春休みも終盤に差しかかると、ミレニアムの空気は少しずつ新年度へ向けたものへ変わっていった。
長期休暇が終わる前に遊び尽くそうとする生徒もいれば、新しい研究や部活動の準備を始める生徒もいる。ショッピングモールは連日混雑し、郊外へ出掛ける生徒の姿も増えているらしい。
そんな季節の変化とは無関係に、セミナーだけは年度末決算に追われていた。
この一年でミレニアムが何にどれだけの予算を使い、各部活動や研究室へいくら配分し、余った予算がどれだけ返還され、翌年度へ何を繰り越すのか。それらを確認して数字を合わせるだけなら簡単に聞こえるが、学園そのものが巨大な研究都市みたいなミレニアムでは、処理しなければならない項目の数も普通ではなかった。
「……おはようございやす」
「おはよう。そこにある箱、こっち持ってきて」
「はい」
セミナーへ入った直後から、ユウカさんの指示が飛んできた。
以前手伝いに来た時は、私がメイド服のまま現れただけで「何でその格好なのよ!」と随分突っ込まれたのに、今日は私の格好を見る余裕すらないらしい。
指定された机へ箱を運びながら室内を見回すと、紙の資料だけでも相当な量が積み上がっており、その隙間では複数の端末が絶え間なく計算を続けている。壁際の大型モニターには各部署の予算処理状況が一覧表示されているものの、完了を示す項目より確認中や差し戻しの表示の方が圧倒的に多かった。
「凄いですね」
「感想言ってる暇があるなら手伝って」
「へいへい」
「返事は一回」
「はい」
このやり取りにも随分慣れた。
少し離れた席では、ノアさんが複数の資料を並べながら確認作業を進めている。表情だけなら普段とあまり変わらないものの、机の端に空のカップが何個も置かれているところを見ると、こちらも余裕があるわけではなさそうだった。
「ノアさんもお疲れ様です」
「ありがとうございます、ハヤテさん。今日はお手伝いいただけて助かります」
「リオ会長は?」
「今日は別件で席を外されています」
ノアさんがそう答えると、少し離れたところからユウカさんのため息が聞こえた。
「別にリオ先輩がいないとできない仕事じゃないんだけどね。確認する量が多すぎるのよ。処理しても次から次へと追加が来るし、締め切りだけは待ってくれないし……」
「なるほど」
「そこで他人事みたいな顔しない」
「私、一応C&Cなので」
「今はセミナーの手伝い!」
正論だったので、大人しく作業へ戻った。
◇
私に割り振られた仕事は、主に資料の整理と照合作業だった。
各部署から提出された書類を年度、用途、承認状況ごとに分け、端末上の記録と一致しているか確認していく。専門的な会計処理そのものはユウカさん達が担当するので、私がやるのは比較的簡単な部分だった。
とはいえ、簡単であることと量が少ないことは別問題である。
「これ、今日中に終わるんです?」
「終わらせるの」
「願望では?」
「予定よ!」
ユウカさんの声に妙な迫力があったので、これ以上突っ込むのはやめておいた。
午前中はひたすら書類を運び、途中から必要な資料を探す作業まで加わった。休憩の頃には飲み物まで用意していたので、やっていることだけ見れば完全にセミナーの雑用係である。
それでも、以前手伝った時ほど戸惑うことはなかった。
ユウカさんがどの資料を探しているのかも何となく分かるようになり、ノアさんが確認を終えた書類をどこへ回せばいいのかも覚えている。研究費や特殊設備の項目について詳しいわけではないが、C&C関連の支出なら自分が使った装備や施設も多いため、見覚えのある数字もかなりあった。
最初の違和感も、その程度のところから始まった。
「……あれ?」
手元の端末に表示された金額を見て、指が止まる。
項目は、C&Cで使用している特殊弾薬の補充分だった。
金額そのものが極端に高いわけではなく、添付された発注書と受領記録もきちんと揃っている。それでも、以前私自身が補充申請をした時に見た金額と比べると、少しだけ高い気がした。
時期によって価格が変わることくらいあるだろうと思い、そのまま次へ進む。
次に出てきたのは訓練施設の修繕費だった。
