夜の東京は、冷たい雨に深く沈んでいた。
ビルの谷間を縫うように降る雨粒は、街灯の光を無数の線に変え、アスファルトを黒い鏡のように輝かせている。車のヘッドライトが水たまりを照らし、跳ねた水しぶきが歩道を歩く人々の足元を濡らす。遠くで電車の走行音が響き、ネオンサインの赤や青が雨に滲んで、夜の闇に溶けていく。湿った空気が肌に絡みつき、コンクリートと土の匂いが混じり合って、この街特有の重たい気配を漂わせていた。
その雨の中、山城拓真は一つの古い倉庫の地下にいた。
都心からは少し離れた、再開発の波に取り残された工業地帯の一角。錆びたシャッターを開けると、湿った空気と埃の匂いが鼻を突く。祖父・山城拓也が生前、密かに使っていたというこの地下倉庫は、今や拓真が唯一、祖父の遺したものを整理できる場所だった。天井の低い空間に、裸電球が一つだけ揺らめき、棚に並んだ古い木箱や金属のケースをぼんやりと照らしている。床はひんやりと冷たく、壁には長年の湿気で染みたシミが広がっていた。
拓真は軍手をはめ、棚の奥に手を伸ばした。埃を払い、箱の蓋を慎重に開ける。中から出てきたのは、赤と青の色がすでに褪せた古いスーツ。伸縮性のある生地は、触るとまだわずかに弾力を残していた。
その隣に、古びた金属のブレスレット。表面には蜘蛛を模した小さな意匠が刻まれ、長年の使用で角が丸くなっている。そして一番下に、一枚の古い写真。若い頃の祖父・山城拓也が、巨大な赤いロボット「レオパルドン」の前で、照れくさそうに笑っている姿が写っていた。背景には、昔の街並みがぼんやりと見え、祖父の目にはどこか遠い光が宿っている。
「地獄からの使者、か……」
拓真は写真を手に取り、苦笑した。声が地下の壁に小さく反響する。祖父は晩年、自分の若い頃の話をほとんど語らなかった。「夢みたいな話さ」と笑い、具体的な内容を避けるようにしていた。だが、拓真は知っていた。祖父がただの普通の老人ではなかったことを。
左手首に残る、薄く黒い蜘蛛の痣。壁に手をつけると自然に吸い付く指の吸着力。危険が近づくと後頭部が鋭く疼く、奇妙な予感。血に眠る、蜘蛛の力だ。幼い頃から、祖父は繰り返し言っていた。「その力は、誰かのために使え。自分のためだけに振るうな」。今も、痣は微かに熱を帯び、雨の音に合わせて脈打つように疼いている。
拓真はスーツとブレスレットを丁寧に箱に戻し、棚の奥をさらに探った。埃を被った別のケースから、赤黒い金属のベルトが現れる。デモンズドライバー。祖父が「触るな」とだけ残した、謎の装置だ。表面に刻まれた紋様は、まるで生きているように複雑に絡み合い、中央のスロットには何かのスタンプを差し込むための隙間がある。拓真はそれを手に取り、指で表面をなぞった。冷たい金属の感触が掌に残り、痣がわずかに熱を増す。
そのとき、倉庫の奥で光が走った。
棚に放置していたデモンズドライバーが、突然、赤く脈打ち始めたのだ。紋様が内側から輝き、空気が重く歪む。耳鳴りが響き、周囲の埃がゆっくりと舞い上がる。空間そのものが軋むような感覚。拓真がとっさに手を伸ばした瞬間、光が爆発した。
「なっ……!?」
視界が真っ白に弾け、重力が消える。体が宙に浮き、倉庫の壁も床も、すべてが遠ざかっていく。雨音も、埃の匂いも、すべてが消えた。次に感覚が戻ったとき、彼は雨の降る夜空にいた。見知らぬ高層ビルの谷間を、高速で落下している。風が容赦なく顔を叩き、下から迫る無数の窓の光が、まるで星のように瞬く。東京とは明らかに違う、巨大なスケールの街。英語の看板が遠くに見え、車のヘッドライトが地面を蛇のように走る。
