コユキが私の部屋にいることは、いつの間にか特別なことではなくなっていた。
春休みの頃は、セミナーから逃げ出した問題児が遊びに来ている、くらいの認識だったと思う。玄関を開ければ勝手にゲームをしていて、腹が減れば私の冷蔵庫を覗き、眠くなればベッドを占領する。最初のうちは一応「自分の部屋に帰らなくていいんです?」と聞いていたが、毎回それらしい理由をつけて居座るので、そのうち聞かなくなった。
別に困ってはいない。
一人暮らしの部屋にもう一人増えたところで、急に生活が破綻するわけではなかった。少し騒がしくなったり、冷蔵庫の中身が予定より早く減ったり、買った覚えのない菓子が棚に増えたりする程度である。
むしろ最近では、静かな部屋へ帰る方に違和感を覚える時すらあった。
「ただいま」
その日も玄関を開けると、奥からゲームの効果音が聞こえてきた。
「おかえりなさーい!」
ソファからコユキの声が返ってくる。
「今日は早かったですね」
「C&Cの仕事がなかったんで」
靴を脱いで部屋へ上がると、コユキはゲーム機を手にしたまま、こちらへ少しだけ身体を向けた。
「お腹空きました」
「第一声がそれ?」
「さっきはおかえりなさいって言いましたよ」
「そうだけどさ」
鞄を置き、冷蔵庫を開ける。
中にあるもので簡単に作れそうなものを考えていると、視界の端でコユキがこちらを見ていた。
「何?」
「今日は私もやります」
「最近手伝ってくれて助かるよ」
「はい。前より上手くなりましたからね」
バニー騒動の後に一緒に作ったカレー以来、コユキは時々キッチンへ立つようになった。
ただし、料理が趣味になったというほどではない。
自分が食べたい時に卵を焼いてみたり、私が作っている横で野菜を切ったり、その程度である。油断すると切る大きさはすぐばらばらになるし、少し暇になるとゲーム機へ視線が流れる。
それでも、一度目のカレーよりは随分ましだった。
「じゃあ玉ねぎ切って」
「任せてください!」
「手も切らないでね~」
「そこまで信用ないです?」
「この前切ってたじゃん」
不満そうな顔はしたものの、コユキは素直に手を洗って包丁を取った。
私は隣で肉を切りながら、時々横を見る。
危なっかしい。
でも、以前みたいに見ていられないほどではない。
「……ハヤテ先輩」
「何?」
「見られると切りにくいんですけど」
「見てないともっと怖いの」
「私、電子ロックなら目を瞑ってても開けられますよ?」
「玉ねぎと電子ロックに何の関係が?」
「器用さの証明です」
「分野が断絶されてるよ」
結局、玉ねぎの大きさはそこそこばらついた。
それでも、火を通せば困らない程度には揃っている。
前より少しだけ良くなっている。
たぶん、こういうものなのだろう。
*
コユキが料理を手伝うようになったからといって、急に生活力まで身についたわけではなかった。
「コユキ」
「はい?」
「これ何?」
ある日、机の上に置かれていたレシートを持ち上げる。
「お買い物の記録です!」
「それは見れば分かるけど」
菓子。
ジュース。
アイス。
ゲームのプリペイドカード。
そこまではまあ、コユキらしい。
「私、牛乳お願いしたよね?」
「…………」
「あと卵」
「…………」
ゲーム機を持ったまま、コユキの視線がゆっくり逸れていく。
「忘れた?」
「途中までは覚えてました」
「店に入った時は?」
「覚えてました」
「じゃあ何で」
「新しいお菓子があって……」
「ああ」
それなら仕方ない。
とは思わないが、理由は理解した。
「……行ってくる」
「今からですか?」
「牛乳ないと明日の朝困るもん」
「……私も行きます」
「別にいいのに」
「私が忘れたのが原因ですから」
結局、二人で買いに行った。
私としては、これくらいの失敗なら別にどうということもない。
忘れたなら買い直せばいい。次に覚えていればそれで済む。
ただ、同じことを三回やったらさすがに少し怒ると思う。
*
数日後。
学校から帰って冷蔵庫を開けると、牛乳が入っていた。
「……あれ」
昨日の時点では、ほとんど残っていなかったはずだ。
「買った?」
