無能力なのに国唯一の異能学園に入った俺。周りの反応が、なんかおかしい 作:都頃天
翌朝、教室の空気は昨日の緊張が嘘だったかのように、いつも通りに戻っていた。窓の外は雲一つない快晴で、朝の光が黒板の縁をきらきらと照らしている。人の噂も七十五日、なんてことわざがこの世界にもあるのかは知らないが、高校生の集中力なんてそんなものらしい。
「一色、昨日の話覚えてる?」
陽向が寝ぼけ眼で登校してくるなり、そんなことを聞いてきた。
「還元派の話か? 忘れるかよ」
「いや、そっちじゃなくて。俺が『学園休校になったりして』って言ったの、誰かに拾われて変な噂になってるらしいんだよ」
「お前が発信源じゃねえか」
「違うんだよ、俺はただの一言だったのに、伝言ゲームで『実は学園が既に襲撃計画のリストに載ってるらしい』とかいう話に膨らんでてさ」
「お前の適当な一言が、いつの間にかスクープ記事みたいになってんな」
陽向は頭を抱えてため息をついた。そのやり取りがあまりにいつも通りだったので、俺は思わず笑ってしまった。緊張していた昨日の自分が、少し馬鹿みたいに思えるくらいに。
昼休み、いつものように弁当を広げていると、陽向が急に真面目な顔をした。
「そういや一色、お前と小鳥遊さんっていつからあんな仲良いんだ?」
「雫か? さあ、気づいたらずっとあの調子だったけど」
「気づいたらって、幼馴染とかでもないんだろ」
「違う……はずだけど、なんか初対面の記憶がはっきりしないんだよな」
「怖くない、それ」
「言われてみれば怖いな」
軽口で流したものの、改めて言葉にすると微妙にモヤっとした感覚が残った。だがそのモヤモヤも、次の瞬間には陽向の「それより購買のメロンパン、今日は残ってるかな」という一言によって、綺麗さっぱり吹き飛んでしまった。この男の緊張感のなさは、ある意味俺の精神安定剤かもしれない。
放課後、昇降口を出ると、当たり前のように雫が待っていた。
「澄人くん、昨日いなくてごめんね」
「珍しかったな、お前が来ないの」
「ちょっと野暮用があって」
雫はそう言って、いつも通りの笑顔を浮かべた。逆光ではなく、今日ははっきりと西日が彼女の顔を照らしていて、昨日感じたような違和感は、少なくとも今は欠片も見当たらなかった。
「なあ、雫って昔から俺のこと知ってたの? なんか初めて会った時のこと、あんまり覚えてないんだけど」
「……さあ、どうだったかな」
「はぐらかしたな、今」
「はぐらかしてないよ。単に、思い出せないだけ」
そう言う雫の声は、いつもと変わらず柔らかかった。だから俺は、それ以上追及する気にはならなかった。
「そういえば、今日の実技演習、陽向くんも一緒だったよね」
「ああ、陽向な。あいつ意外と器用にギフト使うんだよ、風系の」
「知ってる。ちょっと見てたから」
「見てたのかよ、俺の演習」
「うん。危なっかしかったから、心配で」
雫はそう言って、ふふ、と笑った。何気ない一言のはずなのに、そこにほんの少しだけ真剣な響きが混じっていた気がしたが、俺は特に気にせず「危なっかしいのはお前じゃなくて陽向の方だろ」と軽口を返した。
三人で並んで下校する道すがら、陽向がふと思い出したように言った。
「そういえば、今度の週末、駅前に新しくできたクレープ屋、三人で行かないか? 一色と小鳥遊さんと」
「いいけど、お前が誘うの珍しいな」
「たまにはいいだろ。最近なんか物騒な話ばっかだったし、こういう時こそパーッと遊んどかないと」
「雫はどうする?」
俺がそう聞くと、雫は一瞬だけ考える素振りを見せてから、いつもよりわずかに柔らかい声で答えた。
「うん、行く。楽しみ」
夕暮れの坂道を、三人分の影が並んで長く伸びていた。他愛のない話をしながら歩くこの時間が、俺にとっては何より心地よい日常だった。昨日感じた薄氷のような不安も、今この瞬間だけは、遠い夢の中の出来事のように思えた。
――もっとも、その”薄氷”が本当に薄いままなのかどうかは、まだ誰にもわからなかったのだが。
