夏の大会が終わってから、数日が経った。
大会の興奮も、少しずつ落ち着きを見せ始めていた。それでも、悠朗の中には、まだくすぶり続けているものがあった。
悠朗は、あの決勝でのシフトのことを、何度も頭の中で思い返していた。狙い通りの場所に打球を運んでも、パワーがなければ、簡単に見透かされてしまう。それは、これまで積み上げてきた技術だけでは埋められない、新しい種類の壁だった。
夜、布団に入ってからも、あの遊撃手のグラブに収まった打球の感触が、ふとした瞬間に蘇ってくることがあった。悔しさは、時間が経っても、簡単には薄れなかった。
「悠朗、まだ考えてるのか、あの試合のこと」
練習前、笹本コーチがそう声をかけてきた。Bチームの指導の合間を縫って、様子を見に来てくれたようだった。
「はい。……もっと、強く打ちたいです」
「そうか。じゃあ、ちょうどいい。今日は、そのための練習をしてみるか」
笹本の言葉に、悠朗の目が、わずかに輝いた。
夏休みも終わりに近づき、朝晩には、わずかながら涼しさを感じる日も増えてきていた。それでも、グラウンドの日差しはまだ強く、練習着はすぐに汗で重くなった。
◆
笹本コーチが持ち出したのは、ゴムチューブと、少し重めのトレーニングバットだった。
「いいか、悠朗。パワーっていうのは、いきなり筋肉をつければいいってもんじゃない。まずは、体幹——体の軸をしっかり作ることが大事なんだ」
笹本はそう言うと、ゴムチューブを使った体幹トレーニングの動きを、実際にやって見せた。片足立ちのまま、体を捻るようにチューブを引く動作を、ゆっくりと繰り返していく。
「これを毎日続けると、スイングの時に軸がぶれなくなる。軸がぶれないと、同じ力でも、もっと効率よくバットに伝わるようになるんだ」
悠朗は見よう見まねで、その動きを繰り返した。最初はうまくバランスが取れず、何度もふらついたが、それでも投げ出すことはなかった。汗が額から滴り落ちても、悠朗は黙々と、同じ動きを繰り返し続けた。
「悠朗、無理はするなよ。三年生の体は、まだ出来上がってない。焦って怪我でもしたら、元も子もないからな」
笹本の言葉に、悠朗は素直に頷いた。
「はい。……ちゃんと、少しずつやります」
「その調子だ。急に強くなろうとするより、毎日ちょっとずつの方が、結局は近道なんだよ」
笹本はそう言うと、悠朗の背中を軽く叩いた。その手のひらの温かさに、悠朗は少しだけ、心が軽くなるのを感じた。
◆
その日から、悠朗の日課に、新しいメニューが加わった。
朝は体幹トレーニング、放課後は素振りと、笹本に教わったティーバッティングの練習。ただ当てるだけでなく、**バットのヘッドをしっかり走らせて、打球に力を伝える**ことを意識した打ち方だった。
最初のうちは、これまでの『短く持って、ミートに徹する』打ち方との違いに戸惑うことも多かった。ティーの上に置かれたボールを何度も打ち返しても、なかなか思うような打球が飛んでいかない。
「悠朗、力み過ぎだ。もっと、リラックスして」
コーチの声に、悠朗は肩の力を抜こうと試みるが、なかなかうまくいかない。強く打とうとすればするほど、体に余計な力が入ってしまう。
「力を入れることと、力を伝えることは、違うんだ」
笹本の言葉は、悠朗にとって、まだ完全には理解しきれないものだった。それでも、その言葉を胸に、悠朗は繰り返しバットを振り続けた。
何十球、何百球と打ち込むうちに、悠朗はふと、ある瞬間の感覚に気づいた。力を抜いたはずのスイングの方が、むしろ打球が遠くまで飛んでいく——そんな不思議な感覚だった。
「今の、良かったぞ!」
笹本の声に、悠朗は自分でもまだ半信半疑のまま、もう一度同じ感覚を探るように、バットを構え直した。
◆
