任務を終えた日は、C&Cの拠点へ戻る前にセミナールームへ寄ることが多い。
報告書を送るだけで済む任務もあるのだけれど、回収物があったり、現場で気になったことがあったりすると、私は直接リオ会長のところまで行って報告するようにしていた。
今日もその一つで、任務自体は既に終わっているものの、回収した端末について補足する必要があった。
「以上です。現地で回収した端末については、アカネさんから技術部門へ回してあります」
「分かったわ。報告書も確認しておく」
「はい。では、私はこれで」
「ご苦労様、ハヤテ」
「はい!」
返事をしてから、私はリオ会長へ一礼した。
今日も声がいいし、顔もいい。
最近になってようやく分かってきたのだけれど、リオ会長の顔を見る時間は一度につき二秒前後がちょうどいい。三秒を超えるとこちらの表情が怪しくなる可能性が高いので、それ以上は視線を留めない方が安全だった。
何がどう安全なのかは、自分でもあまり考えたくない。
ともかく任務報告は無事に終わった。あとはC&Cの拠点へ戻って装備を片付け、シャワーを浴びれば今日の仕事は終了である。
「ねえ、ちょっといい?」
扉へ向かっていたところで声を掛けられ、私は足を止めた。
振り返ると、少し離れた机に座っていた少女がこちらを見ている。
早瀬ユウカさん。
私と同じ一年生で、同じ授業を受けたことも何度かあるので、顔と名前くらいは知っている。入学して間もなくセミナーへ入ったという話も聞いていた。
「私です?」
「そう。大小路さん」
「はいはい。何でしょう」
「今、時間ある?」
今日これからやることを頭の中で確認する。
装備を戻して、シャワーを浴びて、その後は夕食を食べるくらいしか予定がない。
「ありますよ」
「じゃあ、少し話さない?」
「私と?」
「うん」
何の話だろう。
少なくとも高校へ入ってからは、呼び出されるようなことをした覚えはない。中学時代なら心当たりが多すぎて、逆にどれの話か分からなくなることもあったけれど、今の私はかなり真面目に生きているはずだった。
「ユウカちゃん、そんなに身構えさせたらかわいそうですよ」
もう一人、近くの席にいた少女が小さく笑った。
生塩ノアさん。
こちらも私と同じ一年生で、ユウカさんと一緒にセミナーへ所属している。
「別に身構えさせてないわよ」
「いえいえ、お気になさらず。少しだけ昔の癖が出ただけなので」
「昔?」
「何でもありません」
危ない。
せっかく普通の高校生活を送っているのだから、自分から中学時代の話を掘り返す必要はない。
「ちょうど休憩にしようと思っていたところなんです。よろしければ、ご一緒しませんか?」
「それなら是非」
三人でセミナールームの隅にある休憩用スペースへ移動し、ノアさんが用意してくれたお茶を前に机を囲む。
同級生と放課後にお茶を飲む。
かなり普通の高校生活っぽい。
内心では少し感動していたものの、わざわざ口に出すほどのことでもないので、私は何事もなかったようにカップを手に取った。
「それで、私に何か?」
「そんな大した話じゃないんだけど」
ユウカさんはお茶を飲みながら、不思議そうな顔でこちらを見る。
「大小路さん、よくここに来るでしょう?」
「来ますね」
「前から気になってたのよ。授業では見るけどセミナーの人間じゃないし、それなのにいつも会長のところへ直接入っていくから」
「ああ、なるほど」
「何してるの?」
「任務の報告ですよ」
「任務?」
「はい」
ユウカさんの眉が寄る。
「何の?」
「C&Cです」
「……C&C?」
今度は私が首を傾げる番だった。
「はい」
「何、それ」
「…………」
私はノアさんを見る。
ノアさんも、普段と変わらない穏やかな笑顔を浮かべたまま首を傾げていた。
「私も初耳ですね」
「…………」
もう一度ユウカさんを見る。
「ご存じない?」
「知らないわよ」
「セミナーですよね?」
「セミナーよ!」
「リオ会長の下で働いてますよね?」
「そうだけど!」
「…………」
私は身体を少しずらし、セミナールーム奥の執務机へ目を向けた。
リオ会長は、いつも通り端末を見ながら仕事を続けている。
こちらの会話が聞こえているかどうかは分からないが、仮に全部聞こえていたとしても、あの人なら自分から話へ入ってくることはなさそうだった。
「リオ会長……」
思わず小さく呟く。
C&Cが秘密組織であることは知っている。