ネル先輩が壁を壊し、私も机やら盾やらを散々使った結果、かなり大掛かりな修理になった時のものである。
こちらも書類には何の問題もなかった。
ただ、記憶にある金額より少し高い。
「ハヤテさん?」
「はい?」
ノアさんから声を掛けられて顔を上げる。
「何か気になるところがありましたか?」
「いや、前に使った装備があったので、懐かしいなと思っただけです」
「そうでしたか」
ノアさんはそれ以上気にすることもなく、自分の作業へ戻った。
私も端末へ視線を戻す。
考えすぎだろう。
予算というものは、現場で見た価格だけで決まるわけではない。輸送費も保守費もあるし、購入時期や契約条件によって金額が変わることもある。
何より、正式な決算作業としてユウカさんとノアさんが確認している。
私より遥かに詳しい二人が何も言っていないなら、問題はないのだと思った。
◇
昼を過ぎても、仕事はほとんど減っていなかった。
むしろ資料を処理すればするほど新しい確認事項が見つかっているようで、ユウカさんの机だけは朝より書類が増えているようにすら見える。
「ユウカさん、ご飯」
「あとで」
「さっきもそれ言ってましたよ」
「この処理が終わったら食べるから」
「その台詞、三十分前にも聞きました」
私は買ってきたサンドイッチを机の空いている場所へ置いた。
「食べながらでもできますよね」
「行儀悪いでしょ」
「倒れられるよりマシです」
「……分かったわよ」
渋々手を伸ばしたので、それでいい。
ノアさんのところにも飲み物を置き、自分の分を持って空いている席へ座る。休憩しながら、午前中に見た数字を何となく思い返した。
弾薬、修繕費、ドローンの交換部品、通信機材、それから研究設備の一部。
一件ずつ見れば何もおかしくない。
それでも、何かが引っかかっている。
しばらく考えた末、私は端末を開き、午前中に確認した資料をもう一度表示した。
別に監査をするつもりはなく、自分の記憶違いを確認したかっただけだった。
いくつか見直してみても、書類は揃っているし、承認も支払いも問題ない。数字の計算そのものにも間違いはなかった。
「……気のせいですかね」
「何が?」
隣からユウカさんの声が聞こえ、私は端末から顔を上げた。
「いやいや、こっちの話です」
「また何か気になる数字でもあった?」
「また?」
「さっきから何度か同じところで止まってたでしょ」
見られていたらしい。
「現場で見た値段と少し違う気がしただけですよ。でも書類は合ってるので、私の記憶違いでしょう」
ユウカさんは少し考えてから答えた。
「購入時期や契約先によって価格は変わるから、それだけじゃ何とも言えないわね。気になるなら印だけつけておいて。後でまとめて確認するから」
「了解です」
その話はそこで終わった。
私も、それで終わりだと思っていた。
ところが午後になり、扱う部署や項目が変わっても、似たような違和感が何度か続いた。
研究用ドローンの整備費、廃棄設備の更新費、共同利用施設の維持費など、私が直接関わったことのないものまで含まれている。それでも、自分が知っている範囲と比較できる項目だけを見ると、微妙に数字がずれていた。
高いものもあれば、逆に妙に安いものもある。
さらに、それらは同じ部署や同じ用途へ集中しているわけではなく、学園中の予算へ薄く散らばっていた。
一つずつなら誤差で済む程度で、書類も揃っており、計算にも間違いはない。
それ以上考える理由などないはずなのに、頭の隅に残った違和感だけが消えなかった。
◇
窓の外が暗くなった頃、ようやく大型モニターに並んでいた項目が全て完了へ変わった。
「…………終わった」
ユウカさんが椅子の背へ身体を預ける。
声から普段の勢いが完全に消えていた。
「終わりましたねぇ」
「終わりましたね」
ノアさんも、珍しく疲れの見える笑顔を浮かべている。
私も今日はかなり働いた。
走り回る任務とはまったく違う疲れ方だった。
「じゃあ私、帰っていいです?」
「ちょっと待って」
「まだあるんです?」
「最後にこれだけ」
ユウカさんが、一冊のファイルをこちらへ差し出した。
表紙には年度末決算の最終集計と書かれている。
