Per noctem volamus. 作:コルディアムに脳を焼かれた阿慈谷ヒフミ
───10ヶ月前、横須賀基地
青空広がる7月。横須賀の風は潮を乗せて、この極東最大級の基地を吹き抜けていた。
基地は多くの兵士、そして艦娘たちで賑わいを見せていた。
基地に響く轟音。それは彼ら彼女らにとってよく聞き慣れた音であり、また救いの雷鳴でもあった。
イギリス空軍が、深海棲艦との戦争の最前線たる太平洋に送り込んだ、1機の切り札。
王立空軍第9飛行隊所属、ヴェンデッタB.2《XH916》は、その可変翼を最大まで広げ、今やホームとなっていた横須賀基地の滑走路に、タッチダウンのスキール音とともにその巨体を預けていた。
3基のF136-RR-202ターボファンエンジンがスラストリバーサを起動し、猛烈な勢いで減速してみせる。巨体に見合わず、すぐに人が歩くのと大して変わらない───少なくとも、そう見えるくらいの速度まで勢いを落としたヴェンデッタは、翼を休めるハンガーへと誘導されていった。
ハンガーに入り込んだヴェンデッタから、やがてエンジンの轟音が消え去る。だからといって静寂が訪れるわけではない。すぐに整備兵達が駆け寄り、この巨大な復讐者の手入れを始めるのだ。
整備兵達の声が行き交い、工具の音が響く中、巨体を操っていた2人の男───デニス・マクラガン=エヴァンス中佐とダレル・バーンズ中尉はタラップを降りて、数時間ぶりの地上を噛み締めていた。
「ふぅ。生き残ったな、ダレル」
「なんだ、珍しい。あんな任務、大して難しくもなかっただろ」
数時間に渡り操縦席に座り神経を尖らせていたデニスの伸びを、ダレルは何を大袈裟な、という目で見ていた。
実際爆撃機のパイロットは24時間越えの任務に就くこともあるし、デニスとダレルもそういう任務に当たったことは1度や2度ではなかった。それに比べれば大したことがないのは確かだった。
「おいおい、お前はレーダー見て武装選んでぶっぱなせばそれでいいのかもしれんが、俺は常に神経尖らせてないといけないんだ。気楽なWSOとは違ってな」
「言うじゃないかエヴァンス?次の飛行で防御システム切ってやってもいいんだが」
「ハッ、そしたら2人揃って太平洋の藻屑だな!」
「フン、違いない」
───ダレル・バーンズ。元イギリス陸軍伍長。陸軍王立フュージリア連隊に工兵として所属していたダレルは、実に34歳まで陸軍軍人だった。王立軍事工学学校(RSME)の訓練を修了し、主に王立フュージリア連隊の前線で戦闘車両の整備や修理を任務として、世界各地の戦場で戦ってきたダレルは負傷で陸軍を退役した後、空軍士官学校に入校。アメリカとの交換留学プログラムでパイロットと兵装システム士官の訓練を受けた後、第9飛行隊に配属。そこで組んだのがデニスだった。
基本的にはデニスのWSOとして活動するが、長時間任務では交代して操縦することもままある。
元工兵としての知識と前線で泥にまみれて戦闘した経験、そして兵装システム士官としてもパイロットとしても第一線の能力を持つダレルを、デニスは強く信頼していた。
齢41歳、既に年寄り扱いされてもおかしくない年齢のダレルだが、その戦歴や人生経験から、兵士艦娘問わず尊敬され、良好な関係を築いていた。
そして、そのダレルを射止めたのは。
「ダレル!」
流暢なクイーンズイングリッシュの声が格納庫に響く。その美しい声には、油に塗れ機械以外興味ないといった顔を貼り付けている整備兵達も振り向かざるを得なかった。それがここ数ヶ月、ほぼ毎日のように聞く声だとしても。
「おかえりなさい、ダレル。大丈夫でしたか?デニスも」
「問題ないさ、ウォースパイト。デニスの奴も、見ての通りだ」
「クイーンから直々の心配を頂けるとは光栄至極」
「その呼び方はやめて。でも無事でよかった」
そう言い笑った彼女───ウォースパイトは、2人に紅茶のカップを手渡した。その左手薬指にはプラチナの指輪が輝いている。それはダレルの着けているものと全く同じだった。
