入団から三ヶ月が経った。
陽ノ丘スポーツ少年団の練習は相変わらず日曜の朝八時から始まり、悠朗は毎回、誰よりも早くグラウンドに着くようになっていた。
「今日も一番乗りか」
監督がそう声をかけると、悠朗は小さく頭を下げてから答える。
「うん。早く来たら、なんか、いっぱい練習できるから」
理由を聞かれても、それくらいしか言葉が出てこない。でも悠朗にとっては、それで十分だった。早く来れば、その分ボールに触れる時間が増える。ただ、それだけのことだった。
まだ小学一年生の言葉とは思えないほどきちんと挨拶する姿とは裏腹に、話す内容はいつも素朴で短い。監督はそのギャップに、内心くすりと笑ってしまう。
◆
キャッチボールも、素振りも、最初の頃に比べれば見違えるほど様になってきていた。もちろん、まだ小学一年生の体である。飛距離も、球速も、同学年の中で飛び抜けているわけではない。
けれど、コーチたちの間で密かに話題になっていることがあった。
「あの子、ボールの見え方が違うんじゃないか」
打撃練習でトスバッティングをしていたときのことだった。コーチが軽く投げたボールに対して、悠朗はほとんど泳ぐことなく、芯でとらえてくる。空振りをしても、バットの軌道自体はぶれていない。まるで、ボールの軌道が他の子どもよりゆっくり見えているかのようだった。
「たまたまだろ、まだ一年生だぞ」
「いや、何本もそうなんだ。妙に……勘がいいっていうか」
コーチたちの会話を、悠朗自身は特に気にすることもなく、淡々とバットを振り続けていた。
「悠朗、今のいい当たりだったな」
コーチにそう声をかけられても、悠朗の反応は薄い。
「うん。……でも、さっきの、当たんなかった」
うまく打てた球よりも、空振りした一球の方が、なぜか頭に残る。理由はうまく説明できない。ただ、当たらなかったことの方が、気になって仕方がなかった。
◆
そして迎えた、初めての練習試合。
相手は近隣の少年団のBチームで、悠朗にとって初めて「試合」という形式でユニフォームを着る日だった。打順は九番、守備位置は外野の隅。目立つ役割ではなかったが、悠朗はそれを不満に思うこともなく、淡々と準備をしていた。
バットケースからバットを取り出し、グリップの汚れを丁寧に拭き取ってから、打席へと向かう。
「悠朗、緊張してないか?」
ベンチから年上の少年——チームの中で誰よりも面倒見のいい、六年生の航(わたる)が声をかけてきた。悠朗が入団した日、最初にキャッチボールの手本を見せてくれたのも、この航だった。
「……ちょっとだけ」
小さくそう答えると、悠朗は打席の手前で足を止めた。
そして、深く、静かに一礼をした。
「……何やってんだ、あいつ」
対戦相手のベンチから、小さくどよめきが起きた。小学一年生が、打席に入る前に一礼をする姿など、誰も見たことがなかったからだ。だが悠朗にとってそれは、特別なことでも、格好をつけているわけでもなかった。あの日テレビで見た選手が、当たり前のようにそうしていたから。ただ、それだけのことだった。
初球、外角低めのボール球。悠朗はバットを出さなかった。
二球目、真ん中付近の緩い球。悠朗のバットが、迷いなく振り抜かれた。
小気味いい音が響いて、打球は一二塁間を鋭く抜けていった。
「抜けた、抜けた!」
味方ベンチから声が上がる中、悠朗は一塁を駆け抜けた。塁上に立つと、口元がわずかに緩む。派手にガッツポーズをするわけではなかったが、その小さな表情の動きだけで、悠朗なりに嬉しく思っていることは伝わった。
「お前、初打席でヒットかよ! しかもあんな綺麗に抜けるとか、どうやって打ったんだ?」
航が興奮気味に一塁ベース近くまで駆け寄ってくる。悠朗は少し考えてから、こう答えた。
「よくわかんないけど……ちゃんと当たった、気がする」
その言葉に、航は一瞬呆気に取られたあと、声を出して笑った。
「『ちゃんと当たった』って、それだけかよ。でも、大したもんだな。一年生のくせに、変なやつだな。……でも、悪くない」
「悪くない」
悠朗はその言葉を、小さく繰り返した。悪くない、というのがどれくらいすごいことなのか、悠朗にはまだよくわかっていなかった。ただ、次はもっと、当たり損ねをなくしたいと思った。それだけだった。
◆
グラウンドの隅で、監督はその一部始終を黙って見ていた。技術はまだ粗削りだ。派手に喜ぶことも、大げさに悔しがることもない。それでも、うまくいった時にはわずかに口元が緩み、うまくいかなかった時には少しだけ眉根が寄る。年相応の、ささやかな感情の動きが、悠朗の中にはちゃんとあった。
(それがどこまで伸びるのか、見てみたいものだな)
監督は小さく笑うと、スコアブックに「青柳」の名前を書き加えた。
(つづく)