大小路ハヤテの入学
おっぱいだ。
圧倒的で暴力的なスタイルを持つ存在が、私の目の前にいる。
「……聞いているのかしら」
「あっ、はい!」
慌てて顔へ視線を戻したところで、今度は別の問題が発生した。
ああ、顔がいい。
切れ長の理知的な目元に、艶のある長い黒髪。近くで見ると入学式の壇上から眺めた時よりずっと整った顔立ちをしていて、おまけに何だかいい匂いまでした。これはよろしくない。非常によろしくない。
見続けていたら確実に顔が緩む。
私は二秒ほどで限界を悟り、さりげなく彼女の肩口へ視線を逸らした。
「あなたをC&Cにスカウトしたいわ」
「あっ、はい! よ、よこんで!」
「……喜んで、かしら」
「はい!」
噛んだ。
しかし言い直すほどではない。私は何事もなかった顔で頷き、内心で自分の失態を処理する。
その間にも彼女は何か説明を続けようとしていたのだが、ようやく私の頭が耳から入ってきた言葉に追いついた。
……ん?
今、この人なんて言った?
◇
私の中学時代の人間関係は、今になって考えるとかなり悲惨だった。
学校が嫌いだったわけではない。むしろ毎日それなりに楽しかったし、卒業した今でも思い返せば笑える出来事はいくらでもある。ただ、その大半が一般的な中学生の思い出として適切だったかと聞かれると、首を傾げざるを得ない。
朝、校門の前で二つのグループが睨み合っている。昼休みに他校の生徒が殴り込みに来る。体育館裏へ呼び出されて行ってみれば、知らない奴が十人ほど待ち構えている。
当時の私は、それらを全部「中学生ってこういうものなんだ」と受け入れていた。
違ったらしい。
後になって聞いた話では、私が入学する以前の母校は特に荒れていたわけでもない、ごく普通の中学校だったという。それが私の代になった途端、何の因果か周辺地域の不良連中が大量に同じ学校へ進学してきた。
教室を見ればガラの悪い奴がいる。隣の教室にもいる。廊下にもいる。ところが先輩や後輩を見れば妙に普通なので、今思えば私たちの学年だけがおかしかったのだ。
そんな環境に放り込まれた私は、周囲へ適応した。
髪の扱いは雑になり、言葉遣いも荒くなった。授業を抜けたこともあるし、生活指導の先生とは随分長い付き合いになった。それでも犯罪にまで手を出そうとは思わなかったので、当時の私には一応それなりの線引きがあった。
『おい大小路、ちょっと店から――』
『それ万引きだろ。やらねぇぞ』
『固ぇなぁ』
『固いとかじゃねぇよ。犯罪だろうが』
そんな調子だったから、私は自分を「ちょっと口と態度が悪いだけの普通の中学生」くらいに考えていた。
もちろん普通ではなかった。
一年生のある日、喧嘩を売られた。
特に深く考えず買って、勝った。
すると翌日には別の奴が来た。
『昨日、ウチの奴やったのお前か?』
『そうだけど』
『表出ろ』
『いいけど』
また勝った。
その次は二人、その次は五人。その辺りから、私の知らないところで何かがおかしくなり始めた。
『大小路ハヤテってどいつだ!』
『私だけど』
『お前倒せばこの学校のトップらしいな!』
『誰が決めたんだよ、それ』
問い詰めても答えは返ってこない。しかも相手はもうやる気満々なので、そのまま喧嘩になる。売られたものを律儀に買い続けているうちに、いつしか私を名指しで探す奴はいなくなった。
やっと平和になった。そう喜んだのも束の間、今度は周囲の態度がおかしくなった。
『ハヤテさん、おはようございます!』
『おう』
『購買行ってきますけど、何かいります!?』
『自分の分だけ買ってこいよ』
『ハヤテさん! 向こうの連中がまた揉めてて――』
『喧嘩すんなって言っとけ。面倒くせぇから』
気がつけば、何故か皆が私の言うことを聞くようになっていた。
どうやら私は、知らないうちに番長のようなものになっていたらしい。
別になりたかったわけではない。本当に。
そんな生活も三年目になると、さすがに進路を考える時期がやってくる。
ある日、担任から何冊か高校のパンフレットを渡された。綺麗な校舎、文化祭、部活動、笑顔で並ぶ生徒たち。その中に、何人かで机を囲んで勉強している写真があった。
それを見た時、ふと思った。
そういえば私、普通の友達っていたっけ。
舎弟みたいな奴ならいた。喧嘩仲間もいたし、慕ってくる後輩もいた。顔を合わせれば馬鹿話をする相手だっていたのだから、完全に孤独だったわけではない。
