「この財布の中身を、全部使ってやる……‼︎」
吐息が白く染まる、十二月の星空の下。
拾った財布を押し込んだ胸ポケットをさすりながら、俺は心に強く決めた。
『人に優しくしなさい。いつか必ず、自分に返ってくるから』
始まりは、父の言葉。
十年前、まだ六歳だった俺はその言葉に従い、人に優しくするようになった。
小学生の時、同級生の掃除当番を変わってあげた。
同級生は、嫌な当番を全て俺に押しつけるようになった。
中学生の時、友達のラブレターを代わりに書いてあげた。
友達は、彼女とばかり遊ぶようになり俺とは疎遠になった。
高校生の時、先生の荷物を持ってあげた。
先生は、何も言わずに近くの俺に荷物を持たせるようになった。
優しさは本当に返ってくるものなのか、分からなくなった。
思い出してみれば、父がその言葉を口にしたのは趣味である宝くじを俺と一緒に十円玉で擦っていた時だった。父も、本気では信じていなかったのかもしれない。
ただ、宝くじの願掛け程度に呟いただけで。
やめようかな、父の言葉に従うの。
そんな考えが何度も頭をよぎり、それでも実行には至らないまま、時間だけが過ぎて。
今日、俺は町内会のゴミ掃除に参加していた。
本来二人でやるところ、当番の同級生に押しつけられた結果、一人になり。奥歯をガチガチ
鳴らしながら、ゴミ袋とトングを装備して町内を一周していた。
決められた巡回路を周り終わり、帰路である歩道を歩いていた時。
最初に気づいたのは、歩道に点々と小銭が落ちていることだった。
それらを拾いながら先を辿ってみると、歩道脇の植え込みの奥に財布が落ちていたのだ。
「いてっ……」
植え込みから伸びる枝で手を切ってしまいながらも、俺はその財布を手にした。
二つ折りでファスナーがないタイプのその財布は随分と年季が経っているのか、汚れていてボロボロだった。そのせいか小銭を入れる留め金の部分は随分と緩くなっていて、それで落とした時に小銭が散らばったのだろうな、と推測できた。
それにしてもこの財布、どこかで見たような……などと奇妙なデジャブに首を捻りながら、深く考えずに札束の量を確認する。
瞬間、目を見開いた。
一目では数えきれない程の一万円札が、その財布には入っていたのだ。
まさか、ボロボロな財布に大量のお札が入っているなんて、思わない。あまりの金額に気圧されて、一瞬財布を落としそうになった程だった。
慌てて両手で財布を包み込んでから、俺は周囲に視線をやった。
人影は、見当たらない。
ただでさえ肌寒い十二月の夜、その上に俺が今いるこの道の先にあるのは俺の家ぐらい。なのでこの道は普段から、人通りが少ないのだ。ということは、だ。
まだ、誰にもバレてない。
この財布を拾ったのが、俺であることは。
財布を握る手の平に、じわりと汗が滲む。
うっかり手を滑らせるよりも先に、俺は胸ポケットの中に財布を突っ込んだ。
きっと、落とし主は、すっごい金持ちなんだ。
だったら、財布を落としたぐらいで、いちいち気にしないはず。
そんな考えが、頭をよぎった。
心臓の鼓動と共にその考えは大きくなっていき、かねてよりの不満と混ざる。
これは、チャンスだ。
父の言葉に逆らうための、二度とない絶好の機会だ。
本気でそう思った。
だから、俺は口にした。
「この財布の中身を、全部使ってやる……‼︎」
そうして俺は、本来ならこのまま通るはずだった道に、くるりと背を向けた。
二十分ほど歩いて辿り着いたのは、コンビニだった。
ガラスの自動ドアの前に立つと軽快な音と共に動き、中から暖かい風が吹きつけてくる。
十二月の夜を全力で味わった全身に浴びせられたその風は、身体だけでなく心も温めてくれるかのようで、思わず胸いっぱいに吸い込んだ。
今まで俺は、このガラスの扉を越えたことがなかった。
無駄遣いを嫌う母が、かつてうちの一家にコンビニ禁止令を出したからだ。
律儀に守っていたけれど、それも今日までだ。父と母の言葉、全部に逆らってやる。
よく思い出してみれば、父だって母にはバレないように宝くじを買っていた訳だし。そこに俺が続いて何が悪い。
大きく吸った息を同じ大きさで吐き出して、周囲を確認する。
スーパーでは見かけない、色とりどりのスイーツ。
それらを食べるための、小洒落たイートインスペース。
クラスメイトが買ったのを回し読みしかしたことがない、面白そうな漫画雑誌の山。
初めて見る物ばかりが目に飛び込んで、さながら今の心地は初めて遊園地を訪れた時のよう。
目をグルグルと動かすだけで、時間が過ぎていく。
そんな俺の鼻に、ふわりと飛び込んでくる匂いがあった。
暖かさを含んだ、香ばしくも優しい出汁の匂い。
匂いのする方に目を向けると、そこはレジの手前側。
おでんが機械に温められて、ほかほかと湯気をたてていた。
目にした途端に口の中に湧いてきた唾を、ごくりと飲み込む。
そうだ、これにしよう。
コンビニでしか売っていないような熱々のおでんを頬張れば、きっと良い気分になれるはずだ。
