二年生になってから、帰宅時間が少し読みにくくなった。
授業が終わればそのまま帰れる日もあれば、C&Cに呼ばれて夕方まで予定が埋まることもある。セミナーから手伝いを頼まれる機会も増え、D.U.で先生と出会って以降は、先生が関わる話まで時々こちらへ回ってくるようになった。
一年生の頃と比べれば、単純に知り合いが増えたせいなのだろう。
人間関係が増えれば、それだけ自分と無関係ではいられない出来事も増える。中学時代の終わり頃には、普通の友達がほとんどいないことを多少気にしていたものの、こうなってくると少しくらい少ない方が楽だったのではないかと思わなくもない。
「ハヤテ先輩」
「はい?」
「さっきから冷蔵庫見たまま止まってますよ」
「ああ」
声を掛けられて、ようやく我に返った。
学校へ行く前に何となく冷蔵庫を開け、夕食に使えそうなものを確認していたはずなのに、途中から今日の授業とC&Cの予定を頭の中で並べ始めていた。そもそも帰宅時間が分からない以上、冷蔵庫の前で考え続けても夕食の予定など決めようがない。
私は冷蔵庫の扉を閉めた。
「今日は帰り遅いかもしれないなと思って」
「任務ですか?」
「まだ分かりません。何もなければ普通に帰りますけど」
テーブルでは、コユキさんが私の買っておいたパンを食べていた。
本人にも自分の部屋はあるはずなのだが、春休みの途中からこちらで朝食を取っている光景にも、それほど違和感を覚えなくなっている。今日に至ってはいつ来たのかも聞いておらず、私が起きた時には既に部屋にいた。
おそらく、いつものように勝手に鍵を開けたのだろう。
何度か注意したものの、残念ながら効果が出ている様子はない。
「じゃあ」
コユキさんは口の中のパンを飲み込むと、何かを思いついたように顔を明るくした。
「今日は私が晩ご飯を作ります!」
「…………」
私は返事をせず、しばらくその顔を見た。
「その間は何ですか!?」
「いや、この人が料理してるところ一回も見たことないなと思いまして」
「失礼ですね!」
「できるって言うなら別に疑わないですけど」
「できますよ、そのくらい!」
そう言って胸を張る姿を見る限り、自信だけなら十分にあるらしい。
「何作るんです?」
「カレー!」
「ああ」
選択としては堅い。
材料を切って煮込み、ルーを入れるところまで大きく外さなければ、少なくとも食べられないものにはなりにくい。
「カレーなら失敗しないでしょう!」
ところが、その一言を聞いた瞬間だけ少し不安になった。
「そういうこと言う人ほど失敗するんですよね」
「しません!」
「まあ、いいですけど」
棚を確認すると、カレールーは残っている。冷蔵庫にはじゃがいも、人参、玉ねぎもあり、肉だけ少し足りない気がした。
「肉あります?」
「冷凍庫にありました!」
「そこまで確認してるんだ」
「完璧です!」
本当に作る気らしい。
時計を確認してから鞄を持つ。
「火を使ってる間はゲームしないでくださいね」
「分かってます!」
「包丁も気をつけて」
「子供じゃないですよ!」
「あと、水の量はルーの箱に書いてあるから」
「ハヤテ先輩」
「はい?」
「私を何だと思ってます?」
少し考えた。
「中身が幼等部」
「なんてこと言うんですか!」
「一般的な教育を受けた人間は、人の部屋の鍵を勝手に開けたりしないんですよ~?」
コユキさんは不満そうに頬を膨らませた。
とはいえ、本気で任せるのが怖いわけではない。包丁くらいは扱えるだろうし、カレーなら多少分量を間違えても大抵はどうにかなる。
仮に失敗しても、その時は何か買えばいい。
「じゃ、お願いします」
「とんでもなく美味しいの作りますからね!」
「楽しみにしてます」
何気なくそう答えると、コユキさんの表情が一瞬だけ明るくなった。
「はい!」
大げさなくらい元気な返事を背中で聞きながら、私は部屋を出た。
*
その日は結局、放課後になってからC&Cへ呼ばれた。
大した任務ではなく、ミレニアム外周の施設で起きた小さな揉め事の確認と、その後の警備を数時間担当しただけだった。拠点へ戻る頃には夕方を過ぎていたものの、疲れ果てるほどではない。
「そういえば」
帰り支度をしていると、アカネさんがこちらを見た。
「今日は随分お急ぎですね」
「そう見えます?」
「いつもより片付けが早いので」
言われてみれば、普段より動きが早い気がする。
「夕飯あるんですよ」
「おや」
「コユキさんが作るって」
アカネさんの手が一瞬止まった。
「……コユキさんが?」
「その反応やめてください」
「いえ、失礼しました」
口では謝っているものの、それほど失礼だったと思っていなさそうな顔だった。
少し離れたところで聞いていたカリンさんまで、こちらへ視線を向ける。
「料理できるのか?」
「本人はできると言ってました」
「……そうか」
「何です、その間」
「いや、何でもない」
「皆して何なんですか」
