コユキさんがまた逃げた。
その知らせを聞いても、それ自体にはあまり驚かなかった。春休みの間だけでも何度か似たようなことはあったし、セミナーへ入る以前から脱走と問題行動の常習犯だったらしいので、本人にほとんど悪びれる様子がないところまで含めて、もうそういう人なのだと思っている。
今回の問題は、逃げたことではなかった。
「……債券?」
「そう。セミナーの名義で、勝手に発行したの」
セミナーの一室でユウカさんから説明を受け、私は机の上に置かれた資料をもう一度確認した。
見返してみても、そこに書かれている数字は変わらない。
「結構な額ですね」
「結構どころじゃないわよ!」
「っすよねぇ」
反省室の鍵を勝手に開けて逃げたとか、遊びたいから外へ出たとか、その程度ならセミナー内部で怒られて終わる話だろうし、私もわざわざ口を出す気はない。
しかし、学校の名義で金を作り、それを自分の遊びに使ったとなれば、「コユキさんだから」で済ませられる範囲を明らかに越えている。
「それで、本人は?」
「ゴールデンフリース号。オデュッセイア海洋高等学校の船よ」
ユウカさんが示した資料には、海上に浮かぶ巨大な客船の写真が載っていた。
学校施設というより、高級クルーズ船と説明された方が納得できる外観をしている。内部では独自の予算が動いており、所属しているオデュッセイア側から見ても半ば自治状態になっているらしい。
「逃げ込むには都合良さそうですね」
「そういうこと。それで、コユキを連れ戻すためにC&Cを呼んだの」
周囲を見ると、ネル先輩、アスナ先輩、カリンさん、アカネさんまで揃っている。
さらに先生までいた。
「先生も?」
「あなた達だけで行かせたら何するか分からないから」
ユウカさんが即答した。
私は横にいるネル先輩を見る。
「何だよ」
「いや、妥当だなって」
「ぶっ飛ばすぞ」
「まだ何も言ってないでしょう」
ほとんど言ったようなものではある。
ユウカさんは深いため息をついた。
「他校の船なんだから、絶対に騒ぎを大きくしないで。ドローンや重装備を大量に持ち込むのもなし。コユキだけ確保して、静かに帰ってきて」
「めんどくせぇな」
「ネル先輩?」
「分かったって」
返事だけを聞けば了承しているものの、表情を見る限りまったく納得していない。
先生が同行する理由も分かった。
もっとも、一人増えた程度でネル先輩の行動を抑えられるのかは知らない。
「ハヤテ」
「はい?」
今度はユウカさんの視線がこちらへ向いた。
「あなたも今回はちゃんと捕まえてよ」
「捕まえますよ」
「ゲームセンターの時みたいに、一緒に遊んだりしないでしょうね?」
「あれとは話が違うでしょう」
以前脱走したコユキさんを見つけた時は、誰かの金に手を出していたわけでもなかったので、私もそれほど強く連れ戻そうとはしなかった。
私自身がコユキさんの行動へいちいち腹を立てないことと、何をしても許すことは別である。
「今回は普通にコユキさんが悪いですから」
「……そう言ってもらえると助かるわ」
「何だと思われてるんです?」
ユウカさんは答えなかった。
少し失礼だと思う。
*
ゴールデンフリース号は、外から見た時点で既にミレニアムとは随分雰囲気が違っていた。
金属とガラスで構成された校舎を見慣れているせいか、海の上に巨大な客船が浮かび、それが学校施設として使われているというだけでも妙な感じがする。
内部へ入れば床には絨毯が敷かれ、照明は暖色で統一されており、通路のあちこちに豪華な装飾まで施されていた。
「随分豪華ですね」
「遊ぶための船みたいなもんだろ」
ネル先輩は興味がなさそうだった。
私も観光へ来たわけではないので、それ以上眺めることなく先へ進む。
問題が起きたのは、潜入を始めて間もなくのことだった。
「止まりなさい」
船内の警備員らしい生徒がこちらを見て足を止めた。
その視線がネル先輩からアカネさん、カリンさん、アスナ先輩を順番に通り、最後に私へ向いたところで、警備員の眉が寄る。
「その服装は何?」
「……服装?」
言われて私達も自分の姿を確認した。
いつものC&Cのメイド服である。
少なくともミレニアムの中では、それほど珍しいものでもない。
そこで改めて相手の格好を確認すると、こちらとの違いがようやく分かった。
