三宅誠一郎(みやけ せいいちろう)
陽ノ丘スポーツ少年団Aチーム監督。ベテランらしい落ち着きと貫禄を持つ指導者。目先の勝敗よりも、選手一人ひとりの将来性を見据えた長期育成型の采配を信条としている。
佐伯蒼真(さえき そうま)
新6年生、投手。昨年までは控え的な立場だったが、今年からエース番号を託される。冷静で責任感が強く、多くを語らないタイプ。
宮下大輝(みやした だいき)
新6年生、捕手。新チームのキャプテンに指名される。リードの技術はまだ発展途上だが、声を出してチームを鼓舞するムードメーカー。
遠藤陽向(えんどう ひなた)
新5年生、外野手。悠朗が抜けたポジションを引き継ぐことになる。明るく面倒見が良く、下級生からの信頼も厚い兄貴分。
桜庭拓海(さくらば たくみ)
新5年生、一塁手。落ち着いた性格で、コツコツと努力を積み重ねる堅実なプレーヤー。
蓮見悠人(はすみ ゆうと)
悠朗と同学年の新4年生、ショート。Bチーム時代からショート一筋で守備を磨いてきた実力者。冷静沈着で、感覚よりも「考えて守る」ことを大切にする頭脳派。
熊谷大地(くまがい だいち)
悠朗と同学年の新4年生。Bチーム時代からの友人で、体格は悠朗より一回り大きいが、器用さよりも真面目な積み重ねで力をつけてきた努力型。今年、悠朗たちと共にAチームへ昇格。ポジションは今後決定予定。
三月の終わり、朝の空気にはまだ冬の名残があった。
悠朗は、いつもより少し早く家を出た。道具袋を肩にかけ、グラウンドへ向かう道を歩きながら、なんとなく、この冬の間のことを思い返していた。
進藤たち六年生が卒団してから、グラウンドに顔を出すたびに、どこかがらんとした感覚があった。声の大きい先輩がいなくなったことも、外野の守備位置にぽっかりと空白ができたことも、少しずつ体に馴染んではきていたが、完全に消えたわけではなかった。
「よう、悠朗」
背後から声をかけられて振り返ると、大地が小走りで追いついてきた。冬の間に、また少し背が伸びたように見える。
「今日から新チームだな」
「うん」
「なんか、緊張するよな。おれ、まだポジションも決まってないし」
大地は、そう言いながら、少し落ち着かない様子でグラブの紐をいじっていた。悠朗と同じ四年生で、Bチーム時代からずっと一緒に練習をしてきた仲だった。体格では悠朗よりも一回り大きいが、器用さよりも真面目な積み重ねで力をつけてきたタイプだった。
「大地は、どこでもできそうだけどな」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど……。悠朗こそ、今年もレギュラーだろ」
「わからない」
正直に、そう答えた。実際、その日の朝礼まで、悠朗自身、自分がどこを守ることになるのか、何も聞かされていなかった。
グラウンドに着くと、これまでとは違う光景が広がっていた。
冬の間、進藤たち六年生の姿が消えたグラウンドは、しばらくの間どこか広く感じられた。それが今日、新しい顔ぶれで埋まっていく様子を、悠朗はベンチの隅から眺めていた。
「今日から、新しいチームのスタートだ」
朝礼で最初に声を上げたのは、三宅誠一郎だった。これまでAチームの采配を任されてきた監督で、選手たちに対しては常に落ち着いた口調を崩さない。声を張り上げることは少ないが、その一言一言には、これまで何年も選手を見てきた重みがあった。
「新しいキャプテンは、宮下」
名前を呼ばれた宮下大輝が、大きな声で「はい」と返事をした。捕手としての経験はまだ浅いが、その声の張りだけで、周囲の空気が少し引き締まるのがわかった。
「投手は佐伯を中心に組み立てる。控えの経験を、今年は生かしてもらう」