表向きはメイド部として活動し、表沙汰にしにくい調査や危険な任務を担当している以上、所属や任務内容を広く言いふらす必要がないのも分かる。
それでも、セミナーの役員であるユウカさんとノアさんにまで何も知らせていないとは思わなかった。
「どんな組織なの?」
「ええと……」
どこまで話していいものか、少し迷う。
とはいえ、既に自分が所属していることは口にしてしまったし、ユウカさんとノアさんは完全な部外者でもない。
「リオ会長直属の特殊部隊みたいなものですよ。普段はメイド部ということになってますけど」
「特殊部隊?」
「はい」
「メイド部?」
「はい」
「何で?」
「それ、私も最初に聞きたかったですね」
今でも完全には分かっていない。
「メンバーは?」
「ネル先輩、アスナ先輩、アカネさん、カリンさんと私です」
「角楯さんも!?」
「はい」
カリンさんは元々セミナーの保安関係にいたらしいので、ユウカさんも知っているようだった。
そのカリンさんが突然セミナーから姿を消したと思ったら、知らないうちにリオ会長直属の秘密組織へ移っていたのだから、驚くのも当然だと思う。
「そんなの聞いてないんだけど……」
ユウカさんが頭を抱える一方で、ノアさんはどこか楽しそうだった。
「会長らしいと言えば、会長らしいですね」
「ノア!」
「ふふ、冗談ですよ」
どうにも冗談には聞こえない。
「リオ会長って、いつもこうなんです?」
「こうって?」
「自分で全部決めて、自分で進めて、後から必要な人にだけ話すというか」
ユウカさんとノアさんが、一瞬だけ顔を見合わせた。
答えたのはノアさんだった。
「そういうところはありますね。会長は優秀ですから、一人で出来てしまうことも多いのでしょう。ただ、その分、人に説明するより先に進めてしまうこともあります」
「なるほど」
納得できる。
良いか悪いかは別として、かなりリオ会長らしい。
「でも、C&Cまで隠してたなんて……」
ユウカさんはまだ納得できないらしく、小声でぶつぶつ言っている。
「まあまあ。秘密組織ですから」
「だからってセミナーに秘密にする?」
「うーん……」
言われてみれば、私ももう少し慎重に扱うべきだったのかもしれない。
C&Cの存在そのものが秘匿対象なら、今こうして話していること自体がまずい可能性もある。
そこで、五人全員がメイド服を着て固まって歩いている光景を思い浮かべた。
「……まあ、いいんじゃないです?」
「急に適当ね」
「あの面子が完全な秘密組織として大人しくできるとは思えないので」
「それ言っていいの?」
「本人達には言いません」
特にネル先輩には聞かせない方がいい。
アスナ先輩なら笑って終わりそうだし、アカネさんなら穏やかに受け流すと思う。
カリンさんだけは真面目に反省しそうなので、それはそれで困る。
「でも、大小路さんも大変なのね」
「私です?」
「危ない任務もあるんでしょう?」
「まあ、多少は」
廃墟を三日間歩いたり、違法弾薬工場へ潜入したり、セミナーの金を動かしていたハッキング犯を追いかけたりしている。
改めて考えると「多少」で済ませていいのか少し怪しいが、少なくとも今まで生きて帰ってきているので、多少ということにしておきたい。
「それより、ユウカさん達の方がすごいですよ」
「私達?」
「一年生でセミナーでしょう? 普通にすごいなって思ってました」
入学してまだそれほど経っていない時期から生徒会へ入り、学園全体に関係する仕事を任されているのだから、私にはできそうにない。
「いやいや、私なんてネル先輩達についていってるだけですし」
「その言い方、さっきも聞いた気がしますね」
ノアさんが笑う。
「癖なんです」
「そうですか」
「でも、本当に二人はすごいですよ。会計とか記録とか、私なら数字の羅列を見ただけで目が滑ります」
「……そうね」
褒めたつもりだったのに、ユウカさんの表情が少し曇った。
「確かに、一年生でセミナーって聞くとそう見えるかもしれないけど」
「違うんです?」
「別に私達が優秀じゃないって話じゃないわよ?」
「分かってますよ」
そこは疑っていない。
「単純に、人が足りないの」
「人?」
「三年生は卒業に向けた研究や発表で忙しい人が多いし、会長と同じ学年の人達も……その……」
ユウカさんが言葉を選んでいると、ノアさんが穏やかな口調で続きを引き取った。