警備員はバニーガール姿だった。
私を含め、全員がしばらく何も言わずに相手を見る。
あまり良くない予感がした。
*
「何でだよ!!」
数分後、控室にはネル先輩の怒声が響いていた。
私達は全員、船内へ馴染むためにバニー衣装へ着替えている。
どうやらこの船では、バニー姿が従業員や警備担当者に近い標準的な服装らしく、メイド服を着た五人組で歩き回る方が逆に目立つという説明だった。
理屈は理解できる。
納得できるかどうかは別だった。
鏡の前に立ち、自分の姿を確認する。
頭には兎耳が付き、普段の服より身体の線がかなり出る上に、露出も明らかに増えている。
これをリオ会長が着ていたなら、私は喜んで今回の任務を受け入れたかもしれない。残念ながら鏡に映っているのは私なので、そういう意味での恩恵は何もなかった。
「……帰りたい」
思わず本音が漏れた。
「まだ入ったばかりですよ、ハヤテさん」
うおでっか。
アカネさんは平然としている。
衣装のせいで普段より体型が強調されているにもかかわらず、本人は特に気にしていないらしい。
「アカネさんは気にならないんです?」
「任務ですから」
「強いなぁ」
カリンさんは対照的で、先ほどから身体を隠すように腕を動かしている。
アスナ先輩だけは完全に新しい衣装を楽しんでいた。
「リーダー、かわいい!」
「うるせぇ!」
「似合ってるよ!」
「黙れ!」
ネル先輩はバニー服の上からスカジャンだけは羽織ったままだった。
おそらく、本人なりの最後の抵抗なのだろう。
私は先生を見る。
当然のように普段着だった。
「先生」
「何?」
「ちょっと腹立ちますね」
「私に言われても……」
本気で怒っているわけではない。
着てしまった以上、任務が終わるまで我慢するしかない。
「さっさとコユキ捕まえて帰るぞ」
ネル先輩がそう言うと、全員ほぼ同時に頷いた。
少なくとも今だけは、目的が完全に一致していた。
*
しばらくして、アスナ先輩が消えた。
船内へ出てから人数が一人足りなくなっていることにネル先輩が気づき、周囲へ怒鳴っていたものの、私としては驚くより先に「やっぱりか」と思った。
アスナ先輩は何か興味を引かれるものを見つけると、こちらが気づかないうちにそちらへ向かっていることがある。
その代わり、何故か最後には帰ってくる。
一年間一緒に活動したことで、その辺りについてはもう諦めに近い信頼ができていた。
「探すか?」
カリンさんが周囲を見る。
「探しても見つからないんじゃないです?」
「しかし」
「アスナ先輩なら大丈夫でしょう」
ネル先輩も舌打ちはしたものの、結局そのまま進むことになった。
残った四人と先生で、まず船内システムを押さえる。
コユキさんの位置さえ分かれば、広い船を闇雲に探し回る必要もなくなるというアカネさんの判断だった。
そこまでは良かった。
「アカネさん」
「はい?」
システムルームの扉の前で、アカネさんが鞄へ手を入れた。
取り出された物に見覚えがあったので、一応確認する。
「それ、何です?」
「C4です」
「静かにって言われませんでした?」
「最短ですので」
「いや、そういう――」
言い終わる前に爆発した。
轟音と共に扉が吹き飛び、その直後から船内へ警報音が鳴り響く。
煙の向こうでは、アカネさんが普段通りの穏やかな表情で立っていた。
「……まあ」
私は半分壊れた扉を見る。
「アカネさんだしなぁ」
「何か?」
「何でもないです」
止めるなら、爆薬が鞄から出てきた時点で止めるべきだった。
今さら後悔しても遅い。
案の定、警報を聞きつけた警備員達がこちらへ集まり始めた。
*
そこから先も、あまりスマートな潜入とは言えなかった。
こちらの正体を大々的に知られるわけにはいかないので戦闘は最小限に抑え、捕まえた警備員からコユキさんの居場所を聞き出そうとしたのだが、今度はカリンさんが「くすぐる」という妙な尋問方法を選んだ。
何故その結論に至ったのかは知らない。
結果だけを言えば、尋問された警備員は途中で意識を失った。
「……やりすぎた」
カリンさんが珍しく気まずそうな顔をしている。
「加減してくださいよ」
「私だって、こんなことになるとは思わなかったんだ!」
「まあ、一応喋ってましたけど」
