一礼の天才   作:大浦泉

9 / 12
第8話 代打の一打

Aチームに上がって、一ヶ月が過ぎた。

 

悠朗はまだ、練習試合で実際に打席に立ったことがなかった。ベンチ入りメンバーには名を連ねるようになっていたが、出場機会は、ほとんど回ってこない。それでも、悠朗はベンチの中で誰よりも真剣に、一球一球を見つめていた。

 

「悠朗、今日もベンチな。だが、いつ声がかかってもいいように準備だけはしとけ」

 

Aチームのコーチにそう言われて、悠朗は小さく頷いた。

 

「はい」

 

道具の手入れも、素振りも、これまでと変わらず続けていた。出場機会が少ないからといって、手を抜くという発想は、悠朗の中には存在しなかった。

 

 

その日は、他チームとの練習試合だった。相手は、Aチームの中でも実力のある強豪チーム。試合は序盤から接戦になった。

 

進藤は、この日も三番打者として先発出場していた。二打席連続でヒットを放ち、チームを牽引していたが、五回に相手の好守備に阻まれてからは、なかなか追加点が奪えずにいた。

 

六回裏、一アウト二・三塁の好機。打順は八番だったが、コーチが動いた。

 

「悠朗、行けるか」

 

ベンチの奥から声がかかった瞬間、悠朗の心臓が、いつもより少し速く動いた気がした。

 

「はい」

 

短くそう答えると、悠朗はヘルメットをかぶり、バットケースから自分のバットを取り出した。グリップの汚れを丁寧に拭き取ってから、打席へと向かう。

 

「代打、青柳」

 

コーチの声に、相手ベンチが一瞬ざわついた。まだ三年生の子どもが、この場面で代打に送られるとは、誰も予想していなかったのだろう。

 

打席の手前で、悠朗は足を止めた。

 

そして、深く、静かに一礼をした。

 

 

ベンチから、その様子を進藤が見ていた。

 

(あいつ、こんな場面で……)

 

自分がまだ三年生だった頃、大事な場面で代打に送られる経験など、一度もなかった。学年も体格も自分よりずっと下の子どもが、今、その場に立っている。焦りとも苛立ちとも違う、複雑な感情が、進藤の胸の内で小さく渦を巻いていた。

 

それでも、進藤の口から出た言葉は、思っていたよりも素直だった。

 

「……頼むぞ、悠朗」

 

自分でも、意外なほど自然にその言葉が出た。

 

 

マウンドには、この日先発している、相手チームのエース投手が立っていた。速球のスピードはもちろん、コースへの投げ分けも安定している、危険な投手だった。

 

一球目、内角の速球。悠朗は反応したが、わずかに差し込まれ、ファウルにした。

 

二球目、外角低め。悠朗は見送った。ボールの判定。

 

三球目——投手が選んだのは、外角低め、ボール半個分だけ逃げるコースへの速球だった。これまでの悠朗なら、力負けして凡打に終わっていたかもしれないコースだった。

 

だが、悠朗のバットは、短く持ったグリップのまま、鋭く、しかし力まずに振り抜かれた。

 

小気味いい音が響いて、打球は一二塁間を鋭く破っていった。

 

「抜けた!」

 

ベンチから声が上がる。三塁ランナーが悠々とホームを踏み、二塁ランナーも続いてホームイン。二点が入った。

 

一塁ベース上に立つ悠朗の表情に、はっきりとした喜びが浮かんだ。派手なガッツポーズはしなかったが、口元がしっかりと緩んでいるのが、遠目にも分かった。

 

「よっしゃあ!」

 

ベンチが沸き立つ中、進藤も思わず立ち上がっていた。

 

「……マジかよ、あいつ」

 

呟いたその声には、もう突き放すような響きはなかった。

 

 

試合はそのまま、二点のリードを守り切り、Aチームの勝利で終わった。

 

試合後、進藤が悠朗のところへやってきた。

 

「代打であれ決めるとか、大したもんだな」

 

「うん。……前より、当たった気がする」

 

いつもの、少しずれた返答だった。進藤は思わず苦笑した。

 

「お前、そういうところ、ほんと変わってるよな」

 

「……そう?」

 

「ああ。でも、悪くない」

 

短いやり取りだったが、その言葉には、以前とは明らかに違う響きがあった。

 

 

帰り道、悠朗は父親に、今日あったことを話した。

 

「代打で、打てた」

 

「聞いたぞ。二点タイムリーだって?」

 

「うん」

 

「よかったな」

 

「うん。……でも、まだ、たまたまかもしれない」

 

父親は少し笑った。

 

「たまたまでも、結果を出せるのは大事なことだ。次は、たまたまじゃなくしていけばいい」

 

悠朗はその言葉を、頭の中で静かに繰り返した。体格差という壁は、まだ消えたわけではない。それでも、今日という日は、確かに一つの手応えとして、悠朗の中に刻まれた。

 

その夜も、悠朗はいつも通り庭先でバットを振った。短く持ったグリップの感触は、もうすっかり手に馴染んでいた。

 

(つづく)

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。