「会長は、あまり交友関係を広く持つ方ではありませんから」
「ああ」
何となくどころか、かなり分かる。
「だから、仕事を任せられる人が少なくて。入学してしばらくしたら、私とノアに声がかかったのよ」
「へぇ……」
「もちろん、選んでもらえたこと自体は嬉しいけど」
ユウカさんが作業机の方を見る。
私もつられて視線を向けると、机の上には書類が積み上がり、その隣にもさらに別の束が置かれている。少し離れた場所にも処理待ちの資料があり、端末には未処理らしい項目が大量に並んでいた。
「これ全部?」
「全部」
「今日中?」
「出来るところまで」
「……大変そうですね」
「大変なのよ!」
思った以上に切実だった。
「ユウカちゃん、声が大きいですよ」
「ノアも他人事みたいに言わないで! あなたの分もあるでしょう!」
「もちろん分かっていますよ」
ノアさんは笑っているものの、よく見ると目元には少し疲れが出ている。
ユウカさんに至っては、隠す気もないくらい分かりやすかった。
まだ一年生なのに、随分大変そうだ。
私は明日の予定を思い出した。
C&Cから特別な招集は入っていなかったはずなので、任務がなければ訓練をするくらいしか予定はない。
それなら、少しくらい手伝っても問題ないだろう。
しかも、ここで二人を手伝えば、セミナーの仕事が早く終わる。
ユウカさんとノアさんが助かり、結果的にはリオ会長も助かる。
ついでに私の評価まで上がるかもしれない。
かなり良い話に思えてきた。
「ユウカさん」
「何?」
「明日って、何時からここにいます?」
「え? 朝からだけど」
「なるほど」
私は頷いた。
「じゃあ、少しお手伝いしますよ」
「え?」
「お二人とも疲れてるみたいですし」
「でも、大小路さんだってC&Cの仕事があるんでしょう?」
「明日は何もないです。それに、私ができる範囲なら」
会計そのものを任されても何もできないけれど、資料を運んだり、机を片付けたりするくらいなら役には立つだろう。
ノアさんが少し目を細めた。
「ありがとうございます、ハヤテさん」
名字ではなく、初めて名前で呼ばれた。
それだけのことなのに、何故か少し嬉しい。
「いえいえ。大したことはしませんよ」
私は誤魔化すようにお茶を飲んだ。
放課後に同級生と話して、困っている相手がいたから翌日手伝う約束をする。
自分が想像していた高校生活というのは、案外こういうものだったのかもしれない。
少なくとも今のところ、かなり順調だと思う。
◇
翌朝、セミナールームの扉が開いた。
「おはようございま――」
入ってきたユウカさんの声が途中で止まる。
その後ろからノアさんも顔を出した。
「おはようございます」
「おはようございやす」
二人の視線が揃って私へ向いたので、私は軽く頭を下げた。
「本日はあっしが、お二人のお世話をさせていただきやす」
「何その格好」
ユウカさんの第一声だった。
「メイドです」
「それは見れば分かるわよ!」
私が着ているのは、C&Cで支給されているメイド服だった。
最初に渡された時は、特殊部隊なのに何故こんな制服なのかと思ったものの、最近では事情が少し変わってきている。
C&Cは表向き、清掃や給仕を行うメイド部として存在している。当初は本当に隠れ蓑として名前だけ置いているようなものだったが、アカネさんが加入してから様子が変わった。
『せっかくメイドとして活動するのでしたら、基本的な技能くらいは身につけておいた方がよろしいのではないでしょうか』
アカネさんが真面目にそう提案し、元々こういう仕事に興味があったらしいカリンさんまで強く同意した結果、いつの間にか清掃や給仕、簡単な調理、接客、お茶の入れ方まで本格的に練習することになった。
ネル先輩だけは最後まで、
『何で特殊部隊がこんなことやってんだよ!』
と文句を言っていたが、リオ会長が許可した以上、私としてはやれと言われたことをやるだけだった。
実際にやってみると、案外面白い。
「今日は手伝うって言いましたし、せっかくなので正式なC&Cの活動ということで」
「正式なの、それ?」
「表向きは」
「表向き……」
ユウカさんが頭を押さえる。
「よくお似合いですよ、ハヤテさん」
「ありがとうございます」
「いや、格好は似合ってるけど!」
ユウカさんが私を指差した。
「その喋り方よ!」
「へへ……?」
「何でメイド服で三下みたいな喋り方してるのよ!」
「自然体です」