気絶する直前、警備員は「プレイラウンジ」という言葉を残していた。
他に手がかりもないので、そこへ向かうことになる。
潜入を始めてから、それほど時間は経っていない。
それなのに既に扉を爆破し、警備員を一人気絶させ、アスナ先輩は行方不明になっている。
私は船へ来る前のユウカさんの顔を思い出した。
帰ったら怒られるのだろう。
私自身はまだ直接何か壊したわけではないのだけれど、同じC&Cというだけで連帯責任にされそうな気がした。
*
プレイラウンジは、船内でも特に騒がしい場所だった。
カードテーブルやルーレットだけでなく、ゲームセンターに置かれていそうな筐体まで並んでいる。
ここで遊んだ客は獲得したチケットによって等級が上がり、上位になればなるほど船内で受けられる待遇も良くなるらしい。
「いるでしょうね」
「だろうな」
ネル先輩も同じことを考えたようだった。
実際、少し探しただけで聞き慣れた声が聞こえてきた。
「今のは惜しいです! 次、次こそ絶対――あぁっ!?」
筐体の前で、コユキさんが普通に遊んでいた。
その周囲には大量のチケットが散らばり、画面には使った金額らしき数字まで表示されている。
私はそれを見た後、セミナーで見せられた債券の額を思い出した。
「……本当に使ってる」
多少は別の目的があるのではないかと思っていたが、どうやら本当に遊ぶためだけに使ったらしい。
ネル先輩のこめかみに青筋が浮かぶ。
私も呆れはしたものの、怒りより先に「この人らしいな」という諦めが来た。
春休みから一緒に過ごすことが増え、コユキさんについて多少分かってきたことがある。
頭が悪いわけではない。
むしろ鍵開けや暗号関係をはじめ、一部の能力は異常なほど高い。
問題は、その頭を使って自分の行動の一歩先を考える習慣が妙に薄いことだった。
面白そうだと思えば手を出し、やりたいと思えば実行する。後で怒られる可能性くらい本人も理解しているはずなのに、その瞬間の興味の方が簡単に勝ってしまう。
規模はここまで大きくなかったが、中学時代にも似たような奴は何人かいた。
「今捕まえます?」
「当然だ」
ネル先輩が踏み出そうとした瞬間、プレイラウンジの巨大モニターが切り替わった。
『Aランク達成!』
派手な音と共に画面いっぱいへ映し出された人物を見て、私は目を細めた。
「……アスナ先輩」
いつの間にか別行動していたアスナ先輩が、巨大モニターの中で笑顔のまま手を振っている。
「何遊んでんだあいつ!!」
ネル先輩の怒声がラウンジ中へ響いた。
当然、コユキさんにも聞こえた。
この場所で聞こえるはずのない声を耳にしたせいか、コユキさんは恐る恐る振り返る。
ネル先輩、カリンさん、アカネさん、先生と順番に視線を動かし、最後に私と目が合った。
「あっ、ハヤテ先輩!」
何故か少し安心したような顔をした。
そのままこちらへ近づいてくる。
「よかったぁ。C&Cが来たって聞いてどうしようかと思いましたけど、ハヤテ先輩もいるんですね!」
「いますよ」
「じゃあ――」
「帰りますよ、コユキさん」
そこで笑顔が止まった。
「……え?」
「ユウカさん待ってます」
「…………」
「債券、勝手に発行したでしょう」
「いや、それはですね」
「それは?」
「…………」
言い訳は思いつかなかったらしい。
「今回は普通に怒られてください」
「ハヤテ先輩まで!?」
そこだけは本気で心外だったようだ。
「前は一緒に遊んでくれたじゃないですか!」
「あの時はこんなことしてなかったでしょう」
「同じ脱走ですよ!」
「人の金に手を出したかどうかは結構違いますよ」
コユキさんの表情が露骨に曇った。
おそらく、私なら今回も何となく見逃すと思っていたのだろう。
それについては、少しだけこちらにも責任があるかもしれない。
前回は実際、一緒に遊んだし、私自身も脱走そのものをそれほど重大な問題だと考えていなかった。
だからこそ、今回はきちんと線を引いておいた方がいい。
「帰りましょう」
「……嫌です」
「そうですか」
「諦めるんです?」
「いや、捕まえますけど」
「そこは諦めてくださいよ!」
コユキさんが後ろへ下がった。
そのまま周囲を見回した時点で、何をするつもりなのか少し嫌な予感がした。
「警備員さーん!」
「あ」