「各部署の細かい書類じゃなくて、この一年の予算配分と支出、それから繰越額をまとめたものよ」
「これを私が?」
「今日ずっと手伝ってもらったでしょ。現場で使った装備や設備の数字については、私達より大小路さんの方が実感のあるものもあるから、一応ざっと目を通しておいてくれる?」
「正式な確認は?」
「もう終わってる。本当にざっとでいいわ。気になるところがあったら明日教えて」
「ならまあ」
ファイルを受け取る。
何より、これで帰れる。
「今日は助かったわ」
「どういたしまして」
「またお願いするかも」
「今の聞かなかったことにしますね」
「聞きなさいよ」
最後までそんなやり取りをして、私はセミナーを後にした。
◇
寮へ戻る前に、C&Cの拠点へ寄った。
メイド服のまま帰っても問題はないのだけれど、一日中着ていたので、さすがに普段着へ戻ってから帰りたかった。
中には誰もいない。
装備を所定の場所へ戻し、私服へ着替えたところで、何となく机の上へ先ほどのファイルを置いた。
「ざっと、ですか」
今日一日、何度も感じた違和感が頭に残っている。
正式な確認は既に終わっており、ユウカさんもノアさんも問題なしと判断している。なら、私が改めて細かく見る意味などほとんどない。
それでも頼まれた以上は一応目を通しておこうと思い、椅子へ座ってファイルを開いた。
最初の数ページには特に気になるところもなかった。
各部の年間予算、追加申請、返還された予算、施設維持費、共通設備費、研究費と、項目ごとの数字を追いながらページを進めていく。
昔から、こういう計算はそれほど苦にならなかった。
暗算が特別得意だと思ったことはないものの、現場では残弾や人数、距離、時間といった数字を頭の中に置いたまま動くことが多い。そのせいか、一度意識して見た数字なら、しばらくの間は何となく覚えている。
今日一日で見た金額も、かなり頭に残っていた。
それらを最終集計の数字と重ねていく。
しばらくページを進めたところで、私は一度手を止めた。
前のページへ戻って数字をもう一度確認したが、計算そのものは合っていた。
総額も支出も繰越額も一致しており、どこにも不足は見当たらない。
それなのに、今日見た細かな差額を頭の中で拾っていくと、それらが妙な方向へ集まっているように感じられた。
弾薬費の中で少し増え、設備費の別項目で少し減り、研究費や修繕費の中にも似たようなずれがある。一件ごとなら誤差と判断される程度の数字が、部署も用途も時期もばらばらなまま積み重なり、最終的には共通設備や研究基盤のような大きな項目の中へ吸収されている。
「……いやいや」
私は一度ファイルを閉じた。
考えすぎかもしれない。
私が知らないだけで、最初からそういう予算処理なのかもしれない。
それでも違和感が消えなかったので、もう一度ファイルを開き、今日見た数字をいくつか紙へ書き出した。
まずは自分が覚えている範囲だけを足してみる。
大した額ではない。
そこへ別の資料で見た差を加え、さらにC&Cで実際に使った装備の金額を思い出しながら補正する。
少し増えた。
まだ偶然で済む。
今度は別の部署の数字を加える。
さらに別の項目も見る。
数字は少しずつ大きくなっていった。
気がつけば、最初に想像していたより遥かに大きな金額になっている。
私はペンを机へ置いた。
最初に浮かんだのは、誰かが金を抜いているのではないかという考えだった。
しかし、すぐに違うと思った。
この帳簿は綺麗すぎる。
単純な横領なら、どこかで金額が不足するか、説明のつかない支出が残るはずだった。しかし目の前の資料には穴がなく、書類も承認も全て揃っている。数字だけを追えば、何一つ不自然ではない。
なら、途中で盗んでいるのではない。
最初から別の用途へ回すことを前提に、各項目へ少額ずつ混ぜながら帳尻を合わせている。
「……誰が?」
自分で口にしてから考える。
対象は複数の部署にまたがっている。
研究予算や設備費だけでなく、C&C関連の支出まで含まれている。
しかも、年度末になるまでユウカさんとノアさんが違和感を持たない程度に綺麗に処理されていた。
