進藤の卒団式まで、あと一週間となった日の練習。
その日は、六年生にとって、少年団での最後の合同練習だった。Aチーム全員が集まり、いつも以上に気合の入った声が、グラウンドに響いていた。
「今日で、最後か」
大地がぽつりと呟いた言葉に、悠朗は小さく頷いた。まだ実感が湧かないような、それでいて確かに寂しさを感じるような、複雑な気持ちが胸の中にあった。
練習の合間、進藤が悠朗のところへやってきた。
「悠朗、最後に、少し付き合えよ」
「うん」
二人は、グラウンドの隅で、外野ノックの続きを始めた。進藤がノッカーとなり、悠朗が打球を追いかける形だった。
「もっと、深く守れ。お前の足なら、多少後ろに守っても、前の打球には対応できる」
「はい」
「それと、スプリットステップのタイミング、まだ少し早い時がある。相手のバットが出るのを、もう半瞬待つ意識で」
進藤のアドバイスは、これまでよりも一段と細かく、そして丁寧だった。まるで、伝えられることは、今日のうちに全部伝えておこうとするかのように。
悠朗は、一球ごとに、進藤の言葉を胸に刻みながら、打球を追いかけ続けた。何度も転がりながら、それでも最後まで、ボールを追う足を止めなかった。
「悠朗、お前、本当に変わったよな」
ノックの手を止めて、進藤がそう言った。
「入団した時から知ってるわけじゃないけど、俺が一緒にAチームにいたこの一年だけでも、全然違う。守備も、打撃も、それに——」
進藤は、そこで少し言葉を選ぶように、間を置いた。
「その、一礼とか、道具の手入れとか。そういうところ、最初は正直、変わったやつだなって思ってた」
「……うん」
「でも、今は違う。お前のそういうところ、俺は結構、かっこいいと思ってる」
不意打ちのようなその言葉に、悠朗は少し驚いた顔をした。かっこいいという言葉は、悠朗にとって、自分の行動を測る、最も大切な基準だった。それを、進藤の口から聞くことになるとは、思っていなかった。
「……ありがとうございます」
深く頭を下げる悠朗に、進藤は照れくさそうに笑った。
「そんな畏まるなよ。同じチームの仲間だろ」
◆
練習が終わったあと、道具の片付けをしながら、進藤が独り言のように呟いた。
「明日から、もうこのグラウンドに来るのも、公式には最後だな」
悠朗は、その言葉に何と答えていいか分からず、黙ってグラブを磨く手を動かし続けた。
「悠朗」
「……はい」
「新チーム、頼んだぞ。お前が中心になって、来年の夏、ちゃんと結果出せよ」
「はい。……頑張ります」
短いその答えに、進藤は満足げに頷いた。
「短い返事だけど、お前がそう言うと、なんか信じられるんだよな」
進藤はそう言うと、道具袋を肩にかけ、グラウンドの出口に向かって歩き出した。その背中を、悠朗はしばらくの間、じっと見つめていた。
◆
卒団式当日、少年団のクラブハウスには、六年生の保護者と、下級生たち、そしてコーチ陣が集まっていた。
進藤は、他の五人の六年生とともに、正面に並んで座っていた。長年着てきたユニフォームの胸には、少年団のエンブレムが誇らしげに輝いていた。
「これより、六年生の卒団式を始めます」
監督の言葉で、式は静かに始まった。
一人ひとりの卒団生に、コーチ陣からのメッセージが贈られていく。進藤の番になると、笹本コーチが立ち上がり、少し照れくさそうに口を開いた。
「進藤は、最初はBチームで、俺が指導してたんだ。あの頃は、まだ線の細い、大人しい選手だったよ」
会場に、小さな笑い声が起きた。進藤は、少し恥ずかしそうに俯いた。
「それが、Aチームに上がってからは、後輩の面倒見もよくて、頼れる六年生になった。今日まで、本当によく頑張った」
笹本の言葉に、進藤は目を潤ませながら、深く頭を下げた。
続けて、下級生からの色紙とメッセージカードの贈呈が行われた。悠朗も、他の下級生たちと一緒に、進藤の前に立った。