行動を読めた時には遅かった。
周囲にいた警備員達が一斉にこちらへ向かってくる。
少し遅れてネル先輩の怒鳴り声が響き、その隙にコユキさんは走って逃げていった。
追おうとして、一度足を止める。
ここは他校の船であり、大規模な戦闘は禁止されている。
その上、目の前には事情を知らない警備員が大量にいる。
「……面倒だなぁ」
その後、私達は普通に捕まった。
*
牢屋の床は、思っていたより冷たかった。
ネル先輩は鉄格子の向こうを睨み、カリンさんは先ほどから脱出に使えそうなものがないか周囲を確認している。
アカネさんだけは妙に落ち着いていたので、放っておけばそのうち壁ごと爆破しそうだった。
先生は少し申し訳なさそうにしている。
「先生」
「はい」
「お目付け役でしたよね」
「……はい」
「まあ無理ですよね」
「諦められた」
「ネル先輩一人でも大変そうですし」
「聞こえてんぞ」
「聞かせてます」
私は壁へ背を預けた。
コユキさんは、この時点では自分が完全に勝ったと思っていたらしい。
しばらくすると牢屋の前までやってきて、随分機嫌の良さそうな顔でこちらを眺め始めた。
「にははっ! どうですかハヤテ先輩! これが私の作戦です!」
「警備員呼んだだけでしょう」
「勝てば作戦なんです!」
「その理屈、ネル先輩相手に言わない方がいいですよ」
既に鉄格子を握っているネル先輩へ視線を向ける。
コユキさんが半歩下がった。
その程度には危機感があるらしい。
「コユキさん」
「何です?」
「そこまでして、ここにいたいんです?」
「もちろん!」
「ふーん」
「もっと興味持ってくださいよ!」
「いや、少し気になったので」
この船で遊びたいから逃げたというだけなら、まだ分かる。
しかし、セミナーの名義で債券まで発行し、C&Cが追ってくることも分かっていながら逃げ続けている。
どう考えても割に合っていない。
「何かあるのかなって」
「…………」
一瞬だけ、コユキさんの表情が変わった。
「秘密です!」
すぐにいつもの調子へ戻る。
「そうですか」
「それだけ!?」
「言いたくないんでしょう」
今話す気がないなら、無理に聞く必要もない。
その時、廊下の向こうが急に騒がしくなった。
警備員達が左右へ並び、誰かを通しているように見える。
「リーダー!」
聞き慣れた明るい声に、ネル先輩が顔を上げた。
「アスナ!?」
現れたのはアスナ先輩だった。
その手には、先ほど獲得していたAランクよりさらに上の、Sランクを示すチケットが握られている。
「遊んでたら取れたよ!」
「…………」
牢屋の中が妙に静かになった。
コユキさんが大量の金を注ぎ込んでも届かなかったランクへ、アスナ先輩は何となく遊んでいるうちに到達したらしい。
世の中というのは理不尽である。
しかもSランクには船内でかなり強い権限が与えられているようで、私達はその場で釈放された。
そして当然、コユキさんは逃げた。
*
追跡は、それほど長く続かなかった。
船内の構造を完全に把握しているわけではないものの、こちらは五人いる上に、アスナ先輩のSランク権限のおかげで警備員から妨害されることもなくなった。
逃げる側のコユキさんに残されている進路は、次第に限られていく。
私は途中で一度本隊から離れ、彼女が通りそうな連絡通路へ先回りした。
窓の外には海が見えている。
「コユキさん」
「……ハヤテ先輩」
私の姿を見て足を止めた彼女は、今度は笑っていなかった。
「帰りますよ」
「嫌です」
「でしょうね」
銃を向けるほどの相手でもないので、私は通路の中央に立ったまま進路を塞ぐ。
「ハヤテ先輩は分かってくれると思ったのに」
「何を?」
「セミナー嫌なんですよ」
突然の言葉ではあったが、先ほど牢屋の前で見せた表情を思い返せば、それほど意外でもなかった。
「ずっと見張られて、何かやったら怒られて、鍵を開けたら怒られて、外に出たら連れ戻されて。せっかく何でも開けられるのに、何にも好きにできないじゃないですか」
「開けなくていいものまで開けるからでしょう」
「そういうところです!」
残念ながら、そこについては私も完全にセミナー側だった。
「だからここなら自由なんです。Sランクになれば誰にも何も言われませんし、好きなだけ遊べるし――」