ある日の練習後、進藤が悠朗の様子を見にやってきた。夏の大会が終わってからも、六年生たちはまだ少年団に残り、練習を続けていた。
「悠朗、なんか、雰囲気変わったな」
「……そう?」
「なんか、必死さが増したっていうか」
進藤はそう言うと、悠朗のティーバッティングを、しばらく黙って眺めていた。悠朗のスイングは、まだぎこちなさが残っていたが、以前とは明らかに違う、力強さの片鱗が見え始めていた。
「あの決勝の借り、返す気か」
「うん。……次は、シフト敷かれても、抜きたい」
短いその答えに、進藤は少し驚いた顔をしてから、ふっと笑った。
「気合い入ってんな。まあ、頑張れよ」
「うん」
進藤はしばらくの間、悠朗の練習に付き合ってくれた。バットの角度、ボールの捉え方——これまでとは違う視点からのアドバイスは、悠朗にとって、新鮮な発見の連続だった。
「お前、まだ三年生なのに、こんなに真剣にやってるんだもんな。俺らも、負けてられねえわ」
進藤がそう呟いた言葉に、悠朗は少し首をかしげた。
「進藤さんたちは、もう……」
言いかけて、悠朗は言葉を飲み込んだ。六年生である進藤たちにとって、少年団での時間が、そう長くは残っていないことを、悠朗も分かっていた。
「まあな。大会も終わったし、俺らの少年団生活も、もうすぐ終わりだよ」
進藤はそう言うと、少し遠くを見るような目をした。それから、すぐにいつもの調子に戻って、悠朗の肩を軽く叩いた。
「だからこそ、今できることを、悔いなくやるだけだよ」
短いやり取りだったが、悠朗にとって、それは大きな励みになった。
◆
翌日の練習で、悠朗はBチームの練習を終えた大地と、グラウンドの隅で顔を合わせた。
「悠朗、最近、居残り増えてないか?」
「うん。……パワー、つけたくて」
「決勝のあれか」
大地はそう言うと、少し考えるような顔をした。
「俺も、あの試合見てて思ったんだ。悠朗でも、通用しないことあるんだなって」
その言葉に、悠朗は苦笑した。
「うん。……びっくりした」
「でも、だからこそ、今頑張ってるんだろ? かっこいいじゃん」
大地の何気ない一言に、悠朗は小さく頷いた。かっこいいかどうか——それは、悠朗にとって、いつも行動の軸にある感覚だった。
「大地も、一緒にやる?」
「お、いいのか?」
「うん。……一緒の方が、頑張れる」
その日から、大地も時折、悠朗の体幹トレーニングやティーバッティングに付き合うようになった。二人で汗を流す時間は、これまでとは違う種類の充実感を、悠朗にもたらしていた。
◆
夏休みが終わりに近づいたある日、悠朗は家の庭で、いつも通り素振りを続けていた。夕暮れの空は、少しずつ赤く染まり始めていた。
「悠朗、随分振りが変わったな」
縁側で見ていた父親が、そう声をかけてきた。
「……変わった?」
「うん。前より、こう、体全体を使ってる感じがする」
その言葉に、悠朗は少しだけ嬉しそうな表情を見せた。
「笹本コーチに、教わってる」
「そうか。焦らず、続けるといいよ」
父親はそう言うと、縁側から立ち上がり、悠朗の隣まで歩いてきた。
「決勝で悔しい思いしたんだろう。でも、その悔しさを、こうやってちゃんと次に活かそうとしてるの、見てて嬉しいよ」
「……うん」
「無理はするなよ。体壊したら、元も子もないからな」
「分かってる。笹本コーチにも、同じこと言われた」
父親は小さく笑うと、悠朗の頭を軽く撫でた。
「じゃあ、大丈夫だな」
その言葉に、悠朗は静かに頷いた。夏の敗戦から生まれた悔しさは、まだ完全には消えていない。それでも、その悔しさは、確かに悠朗を前に進ませる力に変わりつつあった。
蝉の声は、まだ夏の終わりを惜しむように、庭先に響いていた。悠朗のバットの音も、それに負けじと、何度も何度も、静かな夕暮れの中に響き続けた。
(つづく)