アスナ先輩だけは純粋に楽しそうだった。
「いいなー! 私も食べたい!」
「今日が初めてなんで、まず私が生き残れるか確認してからにしてください」
「ハヤテも十分疑っているじゃないか」
カリンさんに呆れられた。
もちろん冗談である。
それでも帰り道でスーパーの前を通った時には、万が一に備えて何か惣菜でも買っておくべきか少し迷った。
さすがに失礼だと思い直し、結局はコユキさんが普段よく飲んでいるジュースだけを買った。
それだけなのに、妙に気持ちが落ち着かない。
部屋へ帰れば夕食が用意されているというだけの話なのに、いつもより帰り道が短く感じた。
*
部屋の扉を開けると、最初に料理の匂いが届いた。
「…………」
カレーなのは間違いない。
ただし、その匂いの奥に少し焦げ臭さが混じっている。
「ただいま」
返事はない。
玄関にはコユキさんの靴が置かれているので、部屋にいること自体は間違いない。
「コユキさん?」
「……おかえりなさい」
リビングから、朝とは別人のように小さな声が聞こえた。
鞄を置いて中へ入ると、コユキさんはテーブルの前に座っていた。朝の自信満々な顔はどこにもなく、机の上には二人分の皿が用意されているものの、肝心のカレーはまだ盛られていない。
何となく事情を察しながらキッチンへ目を向ける。
作業台には野菜の切れ端が残り、コンロの周辺には吹きこぼれた跡がある。濡れた布巾は適当に置かれ、流しには一度洗おうとして諦めたらしい調理器具が積まれていた。
何より、鍋の底付近から漂う焦げ臭さがかなり分かりやすい。
「……なるほど」
「何も言わないでください」
「まだ何も言ってないですよ」
「顔が言ってます」
そんな顔をしていただろうか。
「ピザにしません?」
「作ったんでしょう?」
「お寿司でもいいです」
「いや」
「私払いますから!」
「一回見せてくださいよ」
コユキさんは露骨に嫌そうな顔をした。
朝の勢いとの落差がかなり大きい。
「失敗しました」
「そうみたいですね」
「そこは否定してくださいよ」
「見てないのに?」
「……そうですけど」
少し黙り込む。
どうやら本人なりにかなり気にしているらしい。
私としては、初めて作った料理を失敗したこと自体はどうでもよかった。最初から完璧にできる人の方が珍しいだろうし、食べられないなら別のものを用意すれば済む。
「食べられないくらい?」
「分かりません」
「味見は?」
「しました」
「どうでした?」
コユキさんは答えずに視線を逸らした。
「なるほど」
「だから何も言わないでください!」
「じゃあ出してください」
「えぇ……」
「せっかく作ったんでしょう」
しばらく迷った末、コユキさんは諦めたように立ち上がり、鍋からカレーを皿へよそった。
見た目だけなら、きちんとカレーではある。
ただし人参の大きさはかなりばらばらで、じゃがいもは大半が煮崩れて形を失っている。一方で、大きめに切られた人参には妙にしっかりと角が残っていた。
席へ戻る。
「いただきます」
「……どうぞ」
何故か作った本人は食べようとしない。
私はスプーンですくい、一口食べた。
焦げた味がかなり強く、全体的に味も濃い。じゃがいもはほとんど溶けているのに、口へ入った人参は固かった。
それでもスパイスのおかげで、どうにかカレーとして成立する範囲には収まっている。
「……美味しくはないですね」
「…………」
コユキさんの肩が目に見えて落ちた。
泣き出すほどではないものの、思っていたより素直に落ち込んだ顔をしている。
「やっぱり」
「うん」
私はもう一口食べた。
「何で食べるんです?」
「夕飯だから」
「美味しくないんですよね?」
「食べられないとは言ってないです」
「でも」
「焦げてるけど、普通にカレーではありますよ」
「フォローが下手ですよ……」
「嘘ついて美味しいって言った方がいい?」
「それは嫌です」
「じゃあこれで」
コユキさんも恐る恐る自分の皿へ手を伸ばした。
一口食べた直後、分かりやすく顔をしかめる。
「人参硬い……」
「ですね」
「じゃがいもない……」
「溶けたんでしょうね」
「何で……?」
「煮込みすぎた?」
「でも人参は硬いですよ?」
「切る大きさか、入れる順番じゃないです?」
私は皿の中から大きめの人参を一つ持ち上げた。
「これ、他の倍くらいありますし」
「……本当だ」
「あと、火にかけてる時ずっと見てました?」
「…………」
「コユキさん」
「ちょっとだけ」
「何を?」
「ゲームを」
「やっぱり」
「本当にちょっとです!」
「焦げるには十分だったんでしょうね」
コユキさんは、さらに身体を小さくした。
「怒らないんですか」
「何に?」
「失敗したから」
「別に」
「……楽しみにしてるって言ったじゃないですか」
「ああ」
朝のことを思い出す。
確かに、楽しみにしていると伝えた。
「楽しみにしてましたよ」
「なのにこれですよ」
「そうですね」
