二学期が始まると、悠朗の生活には、学校と少年団の練習を両立させる、慌ただしい日々が戻ってきた。
朝は六時に起きて、庭でゴムチューブを使った体幹トレーニングを二十分。それから朝食をとり、学校へ向かう。授業中も、机の下でこっそり足の指に力を入れて、笹本コーチに教わった軸の作り方を確かめることがあった。担任の先生に気づかれて、そっと注意されたこともあったが、悠朗はそのたびに「すみません」と素直に頭を下げ、それでも練習への熱は変わらなかった。
放課後は少年団の練習、そこからさらに家に帰ってから、庭でのティーバッティングが日課になっていた。学校から帰ると、まずランドセルを置き、着替える間も惜しむように庭に出て、ティースタンドとバットを用意する。それが、いつの間にか、悠朗の当たり前の習慣になっていた。
「悠朗、今日も庭で振ってるの? もう暗いのに」
母がそう声をかけてくることもあったが、悠朗はいつも短く「うん」とだけ答え、練習の手を止めることはなかった。
九月に入り、日が落ちるのが少しずつ早くなってきた。蝉の声はいつの間にか鳴りを潜め、代わりに虫の音が庭先に響くようになっていた。それでも、暗くなるぎりぎりまで、悠朗はバットを振り続けた。
素振りの音も、以前とは少しずつ変わってきていた。以前は「ヒュッ」という軽い風切り音だったものが、最近は「ビュンッ」という、より鋭い音に変わりつつあった。その変化に、悠朗自身が一番敏感に気づいていた。
「今の、ちょっと違った」
一人でそう呟きながら、悠朗は同じ場所に立ち、もう一度同じスイングを再現しようと、何度も何度もバットを振り続けた。
◆
ある日の練習前、監督がAチームの選手たちを集めて言った。
「来週、紅白戦をやる。新チームの編成を決めるための、大事な試合だ」
Aチームでは、六年生が抜けたあとを見据えて、少しずつ選手の入れ替えが始まっていた。誰がどのポジションを担うか、誰が中心打線に入るか——紅白戦は、その見極めの場でもあった。
「悠朗、お前も当然入るからな」
笹本コーチが、練習の合間にそう耳打ちしてくれた。
「はい」
短く頷きながらも、悠朗の胸の内には、いつもとは違う緊張感があった。これまで積み上げてきた練習の成果を、初めて実戦に近い形で試せる機会だった。
「気負いすぎるなよ。今までやってきたことを、いつも通りやればいい」
笹本の言葉に、悠朗は小さく息を吐いた。
◆
紅白戦当日、空はよく晴れていた。
チームは白組と紅組に分けられ、悠朗は白組の五番打者として名前を呼ばれた。これまでの下位打線から、一つ順番が上がっていた。
打席に入る前、悠朗はいつものように深く一礼をした。その所作は、どんな場面でも変わらなかった。
一打席目。相手投手は、同学年のAチームメンバーだった。内角低めの速球に、悠朗はバットを短く出した。バットの芯は外れたが、詰まった当たりにしては、思いのほか強い打球が飛んだ。
「あっ……」
これまでなら、内野手の正面に転がるだけの打球だったはずだ。だが今日は、二塁手の頭を越えて、右中間の芝の上を転々と転がっていった。悠朗は一気に二塁まで駆け抜けた。
「今の……二塁打?」
ベンチの選手たちが、驚いた顔でそのボールの行方を目で追っていた。悠朗自身、二塁ベース上で、自分の手のひらに残る感触を、何度も確かめるように見つめていた。
(詰まったのに……前に飛んだ)
これまで感じたことのない手応えだった。力を入れたわけではない。それなのに、バットのヘッドが走った分だけ、打球には確かな伸びがあった。
「悠朗、ナイスバッティング!」