「嘘でしょ」
ネル先輩とまったく同じことを言われた。
どうして誰も信じてくれないのだろう。
「まあまあ、ユウカちゃん。せっかくハヤテさんが来てくださったんですから」
「そうだけど……」
「では、まずお茶をお持ちしますね」
「普通に喋れるじゃない!」
朝から騒がしかったが、ともかく仕事を始めることになった。
最初は本当にお茶を出し、机を片付ける程度のつもりだった。
ところが、二人の仕事ぶりを横で見ていると、私でも手伝えることはいくらでも見つかった。
空になったカップを回収し、必要な資料を棚から持ってくる。処理済みの書類は種類ごとに分けておき、長時間同じ姿勢で仕事をしているようなら軽食を用意する。机の上が散らかってきた時には、今使っている資料へ触れないようにしながら空いた場所を作った。
「ユウカさん」
「何?」
「一回休みません?」
「まだ大丈夫よ」
「でも、さっきから同じ資料三回読んでますよ」
「え?」
ユウカさんが手元の資料へ目を落とす。
「ここです。さっきからずっと」
「……見てたの?」
「一応」
「いつから?」
「二十分くらい前から」
「早く言ってよ!」
「本人が大丈夫って言うので」
「今言ったでしょ!」
「では休みましょう」
「うぅ……」
ユウカさんは渋々立ち上がった。
続いてノアさんを見る。
「ノアさんも」
「私はまだ大丈夫ですよ」
「二分くらいペン止まってますけど」
ノアさんが手元へ視線を落とすと、確かにペン先は紙の上で止まったままだった。
「よく見ていますね」
「そうでしょうか」
「そうですよ」
そう言われても、自分では特別なことをしているつもりはない。
任務中なら、周囲を見るのは当たり前だった。
敵がどこにいて、味方が何をしていて、どこに手が足りていないのかを確認しながら動く。その対象が人と書類に変わっただけで、やっていること自体はそれほど違わない。
「コーヒーにします?」
「お願いします」
「砂糖は?」
「今日は少し多めで」
「お疲れですねぇ」
「ふふ、そうかもしれません」
午前が終わる頃には、二人の机の上も朝より随分すっきりしていた。
午後になると、私の方も二人が何を必要としているのか分かるようになってきた。
書類の中身そのものを処理することはできないけれど、それ以外なら先回りできる。
必要になりそうな資料を棚から出しておき、長時間使っている端末があれば充電用のケーブルを用意する。二人が昼食を忘れそうになれば声を掛け、飲み物がなくなれば補充する。
気づけば、手伝いに来た私自身もかなり忙しくなっていた。
「ハヤテさん」
「はい?」
「これ、お願いできますか?」
「はいはい」
ノアさんから書類の束を受け取る。
「この棚の三段目です」
「了解です」
書類を置いて戻ろうとすると、今度はユウカさんから呼ばれた。
「大小路さん、悪いけどお茶もう一杯!」
「はーい」
お茶を用意して戻る途中で、またノアさんから声が掛かる。
「ハヤテさん、こちらもお願いします」
「はいよ」
頼まれた仕事を順番に片付けながら、私は少しだけ疑問に思った。
自分から手伝うと言ったのは間違いない。
ただ、思っていた以上に普通に使われている気がする。
まあいい。
二人の顔色は朝より良くなっているし、仕事自体もかなり進んでいるので、少なくとも来た意味はあった。
◇
窓の外が赤く染まり始めた頃には、その日の仕事もほとんど片付いていた。
「終わった……」
ユウカさんが机へ突っ伏す。
「お疲れ様です」
「本当に助かったわ、大小路さん」
「そんな大したことしてませんよ」
「してたわよ。いつもならこの倍は疲れてるから」
「そうなんです?」
「そうなの」
ノアさんも、最後の書類をまとめながらこちらを見る。
「私も随分助かりました。ありがとうございます、ハヤテさん」
「いえいえ」
素直に感謝されるのは悪くない。
私は何気ないふりをしながら、少し離れたリオ会長の席へ視線を向けた。
今日一日の間に、何度かこちらを見ていた気がする。
二人を手伝ったことでセミナーの仕事も早く進んだのだから、少しくらい働きぶりを評価してもらえているのではないだろうか。
これで好感度も上がったかもしれない。
そこまで考えてから、自分で少し恥ずかしくなった。
何の好感度だ。
「これなら今日は余裕を持って試験勉強できそう」
ユウカさんが伸びをしながら言った。