コユキさんは、また黙り込んだ。
そこでようやく、何をそんなに気にしているのか分かった気がした。
料理そのものを失敗したことよりも、私に食べさせるつもりだったものを上手く作れなかったことの方が気になっているのだろう。
少し意外だった。
春休みに初めて私の部屋へ来た頃なら、失敗した時点で「じゃあ買いましょう!」と切り替えて終わっていたように思う。
「まあ、初めてならこんなもんでしょう」
私は一度スプーンを置いた。
「……そうですか?」
「私、初めて料理した時のこと覚えてないですけど、多分もっと酷かったですよ」
「本当に?」
「多分」
「そこは嘘でも言い切ってくださいよ」
「覚えてないものは覚えてないので」
少しだけ、コユキさんの表情が戻った。
「分からないなら、覚えればいいんですよ」
「料理を?」
「そう」
「でも、また失敗したら」
「またやればいいでしょう」
「…………」
「次は一緒に作りましょう」
コユキさんが顔を上げた。
「ハヤテ先輩と?」
「私もそこまで上手いわけじゃないですけど、一人よりはマシでしょう」
「……次もカレー?」
「まずは今回のリベンジでいいんじゃないです?」
コユキさんは少し考えてから、ゆっくり頷いた。
「やります」
「はい」
「次は絶対美味しくします」
「その意気込みで」
「絶対です!」
*
結局、その日のカレーは二人で全部食べた。
食事の途中、帰りに買ってきたジュースを冷蔵庫から出して渡すと、コユキさんは少し驚いた顔をした。
「これ、私の?」
「帰りに買ったんで」
「……カレー失敗したのに?」
「買ったのは失敗する前ですよ」
「そういうことじゃないです」
「じゃあどういうこと?」
「もういいです」
そう言いながらも、何故か少し笑っていた。
食事を終えてから、二人でキッチンを見る。
料理そのものより、むしろこちらの方が大変そうだった。
皿や包丁、まな板、鍋が残り、コンロの周囲には吹きこぼれた跡がある。作業台にも片付けるものが残っており、一番面倒そうなのは焦げついた鍋だった。
「これ」
コユキさんがゆっくりこちらを見る。
「全部やるんです?」
「料理したら普通は」
「大変ですね……」
「作るだけなら楽しいんですけどね」
「片付けまであるなんて聞いてません」
「誰かがやってるんですよ」
普段はこちらで食事をした後、私が何となく片付けていた。
口に出さなくても伝わったのか、コユキさんは少し気まずそうに流しを見る。
「私がやります」
「一人で?」
「作ったの私ですから」
「焦げた鍋、かなり面倒ですよ」
コユキさんはしばらく鍋を見つめた。
「手伝ってください」
「はいはい」
二人で流しの前へ並ぶ。
最初は私が洗ってコユキさんが拭き、途中から役割を交代したものの、鍋底の焦げだけは簡単には落ちなかった。
「料理って、もっと簡単だと思ってました」
「カレーは簡単な方だと思いますよ」
「これで?」
「だから最初に火から離れるなって言ったでしょう」
「次は離れません」
「そうしてください」
しばらくスポンジを動かしていると、横から小さな声が聞こえた。
「毎日これやってたんですね」
「毎日ってほど立派な料理してないですけど」
「でも、ご飯作って、片付けて」
「まあ」
「……大変ですね」
「今頃気づいた?」
「今気づきました」
「そうですか」
それでいいと思う。
誰かに大変なのだから感謝しろと言われて覚えるより、一度自分でやってみて、思っていたより手間がかかると知った方が早い。
焦げを落とした鍋まで洗い終える頃には、コユキさんもすっかり普段の調子へ戻っていた。
「次は絶対成功しますからね」
「一緒に作るって話だったでしょう」
「途中から一人でできます!」
「まず最後まで説明聞いてください」
「大丈夫ですって!」
「今日の朝も聞いたなぁ、それ」
「今日は今日です!」
懲りたわけではないらしい。
それでも次にカレーを作る時は、少なくとも火にかけた鍋を置いたままゲームを始めることはないかもしれない。
今のところは、その程度で十分だと思う。
二人で最後の皿を棚へ戻し、ようやくキッチンの片付けが終わった。
今日のカレーが美味しかったとは言えない。
それでも次に二人で作れば、少なくとも今日よりは美味しくなるだろう。
一度失敗したなら、何が駄目だったのかを覚えて次に直せばいい。料理でも、それ以外でも、私はそうやって少しずつ覚えていく方が性に合っている。
横を見ると、コユキさんは綺麗になった鍋を満足そうに眺めていた。
「次は絶対ですよ、ハヤテ先輩」
「はいはい。じゃあ次は人参、同じ大きさに切るところからですね」
「そこから!?」
「今日そこから失敗してたでしょう」
「もっと格好いいところから始めましょうよ!」
「料理に格好良さ求めないでください」
まだ次のカレーすら作っていないのに、コユキさんはもう次の話をしている。
そのくらいなら、今回の失敗も悪くなかったのかもしれない。