ウォースパイト。イギリス海軍所属のクイーン・エリザベス級戦艦娘。ロイヤルエアフォースの切り札がマクラガン=エヴァンス/バーンズ組のヴェンデッタB.2なら、ロイヤルネイビーにとってはウォースパイトがそうだった。彼らは共にこの極東の基地まで派遣されてきたイギリス軍同士、という間柄で親しかった。
ウォースパイトもこの基地の多くの者同様、2人の搭乗するヴェンデッタに前線で幾度となく救われていた。
そして、彼女自身、本国イギリスから離れたこの地にあって、共に前線で戦う同郷の男2人には、心細かった内心を埋められたものである。
特にダレル・バーンズ。彼にとっては今回の横須賀進出も、陸軍所属時代から幾度となく経験してきた国外展開のひとつに過ぎなかった。ダレルは他に同郷の艦娘がいないウォースパイトの茶会に参加したり、アドバイスを与えたりしており、特に深く付き合っていた。
そのような関係が3年続き、煮え切らない2人を1年前に一歩進めさせたのはデニスだった。そして2ヶ月前、2人は結婚したのだった。
戦時ということもあり、2人の結婚式は基地内のヴェンデッタの格納庫内で行われた。彼らを知る者たちにより、ささやかながら盛大な式で祝われた2人は、「横須賀で最も幸福な2人」とさえ言われている。
深海棲艦の勢力は大幅に後退し、ヨーロッパ方面は蒼碧を取り戻し、今やハワイ諸島周囲の島嶼部を根城にしている連中が最後になっている。
デニスもダレルも、それどころかこの戦争を戦う全ての人間が、戦いの終わりが近いことを感じ取っている。
デニスは笑い合う2人を見て誓った。ダレル・バーンズとウォースパイト。この2人を生き延びさせることこそが自らの使命だと。
「ダレル、戦争が終わったら、ハネムーンはどこに行きましょう?」
「おい、終わったあとのことを考えてたら死ぬのがオチだぞ。...でも、そろそろ考えてもいい頃合いかもな」
「ふふっ。せっかくなのだから、オーストラリア辺りはどう?」
「オーストラリア?やめておけ、昔国外展開で行ったことがあるがそんなに面白いもんはないぞ。俺としてはスペインに行きたいな」
「スペイン!いいわね。どうせなら世界一周...なんていうのも、悪くないんじゃないかしら?」
「そりゃいい。旅行会社に相談でもしておくかな」
ハネムーン。幸せな戦後の話をする2人を、格納庫にいる誰もが温かい目で見守っていた。誰もが、彼らの幸せを願い、確信していた。
...あの日、までは。
「緊急招集とは何なんだ、デニス?」
「さぁなダレル。舞鶴かどっかの連中がポカやらかして、敵に囲まれてるとかじゃないか?」
「もう日本近海にはここ数週間出没の話は出てないだろうが」
「ま、それか基地移動の話じゃないか?ハワイ上陸作戦の前倒しで急遽移動するとか」
「勘弁してくれ。割を食うのは前線のこっちだ」
港町横須賀に、夕焼けの橙色の光が落ちる頃。
フライススーツに身を包んだ2人が向かっているのは、横須賀基地の会議室だった。2人は基地司令官───つまり、横須賀地方総監に呼ばれていた。詳しい話は部屋で聞かされるとのことだった。
ダレル・バーンズはこの呼び出しに顔を顰めていた。彼にとっては、全くもってタイミングが悪い。
「全くダレルも運がないな。今日はウォースパイトが帰投する日だろう?」
「ああ。前から行きたがっていたフレンチを予約していたのに...」
「ま、緊急招集だからってディナーに間に合わんとは限らない。それこそ出撃なのかどうかもな。ほら、行くぞ」
「予約は7時だ。6時半までには解放してもらわないと困るな...」
「今が...4時か。五分五分ってところだな」
2人は足を進める速度を早めた。緊急招集、といっても恐らく簡単なことだろう、さっさと呼び出されてやろうじゃないかと考えていたのだ。
しかし同時にダレルの頭の中には1つ気になることがあった。───ウォースパイトの帰投が遅すぎる。本来なら3時半くらいには帰っているはずだ。何かあったんじゃないか。もしかしたら、この呼び出しはそういうことなんじゃないか、と。