土曜日の駅前は、平日とは違う緩んだ空気に包まれていた。行き交う人々の足取りもどこかのんびりしていて、噴水広場では小さな子供がシャボン玉を追いかけている。俺はその光景をぼんやり眺めながら、待ち合わせ場所のロータリーで陽向を待っていた。
「一色ー! 待たせたな!」
「五分遅刻な」
「誤差だろ誤差」
陽向は悪びれもせずそう言うと、俺の隣に並んだ。私服姿の陽向は、制服の時よりも幾分ラフな印象で、なんだかいつもより幼く見えた。
「小鳥遊さんは?」
「もう向こうで待ってるってさ」
見ると、噴水の縁に腰掛けている雫の姿があった。私服の彼女を見るのは、実はこれが初めてだった気がする。淡い水色のワンピースが、噴水の水しぶきを反射する光の中で、やけに透き通って見えた。
「お待たせ、二人とも」
「悪い悪い、こいつが遅刻してさ」
「誤差だっつってんだろ」
雫はくすくすと笑いながら立ち上がった。
目当てのクレープ屋は、駅前商店街の奥にひっそりと佇む小さな店だった。行列こそできていなかったが、店頭のメニューボードには色とりどりのクレープの写真が並んでいて、それだけで陽向のテンションが目に見えて上がった。
「うおおお、種類多すぎ! どれにするか迷うわ」
「お前、財布の中身見てから言えよ」
「大丈夫、こういう時のために貯金してある」
「その割にはいつも購買で金欠って言ってるよな」
「それとこれとは話が別」
俺と陽向がそんなやり取りをしている横で、雫は真剣な顔でメニューを見比べていた。
「澄人くんは何にするの?」
「無難にチョコバナナかな」
「私も同じのにしようかな」
「かぶってどうすんだよ」
「いいでしょ別に」
雫はそう言って笑った。何気ないやり取りのはずなのに、こういう瞬間の雫はいつも、驚くほど普通の女の子に見える。
クレープを片手に、三人でベンチに腰掛けた。生クリームとチョコレートの甘い匂いが、午後の穏やかな空気に溶けていく。
「そういえばさ、二人はいつから友達なんだ?」
陽向がふと聞いてきた。俺と雫は顔を見合わせた。
「言われてみれば、正確にはよく覚えてないんだよな」
「私も。気づいたら、ずっと隣にいた気がする」
「なんだそれ、運命の赤い糸的なやつ?」
「そんなロマンチックなもんじゃないだろ」
「わからないよ、そういうのって、案外」
雫がそう呟いた声は、いつもよりほんの少しだけ低かった。陽向はそれに気づかず、クレープを頬張りながら「まあいいや、次はどこ行く?」と話題を変えていた。
夕方まで街をぶらつき、ゲームセンターに寄ったり、本屋で立ち読みをしたりと、三人で他愛のない時間を過ごした。誰かが何かを企んでいるとか、学園が物騒な組織に狙われているとか、そんな話は誰の口からも出なかった。ただの高校生の、ただの土曜日。それだけで十分だった。
「じゃあ、俺こっちだから。また月曜な」
駅前で陽向と別れ、俺は雫と二人、帰り道の坂道を歩いていた。日はすっかり傾き、街灯がぽつぽつと灯り始めている。
「今日、楽しかった」
雫がぽつりと言った。
「そうか。また行くか、こういうの」
「うん。……ずっと、こういう日が続けばいいのにね」
その声に滲んだものが何なのか、俺にはうまく言葉にできなかった。ただ、いつもの軽い調子とは少し違う、どこか祈るような響きがあった気がした。
「なんだよ、湿っぽいな」
「そう? そんなつもりなかったんだけど」
雫はいつもの笑顔に戻って、それ以上は何も言わなかった。
家の近くまで来たところで、俺はふと背後に妙な気配を感じて振り返った。
「……誰かいるか?」
住宅街の路地は、街灯の光がまばらで、ところどころ濃い影が落ちている。だが目を凝らしても、誰の姿もなかった。ただ、確かに一瞬、足音のようなものが聞こえた気がした。
「どうかした?」
「いや……気のせいかも」
隣を見ると、雫はいつもと変わらない表情でこちらを見ていた。だがその視線の先――俺の後ろの暗がりに、ほんの一瞬だけ向けられていたことに、俺は気づいていなかった。
その夜、俺はなかなか寝付けなかった。理由もわからないまま、窓の外の暗闇をぼんやり眺めていた。遠くで、犬の鳴き声がやけに長く尾を引いていた。