ソファの上で寝転がっていたコユキが顔を上げた。
「はい」
「頼んでないけど」
「昨日少なかったので」
本人は何でもないことのように答えた。
棚を見ると、卵もある。
その横には当然のように、自分用のプリンが二つ並んでいた。
「自分の買い物のついで?」
「そうです!」
「なるほど」
「でもちゃんと忘れませんでしたよ!」
「偉いね~」
「もっと気持ち込めてください」
適当に頭を撫でようとしたら、手を払われた。
「子供扱いしないでください」
「自分から褒めろって言ったでしょう」
「それとこれとは別です」
以前なら冷蔵庫の中身を確認するのは、自分が何を食べられるか探す時くらいだった気がする。
「ありがと」
「にははっ」
今度は普通に嬉しそうだった。
*
生活というのは、別に大きな出来事ばかりでできているわけではない。
コユキがうちに来る。
私が飯を作る。
気が向けば手伝う。
ゲームをする。
気づけば遅い時間になっていて、そのまま寝ていくこともある。
翌朝、私が学校へ行こうとすると、何故か当然のように一緒に玄関を出る。
そんな日が続いた。
もちろん、いつも平和というわけでもない。
「コユキ」
「何です?」
「私のベッドの上、何でこんなことになってるの?」
教科書。
ゲーム機。
菓子の袋。
クッション。
そして本人が寝転がっている。
「快適にした結果です」
「私が寝られないんですけど」
「端っこ空いてますよ」
「自分の部屋帰ってよ」
「今日は嫌です」
「何で」
「先輩がいいって言ったんじゃないですか」
そこを突かれると私も弱い。
私はしばらく考えた末、ベッドの上に散らばったものを端へ寄せた。
追い出すほどでもない。
ただし菓子の袋だけは捨てさせた。
別の日には、使った皿を流しへ持って行っただけで洗わず放置していたので注意した。
料理をした日は比較的片付けるようになったが、自分が食べただけの日は油断すると忘れる。
そういうところはまだ変わらない。
変わらなくてもいいとまでは言わないが、一月や二月で人間が別人になるとも思っていなかった。
*
その日のC&Cの仕事は、予定より長引いた。
大した内容ではなかったものの、現場確認と報告に時間を取られ、学校を出る頃にはすっかり日が暮れていた。
途中でコユキから、
『今日遅いです?』
と連絡が来たので、
『少し』
とだけ返しておいた。
『じゃあ先に行ってます!』
どこへ、とは聞かなかった。
私の部屋だろう。
問題は。
「……また勝手に開けるのか」
今さらだった。
物理鍵ではなく電子ロックに変えたところで、あの子には意味がない。
むしろ鍵を強くすればするほど、面白がって突破する可能性すらある。
私は帰り道を歩きながら、そのことを少し考えた。
最初の頃は、勝手に部屋へ入られることにそれなりの抵抗があった。
当然だ。
自分のいない部屋へ、他人が何の断りもなく入る。
普通なら嫌だろう。
ただ最近は、コユキがいること自体はもう気にならない。
気になるのは、方法だった。
勝手に鍵を開けて入る。
これは駄目。
でも、入ることそのものは別に嫌ではない。
「……じゃあ」
答えは単純だった。
*
「ただいま」
「おかえりなさーい!」
やっぱりいた。
予想通りすぎて、何の感想もない。
リビングへ入ると、コユキは床に座ってゲームをしていた。机の上には買ってきたらしい菓子があり、その横に私の分と思われる缶コーヒーまで置かれている。
「これ」
「帰りに買いました」
「私の?」
「いつも飲んでるでしょう?」
「へぇ」
「何です、その反応」
「いや」
最近、本当に少しずつ周りを見るようになっている。
とはいえ本人に言うと調子に乗りそうなので、缶を手に取るだけにした。
「ありがとう」
「どういたしまして!」
鞄を置き、制服のポケットへ手を入れる。
帰り道の途中で作ってきたもの。
「コユキ」
「はい?」
「これ」
軽く投げる。
反射的に受け取ったコユキが、手のひらを開いた。
「……鍵?」
「うちの」
「…………」
珍しく。
すぐに返事が来なかった。
小さな鍵を持ったまま、何度か表裏を確認している。
「何?」