「ん?おい、ダレル、どうした急に!?」
「なんでもない。ただ、少し気になることがあっただけだ」
「はぁ、ウォースパイトのことか?そりゃ今日は普段より帰ってくるのが遅いが、なにがしかトラブって帰れないのは珍しい話でもないだろうが」
「そうかもしれんが...」
この嫁煩悩め。デニスは、愛しい妻のことが少しでも関わっているかもしれないとなれば、いても立っても居られないこのダレル・バーンズという男のことをよく知っていた。
そうして足早に移動しているうちに、指定された会議室の前に着いた。古めかしい木製の扉が2人の前に立ちはだかる。
「まぁ、どうせ戦争はすぐ終わるんだ。お前にしろ、ウォースパイトにしろ、最後に一波乱くらいあっても語り草になるってもんだろ。いつか会うお前の将来の息子か娘にでも話してやれよ」
「おい、まだ俺達は子供どうするかなんて話は...」
「ああ、俺が名付け親になったっていいんだぞ」
「話を聞け、バカ!」
これで少しは緊張がほぐれたか───そう思い、デニスは少しだけ笑いかけてやる。ダレルの方は頭を掻きむしっているが、その顔はいつも通りの「ダレル・バーンズ中尉」に戻っていた。
「さぁ行くぞ」
デニスは扉を3回ノックし、「デニス・マクラガン=エヴァンス中佐とダレル・バーンズ中尉、ただいま参りました」と会議室の中に呼びかける。
「入れ」と部屋の中から聞こえた声は、この数年いつも聞いてきた地方総監の声だった。
「失礼します」「失礼します」
ここに4年もいれば日本式の作法にも慣れる。流れるように部屋に入ると、そこにいたのは横須賀地方総監、荻野光治中将だけだった。その顔は、苦虫を噛み潰したような、という形容がこの上なく似合うものだった。
「荻野中将...?」
「...マクラガン、バーンズ。君達に、命令を下さなければならない」
「命令、ですか」
緊急招集というからには何かしらの任務を命じられることくらいは分かっていた。ダレルの顔を見ると、少し嫌そうな顔をしているのが見て取れた。予約キャンセルコース、確率は8割といったところか。
果たしてどんな命令か。この中将との付き合いは長いが、こんな顔をするくらいだからさぞ面倒な任務なのだろう。
「ああ...。だが、大元は私や水上艦隊からの命令じゃない。君たちの本国からだ」
「本国から...?」
本国、つまりイギリスからの命令。イギリスから直々の命令というのはそうそうない。
この横須賀基地に派遣されたデニスとダレルは、現在も王立空軍爆撃機軍団隷下の第9飛行隊所属であることは変わらない。しかし、命令系統的には、便宜を図るために自衛隊が新設した対深海棲艦タスクフォースとなる、「多国籍海洋保全統合任務部隊」の指揮下に入っている。このタスクフォースの横須賀方面司令官はまさに荻野中将が兼任している。
つまり、現在の命令系統的にはイギリスから命令が飛んでくること自体、今の彼らからすればおかしい話なのだ。
「荻野中将を挟むのは越権行為うんぬんの文句を付けられないようにするため、か」
「その通りだ、バーンズ中尉。...どんな命令かは、先程私とイギリス側で行った会議のログを見て欲しい」
中将がプロジェクターの電源を入れると、スクリーンに映ったのは複数のイギリス人の顔だった。皆フライトスーツなど着ておらず、いわゆる制服組であることが見て取れた。多くの人間に見知った顔はいなかった。だが、中央部に座っている人間の顔を無視することはできなかった。
「な、首相...!?」
中央部に座っていた、すらりとした体躯のメガネの男。現在のイギリス内閣である労働党を率いる、ラルフ・ウェルズ首相だった。
ほかの顔を見てみる。ダレルもデニスも、空軍のお偉方にはさして興味もなかったが、首相以外の3人の男から目を背けることはできなかった。
1人目。イギリス空軍参謀総長、ラリー・フィッシャー大将。名実ともにイギリス空軍のトップとなる男だ。
2人目。イギリス空軍爆撃機軍団長、アーサー・ラッセル大将。
