□20??年?月?日 ???
背中から倒れ込んでいたその男は、不意に天を見あげた。
それはどこまでも続く、青くて、自由で、何よりも美しい
自然と伸ばした短い手は、けれども自然に空を切る。
目に映るほどに近いのに、決して届かないほどに遠い。
揺蕩う雲ですらそうなのだから、あの青い空は、どれだけ遠くにあるというのだろうか。
次いで、ずぅん、と腹の底まで揺らす音が響いた。
同時に空が大きく揺れて、汚い黒煙が青空を遮る。
美しいキャンバスに泥水をかけるような暴挙に、男は眉を顰めて、沈む身体を無理やりに起こした。
ゆっくりと首を巡らせ、男は息を飲む。
止むことのない爆音。銃声。悲鳴。
絶えることのない爆炎。怒号。硝煙。
火、火、火。
血、血、血。
視界の全てを埋め尽くす、土気の混じった赤の色。
穢れている。
それは汚く匂いを伴った、尊くあった命の跡であり、愚かしさの示唆であり、過ちの証拠であり、鮮明に、苛烈に色を放つだけのもの。
あぁ、そうだ。
ここは、この世で最も醜い場所なのだった。
この世に地獄があるとすれば、きっとここに違いない。そうでなければ、一体何だと言うのだろうか。
これ以上に酷い場所など、有っていいわけが無いだろうに。
重たい体を動かして、男は歩く。進み続ける。藻掻いて、足掻いて、探し続ける。
千の歩みを進めた先に。
小高い丘を超えた先に。
長閑であったはずのその場所に。
ただひたすらに、赤があった。
無惨に広がる、赤の海。
その上には、見知ったはずの小さな影たちが浮かんでいて。
その姿はどこまでも頼りなくて、情けない。
ゆっくりと手を伸ばして、か細く声を届けてみるが、返ってくることはなく。
か細く、短い腕をそっと戻して、震える視界を塞ぎ込んだ。
ここは地獄だ。
この世の何より汚い場所だ。
であれば、自分はなんの罪を犯したのだろうか。
あの子たちは、一体何をしたというのだろうか。
地獄の主に尋ねてみようにも、沙汰は一向に下されない。
下唇を噛み締め、力任せに地面を抓るが、返ってくるのは痛みと小さな不快感だけで、とても罰と言うにはくだらない。
ばたっ、ともう一度体を倒して、男はゆっくり瞼を閉じた。
きっとまた、自分は取り残されてしまうのだろうと、深くため息をついて。
地獄の沙汰は、未だ下されぬまま。
◇◆
――<Infinite Dendrogram>とは。
突如、発売と同時に世間にその存在を表し、有り得ざる夢を示した不可解な、フルダイブ型VRMMOゲームの名である。
それは世界中のネット・メディアにて広告され、荒唐無稽の夢を世間へと表明した。
広告にて示された四つの夢。
それは人々がかつて焦がれた果実であり、そして届くことなく果てた希望。
「有り得ない」と、そう断じてなおも、可能性を追い求めてしまうだけのもの。
それは人々が求め、届かなかった全ての夢を…次の世界<NEXT World>を彷彿とさせた。
けれどそれが指し示すのは、夢は夢のままに終わるであろうという事実。
かつて夢のゲームを唄い、世に出されたゲームたちと同様の結末を辿るのだろう、と。
かつて夢を追い、泣きを見た多くの者が挑戦者たちを嘲笑い、誰もがその結末が落胆であると疑わなかった。
けれど、挑戦者たちを迎えた現実は、まさに「夢」のような世界であった。
彼らにとっての現実と、まるで相違のない五感。
人間と、自分たちマスターと区別がほとんどつかないNPC<ティアン>。
プレイヤーひとりひとりに与えられた、唯一無二にして、<Infinite Dendrogram>の象徴である、無限の可能性―――<エンブリオ>。
それらはまさに、現代、近現代の人類が追い求めてきた夢そのものだった。
…発売発表と同時に世界中のゲームショップの店頭に売られるようになったこのゲームは、暫くの内に広まった評判と共に店頭から姿を消すこととなる。
それによって、遅れて評判を聞きつけたゲーマーたちや、かつて見た夢を求めた人達は阿鼻叫喚をあげる事となった。
けれど、<Infinite Dendrogram>を遊ぶ無数のプレイヤー……<マスター>の中には、自らの意思で<Infinite Dendrogram>を始めたわけではない者もいた。
彼らは皆、<Infinite Dendrogram>の開発責任者と名乗る男――ルイス・キャロルによる勧誘を受けたものたちだ。
彼らは一様に特殊な環境に身を置き、大抵、普通の人間とは程遠い存在であった。
それは例えば「宇宙人」であったり「妖怪」であったり……
培養液に浮かぶ脳だけの「人間」であったり。
火星に一人取り残された「少女」であったり。
大きな括りで人ではあれど、他に類似しない特徴を持つ彼らは、その特異性から可能性を見込まれて、<Infinite Dendrogram>へと足を踏み入れることとなった。
これはそんな、ルイス・キャロルに選ばれた数多くのひとりにすぎない男の。
ただ絶望的なまでに悪運が良いだけの、そんな「一般人」の物語。
To be continued.