「そうですね。私も予定していた範囲まで進められそうです」
ノアさんも頷く。
私は二人を見た。
「試験?」
「そう。来週の」
「……来週?」
その言葉を聞いて、頭の片隅に何かが引っかかった。
そういえば、授業で試験範囲や提出物について何か説明されていたような気がする。
最近の自分が何をしていたのか思い返す。
C&Cの訓練へ参加し、廃墟を調査し、違法弾薬工場へ潜入して、その後はハッキング犯を追いかけた。さらに最近ではメイドとしての訓練まで増えている。
そこまで考えたところで、重要な項目が一つ抜け落ちていることに気づいた。
勉強をしていない。
「大小路さん?」
ユウカさんが不思議そうにこちらを見る。
私はゆっくり椅子から立ち上がると、その場で床へ膝をついた。
「助けてください」
「切り替え早っ!?」
そのまま額を床へつける。
我ながら綺麗な土下座だったと思う。
「何してるんですか、ハヤテさん」
「最近C&Cが忙しくてですね」
「うん」
「勉強を」
「うん」
「全然してません」
「…………」
ユウカさんの顔が引きつった。
「何でそんな平然と言えるのよ!」
「平然とは言ってません。土下座してます」
「そういう問題じゃない!」
「助けてください」
「さっきまで私達を手伝ってた人と同一人物とは思えないんだけど!」
「人には得意不得意がありますので」
「勉強するしないは得意不得意じゃないわよ!」
正論が痛い。
「まあまあ、ユウカちゃん」
ノアさんが笑いながら間へ入る。
「ハヤテさんも反省しているようですし」
「どこが?」
「土下座してます」
「ノア!」
ノアさんは良い人だ。
「とりあえず、どの程度進んでいるのか確認しましょうか」
「お願いします、先生」
「先生ではありませんよ」
「私からもお願い」
ユウカさんがため息をついた。
「このまま赤点取られたら、今日手伝ってもらったこっちまで気分悪いもの」
「ユウカさん……」
「何よ」
「優しいですね」
「うるさい!」
こうして、三人での勉強会が始まった。
◇
実際に勉強を始めてみると、私は別に勉強そのものが苦手というわけではなかったらしい。
「……これ、本当に昨日までほとんど勉強してなかったの?」
「はい」
「嘘でしょ」
「本当ですよ」
ユウカさんが、私の解いた問題を何度も確認する。
その横からノアさんも答案を覗き込んだ。
「計算ミスも減りましたね」
「ノアさんの説明が分かりやすいので」
「最初に教えたの私なんだけど?」
「ユウカさんも分かりやすいですよ」
「取って付けたように言わないで!」
本心なのに。
最初はかなり忘れていたものの、一度説明されれば授業でやった内容を思い出せる。例題を一つ解き、似た問題をもう一つやれば、その後は大体同じ考え方で進められた。
「大小路さん、あなた本当に勉強できないんじゃなくて、やってないだけじゃない」
「そうなんですかねぇ」
「そうよ!」
「私としては、試験前に気づけてよかったです」
「もっと早く気づきなさい!」
今日だけで何度正論を受けただろう。
それでも、勉強会そのものは思っていたより楽しかった。
一人で机に向かっている時と違い、分からないところがあればすぐに聞けるし、全員分かっているところは三人でどんどん先へ進められる。休憩になれば授業やクラスメイトの話をして、そのまま全く関係のない話へ逸れることもあった。
そんな時間を過ごしているうちに、昔どこかで見た高校のパンフレットを思い出した。
何人かの生徒が机を囲み、教科書を広げながら一緒に勉強している写真が載っていた気がする。
当時は特に深く考えずに見ていたけれど、ああいう写真が表していた高校生活は、こういうものだったのかもしれない。
「ハヤテさん?」
「はい?」
「どうかしました?」
「いえ、何でもないです」
私は少し緩んでいた口元を隠すように、もう一度問題集へ視線を戻した。
◇
試験当日は、思っていた以上に問題を解くことができた。
それだけでも十分だったのに、後日返ってきた答案を見ると、予想していたよりさらに良い点が取れている。
「おお……」
少なくとも、数日前まで赤点を心配して土下座していた人間の点数には見えない。
「どうだった?」
授業が終わった後、ユウカさんがこちらへやってきた。
答案を見せる。
「……普通に高いじゃない」
「いやあ、先生方のおかげで」
「だから先生じゃないって」
ノアさんも横から覗き込む。