佐伯蒼真は、短く頷くだけだった。多くを語らないその態度は、進藤とはまた違う種類の落ち着きを感じさせた。
悠朗は、これまでこの二人と同じチームで戦ってきたはずだったが、正直なところ、あまり深く話した記憶がなかった。五年生としてAチームにいた二人と、当時三年生だった悠朗との間には、意識せずとも距離があった。それが今年から、同じチームを支える立場になる。
三宅監督の話は、そこで一区切りついたように見えた。だが、次の一言で、グラウンドの空気が少しだけ変わった。
「それから、青柳」
呼ばれて、悠朗は顔を上げた。
「今年から、お前には内野を守ってもらう」
一瞬、何を言われたのか、うまく飲み込めなかった。
「サード、ショート、セカンド。守れるところから守ってもらう。外野は陽向に任せる」
名前を呼ばれた遠藤陽向が、悠朗のほうを見て、軽く笑いかけてきた。人懐っこい笑顔だった。
「……なぜですか」
思わず、悠朗はそう聞いていた。理由を問うことは、これまであまりしてこなかったが、今回だけは、自然と言葉が出た。
三宅監督は、表情を変えずに答えた。
「今年のチームは、内野が足りていない。それと、お前の足の速さと反応の良さは、内野でこそ生きると俺は見ている。もちろん、外野の経験を無駄にするつもりはない。今は、できることを増やす時期だと思ってくれ」
理由は、はっきりしていた。チームの事情と、監督なりの見立て。悠朗の希望からではない。
グラブを握る手に、力がこもった。三年間、外野の景色を見てきた。進藤が守っていた場所、悠朗が引き継いだ場所。あの場所を離れることに、一瞬だけ、胸の奥がざわついた。
だが、悠朗の中で、その戸惑いは長くは続かなかった。
(やってみないと、わからない)
それが、悠朗の出した答えだった。難しい理屈ではなく、ただ、そう感じた。新しい景色を見てみることも、悪くないと思えた。
「わかりました」
短くそう答えると、三宅監督は初めて、わずかに口元を緩めた。
「教える役は、蓮見に頼んである」
その名前で、初めて悠朗は、少し離れた場所に立っていた選手に目を向けた。
同じ学年くらいに見える少年が、静かにこちらを見ていた。背はそれほど高くないが、姿勢がまっすぐで、無駄のない立ち方をしている。
「蓮見悠人。よろしく」
短い挨拶だった。声のトーンは低く、落ち着いている。
「青柳悠朗。よろしくお願いします」
悠朗も、一礼して挨拶を返した。その仕草に、蓮見はわずかに目を細めた。何かを確かめるような視線だった。
朝礼が解散になると、遠藤陽向が真っ先に近づいてきた。
「悠朗、外野のこと、任せてもらうことになった。お前が守ってた場所、大事に守るからな」
明るい口調だったが、その言葉には、ちゃんとした重みがあった。悠朗は小さく頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「敬語じゃなくていいのに」
遠藤は笑いながら、悠朗の肩を軽く叩いた。それから、少し声を落として付け加えた。
「監督から聞いたけど、内野、大変だと思う。でも、悠朗ならできると思うよ。おれはそう思ってる」
その一言に、悠朗はどう返せばいいかわからず、ただもう一度頭を下げた。
少し離れた場所では、宮下大輝が新キャプテンとしての初仕事とばかりに、集合の号令をかけていた。声はまだどこかぎこちなかったが、それでも精一杯、チームをまとめようとしているのが伝わってきた。
「今年は投手陣、佐伯に任せっきりになるからな。しっかり支えていこう」
その声に、佐伯蒼真は、いつもと変わらぬ静かな表情で頷くだけだった。だが、悠朗が横を通り過ぎるとき、佐伯は小さく口を開いた。
「内野、頑張れよ」
短い一言だった。だが、これまであまり言葉を交わしたことのなかった先輩から、初めてかけられた言葉のように感じられた。