「すいませーん、おでんの玉子一つ」
「かしこまりましたー」
少しレジの様子を眺めていると、他の客がおでんをレジで頼んでいるのが目に映った。
なるほど、レジで欲しいものを直接指定して買うのか。
レジには人が何人か並んでいたので、自分もその最後尾に並ぶ。
さて、何を頼もうか。
やっぱ王道だと、大根かな。ちくわも美味しそうだし、玉子も外せない……どれにしよう。
……いや。どれか、じゃない。どれも、買えるんだ。
だって今、俺の手元には……
ふと、手元に視線がいく。手の平は、いつの間にか手汗でグッショリと濡れていた。
今更、緊張してきたのかもしれない。
自分がこれから行うのが悪事である、ということに。
「次の方どうぞー」
顔を上げると、レジの前には自分しかいなかった。
慌ててレジに向かうと、俺の内心など露知らぬ店員が、笑顔で話しかけてきた。
「いらっしゃいませー」
「お、おでんの、玉子一つください」
「かしこまりました」
声が変に上擦って、頭が真っ白になって。
結局、注文できたのは玉子一つだった。
「税込み百五十円になります」
「は、はい‼︎ 百五十円‼︎」
声の震えを誤魔化せないまま、俺は胸ポケットに手を突っ込む。
中の財布を掴み、取り出したところで−−−−つるっ、と手汗で滑る感触。
チャリーン‼︎
その音は、コンビニ中に響き渡ったかのように聞こえた。
「す、すいません‼︎」
手持ちのゴミ袋とトングを投げ捨てて、俺は反射で床にばら撒かれた小銭に手を伸ばしていた。
一円玉、五円玉、十円玉。
小さく軽いそれらの中には遠くにいってしまったのもあって、レジを離れて拾いにいかなくてはいけなくて……
……あれ。
札束が一杯あるんだから、小銭なんて拾う必要なくないか?
二枚目の十円玉を拾いながら、そんな考えがよぎる。
だけど、思考が巡る頭とは別に、体は三枚目の十円玉に手を伸ばしていた。
どうして、こんな小銭を拾っているんだろう。
拾わなかったとしても困るのは、俺じゃない。落とし主の、はずなのに……
……そっか。
落とし主は、困るだろうな。一円であっても。
二枚目の一円玉が、すとんと手の中に落ちた。
今までのことも、きっと同じだ。
小学生の時も、中学生の時も、高校に上がってからも。
俺が手を貸さないと、困ったままだった人がいたんだ。
もし、父親の言葉がなかったとしたら。優しさが返ってこないと知っていたら。
自分は、その人達を、放っておいたのか?
いつの間にか、手の中には小銭が全て回収されていた。
それを見ていると、顔すら知らない人が困っている様子が、頭の中に浮かんできた。
大金が入った財布を探して、右往左往しているであろう姿が、ありありと。
じゃらじゃらと、小銭入れの中に小銭を落とす。さっきまであったはずの高揚感は、
なくなっていた。
「あの、お客様……?」
痺れを切らしたらしい店員が、俺に声をかけてくる。
あぁ、注文の途中だったっけ。
一瞬ギュッと目を瞑って、開く。言うべきことは、もう決まっていた。
「すいません。注文、キャンセルでお願いします」
今度は声を震わせることなく、ハッキリと言えた。
コンビニを出た俺は、近所の交番へ向かう道を歩いていた。手元には、今度こそ落とさないようにしっかり握りしめた財布。
十二月の夜の風が、頰を撫でる。冷たいのは変わらないけれど、今はその冷たさが心地いい。
やがて交番に辿り着いた時、俺の耳に届いたのは聞き覚えのある呻き声だった。
具体的には、父が宝くじに外れた時に聞く声を数倍にしたような……
「……父さん?」
「……お前、どうしてこんなところに?」
交番の中で、枝でも刺さったかのような穴の空いたカバンに顔を埋めていたのは、父だった。
目元はこれ以上ない程に潤んでいる。
「父さんこそ、どうしてここに? 何かあったの?」
「そうなんだよ、聞いてくれ‼︎ 久しぶりに宝くじを買ったんだが……お?」
父の涙が、俺の手元を見るなり引っ込んでいく。
「お、俺の財布‼︎ ありがとう……‼︎ 当たったお金を全部入れてたから、本当に焦ってたんだ‼︎」
財布ごと俺の手を握る父の顔は、これまでに見たことのない満面の笑顔になった。
一瞬、息が止まる。
考えてみれば、自分の家に向かう道に落ちていた物なのだから、家族のものである可能性は高いだろう。俺はそんな事にも気づかずに、拾った財布を使おうとしていたのだ。
もし、この中身を一円でも使っていたら。
全てを出し切るほどに深く、息を吐く。
今日のことは一生、父には内緒にしようと心に誓った。
お騒がせしました、と交番の警官に頭を下げて、二人で交番を出た。
「財布も見つかったことだし、何か買って帰ろう。寿司でいいか?」
「え、寿司⁉︎ よっしゃぁ‼︎」
年甲斐もなく、思わず飛び上がった。
流石に高級店のものではなく、近所のスーパーで売っている程度の寿司だったけれど。
そのサッパリとした味わいは、いつまでも俺の記憶に残る味になった。