そこまで広い範囲の予算へ触れられ、なおかつセミナー内部でも簡単には気づかれないよう処理できる人間となれば、候補はそれほど多くない。
頭の中に、一つの名前が浮かんだ。
リオ会長。
その瞬間、自分でも驚くほど自然に思考が止まった。
正確には、自分で止めた。
「……これは」
リオ会長が私腹を肥やしている可能性は、ほとんど考えなかった。
一年近く見てきた限り、あの人は自分のために金を集めるような人ではない。
なら、何かに使っている。
しかも、ユウカさんやノアさんに知られないように、これだけの金額を少しずつ集めながら。
そこまで考えたところで、私はファイルから目を離した。
「……知っちゃいけないやつでは?」
当然ながら、誰も答えない。
拠点にいるのは私一人だった。
もう一度数字を見る。
このまま調べれば、もう少し分かるかもしれない。
どこへ流れたのか、いつから始まっているのか、誰の承認を経由しているのかまで辿れば、リオ会長とは別の人間が関わっている可能性だって確認できる。
ただ、それを知ったところで自分がどうするのかは全く決めていなかった。
ユウカさんへ伝えるのか、ノアさんへ相談するのか、それともリオ会長本人へ尋ねるのかを考えてみたが、どの選択肢も気が重かった。
もちろん、本当に不正をしているなら止めるべきなのだろう。それでも、何をしているのか分からない段階で、疑いだけを他の人へ渡すのも違う気がする。
何より、リオ会長がここまでして隠していることなら、私が勝手に掘り返していいものなのか判断できなかった。
「……私、こういうの抱えるの向いてないんですよねぇ」
今後リオ会長と話すたびに、余計な反応が顔へ出るかもしれない。
ユウカさん達に何か知っているかと聞かれれば、上手く誤魔化せる自信もない。
だったら、知らなければいい。
そこまで考えた時、その結論が妙にしっくりきた。
問題は、既に知ってしまっていることである。
私はしばらく机の上の数字を眺めてから、腰のホルスターへ視線を落とした。
「……忘れればいいか」
誰に聞かせるでもなく呟く。
机の上のファイルを閉じ、今日見た数字や、それを繋げた順番、そこから浮かんだ疑問と最後に出てきた名前を頭の中でもう一度確認した。
覚えているから面倒なら、その部分だけ無くせばいい。
私は一度だけ息を吐き、銃を手に取った。
「よし」
乾いた銃声が、誰もいない拠点へ響いた。
◇
「…………いた」
次に意識がはっきりした時には、私は机の横の床へ座り込んでいた。
頭の奥に鈍い痛みが残っており、すぐに立ち上がる気にはなれない。しばらく目を閉じて痛みが和らぐのを待ってから、机へ手をついて身体を起こした。
「何してたんでしたっけ」
机の上には年度末決算のファイルが置かれ、その横には自分の字でいくつもの数字を書いた紙が残っている。
それを見れば、何か計算していたことまでは分かった。
ただ、何のために計算を始めたのかが曖昧だった。
数字同士をどう繋げたのか、どこをおかしいと思ったのか、途中までの流れは何となく残っているのに、核心へ近づくほど記憶が薄い靄に包まれたように途切れている。
「おお」
思っていたより効いたらしい。
完璧に消えたわけではないものの、思い出そうとすると頭痛が強くなる程度には抜け落ちている。
もう少し重要なことを考えていた気もする。
誰かについてだったような気もするし、何かの用途について調べていたような気もする。
そこから先へ踏み込もうとすると、頭の奥が強く痛んだ。
「……まあ、いいか」
忘れようと思ったからこうしたのだ。
忘れられたなら、目的は達成している。
私は机に残っていたメモを適当に丸めて捨て、年度末決算のファイルだけを鞄へ入れた。
明日、ユウカさんへ返せばいい。
照明を消す前に、何となくもう一度だけ机を振り返った。
理由は分からない。
それでも、自分にとってかなり大事な何かを、自分の意思で捨てたような感覚だけが妙に鮮明に残っていた。
何を捨てたのかは、もう思い出せない。
「知らなくていいなら、その方が楽ですよね」
誰もいない部屋へそう呟いてから照明を落とし、私はC&Cの拠点を後にした。