「はい」
悠朗は、短くそう答えた。
大地が、少し離れたところから、その様子を見ていた。
「なんか、みんなに気にかけられてるな、悠朗」
「そうでもない」
「絶対そうだって」
大地はそう言って笑うと、自分のグラブを叩いた。
「おれも、今日中にポジション決めてもらえるかな」
その言葉には、期待と不安が半分ずつ混ざっているように聞こえた。悠朗は何も答えなかったが、大地の横に並んで、同じ方向を見ていた。
*
その日の午後、内野の守備練習が始まった。
「まず、セカンドから」
蓮見は、そう言うと、悠朗をセカンドの守備位置に立たせた。
「打球が来たら、正面じゃなくて、少し体の外側でボールを迎えるようにする。捕ってから投げるまでを、できるだけ短くするためだ」
言われた通りにやってみようとしたが、体が思うように動かなかった。外野では、まっすぐ走り込んでボールに正対することがほとんどだった。だが内野では、捕球の瞬間から、もう次の動作――送球の体勢――に入っていなければならない。
ノックの打球が飛んでくる。悠朗はグラブを出したが、捕球の位置が体の正面に寄りすぎて、そこから投げの体勢を作り直すのに、一拍分の遅れが生まれた。
「今の、遅い」
蓮見の声は、感情を込めずに、事実だけを告げるようだった。
「外野なら、追いついて捕れば十分だった。でも内野は、捕ってからが本番だ」
何度も繰り返した。捕球の位置、足の運び、グラブから利き手への持ち替えの速さ。頭で理解していることと、体が実際にできることの間には、思っていた以上の差があった。
汗が額から落ちる。悠朗にとって、これほど「できない」という感覚を味わうのは、久しぶりのことだった。
「悔しいか」
一度、ボールを後逸した後、蓮見がそう聞いてきた。
「……はい」
素直に、そう答えた。
「それでいい。悔しいと思わなかったら、うまくならない」
蓮見の言葉には、感情の起伏はなかったが、どこか温かみがあった。
「外野は、才能があれば、ある程度までは追いつける。でも内野は、頭を使わないと守れない。打球の方向、走者の状況、味方の動き――全部を、瞬時に考えながら動く必要がある」
「考えて、守る……」
悠朗は、その言葉を、確かめるように繰り返した。
これまでの野球は、感覚が先にあった。ボールが来る。反応する。それだけで、多くのことがうまくいった。だが今、目の前にいる蓮見は、まったく違う世界の言葉で野球を語っていた。
「もう一本、いくぞ」
蓮見が、再びノッカーに合図を送る。
飛んできた打球に、悠朗は今度こそ、体の外側で迎えることを意識した。捕球の瞬間、完璧とは言えなかったが、先ほどよりも、次の動作へのつながりが少しだけ滑らかになった気がした。
「……悪くない」
蓮見が、初めて小さく頷いた。
その一言だけで、悠朗の中に、何か新しいものが芽生えた気がした。これまでとは違う場所で、これまでとは違うやり方で、野球と向き合っていく。それもまた、悪くないと思えた。
セカンドでの練習を一区切りすると、蓮見は今度は悠朗をサードの守備位置に立たせた。
「ここは、セカンドより一段階、球足が速い打球が来る。反応の速さは、悠朗の方が向いてるはずだ」
言われた通り、正面に来た打球には、これまでよりも早く反応できた。動体視力と反射神経は、ポジションが変わっても変わらない武器だった。だが、捕球してから送球するまでの一連の動きは、まだぎこちなさが残ったままだった。
「悪くない。ただ、投げる前に、もう一度姿勢を作り直そうとしてる。それが遅れの原因だ」
蓮見の指摘は、いちいち的確だった。悠朗は頷きながら、何度も同じ動作を繰り返した。
最後に、蓮見は悠朗を自分がいつも守っているショートの位置に立たせた。