「いや」
まだ鍵を見る。
「私、これなくても入れますよ?」
「知ってる知ってる」
「ハヤテ先輩のロックくらいなら簡単に」
「それも知ってる」
「じゃあ何で?」
純粋に分からないらしい。
私は買ってもらったコーヒーを開けながら答えた。
「開けられるのと、入っていいのは別でしょ」
「…………」
「来ていいって言ったんだし、早めに渡しておけば良かったな」
コユキがもう一度、鍵を見る。
何でも開けられる。
たぶん、この子にとって鍵そのものには大して価値がない。
私の部屋の鍵だろうが、セミナーのロックだろうが、閉まっているという事実は障害にならない。
だからこそ。
「それ渡したんで、私がいない時でも普通に入っていいよ」
「……勝手に?」
「勝手にというか、許可出してるの」
「いつでも?」
「常識的な時間なら」
「学校終わった後も?」
「いいよ」
「ハヤテ先輩が任務中でも?」
「だからいいって」
何度も確認される。
少し妙だった。
電子ロックを勝手に解除する時は迷いもしないくせに、正式に渡された鍵を使うことには随分慎重になる。
「そんな珍しいものでもないでしょう」
「珍しいですよ」
「合鍵ですよ?」
「私、合鍵もらったことないです」
「……」
言われてみればそうなのかもしれない。今まで鍵なんて必要なかったのだろう。開けたければ、自分で開けられる。誰かに渡される理由がない。
「じゃあ初めてだね」
「……はい」
コユキが少しだけ笑った。
いつもの大げさな笑い方ではない。
鍵を握ったまま、どこか落ち着かないような顔をしている。
「なくさないでくださいよ」
「絶対なくしません!」
「それはそれで怖いな」
「何でですか!」
「なくしたら交換するから」
「大丈夫ですって!」
いつもの調子に戻った。
それで良かった。
*
合鍵を渡したからといって、次の日から何か劇的に変わったわけではない。
コユキは相変わらず部屋へ来る。
ゲームをする、菓子を食べる、食べた袋を置きっぱなしにして注意される。
時々夕飯を手伝い、時々何もしない。
ただ。
「お邪魔しまーす」
とロックを解除して勝手に入ってくる代わりに、
「ただいまです!」
と言いながら鍵を使って入ってくるようになった。
少しずつ。
本当に少しずつ。
私の部屋の中に、コユキのものが増えている。
ゲームの充電器、自分用のコップ、冷蔵庫のプリン、時々忘れていく上着。
それらを見ても、もう「持って帰って」とは思わなくなっていた。
*
ある休日。
私は机でC&Cの報告書をまとめていた。
コユキは少し離れた場所でゲームをしている。
珍しく静かだった。
しばらくすると、ゲームの音が止まる。
「ハヤテ先輩」
「ん?」
「今日、晩ご飯どうします?」
「まだ昼だよ」
「先に考えとこうかなって」
手を止める。
「何か食べたいのある?」
「オムライス」
「作ったことあります?」
「ないです」
「じゃあ一緒にやろうか」
「はい!」
返事をしてから、コユキはまたゲームへ戻った。
以前なら腹が減ってから「何食べます?」と聞いていた。
今日は昼のうちから夕飯の話をした。
それだけ。
たぶん本人も、何か成長したつもりでやっているわけではない。
ただ、後のことを少し考えただけだろう。
私は再び報告書へ視線を落とした。
それで十分だった。
何でも急にできるようになる必要はないし、私もそんなことは期待していない。
コユキはコユキのままでいい。
失敗したり、忘れたり、余計なことをしたりしながら、その中で少しだけ周りを見るようになればいい。
夕方になれば、一緒にオムライスを作る。
たぶん卵は破れるだろうし、ケチャップで変な文字も書くだろう。
それでも食べられるものができれば上出来だ。
私は報告書の続きを書きながら、玄関近くに掛けてある自分の鍵へ目をやった。
同じものを、今はもう一人が持っている。
開けられるからではなく、入っていいから持っている鍵。
その違いをコユキがどこまで分かっているのかは知らない。
ただ、あの子が妙に大事そうにポケットへしまったのを見た限り、少なくとも全く分かっていないわけではなさそうだった。