三年生になった春、陽ノ丘スポーツ少年団の練習は、いつも通り日曜の朝八時から始まった。
悠朗はいつものように、誰よりも早くグラウンドに着いていた。桜はもうほとんど散っていたが、朝の空気にはまだ少し冬の名残があった。
「悠朗、ちょっといいか」
声をかけてきたのは、Bチームのコーチである笹本ではなく、めったにBチームの練習に顔を出さない監督だった。悠朗は少し驚きながらも、いつも通り深く頭を下げた。
「おはようございます」
「おう、おはよう」
監督は少しの間、悠朗の顔をじっと見た。それから、いつになく丁寧な口調で切り出した。
「悠朗、お前、今日からAチームの練習に出てみないか」
一瞬、悠朗は言葉の意味がうまく飲み込めなかった。
「……Aチーム?」
「そうだ。笹本から報告は受けてる。お前の動体視力とバットコントロールは、もう低学年の枠には収まってない。学年は関係ない。実力のある子は、上のチームで揉まれた方が伸びる——うちのチームは、そういう方針だ」
悠朗は、しばらく黙っていた。嬉しいという気持ちよりも先に、頭の中に浮かんだのは、いつも一緒に練習してきた大地の顔だった。
◆
その日の練習が始まる前、悠朗は大地に、監督から言われたことを伝えた。
大地は一瞬、目を丸くした。それから、少し複雑そうな表情を見せた。
「……そっか。すげえな、お前」
「うん」
「正直、ちょっと悔しい」
大地は素直にそう言った。だが、すぐにその表情を崩して、無理やりのように笑ってみせた。
「でも、お前がAチームで活躍したら、俺も『あいつと一緒に練習してたんだぜ』って自慢できるしな」
「うん。……大地も、いつか来る」
短くそう言うと、大地は少し驚いた顔をしてから、照れくさそうに頭をかいた。
「気ぃ早いこと言うなよ。でも……まあ、頑張るわ」
二人はそれ以上、多くを語らなかった。ただ、これまでのように隣で素振りをする時間が、今日で一区切りになることだけは、お互いに分かっていた。
◆
笹本コーチは、そんな二人のやり取りを少し離れたところから見ていた。
「悠朗、Aチームに行っても、道具の手入れだけは今まで通りやれよ」
笹本がそう声をかけると、悠朗は小さく頷いた。
「はい。忘れません」
「それと——Bチームでの経験、無駄にするなよ。ここで積んだものは、上に行っても絶対に生きるからな」
「はい」
短いやり取りだったが、悠朗はその言葉を、胸の奥にしっかりとしまい込んだ。
◆
昼過ぎ、悠朗は初めてAチームの練習に参加した。グラウンドの端に立つと、これまで見てきたBチームの練習とは、明らかに違う空気があった。打球音は鋭く、掛け声も大きい。何より、周りにいる選手たちの体格が、悠朗よりも一回りも二回りも大きかった。
「お前が噂の一年生か……じゃなかった、三年生か」
Aチームの一人が、からかうように声をかけてきた。悠朗は一礼をしてから答えた。
「青柳悠朗です。よろしくお願いします」
その様子に、Aチームの選手たちは少しだけどよめいた。まだ三年生の子どもが、これほどきちんと挨拶をする姿は、彼らにとっても新鮮だったらしい。
「……変わってるな、お前」
誰かがそう呟いたが、悪い意味ではなさそうだった。
トスバッティングの順番が回ってきたとき、Aチームのコーチが軽く球を投げた。悠朗はいつも通り、バットを短く持ち直し、静かに構えた。
投げられた球のコースがどこであろうと、悠朗のバットは迷いなく芯で捉えた。速い球にも、変化球のようにわずかに揺れる球にも、バットの軌道はまったくぶれない。飛距離こそ突出しているわけではなかったが、外す気配が一切なかった。
グラウンドが、一瞬静まり返った。
「……今の、三年生か?」
誰かの声が、風に乗って聞こえてきた。悠朗は特にそれを気にする様子もなく、次の球に備えて、もう一度バットを構え直した。
Bチームでの日々が終わったわけではない。ただ、新しい場所での一歩が、今日、静かに始まった。それだけのことだった。
(つづく)