3人目。デニスとダレルの直接の上司たる、第9飛行隊隊長オリバー・ランドルフ大佐だった。
「フィッシャー大将にラッセル大将、それにランドルフの奴まで...!?」
「なんで高級将官がここまで集まってやがる?」
「この会議は、イギリス空軍委員会の人員を中心に、政府首相と第1海軍卿、そして君達の直接の上司である第9飛行隊隊長、ランドルフ大佐を加えて行われたものだ。再生するぞ」
再生されたログ。静まり返る、豪奢な部屋のなかでそれを破ったのは、ラルフ・ウェルズ首相だった。
『───この場に集まってくれた紳士淑女諸君、まずはこの場に集ってくれたことに感謝したいところだが、事態は逼迫している。ベニントン海軍大将、説明を』
ウェルズ首相に促されたベニントン海軍大将───おそらくこの男が第1海軍卿だろう───が立ち上がる。顔はなんとか平静を保とうとしているが、額に浮かぶ脂汗がその心中を克明に描いている。
『説明します。まず、現在勃発している深海棲艦との戦争におきまして、多くの国ではその主要戦力を艦娘が担っています。我が連合王国においてもそれは同様であり、我々王立海軍は艦娘らを一挙に集め、海軍委員会の直接指揮下に『王立海上歩兵連隊』を創設しました───』
『そのような歴史的事実の復唱に何の意味があるというのかね、ベニントン大将。必要な事実を説明してくれたまえ』
ウェルズ首相の眼光が、歴戦の海軍大将を貫く。この男は絵に描いたようなインテリであり、無駄を嫌う合理主義者だ。なぜこのような男が労働党の首班に選ばれたのか───今でも議論が起こるところだ。
ベニントン大将は一瞬狼狽えたが、さすがに海軍内の激しい争いを乗り越えてきただけあって、すぐに説明に戻った。
『...失礼しました、首相閣下。では端的に...。この海上歩兵連隊から、現在の主要戦線である太平洋戦線、その中核を担う日本に派遣した艦娘が複数います』
イギリス海軍の王立海上歩兵連隊。全ての人員が艦娘により編成されるこの連隊から派遣されてきたのがウォースパイトだった。
『彼女達は各地の基地に配備され、自衛隊タスクフォースの指揮下で活動していましたが───』
そこでベニントンは一瞬口を閉じる。数秒の間にも、会議のメンバーらの視線は男を射る。やがて意を決したように口を開き───
『───そのうちの1人、横須賀基地に所属していた戦艦ウォースパイトが、任務中に反乱に加担したと...』
ガタン、と生の音が会議室に響き渡る。しかしデニスは音のした方向を見る余裕すらなかった。
───ウォースパイトが、反乱に?なぜ?いや、有り得ない。彼女はそんなことをするほど落ちぶれた戦艦じゃない。王国の誇る、誇り高き戦艦だ。何より、彼女には帰るべき男が───
「...フェイクだ」
その、まさに帰るべき男が呟いた言葉は、最後の希望に等しかった。藁にもすがる、とはこのことか。この動画は全てフェイク、AIか何かで生成した悪い冗談なのだ、と。
「バーンズ中尉、気持ちは分かるが───」
「フェイクなんだろう、荻野光治!?こんなくだらない動画を見せるために俺達を呼んだというのか!?」
「ッ、ダレル、よせ!」
中将に掴みかかるダレルをなんとかデニスは止めようとする。しかし荻野中将の方も、まるで抵抗しようとしない。むしろその目には、いくらかの諦観が混ざっているように見えた。
ダレルも馬鹿では無い。その目に気付くと、やがて掴みかかる手を緩めた。
「...本当、なのか」
荻野中将は、ただ目を伏せた。それだけで十分だった。
「...ッ」
ダレルは声にならない声をあげることしか出来なかった。
会議の様子を映した動画は、残酷にも流れ続ける。その場にいるものの意志など、たかだか数百メガバイトのデータにとっては関係ないのだ。
『反乱に加担しているのはウォースパイト単独ではなく、他の横須賀所属の艦娘も複数名いるとの情報が───』
『ありがとう、ベニントン大将。さて...』