「くっ……!」
『SPIDER』
『DEAL…!』
とっさにデモンズドライバーを腰に当て、バイスタンプを押し込んだ。声は低く抑える。正体を知られるわけにはいかない。この世界がどこであれ、余計な痕跡を残してはならない。
『DECID UP!』
『DEEP!DROP!DANGER!KAMEN RIDER DEMONS!』
赤と黒の筋繊維装甲が全身を覆う。仮面ライダーデモンズ。デモンストリングを壁に突き刺し、落下を強引に止めた。衝撃が肩に走り、装甲が軋む。糸が伸び、体が急停止する。着地した先は、ニューヨークの路地裏だった。湿ったゴミの匂い、遠くのサイレン、英語の看板。東京とはまったく違う空気が肌を刺す。高いビルが空を埋め、雨がコンクリートの隙間を流れ落ちる。拓真はすぐに暗がりへ溶けた。
事故だ、意図した転移ではない。ドライバーの暴走か、祖父の遺産が何かを呼び覚ましたのか。早く元の世界に戻る手段を探らなければ。だが、蜘蛛の感覚が鋭く警告を発した。背筋が凍り、指先が勝手に動く。痣が熱を増し、危険の方向を指し示す。
空が、爆発した。
数十ブロック先の時計塔付近で、緑の閃光が連続して走っている。グライダーのエンジン音。そして、誰かの悲鳴。デモンズは迷った。関わりたくない。この世界の争いなど、自分には関係ないはずだ。だが、血が騒ぐ。祖父の言葉が蘇る。「誰かのために」結局、影から影へと移動を開始した。正体は隠す。必要以上に関わらない。ただ、見過ごせないものだけを見る。壁を登り、糸を飛ばし、雨に紛れて高速で移動する。体が軽い。蜘蛛の力が、デモンズの装甲と共鳴しているようだ。
時計塔の頂上近く。
ハリー・オズボーン––––––グリーンゴブリンが、狂ったように笑っていた。パンプキンボムが炸裂し、足場が次々と崩れる。スパイダーマンがウェブで飛び回り、何とかグウェン・ステイシーを守ろうとしていた。緑の装甲が雨を弾き、ゴブリンの声が夜に響く。スパイダーマンのスーツはすでに傷つき、ウェブが切れかけている。グウェンは塔の縁に追い詰められ、コートが雨に濡れて重くなっている。
「ハリー!まだ戻れる!ぼくの親友なんだ!一緒に乗り越えられる!」
「親友?笑わせるな、ピーター!お前が全てを壊したんだよ!」
次の爆弾が、グウェンの足下を直撃した。コンクリートが砕け、彼女の体が宙に舞う。白いコートが風に翻り、時間が止まったように見える。スパイダーマンの叫びが雨を切り裂く。
「グウェン!!」
ピーターのウェブが届かない。風切り音だけが耳を支配する。彼女の手が空を掻き、目が恐怖に見開かれる。
その瞬間、赤い影が雨の中を駆けた。
デモンストリングが伸び、グウェンの胴を捉える。落下の勢いを殺しきれず、彼女は塔の中層部に叩きつけられたが、少なくとも地面までは落ちなかった。意識が飛び、呼吸が浅くなる。血が唇から零れ、体が小刻みに震える。デモンズは一瞬だけ姿を現した。顔は仮面に隠れ、声も出さない。
懐から取り出した小さな注射器––––––祖父が残したスパイダー血清を、素早くグウェンの腕に打ち、血清が体内に流れ込む。冷たい感触が指に残り、痣が熱を増す。血清は祖父が「緊急用」とだけ残したもの。効くかどうかは未知数だが、少なくとも彼女の生命力を繋ぎ止めるはずだ。すぐに暗がりへ溶ける。誰にも、顔を見られないように。雨が痕跡を洗い流す。
スパイダーマンがウェブで降りてきたときには、すでにその場に赤い装甲の男はいなかった。ただ、グウェンの腕に小さな注射痕だけが残っていた。