色紙には、チームメイト一人ひとりが書いた寄せ書きが並んでいた。悠朗が書いたのは、短い一言だった。
——進藤さんに教わったこと、忘れません。
飾らないその言葉は、悠朗らしい、精一杯の感謝の表現だった。
◆
色紙を受け取った進藤は、しばらくの間、じっとその文字を見つめていた。それから、悠朗の顔を見て、小さく笑った。
「お前らしいな、この一言」
「……本当に、教わったこと、たくさんあるので」
悠朗は、そう言うと、いつものように深く一礼をした。式典の場でも、その所作は変わらなかった。
その様子を見ていた保護者の一人が、隣にいた悠朗の父に、感心したように話しかけていた。
「息子さん、いつもきちんと礼をしますね」
「はい。……あれが、あの子の当たり前なんです」
悠朗の父は、少し誇らしげに、そう答えた。
◆
式の最後、卒団生代表として、進藤が挨拶に立った。
「六年間、この少年団で、本当にたくさんのことを学びました」
進藤の声は、最初は少し震えていたが、次第に落ち着きを取り戻していった。
「特にこの一年、Aチームで一緒にプレーした後輩たちには、感謝しています。夏の大会は、悔しい結果に終わったけど、あの経験があったから、最後まで諦めない気持ちを、教えてもらった気がします」
進藤は、そこで一度、悠朗のいる方向に視線を向けた。
「三年生ながら、Aチームに入ってきた選手がいます。その選手の頑張る姿を見て、俺自身も、最後まで手を抜かずにやろうって、何度も思わされました」
会場の視線が、一斉に悠朗に集まった。悠朗は、少し戸惑いながらも、進藤の言葉を、まっすぐに受け止めていた。
「新チームは、まだこれからです。でも、あいつらなら、きっと大丈夫だと思います。応援しています」
進藤はそう締めくくると、深く一礼をした。会場から、大きな拍手が沸き起こった。
◆
式が終わったあと、悠朗は進藤のもとへ駆け寄った。
「進藤さん」
「おう、悠朗」
「……ありがとうございました」
悠朗は、これまでで一番深く、頭を下げた。教わった技術のこと、かけてもらった言葉のこと、一緒に過ごした時間のこと——伝えたいことは多すぎて、うまく言葉にはならなかった。それでも、その一礼には、悠朗の気持ちのすべてが込められていた。
進藤は、その様子をしばらく黙って見つめてから、悠朗の肩に、そっと手を置いた。
「こちらこそ、ありがとうな」
「……うん」
「悠朗、これから先も、そのままでいろよ。一礼とか、道具の手入れとか、そういうところ、絶対変えるな」
「はい」
「じゃあな。新チーム、任せたぞ」
進藤はそう言うと、悠朗の頭を軽く撫で、保護者たちの輪の中へ戻っていった。悠朗は、その背中が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。
◆
帰り道、悠朗は父と並んで歩いていた。夕暮れの空は、いつもより、少しだけ赤みを帯びているように見えた。
「寂しいか」
父の問いに、悠朗は素直に頷いた。
「うん。……寂しい」
「それでいいんだよ。寂しいと思えるくらい、進藤さんとの時間が、悠朗にとって大事だったってことだから」
「うん」
悠朗は、しばらく黙って歩いた。それから、ふと、進藤の最後の言葉を思い出していた。
——新チーム、頼んだぞ。
その言葉は、悠朗の中に、静かに、しかし確かに、新しい責任感として根を下ろし始めていた。これまでは、ただ自分が上手くなることだけを考えてきた。だが、これからは、チームを引っ張る立場になる。それは、悠朗にとって、初めて意識する新しい役割だった。
「悠朗」
父が、不意に足を止めて言った。
「進藤さんから受け取ったもの、ちゃんと次に繋げていくんだぞ」
「うん。……ちゃんと、繋げる」
短いその答えに、迷いはなかった。夕暮れの道を、悠朗は父と並んで、いつもより少しだけ、大きな足取りで歩いていった。
(つづく)