「良かったですね、ハヤテさん」
「ありがとうございます」
「次はもう少し早く勉強を始めましょうね」
「善処します」
「そこは『はい』でしょう!」
また怒られた。
それでも、悪い気はしない。
◇
その日の帰り道、私はかなり上機嫌だった。
任務は今のところ大きな失敗もなく進んでいて、C&Cでの生活にも慣れてきた。ユウカさんやノアさんとも授業以外で話すようになり、試験も思っていた以上に良い結果だった。
入学前に望んでいたような高校生活からは少し外れているけれど、最近はそれなりに普通のことも増えている。
かなり順調だと思う。
鼻歌でも歌いながら寮へ帰りたいくらいの気分で歩いていると、少し先に見覚えのある車椅子が見えた。
長い髪と整った顔立ちにも覚えがある。
以前、コユキさんの事件で会ったヴェリタスの部長、明星ヒマリ先輩だった。
「あら」
向こうもこちらに気づいた。
「大小路ハヤテさん」
「どうも」
前に会った時もそうだったけれど、この人に名前を呼ばれると、どういうわけか警戒心が働く。
「私に何か?」
「ええ。少々お願いがありまして」
「お願い?」
「はい」
ヒマリ先輩はいつものように微笑んでいる。
その笑顔を見ているだけで、あまり良い予感がしなかった。
「先に言っておきますけど、面倒なことなら嫌ですよ」
「そうですか」
「はい。今日は気分良く帰りたいので」
「では仕方ありませんね」
「ご理解いただけて何よりです」
「こちらをご覧ください」
「…………」
理解してくれたと思った直後、ヒマリ先輩は端末の画面をこちらへ向けた。
そこに表示されていた写真を見て、私は言葉を失った。
黒髪を雑に結び、制服をかなり着崩した少女が、椅子へだらしなく腰掛けながらカメラを睨んでいる。
その周囲には、どう見ても品行方正とは言い難い連中が何人も集まっていた。
見覚えがある。
というより、嫌になるほど知っている。
「…………誰です、この人」
「あなたです」
「人違いでしょう」
「大小路ハヤテ。当時十四歳。コースト中学校在籍」
「…………」
「他にもありますよ」
画面が切り替わる。
次の写真では、知らない学校の生徒らしき相手を地面へ転がした横で、私は腕を組んでいた。
さらに別の写真では、大勢の不良を後ろへ引き連れて歩いている。
その次には、校門の前で誰かへ怒鳴っている自分まで写っていた。
「随分と楽しそうな中学生活だったようですね」
「分かりました」
私は即答した。
「何をすればいいんです?」
ヒマリ先輩が僅かに目を丸くした。
「話が早いですね」
「お願いですから、それを誰にも見せないでください」
「私は別に脅しているわけではありませんよ?」
「では消してください」
「それは少々」
「脅してますよね?」
「お願いしているだけです」
笑顔のまま返されると余計に腹が立つ。
「何でこんなの調べたんですか」
「先日の件で、リオが秘密裏に組織したC&Cというものに興味を持ちまして」
「それで全員調べたんです?」
「軽くですよ」
「軽くでこれ出てくるんです?」
「隠すなら、もう少し丁寧に隠すべきでしたね」
「私が隠したんじゃないですよ!」
昔写真を撮った人間へ言ってほしい。
私は諦めてため息をついた。
「それで、何をすればいいんです?」
「少々、廃墟の調査に付き合っていただきたいのです」
「廃墟?」
聞いた瞬間、前回の調査が頭に浮かんだ。
三日間歩き回り、警備ドローンに襲われ、正体のよく分からない設備を調べ、最後はかなり疲れて帰ってきた場所である。
「この前C&Cで行ったところです?」
「ええ。あの調査記録を確認したところ、興味深い点がいくつかありまして」
「嫌です」
「では、この写真を――」
「何時集合です?」
「明朝八時で」
「分かりました」
話が決まるのが早すぎる。
「では、よろしくお願いしますね。ハヤテさん」
「……はいはい」
ヒマリ先輩は満足そうに微笑んでいる。
私はその場で数秒立ち止まり、少し前までの気分を思い返した。
試験は良かった。
ユウカさんやノアさんとも話すようになり、C&Cにも馴染んできた。
数分前までは、高校生活がかなり順調だと思っていたのである。
それが今では、中学時代の写真を握られたうえで、車椅子の美少女に廃墟調査への同行を半ば強制されている。
「……高校生活って、大変ですねぇ」
誰に聞かせるでもなく呟き、私は改めて寮への帰り道を歩き始めた。