ベニントンの言葉を途中で遮り、動画の中に映るウェルズが、カメラを鋭く射抜く。何を言っているのか、ほとんど右から左へ抜けていくデニスも、この男の視線を無視することは不可能だった。その視線を向けられているのは自分でないはずなのに。
『───タスクフォース横須賀方面司令官、荻野中将。なぜこのような事態が?』
ウェルズが問いかけた相手は動画に映ってはいない、荻野中将だった。
『ウェルズ閣下、私共といたしましても、現在この件についてはなぜこのような事態が起こったのか調査中であり───』
『つまり、タスクフォースは指揮下の艦娘をコントロールできていないと?荻野中将、我々は世界平和への貢献と日英の友好の証しとして彼女を送ったのです。世界大戦随一の武勲艦であり、未だ連合王国の国民の記憶に深く残る戦艦の魂を持つ艦娘を。それを反乱に加担させましたなどとなれば、我が国の国民がどう考えるか?聡明なあなたならば理解できるはずだ』
ウェルズの口ぶりは疑問を問い質す、などという甘いものなどではなかった。荻野中将の話は、すぐにこの痩身のイギリス人の言葉に遮られた。
荻野という男についてはデニスもダレルもよく知っている。だからこそ、この男を口1つで抑え込むラルフ・ウェルズという男がいかに恐ろしいか───それを目の前でありありと見せつけられた。
そこまで話し、荻野中将が返答しなくなったのを見ると、ウェルズは咳払いをひとつした。
『失礼。責任の追及をしている場合などではなかった。たしかにウォースパイトは現在そちらの指揮下にあるが、しかし所属は我が国だ。となれば、我が国がこの事態を収拾することが望ましいでしょう』
ラルフ・ウェルズはネクタイを締め直し───そして、今までで最も鋭く、そして拒否などさせない目付きで語りかけてきた。
『ランドルフ大佐、横須賀基地に所属している第9飛行隊隊員がいたな』
『は、はい。我が部隊からはヴェンデッタ爆撃機1機と、その搭乗員としてデニス・マクラガン=エヴァンス中佐とダレル・バーンズ中尉を派遣していますが───』
『よろしい。荻野中将、彼らに命令を出してください』
『戦艦ウォースパイトを撃沈せよ、と』
「...?」
世界が、まるでその形を失っていったかのようだった。街角に描かれたグラフィティの絵具が、かつて描いていたその姿を失い、ただ排水溝に流れていくように。
デニスは倒れ込まないようにするのが精一杯だった。
『な...!何をおっしゃるのですか、首相閣下!彼女は我がロイヤルネイビーの顔とも言えるのですぞ!』
『ならばなおさらのことだろう。栄光あるロイヤルネイビーの顔が下らない反乱に加担したなど、まさに海軍の恥と言えるのではないのかね?それこそ、死を持って償うべきだろう』
ベニントン海軍大将の言うことなど、ラルフ・ウェルズにとっては大して意味を持たないようだった。ベニントンが座り込むのと入れ替わるように、1人の男が机を叩きながら立ち上がる。
『首相閣下!私は公然と、あなたの判断に反対します!』
『...ラッセル大将』
立ち上がったのは爆撃機軍団長、アーサー・ラッセル大将だった。
『僭越ながら申し上げますが、ウォースパイトは戦力のみならず、他の方面から見ても、その価値は絶大です!撃沈を命じる前に、原隊への復帰を働きかけるなど、やるべきことは山積しているでしょう!』
ラッセル大将は赤い顔のまま、次の言葉を繋いだ。
『なにより、彼女はダレル・バーンズ中尉の妻です!第9飛行隊は爆撃機軍団の所属部隊だ!私の部下に家族殺しをさせる気だと言うなら、私は全力で反対しま───』
『ラッセル大将』
ウェルズは、今度はラッセルの言葉を遮った。その目線は、冷酷というより、一種軽蔑か何かに近いものに見えた。
『───君は誰に忠誠を誓った?イギリス軍人は国王に忠誠を誓うものだ。そしてそれは、国家、ひいては国民の守護を意味する。その事は理解しているはずだ。だが彼女は───ウォースパイトは公然と裏切ったのだ。そして...忠誠を捨てた者に近しい者が、未だに国王への忠誠を持っていると、その義務を尽くすと、誰が保証できるというのかね?』