「グウェン……! しっかりしろ! 目を開けろ!」
ピーターが抱き起こす。脈は弱いが、まだある。奇跡的に。彼女の瞳がわずかに動き、かすれた声が漏れる。「……ピーター……痛い……」ピーターの手が震え、スーツの下で心臓が大きく鳴る。上空でグリーンゴブリンが再び笑い声を上げた。
「まだ終わりじゃないぞ、ピーター!彼女も、お前も、すべてを終わらせてやる!」
グライダーが急降下してくる。ピーターはグウェンを安全な場所に移すと、歯を食いしばってウェブを放った。一人でどうにかするしかない。友人を、もう失いたくない。父を失ったハリーの痛みも、自分の責任だと感じている。
だが、影が動いた。
『ADD!』
『MOGURA』
『DOMINATE UP!MOGURA GENOMIX!』
デモンズが無言で現れる。モグラゲノミクスを展開し、腕部を穿孔武装に変化させてグライダーの推進器を狙った。火花が飛び、グリーンゴブリンがバランスを崩した隙に、ピーターのウェブが爆弾を奪い取る。爆弾は空中で爆発し、緑の光が雨を照らす。
『ADD!』
『SCORPION』
『DOMINATE UP!SCORPION GENOMIX!』
デモンズは必要最低限しか動かない。派手な技は避け、的確に敵の機動力を削る。スコーピオンゲノミクスに切り替え、尾状の武装でグライダーを絡め取ろうとした瞬間、グリーンゴブリンが近接戦闘に持ち込んできた。刃が火花を散らす。デモンズは無言で受け流し、カウンターで相手の腹を殴りつけた。装甲が軋み、ゴブリンの体が沈む。スパイダーマンのキックが同時に入り、グライダーが大きく傾く。二人の動きが、意図せず噛み合う。ピーターは赤い影の存在に戸惑いながらも、チャンスを逃さなかった。
「ちっ……まだだ!」
グリーンゴブリンは煙幕を展開し、夜の闇へ撤退していった。エンジン音が遠ざかり、雨音だけが残る。塔の周りに残された破片が、水たまりに沈む。
戦いが一時沈静化した塔の中層で、ピーターはグウェンを抱きかかえたまま、周囲を警戒していた。赤い装甲の男は、すでにいなかった。雨粒が仮面のない顔を濡らし、ピーターの声が低く響く。
「……誰だ、お前は」
雨だけが答える。グウェンの体温がわずかに戻り始めている。注射痕が、微かに光っているように見えた。ピーターは彼女を抱きしめたまま、遠くのサイレンに耳を澄ませる。この街に、もう一人の「蜘蛛」がいるのかもしれない、と彼は思った。
一方、数ブロック離れたビルの屋上。
拓真はデモンズのスーツを解除し、雨に濡れながら息を整えていた。事故で飛ばされてきた自分が、見知らぬ世界の誰かを助けてしまった。胸がざわつく。元の世界に戻る方法は、まだ分からない。だが、この世界にも蜘蛛の力が流れている気配がある。ピーター・パーカーという名の青年が、痛みを抱えて戦っていることも。
左手首の蜘蛛の痣が、まだ熱を持っている。血清が向こうの少女の体内で、何を引き起こすのかはまだ分からない。力を与えてしまうかもしれない。あるいは、ただ命を繋いだだけかもしれない。
「正体は明かせない。……でも、少なくとも、死なせはしなかった」
拓真は暗い夜の中へ歩いていった。なるべく誰にも見つからないように。影を纏い、足音を消して。遠くでサイレンが鳴り、街がゆっくりと息を吹き返す。ビルの谷間を抜け、人通りの少ない路地を選ぶ。雨が髪を叩き、服が重くなる。彼は知らない。この事故が、二つの世界の運命を、深く、静かに結び始めていたことを。蜘蛛の血が、深淵の向こうで新たな糸を紡ぎ始めていることを。