「ここは、一番いろんなことを考えないといけない場所だ。一球で守り方を変えることもある」
そう言うと、蓮見は自分でノッカーの位置に立ち、悠朗に向けて打球を放った。悠朗が捕球し、一塁へ送球する。その一連の流れを、蓮見はじっと見つめていた。
「一年でどこまでできるようになるか、楽しみだ」
感情の起伏のない声だったが、その言葉には、悠朗に対する興味のようなものが滲んでいるように感じられた。
練習の合間、水を飲みに来た大地が、悠朗の隣に腰を下ろした。
「見てたけど、大変そうだな」
「うん」
「おれは結局、今日はまだどこも決まらなかった。監督が、しばらく色々やらせてみるって」
「そうか」
「悠朗が内野で悪戦苦闘してるの見て、なんか、ちょっと安心した。お前でもできないことあるんだなって」
大地は笑いながらそう言うと、水筒の蓋を閉めた。
「一緒に頑張ろうぜ、今年も」
「うん」
短いやり取りだったが、悠朗の中で、その一言が、じんわりと力になった。
夕暮れのグラウンドで、悠朗は静かにグラブを見つめた。土のついたその手のひらには、まだ慣れない感覚が残っていたが、不思議と、それを嫌だとは思わなかった。
*
その夜、夕食の席で、悠朗は今日あったことを、ぽつぽつと父に話した。
「今年から、内野をやることになった」
「内野か」
父は、驚いた様子も見せず、ただ静かに相槌を打った。悠朗の話をじっくり聞くのは、いつものことだった。
「外野とは、全然違う。捕ってから投げるまでが、もっと速くないといけない」
「難しかったか」
「うん。全然、思うように体が動かなかった」
正直にそう言うと、父は少し口元を緩めた。
「悠朗が、そんなふうに悔しそうな顔をするのは、久しぶりに見た気がするな」
言われて、悠朗は自分の顔に手をやった。悔しいという感情を、これほどはっきりと自覚したのは、確かに久しぶりのことだった。
「三年生の決勝で負けたとき以来かもしれない」
「そうか」
父は、それ以上多くを語らなかった。ただ、悠朗の茶碗にご飯をよそいながら、いつもと同じ調子で言った。
「明日も、練習だろう」
「うん」
「頑張ってこい」
いつも通りの、短い言葉だった。だが、悠朗にとっては、それだけで十分だった。
台所から様子を見ていた母が、食後の片付けをしながら、ふと口を挟んだ。
「悠朗、新しいグラブ、そろそろ買い替える? 内野用のって、外野用と違うんでしょう」
「まだ、大丈夫」
「無理しないでね」
短いやり取りだったが、母のその一言にも、さりげない気遣いが滲んでいた。悠朗は小さく頷いて、食器を流しに運んだ。
自分の部屋に戻ると、悠朗はグラブを手入れする前に、しばらくの間、それをただ眺めていた。今日一日で、何度も土がついては拭き取った、まだ真新しいグラブだった。
外野用のグラブは、深く、大きく作られている。今日一日使ってみて、内野で使うには、もう少し浅く、動かしやすい形のものが向いているのかもしれない、と悠朗は思った。すぐに買い替える必要はないが、そう感じられたこと自体が、今日という日の変化を表しているようだった。
布で丁寧にグラブの土を拭き取りながら、悠朗は今日の蓮見の言葉を、頭の中でもう一度なぞった。
――考えて、守る。
これまでの自分にはなかった視点だった。感覚だけで反応してきたこれまでの野球とは、まったく違う世界が、そこにはあるように思えた。すぐに追いつけるとは思えなかったが、それでも、知らなかった景色を見られたことに、悠朗はどこか静かな満足感を覚えていた。
外野で見てきた景色とは、まったく違う景色が、これから広がっていく。それがどんなものになるのか、まだ想像もつかなかった。
だが、悪くないと思えた。
新しい景色は、まだ始まったばかりだった。