デニスは息を呑んだ。この男は...ラルフ・ウェルズはわざと自分達に撃沈命令を下そうとしているのだ。自分の国の不手際は自国で始末を付ける、などというのは建前に過ぎない。
───踏み絵だ。奴は俺とダレルを試している。
その事を理解したらしい、画面の中のラッセル大将の顔は、驚愕に満ちていた。やがてこの世のものではない何かを見るような目をしたまま、自身の席に座り込んでいった。
もはや会議の場に、反対を唱えられる者はいなかった。最初から最後まで、イギリス首相の独壇場。そして、死刑宣告が発せられた。
『では荻野中将。彼らに出撃命令を。内容は先程の通りです。彼らが信用に値するのか...彼ら自身の手で証明させるのです』
構わないですね、フィッシャー空軍参謀総長。ウェルズの言葉に頷くフィッシャー大将の姿を最後に、動画は途切れた。
沈黙。誰も口を開くことなどできなかった。荻野は目を伏せ続け、デニスは信号なしを表示し続けるスクリーンを見つめている。
そして、最も愛する者を自らの手で殺めるよう命じられた男は。
「ダレル...」
「...」
その顔からは感情を感じられなかった。叫びだしたいほどの激情にさえ駆られず───あるいは、既に過ぎ去ったのかもしれない───、空虚な目で、ただ座り込んでいた。その視線は、本来その先にあるはずの灰色のカーペットをまるで捉えていなかった。
時計の針の音だけが、この世界にまだ時間が流れていることを教えてくれる。
秒針が何度か回った頃、男はふと立ち上がった。
取り出したバインダー。それは、ヴェンデッタB.2のミッションプロファイルデータだった。どの兵装をどれだけ搭載し、どれだけ燃料を搭載するか。
紙をペラペラとめくる音だけが会議室に響く。デニスには聞こえなかった。いや、聞こえないふりをしていた、と言った方が良かったかもしれない。
やがて男の手はあるページで止まった。それは、普段ならコストパフォーマンスの面から見ても、絶対に搭載しないプロファイル───SPEAR 3小型巡航ミサイルを搭載限界の96発搭載するパッケージだった。深海の大艦隊を相手にするときでさえ、半分の48発を使うことだって稀であるのに。
「...行こう、デニス」
沈黙は破られた。肩を叩かれたデニスは最初、本気でどこに行くのかと考えた。
「どこに、いくんだよ」
「決まってる、俺達の任務にだ」
「...お前、正気なのか?」
「命令があっただろう、早く出撃しないと日が暮れ...」
デニス・マクラガン=エヴァンスは耐えられなかった。目の前の男が、あの命令に従って任務に出ようとしていることが。その声色が、普段と変わらないように聞こえたことが。
デニスは肩を叩いてきたダレルの腕を捻ると、そのまま壁に突き放した。
ぐあっ、という声が、歴戦の兵士の口から意図せず漏れる。
「命令が、あっただって?」
ふざけたことを言うな。なぜお前がそんなことを言うんだ。自らの手で、共に生きる将来を夢見てきた者を殺すと?本気で?
「...なんで、だよ。なんでお前がそんなことを言うんだよ」
本当に辛いのはお前のはずなのに。
そう言おうとして、デニスは口を閉じた。顔を上げた目の前の男の瞳が、恐ろしい程に黒かったから。デニスは40年近く生きてきたが、希望を失った男の目を今日初めて知った。
「...証明、しないといけないだろう」
俺達は裏切り者ではない、と。
ダレル・バーンズは壁に手をつきながら部屋を後にした。
デニス・マクラガン=エヴァンスは、その後を追う。
荻野光治は、ただこれから確実に失われる未来を哀悼した。
『...コントロールへ、こちらヴァンパイア0-1。滑走路32Rからの離陸許可を求む』
『こちらコントロール、ヴァンパイア0-1へ、離陸許可。幸運を』
横須賀の空。日は落ち始め、まもなく空は紺に染まるだろう。
基地に響く轟音。
横須賀に航空基地はないだろと思った方も多いと思いますが、まぁ物語上の都合ということでここは1つ...