「でも取れてないですよね」
「…………」
「ずっと追われてるし」
「それは皆さんが来るからです!」
「捕まるの嫌で逃げて、お金足りないから学校の名前で債券出して」
自分で言いながら少し考える。
「今のコユキさん、そんな自由そうには見えませんけど」
コユキさんが黙った。
別に自由とは何かについて語るつもりはないし、私自身、それをきちんと説明できるわけでもない。
ただ、嫌な場所から逃げ続けることと、自由に生きることは少し違う気がする。
「じゃあどうしろって言うんですか」
コユキさんの声が少し小さくなった。
「セミナーに戻れって?」
「今回やったことについては」
「ほら!」
「でも」
続きを待たずに騒ぎ始めそうだったので、そのまま言う。
「そんなにセミナーにずっといるの嫌なら、うち来ればいいじゃん」
「…………」
コユキさんから返事がなくなった。
呆気に取られたらしい。
「ハヤテ先輩の?」
「最近ほとんどうちにいるでしょう」
「それは遊びに行ってるだけで」
「同じじゃないです?」
「違いますよ!」
「そう?」
私にはそれほど大きな違いが分からない。
「やることやって、怒られる分怒られて。それでもセミナーにいたくないなら、終わった後うち来ればいいですよ」
「……いいんですか?」
「何が?」
「私がいて」
「今さら?」
春休みに入ってから、何度勝手に冷蔵庫を開けられ、何度朝起きた時から部屋にいたと思っているのか。
「ご飯くらいならありますし」
「…………」
「ただし」
私は指を一本立てた。
「悪いことして逃げ込む場所にはしないです」
「厳しい」
「普通です」
「ハヤテ先輩、最近ユウカ先輩みたいになってません?」
「それは嫌だなぁ」
少し考えた、その僅かな隙にコユキさんが横を抜けた。
「あ」
「にははっ! それと捕まるのは別です!」
「……本当に元気ですね」
少し呆れながら後を追う。
それでも、先ほどまでより走っていく背中が少し軽く見えた。
*
最終的に、コユキさんは船の屋上まで追い詰められた。
ネル先輩達も合流し、背後には海が広がり、前方にはC&Cが並んでいる。
普通なら、もう逃げ道はない。
「もう逃げられねぇぞ」
ネル先輩が前へ出る。
コユキさんは少しずつ後退しながら、それでも無理に得意そうな顔を作った。
「甘いですね! 私にはまだ最後の手段が残ってます!」
背中の装置から飛行用ドローンが展開される。
「ああ」
そういえば、それがあった。
コユキさんの身体が徐々に浮き上がる。
「それでは皆さん、さようなら――」
最後まで言い切ることはできなかった。
カリンさんが放った弾丸が飛行装置へ正確に命中し、コユキさんの顔から余裕が消えると同時に身体が大きく傾いた。
「え」
情けない声だけを残して、そのまま海へ落ちる。
私は屋上の端まで行き、水面を見下ろした。
少しすると、ピンク色の頭が海面へ浮かんできた。
どうやら無事らしい。
「回収しましょうか」
「そうだな」
ネル先輩がため息をつき、ようやく今回の任務は完了した。
*
コユキさんが連れ戻された後、セミナーは本格的な脱走対策に乗り出した。
用意されたのは、巨大なガラス製の反省室だった。
電子ロックを突破されるのであれば、そもそも本人が触れられる電子機器を置かなければいいという、非常に力技な解決方法である。
「ハヤテ先輩」
透明な壁越しに、コユキさんがこちらを見る。
「はい」
「助けてください」
「無理です」
「即答……」
「今回ばかりは反省してください」
普段ならもっと大げさに騒ぐところだが、今日は少しだけ大人しい。
一連の騒動でさすがに疲れたのかもしれない。
「……終わったら」
「うん?」
「行ってもいいんですよね」
一瞬何の話か分からなかったものの、すぐに船での会話を思い出した。
「うち?」
「はい」
「いいですよ」
「本当に?」
「言ったでしょう」
それだけ確認すると、コユキさんは少し笑った。
「にははっ」
「じゃ、ちゃんと反省してください」
「そこだけは嫌です」
「反省して」
すぐに性格まで変わることはないだろう。
急に別人になられても、それはそれで困る。
*
数日後、コユキさんは反省室から一時的に出ることを許された。
その間の監督役は私である。