けれど、放課後に何となく寄り道をしたり、一緒に試験勉強をしたり、恋愛の相談をしたりするような相手は思い浮かばなかった。
そもそも恋愛相談など持ちかけられた覚えがない。
皆、私にそういう話をする前に妙に姿勢を正す。
これはまずいのではないだろうか。
三年間、私は一体何をしていたのだろう。
いや、楽しかったのだけれど。楽しかったからこそ、余計に困る。
過去を全部嫌いになれれば「全部捨ててやり直そう」で済むのに、残念ながらそこまで殊勝でもなかった。
だから、高校では少しだけ変わることにした。
普通の学校へ行って、普通に友達を作る。できれば私の中学時代を知っている人間が一人もいない場所がいい。
候補を探しているうちに目に留まったのが、ミレニアムサイエンススクールだった。
科学、技術、研究。
実に知的な単語が並んでいる。
うちの中学の連中が最も近寄らなさそうな場所だ。
ここしかないと思った。
幸い受験にも合格し、後は高校生活を普通に過ごすだけとなったのだが、一つ問題が残った。
私は普通の友達の作り方を知らない。
中学時代は大体、
『おい』
で会話を始めていた。
これではいけない。友好的とは言い難いし、初対面の相手に圧をかけるからろくな人間関係が築けなかったのではないか。
ならば逆にすればいい。
高圧的だったのが悪いなら、最初から下手に出る。これなら相手も警戒しないだろう。
「へへ……あっしなんか……」
入学前日、鏡の前で試してみた。
少し違う気もしたが、昔よりは威圧感がない。
きっと大丈夫だろう。
◇
そして迎えた入学式当日。
ミレニアムの校舎へ入って最初に感動したのは、その綺麗さだった。
窓が割れていないし、廊下に机が転がっていない。壁に妙な落書きもなければ、曲がり角を曲がった先で誰かが倒れていることもない。
これが普通の学校か。
体育館へ入れば大勢の新入生が整然と座っていて、開始時刻になっても誰一人として喧嘩を始めなかった。
素晴らしい。
私は早くも進学先の選択に満足していた。
式が始まり、壇上では何人かの生徒が挨拶をしていた。その中に、ひときわ目を引く人がいた。
調月リオ。
ミレニアムの生徒会に当たるセミナー、その会長を務めている二年生らしい。
二年生で会長とは随分優秀な人なのだろう。最初は純粋にそう感心していた。
次に顔を見た。
好みだった。
かなり好みだった。
さらに視線を少し下へ移した。
もっと好みだった。
……いい学校だな、ミレニアム。
入学して良かった。
そんな邪念を抱きつつも、式が終われば現実に戻る。
相手は生徒会長で、私は今日入学したばかりの一般生徒だ。今後まともに話す機会があるとも思えないし、たまに遠くから見られれば十分だろう。
私は普通の高校生活を送るためにここへ来たのだ。
性癖に刺さった生徒会長を眺めるためではない。
入学式の後は寮へ戻る前に、校内を軽く見て回ることにした。
研究室、部室、教室。それぞれに見たことのない設備が並び、すれ違う生徒たちは端末を片手に私にはよく分からない専門用語を話している。
いかにもミレニアムという感じがする。
「すごいですねぇ……」
自然と声が漏れた。
ここなら昔の私を知っている人間などまずいないだろう。
高校デビューというものがあるのなら、これはかなり順調なのではないだろうか。
そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にかセミナーと書かれた区画まで来ていた。
おそらく生徒会室のような場所だろう。
一瞬だけ足を止める。
リオ会長も、この辺りにいるのだろうか。
いや、わざわざ覗くのは気持ち悪い。
普通の女子高生は、入学初日に生徒会長を探して生徒会室を覗いたりしない。多分。
私は何事もなかったように通り過ぎようとした。
そこで扉が開いた。
「……ここにいたのね」
「ウェ?!」
変な声が出た。
扉の向こうから現れたのは、ついさっき壇上で見た調月リオ本人だった。
しかも何故か真っ直ぐこちらを見ている。
「大小路ハヤテさん」
「は、はい!」
名前まで知られている。
何故。
私が混乱している間にも、リオ会長はこちらへ歩いてきた。
そして近くで見ると改めて思う。
おっぱいだ。
◇
「――という組織よ」
「…………」
「大小路さん?」
「あっ、はい。聞いております!」
本当だ。
耳にはちゃんと入っている。
ただし、頭の処理能力の半分くらいが目の前のリオ会長によって占領されているだけである。
