Aチームに上がって、一ヶ月が過ぎた。
悠朗はまだ、練習試合で実際に打席に立ったことがなかった。ベンチ入りメンバーには名を連ねるようになっていたが、出場機会は、ほとんど回ってこない。それでも、悠朗はベンチの中で誰よりも真剣に、一球一球を見つめていた。
「悠朗、今日もベンチな。だが、いつ声がかかってもいいように準備だけはしとけ」
Aチームのコーチにそう言われて、悠朗は小さく頷いた。
「はい」
道具の手入れも、素振りも、これまでと変わらず続けていた。出場機会が少ないからといって、手を抜くという発想は、悠朗の中には存在しなかった。
◆
その日は、他チームとの練習試合だった。相手は、Aチームの中でも実力のある強豪チーム。試合は序盤から接戦になった。
進藤は、この日も三番打者として先発出場していた。二打席連続でヒットを放ち、チームを牽引していたが、五回に相手の好守備に阻まれてからは、なかなか追加点が奪えずにいた。
六回裏、一アウト二・三塁の好機。打順は八番だったが、コーチが動いた。
「悠朗、行けるか」
ベンチの奥から声がかかった瞬間、悠朗の心臓が、いつもより少し速く動いた気がした。
「はい」
短くそう答えると、悠朗はヘルメットをかぶり、バットケースから自分のバットを取り出した。グリップの汚れを丁寧に拭き取ってから、打席へと向かう。
「代打、青柳」
コーチの声に、相手ベンチが一瞬ざわついた。まだ三年生の子どもが、この場面で代打に送られるとは、誰も予想していなかったのだろう。
打席の手前で、悠朗は足を止めた。
そして、深く、静かに一礼をした。
◆
ベンチから、その様子を進藤が見ていた。
(あいつ、こんな場面で……)
自分がまだ三年生だった頃、大事な場面で代打に送られる経験など、一度もなかった。学年も体格も自分よりずっと下の子どもが、今、その場に立っている。焦りとも苛立ちとも違う、複雑な感情が、進藤の胸の内で小さく渦を巻いていた。
それでも、進藤の口から出た言葉は、思っていたよりも素直だった。
「……頼むぞ、悠朗」
自分でも、意外なほど自然にその言葉が出た。
◆
マウンドには、この日先発している、相手チームのエース投手が立っていた。速球のスピードはもちろん、コースへの投げ分けも安定している、危険な投手だった。
一球目、内角の速球。悠朗は反応したが、わずかに差し込まれ、ファウルにした。
二球目、外角低め。悠朗は見送った。ボールの判定。
三球目——投手が選んだのは、外角低め、ボール半個分だけ逃げるコースへの速球だった。これまでの悠朗なら、力負けして凡打に終わっていたかもしれないコースだった。
だが、悠朗のバットは、短く持ったグリップのまま、鋭く、しかし力まずに振り抜かれた。
小気味いい音が響いて、打球は一二塁間を鋭く破っていった。
「抜けた!」
ベンチから声が上がる。三塁ランナーが悠々とホームを踏み、二塁ランナーも続いてホームイン。二点が入った。
一塁ベース上に立つ悠朗の表情に、はっきりとした喜びが浮かんだ。派手なガッツポーズはしなかったが、口元がしっかりと緩んでいるのが、遠目にも分かった。
「よっしゃあ!」
ベンチが沸き立つ中、進藤も思わず立ち上がっていた。
「……マジかよ、あいつ」
呟いたその声には、もう突き放すような響きはなかった。
◆
試合はそのまま、二点のリードを守り切り、Aチームの勝利で終わった。
試合後、進藤が悠朗のところへやってきた。
「代打であれ決めるとか、大したもんだな」
「うん。……前より、当たった気がする」
いつもの、少しずれた返答だった。進藤は思わず苦笑した。
「お前、そういうところ、ほんと変わってるよな」
「……そう?」
「ああ。でも、悪くない」
短いやり取りだったが、その言葉には、以前とは明らかに違う響きがあった。
◆
帰り道、悠朗は父親に、今日あったことを話した。
「代打で、打てた」
「聞いたぞ。二点タイムリーだって?」
「うん」
「よかったな」
「うん。……でも、まだ、たまたまかもしれない」
父親は少し笑った。
「たまたまでも、結果を出せるのは大事なことだ。次は、たまたまじゃなくしていけばいい」
悠朗はその言葉を、頭の中で静かに繰り返した。体格差という壁は、まだ消えたわけではない。それでも、今日という日は、確かに一つの手応えとして、悠朗の中に刻まれた。
その夜も、悠朗はいつも通り庭先でバットを振った。短く持ったグリップの感触は、もうすっかり手に馴染んでいた。
(つづく)