ユウカさん曰く、「ハヤテの部屋にいる間は比較的余計なことをしないから」という理由らしいが、これを褒め言葉として受け取っていいのかは分からなかった。
昼過ぎ、私はキッチンへ材料を並べた。
「覚えてます?」
「何をです?」
「カレー」
「あ」
コユキさんの顔が少し引きつった。
前回作った、人参は硬く、じゃがいもはほとんど溶け、鍋底だけは見事に焦げたカレーのことである。
「次は一緒に作るって言ったでしょう」
「……覚えてたんですね」
「私から言いましたから」
「色々あったので流れたかと」
「カレーくらい流れませんよ」
二人で台所へ立つ。
前回の失敗がかなり効いているらしく、今日は一つ一つの作業が妙に慎重だった。
「人参、これくらいですか?」
「もう少し小さく」
「このくらい?」
「それなら」
「じゃがいもも?」
「そっちは少し大きくてもいいですよ」
包丁を動かす速度は遅く、切った形もまだ少し不揃いではあるものの、前回よりは明らかに良くなっている。
切り終えた材料を鍋へ移し、今度は火加減を見る。
「火、強すぎ」
「これくらいですか?」
「もうちょい弱く」
「難しいですね」
「慣れですよ」
コユキさんが木べらを動かしている横で、私は次の材料を準備する。
少ししてから、まだ切りかけの食材が残っていることに気づいた。
「コユキ、それ切るのまだ」
「はい……」
返事をした後、数秒経っても動く気配がない。
横から視線を感じたので、私は顔を上げた。
「何です?」
「今」
「はい?」
「コユキって」
「…………」
言われて初めて気づいた。
今までずっと「コユキさん」と呼んでいたはずなのに、何の意識もなく呼び捨てにしていた。
「さん、付いてませんでした」
「ですね」
「…………」
どうしてそうなったのか、自分でも少し考える。
最近は、コユキさんと接する時だけ他の人とは少し違う感覚がある。
春休みからほとんど毎日のように部屋へ入り浸られ、朝食を食べられ、冷蔵庫を開けられ、問題を起こせば連れ戻しに行く。その一方で、料理に失敗して落ち込んだり、セミナーが嫌だと珍しく弱音を吐いたりするところまで見るようになった。
本人の少し幼いところも含めて放っておきにくく、いつの間にか年下の妹に近い感覚で接していたのかもしれない。
「嫌でした?」
「いえ」
コユキは少し嬉しそうだった。
「むしろもう一回」
「調子乗るから嫌です」
「何でですか!」
その後、カレーは特に問題なく完成した。
鍋底が焦げることもなく、人参にはきちんと火が通り、じゃがいもも原形を保っている。
二人でテーブルへ料理を運んだ。
「いただきます!」
「いただきます」
一口食べただけで、前回との違いは十分に分かった。
「どうです?」
「美味しいですよ」
「本当に?」
「本当に」
コユキも自分の分を食べる。
しばらく味わってから、満足そうに頷いた。
「私、やっぱり才能ありますね」
「半分以上一緒にやったでしょう」
「でも私が切りました!」
「はいはい」
食事を終えた後も、今回はゲーム機へ一直線に向かうことはなかった。
コユキは流しに積まれた皿と鍋を見て、分かりやすく嫌そうな顔をした。
「……これもですよね」
「これもです」
「料理って面倒ですね」
「今さら?」
「美味しいところだけ食べたいです」
「それは皆そうでしょう」
私が自分の皿を持って立つと、コユキも少し遅れて自分の分を持ち上げた。
もちろん、急に立派になったわけではない。
少し前にはセミナーの名義で勝手に債券を発行し、船まで逃げて遊び回っていたくらいなので、放っておけばこれからも余計なことをするだろう。
それでも、前回失敗したカレーを今日は最後まで作り、怒られた後にもここへ戻ってきて、食べ終わった皿まで自分で流しへ運んでいる。
その程度の変化なら、以前より少し増えている。
今のところは、それで十分だと思う。
「ハヤテ先輩」
「ん?」
「今度は別の料理作りません?」
「もうカレー飽きた?」
「成功したので卒業です!」
「一回で?」
「一回できれば十分です!」
「その考え方、また失敗しそうだなぁ」
「大丈夫ですって!」
私は笑いながら流しへ皿を置いた。
少なくとも前回とは違い、その言葉を聞いても鍋を焦がす未来しか想像できないというほどではなくなっていた。