味方ベンチから声が飛ぶ。悠朗は小さく頭を下げ、それから静かに、ユニフォームの土を払った。
◆
二打席目は、平凡な二塁ゴロに倒れた。それでも悠朗は、打席を降りる際にも変わらず一礼をし、静かにベンチへ戻った。結果がどうであれ、この所作だけは崩さない。それが、悠朗にとって、ずっと変わらない当たり前のことだった。
守備でも、悠朗の成長は表れていた。六回表、紅組の打者が放った打球は、ライトとセンターの間を割るような、鋭い飛球だった。悠朗はあの日教わったスプリットステップで、打球の落下点へ向けて素早く踏み出した。
「行けるか……!」
ベンチから声が上がる中、悠朗は最後まで諦めずに追いつき、体を伸ばして横っ飛びで打球をキャッチした。芝の上を転がりながらも、グラブの中のボールを、しっかりと握りしめていた。
「ナイスキャッチ!」
味方の歓声に、悠朗は土だらけのユニフォームのまま立ち上がり、小さく頭を下げた。派手なガッツポーズはなかったが、その表情には、確かな充実感が浮かんでいた。
紅白戦は、そのまま白組が僅差で勝利し、終了した。試合後、選手たちは整列し、監督から今日のプレーについて短い講評を受けた。
「今日見えた課題も、良さも、次の新チームに活かしていく。みんな、お疲れ様」
監督の言葉に、選手たちは一斉に頭を下げた。悠朗もいつも通り、深く一礼をした。
整列が解けたあと、進藤が悠朗のところへやってきた。
「見たぞ、さっきの二塁打」
「うん。……詰まってた」
「詰まって二塁打なら、上出来だろ」
進藤はそう言うと、悠朗の肩を軽く叩いた。
「笹本コーチに教わってたやつ、ちゃんと形になってきてるじゃねえか」
「まだ……全然だけど」
「いや、確実に変わってきてる。あの決勝の時とは、明らかに違う打球だった」
進藤の言葉に、悠朗は素直に頷いた。それから、少しの間、二人の間に沈黙が流れた。
「悠朗」
進藤が、少し改まった声で切り出した。
「俺、来月で、この少年団を卒団するんだ」
これまで進藤は、それとなく「もうすぐ終わり」という言い方をすることはあっても、「卒団」という言葉を、はっきり口にしたことはなかった。その一言が、悠朗の胸に、思っていたよりも重く響いた。
「……そっか」
短くそう答えるのが、悠朗には精一杯だった。頭では、いつかその日が来ることを分かっていたはずだった。それでも、実際に言葉として聞かされると、うまく気持ちの整理がつかなかった。
「寂しい顔すんなよ」
進藤は、悠朗の表情を見て、少し笑った。
「卒団までの間、まだ何回か一緒に練習できる。それまでに、お前のその新しい打撃、もっと形にしてやるから」
「うん。……お願いします」
悠朗は、深く頭を下げた。その所作には、いつもの礼儀正しさに加えて、進藤への感謝の気持ちが、確かに滲んでいた。
◆
道具を片付けていると、笹本コーチが悠朗のそばにやってきた。
「見てたぞ、さっきの二塁打」
「はい。……詰まったのに、飛びました」
「詰まっても飛ぶってことは、それだけバットのヘッドが走ってる証拠だ。この短期間で、よくここまで来たな」
笹本は、そう言いながら、少し目を細めた。
「ただ、勘違いするなよ。今日のはまだ、練習の成果が少し出ただけだ。本番の公式戦で、相手投手の本気の球を相手にしたら、また話は違ってくる」
「はい。……分かってます」
「その意識があるなら大丈夫だ。これからも、焦らず、同じことを積み重ねていけ」
笹本の言葉に、悠朗はしっかりと頷いた。褒められたことへの嬉しさと、まだ道半ばだという現実、その両方が、悠朗の中に静かに積み重なっていった。
「進藤の卒団のこと、聞いたか」