C&Cという組織を新しく作ったこと。通常の警備組織には任せにくい任務を担当すること。まだ人数が少なく、相応に危険も伴うこと。
そこまでは理解した。
問題は、その説明を何故私が受けているのかだ。
「それで……どうして私なんでしょうか」
ようやく一番重要なところを尋ねると、リオ会長は少しだけ目を細めた。
「あなたの経歴を確認したからよ」
「経歴?」
「入学者について簡単な確認をしたのだけれど、あなた、中学校時代にかなりの回数、他の生徒と戦闘しているわね」
心臓が止まったかと思った。
高校生活、終了。
まだ一日目なのに。
「……人違いではないでしょうか」
「写真もあるわ」
完全に終わった。
私はもう一度どこか遠くの学校を探した方がいいのかもしれない。
ところが、リオ会長の口から続いたのは私が想像していた言葉とは違った。
「ただ、記録を確認していて気になったことがあるの」
「……何でしょう」
「それだけ荒れた環境にいたにもかかわらず、重大な犯罪歴がないわね」
「それは……犯罪は駄目でしょう」
当然のことを答えたつもりだった。
万引きも恐喝も、やってはいけないからやらなかった。それ以上でも以下でもない。
「そうね」
リオ会長は短く答えた後、私を観察するように見る。
「高い戦闘能力がありながら、それを無秩序に振るっているわけでもない。少なくとも、自分なりの基準を持って行動していた。それを評価したのよ」
「…………」
怒られなかった。
軽蔑もされなかった。
隠しておきたかった過去を知られたのに、それを理由に私そのものを否定されるどころか、経験として評価された。
思っていた以上に、その事実は胸に響いた。
もっとも、それとは別にリオ会長と長時間見つめ合うのは危険だったので、私はそっと視線を横へずらした。
「改めて聞くわ。C&Cに参加してくれる?」
「はい。よろこんで」
今度は噛まなかった。
◇
数日後、私は指定された教室の前で立ち尽くしていた。
あの場では勢いよく了承したものの、時間が経つにつれて冷静になってきた。
C&C。
リオ会長直属。
危険な任務あり。
まだ人員が少ない。
覚えているのはその程度である。
「……おっぱいに気を取られてましたね」
我ながら最低だった。
もう少し説明を真面目に聞いておけばよかった。
とはいえ、今さら「よく分からないのでやっぱり辞めます」とは言えない。何よりリオ会長に呆れられるのは避けたい。
私は扉の前で一度だけ呼吸を整えた。
高校では普通にやる。
普通の人間関係を作る。
そのためには最初が肝心だ。
扉を開けると、中には二人の生徒がいた。
一人は私よりかなり背が低い。小柄なのだが、だからといって可愛らしいという感想が最初に出てくるような雰囲気ではなかった。
怖い。
小動物というより、小型の猛獣だ。
もう一人は対照的に、明るい髪色と人懐っこそうな笑顔が印象的だった。こちらは何というか、大型犬に近い。
「お、新入りか?」
小さい方の先輩がこちらを見る。
「は、はい」
ここだ。
普通の高校生活。
普通の人間関係。
中学時代のように高圧的に出てはいけない。
下からだ。
私はこれまで考えてきた処世術を思い出し、できる限り腰を低くした。
「へへ……あっしは大小路ハヤテと言います。パシリでもなんでも言ってくだせぇ」
二人とも黙った。
数秒後、明るい髪の先輩がぱっと顔を輝かせる。
「面白いねぇ、ハヤテちゃん!」
「何だよその口調」
小さい先輩は思いきり顔をしかめていた。
「へ?」
「パシリなんてさせねぇよ。美甘ネル、二年だ」
「私は一之瀬アスナだよ。よろしくね、ハヤテちゃん!」
「はい! よろしくお願いしやす!」
「だからその喋り方やめろ!」
「まあまあリーダー、面白いからいいじゃん」
「よくねぇよ!」
おかしい。
下から行ったはずなのに、開始一分もしないうちに怒られた。
私は曖昧に笑いながら、この数日間の出来事を振り返る。
高校では普通の友達を作る。そのために、昔の私を誰も知らないミレニアムまで来た。
ところが入学初日に性癖のど真ん中を突いてくる生徒会長と出会い、隠しておきたかった中学時代をあっさり掘り返され、そのままよく分からない秘密組織へ加入。
数日後には、怖い小さい先輩と大型犬のような先輩に囲まれている。
……普通とは何だろう。
少なくとも、私が想像していた高校生活とは少し違う気がする。
こうして、私の悩ましいミレニアム生活が始まった。