。……最後まで、いい試合だった」
「うん」
「悠朗、今日の打席も、守備も、ちゃんと見てたぞ。お前、すげえ頑張ってた」
その言葉に、悠朗は俯いたまま、小さく頷いた。慰められているのだと分かっていても、今はまだ、素直にそれを受け止めきれないでいた。
「また、一緒に練習しような」
大地はそう言うと、悠朗の肩を軽く叩いて、家族のもとへと戻っていった。その背中を見送りながら、悠朗は少しだけ、胸の重さが和らぐのを感じていた。
◆
帰り道、悠朗は父親に、今日の試合について、多くを語らなかった。球場までの道のりとは対照的に、帰り道は驚くほど静かだった。夏の日差しはまだ強く、蝉の声だけが、いつも通り辺りに響いていた。
「負けた」
短くそれだけ言うと、悠朗はしばらく黙って歩き続けた。父親も、無理に言葉をかけることはせず、ただ隣を歩いていた。
しばらくして、悠朗がぽつりと呟いた。
「シフト、敷かれた。……いつもの打ち方、通用しなかった」
「そうか」
「もっと、強く打てるようになりたい」
父親は少し考えてから、静かに頷いた。
「それは、これから先の宿題だな」
悠朗は、その言葉を、頭の中で静かに繰り返した。パワー不足という壁、シフトに封じられた悔しさ、そして進藤たちとの、この夏の記憶。すべてが、悠朗の中に、確かな重みを持って積み重なっていった。
その夜、悠朗はいつものように道具の手入れを始めた。今大会を通じて使い続けたグラブとバットを、一つ一つ、丁寧に確かめていく。汗と土にまみれたグラブは、大会が始まる前よりも、ずっと使い込まれた表情をしていた。
手入れを終えると、悠朗は庭先に出て、バットを振り始めた。今日の悔しさを、そのまま体に染み込ませるように、何度も、何度も振り続けた。
「悠朗、そろそろ休みなさい」
母親の声が聞こえてきたが、悠朗はもう少しだけ、と答えて素振りを続けた。空を見上げると、夏の終わりを感じさせる、少しだけ涼しい風が吹いていた。
夏の大会は、終わった。だが、悠朗の中では、次への一歩が、すでに静かに始まっていた。
(つづく)