不意に、笹本がそう尋ねてきた。
「はい。……さっき、本人から」
「そうか」
笹本は、少し遠くを見るような目をした。
「毎年のことだけど、六年生を送り出す時期は、何度経験しても寂しいもんだよ。悠朗も、これから何度も、そういう別れを経験することになる」
「……はい」
「だからこそ、今一緒にいられる時間を、大事にするといい」
その言葉を、悠朗はしっかりと胸に刻んだ。
◆
帰り道、悠朗は大地と合流した。
「聞いたか、進藤さんのこと」
「うん。……卒団、来月なんだって」
大地は、少し寂しそうな顔をした。
「Aチームの人だけど、なんか、俺らにとっても、いなくなると寂しいよな」
「うん」
二人は、しばらく無言のまま、夕暮れの道を歩いた。空はオレンジ色に染まり始め、蝉の声はいつの間にか、秋の虫の声に変わっていた。
「悠朗、今日の二塁打、すごかったな」
大地が、思い出したようにそう言った。
「うん。……詰まってたのに、飛んだ」
「それがすごいんだって。俺なんて、まだ詰まったら全然飛ばないもん」
悠朗は、小さく首を振った。
「大地も、続けてれば、絶対変わる」
「……お前がそう言うと、なんか信じられる気がする」
大地はそう言って、少し照れくさそうに笑った。それから、少し声を落として続けた。
「なあ、進藤さんが卒団したら、悠朗、寂しくないか?」
「……寂しい」
悠朗は、素直にそう答えた。飾らないその一言に、大地は少し驚いたような顔をした。これまでの悠朗なら、こういう感情をはっきり口にすることは、あまり多くなかったからだ。
「でも、寂しいって思うのも、悪いことじゃないと思う」
悠朗は、自分の言葉を確かめるように、ゆっくりと続けた。
「進藤さんと一緒にいた時間が、ちゃんとあったから、寂しいんだと思う」
大地は、しばらく黙って悠朗の言葉を噛みしめていた。それから、小さく頷いた。
「……そうだな」
二人は、それ以上多くを語らず、それぞれの家に向かう分かれ道まで、並んで歩き続けた。
◆
家に着くと、夕食の匂いが玄関先まで漂ってきていた。居間に入ると、父がテレビでプロ野球の中継を見ていた。
「おかえり。紅白戦、どうだった」
「二塁打、打った」
短くそう報告する悠朗に、父は目を丸くした。
「お、それはすごいな。パワーの練習の成果か」
「うん。……詰まったけど、飛んだ」
「詰まっても飛ぶようになったのか。それは大した進歩だな」
父は嬉しそうに、悠朗の頭を軽く撫でた。それから、ふと真面目な顔になって尋ねた。
「元気ないな、その割には。何かあったのか」
悠朗は少し迷ってから、小さく口を開いた。
「進藤さん、来月、卒団するんだって」
「……そうか」
父はしばらく黙り、それから静かに口を開いた。
「悠朗にとって、初めての、そういう別れかもしれないな」
「うん」
「寂しいのは、当たり前のことだよ。それだけ、進藤さんという人が、悠朗にとって大事な存在だったってことだから」
その言葉に、悠朗はゆっくりと頷いた。
夕食のあと、悠朗はいつものように、道具袋からグラブとバットを取り出し、丁寧に手入れを始めた。今日の紅白戦で使ったバットの感触を、指先で確かめるように何度もなぞった。
(詰まっても、飛んだ)
その手応えは、確かに悠朗の中に、新しい自信として積み重なっていた。同時に、進藤との別れが近づいているという事実も、静かに、しかし確かに、悠朗の胸の中に居座り続けていた。
まだうまく言葉にはできない。それでも悠朗は、残された時間の中で、進藤にもっと成長した姿を見せたいと、強く思った。
窓の外からは、秋の虫の声が、静かに響いていた。
(つづく)